3 千年の孤独 03

千年の孤独 03

 何が起きたのか分からなかった。
 温もりが触れていることも、それが離れていることも制止できずに、再び焦点距離に戻った静雄の顔を呆然と見つめる。
「な……に……?」
「分かんねえ。何か、手前の顔を見てたらしたくなった」
 その言葉の意味が分からず、臨也は困惑に眉をひそめた。
 唇に唇が触れた。それはキスだ。初めてでもないし、経験した回数が少ないわけでもない。
 だが、よりによって何故、彼が自分にキスをするのかが分からない。
「欲情、したの?」
 臨也自身は魅了の魔力は持っていない。しかし、生まれ持った自分の外見そのものが、人間にとって抗いがたい魅力を持っていることは知っている。
 もしや、この男もそれに惑わされたのだろうかと思ったが、その割には熱に浮かされたような取りつかれたような眼はしていない。
 彼の方も、いいや、とその可能性を否定した。
「そういうわけじゃねぇよ。まあ、こうしてっと妙な気になってこないわけでもねぇが……」
「なられても困るんだけど……」
 吸血鬼の最大の快楽や性愛は吸血行為にある。ゆえに吸血鬼となって以降の臨也の人間的な性行為に対する意識は希薄で、キスより先の行為はまったく経験がないと言ってもいい。
 そんな真っ新(さら)に近い状態であったから、この場で即物的に求められても困る、というのが正直な思いだった。
 だが、疑い深げな目をした臨也に静雄は再度、否定を返した。
「だから、違うっての。ただ、俺はずっとこうしたかったっつーか……とにかく手前を捕まえたかったんだよ。それで……」
「それで……?」
 臨也の問い返しに静雄は答えなかった。
 代わりに右手を挙げて、臨也の頬のラインをそっと撫でる。堅い指先は温かく、触れる感触は不思議にどこか優しい。
「なんで……?」
 吸血鬼の生命力は強靭で、脛骨を折られたくらいでは死なない。殺すのなら一思いに心臓を潰して欲しいのに、静雄は一向にそうする気配がない。
 彼がどうするつもりなのか分からないまま、臨也は冷たい大地に横たわり、彼を見上げる。
 戦闘中の鬼神のような顔からは一転して、今の彼の表情は静かだった。鳶色の瞳も穏やかで、月の光をはじく前髪が幾筋か落ちかかっている。
 彼のことは長い間見てきた。だが、こんな表情は一度も見たことがない。
 ―――否。
 遠い昔に見たことがある。もう振り返ることも滅多にしなくなった、遠い遠い記憶。
 あの頃、自分と彼は……。
「なあ」
 物思いに沈みかけた臨也を、彼の声が引き戻す。
「今、何を見てる」
 温かな指先が臨也の前髪をそっと払い、目元をたどる。
「何って、君だけど」
「ああ。でも手前が見てるのは俺じゃねえ。手前は時々、そういう目をしやがる。俺じゃない誰かを……見てるだろ」
 その言葉に思わず臨也は目を見開いた。
 そして一瞬後、それは肯定の反応だと思い至る。
 何を言っているのかとごまかすべきか、適当な嘘で煙(けむ)に巻いてしまうべきか。答えが出るよりも早く、静雄の声が続けた。
「それに時々、手前は妙なことを言う。まるで俺をずっとずっと昔から知ってたみたいな……。でも俺は、エクソシストになるまで手前と会ったことはねえ。この胸糞の悪い手前の気配だって、一年前に手前と知り合うまで感じたこともねえ」
 でも、と静雄は続ける。
「手前は初めて俺と会った時、また来たのかって笑っただろ」
「――そりゃあ、俺のところには次から次にエクソシストが派遣されてくるからね。君が来るほんの二年前にも来たよ、ちょっと年食ったのがさ」
「違う。そんな言い方じゃなかった。まるで顔見知りに挨拶するみてぇで……。その時からなんか変だと思ってたんだよ」
 それは、と臨也は思う。

 確かに一年前、目の前に現れた彼に自分は、「やあ、また来たのかい」と声をかけた。
 彼の名乗りを聞き、「じゃあまた、シズちゃんだね。よろしく」と馴れ馴れしく笑いかけた。
 そんな自分の言葉に彼が奇妙さを感じても構わなかった。
 何故なら、彼はいずれ死ぬから。
 また殺すのだから、思わせぶりな含みある言葉を告げるくらい構わないだろうと思っていた。
 事実、これまではそれで大丈夫だったのだ。
 いつでも彼は、真実にたどり着く前に死んだ。
 臨也が彼に真実を告げるのはいつでも、彼の心の臓に冷たい刃が届いたその後のこと、彼が冷たい躯と化した後のことだった。
 そして、今回も。
 そうなるはずだったのに。

