※エクソシスト×吸血鬼
千年の孤独 01
ずるり、と突き立てた刃から肉体が抜け落ちてゆく。
重い音を立てて肉体が地に落ち、血だまりが音もなく広がってゆくのを臨也は無言のまま見つめた。
今は濁った赤い色をした、生命の源。
彼はもう、ぴくりとも動きはしない。
足元に伏した彼を、臨也はただ見つめ。
「さよなら。――ちゃん」
ゆっくりと踵を返し、その場を立ち去った。
* *
高い場所から人々の生を見下ろすのは、臨也の日常の一つだった。
最初のうちは趣味の一つだったはずが、あまりにも長い年月を経るうちに習慣化し、今となっては惰性に落ちている感も少なくないが、だからといって止めようと思うような性格を臨也はしていなかった。
人は面白い。
僅かな時の間に、生れ落ち、泣き笑い、恋をし、絶望に打ちひしがれ、そして死んでゆく。
その様は千年、二千年と眺めていても飽きるものではない。
ゆえに今夜も、街で二番目に高い市庁舎の丸屋根の上に腰を下ろし、世界を見下ろしていた。
「あっちの方が眺めはいいんだけどねえ」
ちらりと向かい側に目を向ければ目に入るのは、月の光を受けて光り輝く神々しいばかりの黄金色をした巨大な十字架である。
広場を挟んで向かい側にあるのは、司教座でもある近隣一の規模を誇る巨大な教会だった。
当然のことながら、俗世の長が君臨する市庁舎よりも、神の代理人たる大司教が君臨する教会の方が何メートルも天高く聳え立っている。
しかし、臨也はそこには近寄れないのだ。
「まったく忌々しいね」
悔しがるどころか面白がるような口調で言い、さて、と臨也は立ち上がる。
足元は丸い屋根を覆う湾曲した銅瓦だが、それで体勢が不安定になることなどない。人間に比べれば、臨也の肉体は遥かに俊敏かつ強靭だった。
「この街にも飽きたな。さて、次はどこへ行こうか」
呟き、夜空に溶け込む漆黒の翼を大きく広げて。
臨也は、地表に這いつくばるしかない人間達を嘲笑うかのように天高く舞い上がった。
* *
「いぃぃぃぃざぁぁぁあぁやぁああああっ!!」
「また来たの、シズちゃん」
君も飽きないね、と言いながら臨也はふわりと羽根を広げ、猛烈な勢いで頭上に振り下ろされる巨大な十字架を避ける。
「逃げんじゃねええええっっ!!」
「逃げるに決まってるだろ。俺はまだ死にたくないし」
「何千年も生きといて、図々しいこと言ってんじゃねえっ!!」
「えー。死にたくないのは生きとし生けるものに共通の願望だろ。少なくとも俺には死にたい理由なんかないし」
笑って答えながら、風切り音とは到底信じられないような凄まじい轟音と共に振り回される十字架を、臨也はひらりひらりとかわし続ける。
音からも推測されるように、金属製の十字架は決して軽いものではない。それどころか、大人の男でも持ち上げられるかどうか怪しいほどの重量物だ。
だが、臨也がシズちゃんと呼びかけたその男は、軽々と木刀か何かのようにそれを振り回す。
コントロールこそ大雑把だが、その重量と速度を供えた一撃は、臨也が幾ら頑丈であろうと、まともに受けたら昏倒は必至の代物だった。
そんな一方的な攻防をしばらく続けた後、埒が明かないと見たのか、男は十字架を振り回すのを一旦止める。
それを見て、臨也も彼の射程外にふわりと着地した。
背に翼があるのだから一足飛びに飛び去ってしまえばよいものを、敢えて地上に留まるのは単なる嫌がらせである。
臨也が地上にいればいるほど、目の前の男は機嫌が悪くなる。その様を見るのは、随分と前から臨也の毒に満ちた愉しみの一つだった。
「なぁに? もうくたびれた? ギブアップ?」
「ちげぇよ!」
言い返す男のまなざしは鋭い。瞳の色は、深みのある綺麗な鳶色だ。
夜目にもまばゆく輝く金色の髪は、あいにくながら生まれ持った色ではなく、トレードマークとして十代の頃から染めているらしい。
ともあれ、鼻筋の通った精悍な顔立ちには、その金色も鳶色も良く似合っていた。
