星は光りぬ 02

 ふと臨也が我に返ったとき、カーテンの向こうは既に明るかった。
 まだ完全に夜は明けてはいない。だが、既に空は白んでいる。
 しばらくその薄明るさを見つめてから、まなざしをぼんやりと手元に戻し、スリープ状態になっているアイフォンを見つめる。
 もはや、これは意味のない端末だった。
 無論、まだ世界とは繋がっている。だが、臨也はそこに対する影響力を既に失っていた。
 まだ日の出前であるのだから、計画を挽回しようと思えばできなくもない。綿密に計算してはあるものの、五時間ほどのズレなど、臨也がその気になれば、幾らでも修正は可能だ。
 だが、もう臨也には、それらの修正そのものができなかった。――否、できなくなっていた。
 表情の抜け落ちた顔のままアイフォンを見つめ、ぎこちなく右手を動かす。
 一晩中アイフォンを握っていた指は、出来の悪いロボットのようにぎしぎしと軋みながら開き、手のひらサイズの端末は、まず臨也の膝に、それからフローリングの床の上へと滑り落ちた。
 衝撃に強いタイプの機種だから、この程度では壊れはしないだろう。
 しかし、臨也は端末には手を伸ばさず、ソファーに体を預けたまま、ぼんやりとしたまなざしを天井へと向ける。
 何もない、いつもと同じ部屋だった。
 パソコンもいつの間にかスリープ状態になっており、物音は何一つない。
 その静寂の中で、臨也は疲れ果てた旅人のようにソファーにゆっくりと体を倒し、目を閉じる。
 そして、そのまま長い間、身動きしなかった。

*               *

 目が覚めた時、世界は既に午後を迎えていた。
 ぼんやりと目を開けた臨也は日差しの明るさに目を細め、それからのろのろと起き上がる。
 床の上に落ちたままだったアイフォンにちらりとまなざしを向けたものの、拾い上げることはせずに階上のバスルームへと向かった。
 洗面所の鏡も見ずに通り過ぎ、頭から熱いシャワーを浴びる。
 いい加減ふやけそうになってから、やっとシャワーを止め、バスローブを羽織って、初めて臨也は鏡に映る自分の姿を見つめた。
「ひどい顔……」
 およそ七時間ほどは眠った計算だが、その程度では一晩中、自分の中の感情を否定し、抗(あらが)い続けた葛藤による疲労は解消できなかったのだろう。
 顔色はいつになく白くくすみ、目元はうっすらと落ち窪んでいる。力のない笑みを血の気のない唇に浮かべているものの、憔悴し切って、まるで病み上がりのようなひどい有様だった。
 こんな自分の顔は見たことがないと思うと、更に情けない、ひどい笑みが薄く浮かぶ。
 そんな自分から臨也は目を逸らし、バスローブ姿のまま階下へと降りて冷蔵庫を空け、ミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。
 蓋を開け、口をつけると、澄んだ冷たい水が喉を流れ落ち、身体を潤してゆく。
 目を閉じてその感覚を味わっていた臨也は、それが何かに似ている、と思い至る。
 答えは直ぐに出てきた。
「シズちゃんの……」
 優しい、丁寧な愛撫。
 一つ一つ形を確かめるように触れ、そっと肌の上を滑ってゆく。
 そうして触れられた箇所から温かく瑞々しいものが広がり、細胞の一つ一つに染み渡って、やがて胸の奥へと優しく深々(しんしん)と積もる。
 温もりと冷たさの違いはある。だが、全身を優しく潤す様は、その二つはとてもよく似ていた。
 ああ、そうだ、と臨也は自嘲気味に悟る。
 静雄は、いつも潤してくれていたのだ。
 所有者に存在を否定され、無残に押し潰されていた臨也の心を、それとは知らずにずっと潤してくれていた。その温かな手指でいつもそっと臨也の心を撫で、壊れそうに喘いでいたものを寸での所で守っていてくれた。
 いっそのこと、静雄に残酷に身体を扱われて、もっと前に心が壊れてしまっていれば、こんな風に今更葛藤する羽目にはならなかっただろう。
 だが、一番最初に静雄をこの関係に引き込んだのは臨也だったし、一度限りで終わらせることなく、その後も静雄のもとに通い続けたのも臨也だった。彼の優しさを欲しがる無意識の中の自分が、そうさせたのだ。
 静雄は、そんな臨也に求められるままに与えただけであり、彼を責めることなどできない。