「誰を見てる? 昔、俺に似た奴でもいたのか」
「殺してよ、シズちゃん」
 問いには答えず、臨也は告げる。
「君は俺を殺すためにバチカンから派遣されてきたんだろ。だったら命令通り、俺を殺せよ。『敵はこれまで何十人ものエクソシストを殺し、その十倍もの人間を人外のものに変えた凶悪な吸血鬼である。捕獲が困難である場合は確実に始末せよ。』 君の任務はそうだろ?」
 それはこの数百年にわたり、変わることのない司令だった。それに従って何十人、何百人もの悪魔退治が臨也のもとに押し寄せてきたのだ。
 そして、彼らに対し、臨也は一切の容赦をしなかった。生かして帰した者など殆どいないし、その僅かな例外も半死半生にまで痛めつけるのが常だった。
 神の僕(しもべ)を汚し、冒涜して哄笑する。ずっとそうして生きてきたのだ。
 今更救われようなどというおこがましい思いは微塵も抱いていない。
 この場で殺されるのなら、もうそれはそれで良かった。
 なのに。
「答えろよ、臨也。死ぬんなら洗いざらい吐いたって困りゃしねぇだろうが。聞いてんのは俺だけなんだしな」
「――ははっ、馬鹿だね、シズちゃん」
 思わず臨也は吹き出す。
「君だから言いたくないんだって気付きなよ。そんなんだからモテないんだよ?」
「話をすり替えようとすんじゃねえ」
 臨也の両肩を押さえ付けたまま、静雄は鋭く臨也の言葉を制した。
 真っ直ぐなまなざしが痛いほどに臨也の瞳を射抜く。
 何の隠し事もわだかまりもなければ、その視線もどうということもなかっただろう。静雄の目は邪眼でも何でもない。只の人の眸だ。
 だが、永い年月愛用してきたナイフが彼の心臓に届かなかった時点で、既に何かが折れていたのかもしれない。
 目を逸らしたら負けだということは分かっていたが、耐え切れずに臨也はまなざしを伏せた。
「君には……関係のない話だよ」
「関係なくねぇだろ」
 臨也の言葉を全て、静雄は一言のもとに切り捨ててゆく。
「俺は本当に手前のことなんか知らなかった。でも、一年前に初めて手前を見た時、なんかすげぇざわざわしたんだよ。何が何でもこいつをとっ捕まえねぇといけないと思った。任務だの何だの、そんなことは全然思い浮かびもしなかった」
「――――」
「絶対にとっ捕まえて殺してやる。この一年、ずっとそう思ってた。でも……」
 再び静雄の手がするりと臨也の頬を撫でる。そして、そのまま首筋から胸をも撫で下ろして、臨也の心臓の上に手のひらを置いた。
「なんか違ぇんだよ。どうしてか……この心臓を潰しちまいたいとは思わねぇんだ。手前が最低最悪の奴だってことは分かってんのに。今ここで殺しておかなきゃ、手前はまた、数え切れねぇくらいの人間の人生を滅茶苦茶にしやがると分かってんのに」
 静雄の手のひらの下で、臨也の心臓はわずかばかりに鼓動を速めながら脈打っている。
 彼の膂力を持ってすれば、たやすく潰してしまえるだろう。だが、彼の手のひらはそこから動こうとはせず、静かなままだった。
「その理由を手前は知ってるんじゃねぇのか」
「……知らないよ」
「嘘付け」
「知らない」
 知ったことではない、というのが臨也の正直な思いだった。
 訊かれたところで、分からないものは分からない。知らないものは知らないのだ。
「臨也」
「君はずっと俺を殺そうとして追い回してた。それ以外、俺は何も知らない。君自身が分からないことが俺に分かるもんか」
「でも、手前は何かを知ってるだろ」
「知ってどうするの」
 不意にひどい疲れを覚えて、臨也は目を伏せたまま投げやりに問いかけた。
「俺が何かを隠しているとして。それを知って、一体どうするんだよ。今の俺には、今ここで君に殺されるか、バチカンで責め殺されるかの二択しかない。なのに、知ってどうするんだよ、そんな意味のないことを」
「意味のねぇことになんかしやしねえ」
「は……」
 奇妙なほど静雄はきっぱりと答える。それがより一層おかしくて、臨也は小さく嗤った。
 彼が夢を見るのは自由だ。
 何かを勝手に思い込むのも。
 けれど、自分には何の関係もない。何の意味もない。
 もうこれ以上、自分には理解できない彼の言動に付き合いたくなかった。
「もういいからさ。さっさと……」
「殺さねえ」
 変わらず強い口調で静雄は答え。
 次の瞬間。