「あのさぁ、シズちゃん。もういい加減諦めた方がいいよ? 君程度のエクソシストじゃ、俺を倒すことも捕まえることもできやしないんだから」
「やってみなけりゃ分かるか!」
「分かるよ。俺が何千年、吸血鬼をやってきたと思ってるの」
犬歯が変化した鋭い牙をわざと見せ付けるように嗤う。
すると、男は気質が素直なのだろう。表情に嫌悪とも怒りともつかない険しさが増した。
「あははっ、そんな顔してると、君の方が血に飢えた狼男か何かみたいだね。それとも、君もモンスターの仲間入りをしたいのかな?」
美しい満月の光を半面に受けるように角度を計算しながら、臨也は優しく微笑む。相手の目に自分の顔がどれほど凄艶に見えるかは勿論、承知の上だった。
「ああ、それともとっくにモンスター入りしてるのかな。そんな人間とはとても思えないような力を持ってるんだから」
「うるせえええええっ!!」
再び金色の十字架が大きく振りかぶられ、ランスの如く臨也めがけて襲い掛かる。だが、それさえも臨也は軽々と避けて見せた。
「ねぇ、シズちゃん。俺、もう飽きちゃったよ」
そして、そのままふわりと軽く宙に浮き上がり、優雅に羽ばたきながら冷ややかな笑みで彼を見下ろす。
「君と出会ってからもう一年くらいになるけど、どうやら君はその馬鹿力任せに獲物を振り回して、怒鳴り散らすしか能がないみたいだし。そろそろ終わりにしてもいいと思わない?」
憤怒の表情で臨也を見上げる彼の金に染めた髪は、冴え渡った月の光を受けてきらきらと輝いている。
対照的に、鳶色のまなざしは激しく燃え上がるような厚さで臨也を見つめていて―――。
「いいぜ……。ただし、終わるのは手前の方だ!!」
今いる状況を一瞬忘れた臨也を我に返らせたのは、彼の怒号だった。
叫び終わると同時に、どんっ!と片脚が大地にめり込むほど強く踏み込み、渾身の力で彼は手にしていた十字架を投擲する。
その勢いは凄まじく、あと一瞬、臨也が避けるのが遅ければ心臓を貫かれていただろう。
だが、はっと我に返った臨也はギリギリのところでそれを避け、同時に、彼の瞳はまるで茶水晶に黄金の炎を閉じ込めたようだと思った刹那の感傷を忘れた。
「あーあ。獲物まで手放してどうするんだよ。本当に馬鹿だね、君は」
どれほどぬるいとはいえ、戦いの場面で気を抜くなど、どうかしている。
内心で自分を叱咤しながらも、彼に向かって嗤いかけ、それじゃあ、と臨也は提案した。
「期限は明日の夜、でどう?」
「明日?」
「そう。魑魅魍魎が跋扈する日。俺達の決着をつけるには相応しい日だろう?」
晩秋の月の輝きを受けた漆黒の翼を艶やかに光らせながら、臨也は微笑む。
一方的であることは百も承知の挑発だった。
「明日の夜、日付が変わる寸前まで。それまでに君が俺を殺すことも捕まえることもできなかったら……俺は君を殺すよ」
「――やれるもんならやってみろ。俺だって洒落や冗談で、手前みたいなタチの悪い吸血鬼の退治を押し付けられた訳じゃねぇんだよ」
「それはね。君の力を見れば分かるけど」
先程投擲された十字架は、一体何キロ先まで飛んでいったものか知れたものではない。その先で無辜の市民の肉体でも貫いていれば面白いのにと思ったが、今ここで血相を変えてすっ飛んでゆかれても面白くない。
無残な事故が起きているのならば、そんなことは予期もせずに発見した方が心の傷は深いというものだ。
ゆえに、臨也は彼の関心を自分だけに引き止めるべく、壮絶なほどに美しく笑んだ。
「最低限のハンデはあげるよ。俺は明日の夜までこの街にとどまるし、この街の教会を超えるような高さでは飛ばないと約束してあげよう。今の時代、教会より高い建物は幾らでもあるんだから、悪い条件じゃないだろう?」
「……ふざけてんじゃねぇぞ」
「おや、俺は大真面目だよ。だからこそ、こんな風に自分が不利になる約束をしてあげてるんじゃないか」
「手前が大嘘つきなのは知ってんだよ」