「何にも分かってないくせにさ……」
 静雄の中には臨也に向けるやわらかな心など無い。ただ彼の良識が、SEXには暴力を持ち込むことを否定しだけだ。
 それでも静雄は臨也に、丁寧な愛撫という形で温かなものを与え続けた。嫌い、否定しながらも、臨也の心を壊すことだけは決してしなかったのだ。
「本当に、馬鹿だろ……」
 呟き、臨也は空になったミネラルウォーターのボトルをシンクに置く。このままにしておくと波江に片付けろと怒られるのだが、今はそうするだけの気力が足りなかった。
 ゆっくりと病み上がりのような足取りで階上へ戻り、髪を乾かしてから寝室で服を着替える。
 本当は閉じこもっていたかったが、ここに留まっていると、波江やあちらこちらに配置した手駒達が異変に気付き、押しかけてくる可能性があった。
 もう少しまともな状態に戻れれば、それらを適当にいなし、計画に変更があったと言い逃れることもできるだろう。だが、今はそれだけの機知が働かない。だとすれば、今日一日だけでもここから逃れるしかなかった。
 リビングを通り抜ける時に、床に落ちたままのアイフォンが目に入り、計画が中止になったとだけ連絡を入れるべきか、という考えが浮かぶ。
 たとえ一言でも連絡があれば、彼らも必要以上には騒ぐまい。臨也の気紛(きまぐ)れには慣れている連中である。何らかの不都合が起きたのだと、適当に解するだろう。
 少しだけ迷った後、手駒達に一斉メールを送信するだけならば、と着信や受信メールをすべて無視し、一文のみのメールを作成して送信を押す。そしてすぐに電源を落とし、ソファーの上へと放った。
「こんな風に終わるんだな」
 計画が失敗する可能性も、ある程度は見込んではいた。だが、まさか自分の手で壊す羽目になるとは思いもよらなかったと、また自嘲の笑みが浮かぶ。
 そして、臨也は玄関へと向かい、初めて携帯電話を一つも持たず、外へ出た。


 マンションを出てきたからといって、行く当てがあるわけではないし、今すぐ行きたい場所があるわけでもない。
 臨也はただ、目立たぬようにひっそりと人ごみにまぎれて、通りから通りへと歩いた。春先であるだけに、黒いファー付きコートも別段目立つことはない。
 適当なカフェに入り、コーヒーとトーストを注文して街を眺める。
 そんなことを幾度か繰り返しているうちに日は傾き、池袋の街は早春のやわらかな夕映えに、そして薄蒼い黄昏に包まれてゆく。
 そして、辺りがすっかり暗くなった頃、臨也は何軒目かのカフェの席から立ち上がった。
 ひんやりとした宵の空気は、特に変わった気配はない。街角のあちらこちらが不穏に張り詰めてはいるものの、まだそれだけだ。
 昨夜、臨也が餌を撒かなかったがために、まだ誰一人として暴発はしていないのだろう。
 もっとも街の全勢力はいずれもギリギリまで追い詰められており、全てが崩壊するのは時間の問題だったが、臨也はもう、それらに対してはあらゆる興味を失っていた。
 大通りから離れ、近隣の者しか使わないだろう細い道ばかりを敢えて選び、臨也は歩く。
 昼間と異なり、今度は目的地があった。
 どうしても辿り着きたい場所。何があっても行かねばならない場所。
 無事にそこにたどり着けた時、ほっと吐息が零れた。
 見上げると、窓には明かりが付いている。今日はどうやら帰りが早めだったらしい。
 良かった、という思いと、こんな時ばかり、という思いが交差し合うのを感じながら、臨也はゆっくりとアパートの階段を上る。
 そして、その部屋の前に立ち、呼び鈴を押した。
「また手前か」
 ドアを明け、眉をしかめてそう言った彼は、来訪者の正体をある程度は予想していたのだろう。
 静雄には、部屋に訪ねてくるほど親しい人間は数えるほどしかいない。ましてや前触れもなくといったら、臨也一人しか心当たりはないに違いなかった。
「また俺だよ、シズちゃん」
 そう応じて臨也は嗤う。静雄の前に立つと、不思議にいつもの表情ができた。
 単なる習い性かもしれないし、条件反射かもしれない。或いは、彼の前ではいつも通りでいたいという意地かもしれない。そのいずれであっても、もはや構わなかった。