 腕を引き起こされた臨也は、彼の胸に抱き締められていた。


 互いに大地に座り込むような形で、長く力強い彼の腕が自分の背に回っている。
 何が起きたのか理解できず、臨也は目をみはったまま静雄の肩越しに黒ビロードのような空に瞬く星を、ただ見つめた。
「殺さねぇよ。捕まえて初めて分かった。俺がしたかったのは手前を殺すことなんかじゃねえ。ただ、手前をこうして捕まえておきたかったんだ」
 静雄の低い声が耳ばかりでなく、重なった胸からも直接響いてくる。
 だが、臨也にはその言葉が理解できなかった。
 ―――殺さない?
 ―――捕まえて、おきたかった?
 何を戯(たわ)けたことを、と思う。
 つい先程まで、その口で殺す殺すと怒鳴り散らしていたではないか。
 この一年、全身から殺意を立ち昇らせて追ってきたではないか。
 否。
 一年ではない。
 もっともっと前から。
 何十年も、何百年も、二千年も前から自分を殺すためだけに追い続けてきたではないか。
 それを否定するのか。
 すべて間違いだったというのか。
 だったら、どうして自分は。
「馬鹿なこと……言うなよ」
「馬鹿じゃねぇよ。本当のことだ」
「嘘だ!」
 本当、という言葉を付いた途端、かっと全身の細胞に火が灯ったかのように激情が爪先まで走り抜けた。
 鋭く叫び、臨也は静雄の腕から逃れようと、もがきながら彼の両肩を掴み、押しやる。
 だが、人を超える臨也の力を持ってしても、静雄の身体はぴくりとも動かなかった。
「離せよ!」
「離すかよ」
 離したらすぐ逃げるくせに、と苛立った様子で言い返される。
 だが、その物を分かったような言葉すらも臨也の感情を逆撫でし、煽って。
「当たり前だろ! 君は敵だ! 俺を殺そうとするばかりの奴から逃げるのは当然だろ!?」
 力任せに静雄の肩や胸元を拳で殴りつけ、押しやりながら臨也は叫んだ。
「君が俺を否定するなら、俺だって君を否定する。君が俺を殺そうとするのなら、俺だって君を殺す。そうやって二千年も過ごしてきたのに、今更何だよ!? 俺がどんな思いで……!!」
「――二千年……?」
 静雄が腕の力を緩めないせいで、声は臨也の耳元で発される。
 小さな呟きだったが、それは臨也に我に返らせるには十分な響きだった。
「どういう意味だ、二千年ってのは」
 ぐいと両肩を掴まれ、顔を覗き込まれる。
 表情を取り繕うだけの間もなく、臨也は黄金の炎を奥底に沈めたような静雄の鳶色の瞳を呆然と見つめ返し。
 そして。
 長いのか短いのかも分からない虚脱の間の後。
 淡く淡く笑んだ。
「教えない」
「手前っ!!」
 再び両肩に体重がかけられ、回避しようもなく地面に押し倒される。後頭部と背をまともに強打して、さしもの臨也も息が詰まり、小さくむせて咳き込んだが静雄は容赦しなかった。
 ぎりぎりと肩の骨が軋み、このまま砕けるのではないかというほどの力で抑え込まれて、臨也は声を殺したまま呻く。
 だが、離せとは言わなかった。
 このまま心臓まで押し潰してくれればいい。
 苦痛をこらえながらそう思ったが、不意に肩を押さえつけていた力がやわらぐ。
 どうしたのかと思い、閉じていた目を開ければ、手ひどい痛みと怒りをこらえているような鳶色のまなざしがすぐ間近にあった。
「……っ、シ、ズ…ちゃん……?」
「何で言わねぇんだ」
 未だ小さく咳き込みながら名を呼ぶと、苦く押し殺した声が訴えかける。
 真っ直ぐに臨也を見つめたまま、静雄はひどく悔しげに言葉を紡いだ。
「手前の言葉は全部細(こま)切れだ。でも全部繋げば、少しくらいは見えてくる。――二千年。ずっと。その言葉をこの一年、手前は何度も口にしたよな」
 途方もない時間だ、と静雄は呟く。
 想像もつかねぇ、と。
「その想像もつかねぇくらい長い間、俺は手前を追いかけてたのか? 臨也」
 そう問われて。
 臨也は目を逸らす。
 すると、中天に昇った十六夜の月が静雄の肩越しに視界に入った。
 ―――欠けた月。
 満ち足りていた時には、もう戻れない月。
 躊躇い迷うばかりの遅すぎる輝き。
「……そうだよ」
 月を見上げたまま、不意に疲れ果てた思いに駆られて臨也は呟いた。
 時間は戻らない。
 決してやり直すことはできない。
 あの日々には、戻れない。
 意味もなくひたすらにいがみ合い、そして、笑い合っていたあの日々には。
 自分は覚えていても、彼は決して思い出さない。
 これ以上、沈黙を続けても。
 これ以上、生き続けても。
 二人の間には、何も生まれない。
 何の意味もない。
「君はずっと吸血鬼になった俺を追いかけてた。そして俺は……」
「お前は?」
「そんな君を、二千年間、殺し続けてきた」
 逸らしていたまなざしを、ゆっくりと戻す。
 真っ直ぐに静雄を見上げて。


「これまでに九十九人の君を殺した。……君は百人目だよ、シズちゃん」


 残酷な事実を静かに告げた。

to be continued...

NEXT >>
<< PREV
<< BACK