「ああ、君が言っているのは彼や彼女のことかな? 俺は何も嘘はついていないよ。彼達が自分の信じたいことだけを信じて、見たいものだけを見ただけだ。俺は彼達の決断を見守っていただけさ」
「死ね!!」
彼は足元に落ちていた拳二つ分ほどの石を素早く掴んで投擲する。
だが、だが、狙いが精確かつ、真っ直ぐに飛んでくる凶器など何の脅威にもならない。臨也は僅かに頭を傾けることで避けた。
「異論がないのなら、これで契約は成立ということにさせてもらうよ。期限は明日の夜、日付が変わる寸前まで。これは俺が君にあげる、俺を殺せる最後のチャンスだ」
「その台詞、そのまんま返してやるよ」
「あはは、俺相手にそんな啖呵を切る人間は君だけだよ、シズちゃん。それじゃあね。俺はもう行くから、頑張って武器を探しなよ」
高らかに嗤いながら、臨也は大きく翼を広げる。
そして、漆黒の翼を優雅にはためかせ、男を嘲笑うかのようにその場を飛び去った。
平和島静雄、という名の日本人のエクソシストを臨也が知ったのは、ちょうど一年ほど前のことだった。
もっとも出会いに感激があったわけではない。ああ、また来たか。その程度のことである。
何しろ、臨也は吸血鬼一族の中でも最古参の一人であり、吸血鬼化したのは今から二千年ほども前のことに遡る。ちょうど、天敵の始祖である救世主が生まれた頃の話だ。
以来、臨也は夜の世界に君臨し続けてきたのであり、臨也を退治しようとした人間もまた、数えれば千人を下らない。
それらの人間達を臨也は時には殺し、時には嬲り者にし、時には下僕にした。
だが、全ては流れ過ぎる時の狭間に消え、最後はいつでも臨也は独りだった。吸血鬼のお遊びに永久に付き合えるものなど、同属の化け物でない限り存在しないのである。
そして、元が人間であったからだろうか。臨也は人間が好きだった。
殺すのも愛でるのも人間が良かった。他の魔族たちには、どれほど魅力的な容姿をしていようと、どれほど強靭な肉体を持っていようと、欲望をそそられたことは一度もない。
対して、自分を殺しに来る人間のことは特別な歓びを持って迎えた。
最古参の一人を殺そうと決意しているだけあって、彼らは総じて無謀であり、純粋であり、肉体的に強靭であり、特殊な何らかの技や武器を備えていた。
そんな彼らは、戦うにせよ、その後、嬲り殺しにするにせよ、通常の人間の何倍も臨也を楽しませたのだ。
そして、これからも彼らはそうなり続けるはずだった。
「まあ、エクソシスとだからって、何でもかんでも楽しめたわけでもないけどね……」
この街における気に入りの場所である教会の敷地内、墓地の端に植えられている樫の巨木の梢で羽根を休めながら、臨也は隠し持っていたナイフを取り出し、目の前にかざす。
研ぎ澄まされた名工の手になる古風な形のナイフの刃は青みを帯び、西の空に傾いた月の光に鮮やかなほどに煌めいた。
「また、これで君を殺すことになるね。シズちゃん」
臨也が小さく手を動かして角度を変える度に、ぎらりぎらりと刃は危うく光る。
「俺が君を覚えているように、君も俺を覚えていてくれたらいいのに。そうしたら、もう二度と俺を追いかけないだろうに。……それとも、分かっていても、また俺を殺すために追ってくるのかな」
夜更けの教会も墓地も静まり返り、動くものは羽虫くらいしかいない。
世界を満たしているのは、ただ月の光と、かそけき虫の歌声くらいのものだった。
「ねえ、シズちゃん。もう百人目だよ。俺は後何人、君を殺せばいいの……?」
その中で臨也はひっそりと呟き。
しばしナイフを見つめた後、それを衣服の隠しに戻して月を見上げる。
そして、間もなく訪れるだろう白い夜明けを迎えるために、昼でもなお夜の闇をとどめる隠れ家に向かって飛び立った。
to be continued...
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