 一歩室内に踏み込み、背後でスチール製のドアが閉まる音を聞きながら、手を伸ばして静雄の襟元を引き寄せ、唇を重ねる。
 突き放されるかと思ったが、静雄は拒否しなかった。
 臨也がこのアパートを訪ねる用件は、元より他にない。今日も流されて受け入れる心積もりでいたのだろう。積極的に深いキスを仕掛ける臨也に応え、甘く貪ってくる。
 ―――こんなキスをするくせに俺のものじゃないなんて。
 なんてひどい、と身勝手に心の中で詰(なじ)りながら、臨也はゆっくりと唇を離す。二人の間で細く唾液が透き通った線を引き、途切れて消えたことすら、ひどく悲しかった。
「続きはどこでする? ここで立ったまま? それとも奥で?」
 だが、臨也の顔と口はいつもと同じ表情を作り、いつもと同じような言葉を紡ぐ。その自分の強情さを臨也は救いに思う反面、この性格が自分をここまで追い込んだのだと、改めて苦く思い知った。
 もっと素直であれば。
 もっと正直であれば。
 もっと違う関係を築けていただろうか。
 もっと優しくできていただろうか。
 彼の優しさに素直に感謝できていただろうか。
 けれど、もう何もかもが遅かった。
 今更何を言おうと静雄は信じないだろうし、臨也も言おうとは思わない。
 ただ今は、もう一度だけでいい、これが最後でも構わなかったから、静雄の優しさが欲しかった。 
「こんな場所で落ち着いてやれるかよ」
 溜息混じりの声でドアの鍵をかけろ、と指示してから静雄は奥へと行ってしまう。
 言われたままに臨也はドアに二重鍵をかけ、靴を脱いで奥へと上がった。
 静雄の部屋は相変わらず狭くて物がない。ベッドではなく布団なのは、彼の身長では普通サイズのシングルベッドでは狭苦しいからだろう。
 そして、わざわざ布団を敷いてくれる、その優しさが好きだと臨也は泣きたいような気持ちで思った。
 ―――俺なんてさ、床に押し倒して滅茶苦茶にしてくれればいいんだよ。最初からそのつもりで誘ったんだから。
 これまでは、シズちゃんって本当に馬鹿だよね、とせせら笑っていた物事が、見方一つでこんなにも変わる。
 そのことが、ただ可笑しくて、悲しい。
 気付かなければ良かったのだろう。
 知らなければ葛藤も悲しさもなかった。
 けれど、気付かないままでいることを拒絶したのも臨也自身だ。
 一晩で何もかも失ってしまった今は、それをただ受け入れることしか適わない。
 だから臨也は、いつもと同じ顔で、シャワーを浴びてきてもいい?、と問うた。
「ああ」
 静雄の返事は短い。かといって、面倒なことを言わずに黙って脚を開けと強要することもない。
 ―――俺のことなんか好きじゃないくせに、どうして流されるの?
 これまでは掠めても深追いしなかった疑問を胸に刻みながら、臨也は狭いユニットバスで丁寧に身体を清める。
 そしてタオルを借り、部屋に戻ると静雄は手持ち無沙汰そうに煙草をくゆらせていた。
「シズちゃんもどうぞ」
「……おう」
 まだバーテン服だった静雄にもシャワーを勧めれば、静雄は立ち上がり、バスルームへと歩いてゆく。カラスの行水の彼のことだから、直ぐに戻ってくるだろうと思えば案の定、十分もしないうちに帰ってきた。
「早すぎ。本当に洗ってんの?」
「当たり前だろうが」
 憮然と返した静雄は布団の上にいささか乱暴に腰を下ろし、傍らに座っていた臨也を引き倒す。そのまま首筋に唇を這わせ始めるのを、臨也は目を閉じて受け入れた。
 静雄の愛撫は、猫科の大型肉食獣が獲物を弄ぶ様にどこか似ている。
 決して急がず、首筋から鎖骨までをたっぷりと愛撫してから、服を脱がせつつ腕を撫で上げ、腹部や背中をゆっくりと撫で回して、臨也が焦れ始めたところでやっと胸へ愛撫を移す。
 二年近く抱かれ続けている間にひどく敏感になってしまった小さな尖りを吸われ、舌先で転がされると、堪え切れずに切れ切れの嬌声が零れてしまうのをどうしても止められなかった。
「――っ、ふ、……んっ」
 痛いほどに尖り、硬くなってしまっていては感じていることなど隠しようもなかったが、それでも必死に声を殺していると、静雄の手がするりと脚の方へと滑ってゆく。
 男の脚を撫でて何が楽しいのか知らないが、静雄はゆるゆると肌を撫で、焦らすような愛撫を止めない。
 もし臨也が焦れて身悶えするのを楽しんでいるのだとしたら、それはそれでひどく悪趣味だと思う。
 だが、臨也の方はそれを受け入れるしかなく、静雄の手のひらに丸く膝を撫でられ、鳥肌が立つほど敏感になった内股を這い上がられて、思わず小さく腰が跳ねた。
 触れられた部分から広がる熱い疼きは、既に中心に集まっており、硬く張り詰めたそれは早くも泣き始めている。
 その猥りがましい様子を見て取ったのだろう。
「すげぇ濡れてんな」
 とろりとろりと溢れ始めている蜜を指先で掬い上げるように軽く触れながら、静雄の低い声が告げる。
 からかうというよりは、ただ事実を述べているだけのような平坦な響きに、胸の奥がずくりと痛むのを感じながら臨也は、生理現象だろ、と小さく言い返した。
「触られたらこうなるさ、男なんだから」
「まぁな」
 さして感慨もないのだろう。静雄はあっさりと返し、指先でそのぬめりを弄ぶような愛撫を繰り返す。
 敏感な先端を円を描くようにくすぐられ、裏筋をするりするりと撫でられれば、限界はもうすぐそこだった。
「あ、……っ、く、あっ…ん……」
 抑えようとしても、静雄の手淫を求めて腰が浮き上がってしまう。そんな自分の痴態をこれまで気にしたことなどなかったが、今、彼の目には、どんなに浅ましく映っているのだろうと考えると、思わず眦に涙が滲む。
 今更悔やんでも仕方がないが、いやらしく乱れる自分を見られるのが辛いと感じるくらいなら、最初からこんな関係など持つべきではなかったのだろう。
 純粋な愛情に基づく性行為などというものに対して、これまで価値を認めたことなどなかったが、今ならその意味が分かる。これは、決して心が通い合わない者同士がするべき行為ではない。
 割り切った関係ならばいざ知らず、一方的に想う相手と抱き合い、自分ばかりが乱れるのは、ただ辛いばかりだった。
 優しくされればされるほど、丁寧に触れられれば触れられるほど、そこに心が伴わないことが苦しくなる。
 静雄と抱き合う度、重苦しい『何か』が胸の奥に降り積もっていったのは当然のことだったのだと、今なら痛いほどに理解できた。
 ―――ねえ、俺は知りたくなかったよ。こんな優しくて優しくないSEXなんて。
 ―――ねえ、どうしてもっと酷くしてくれないんだよ。もっと滅茶苦茶にしてくれれば、身体の痛みで心の痛みは紛れてしまうのに。
 一番最初の時、強姦まがいの抱き方をしてくれたなら、何も考えずに静雄を憎むことができた。
 逆恨みして、更に嫌うことができた。
 なのに、優しくされたから。
 触れられ、抱かれるのをどうしようもなく気持ち良いと感じてしまったから。
 ―――全てが狂ってしまった。
 もし、この快感を知らずにいれば、昨夜、何の迷いもなく計画を実行することができていただろう。
 情け容赦なく、この街と静雄を地獄の底まで叩き落すことができていただろう。
 否、それとも、こんな風に肌を重ねて静雄の優しさを感じ取ることがなかったならば、降り積もった『何か』に追い詰められ、静雄に憎悪を募らせる余り、もっと悲惨な事態を池袋に引き起こしていただろうか。
 或いは、静雄を恋うる無意識との相克に耐え切れず、とうに精神が崩壊してしまっていただろうか。
 ―――苦しいよ、シズちゃん。
 静雄とこうなったことで、自分は救われたのか。それとも、己を奈落に突き落としてしまったのか。
 答えなど分からないと知っていても、自分に問わずにいられない。
 そう思い、唇を噛み締めた時。
「何考えていやがる」
「あう……っ」
 臨也が愛撫に集中していないことに勘付いたのだろう。蜜口周辺を撫でていた静雄の指先が、前触れなく中に押し入ってきた。
 いつの間にかローションで塗らされていたらしい長い指は痛みではなく、鋭い快感をもたらす。ずるりと半ば以上を挿入されて、臨也は小さな喘ぎ声を上げながら細腰を震わせ、反射的に柔襞でその指を食い締めた。
「もうトロトロになってんじゃねぇか」
 お前も随分慣れたよな、という言葉に含まれているのは、単純な感心か、或いは侮蔑か。
 分からないまま、臨也は静雄が与える快感を、喘ぎながらただ受け止める。
 いつ、どこで覚えたのか、静雄の愛撫は巧みだった。女性を傷付けないように慎重に行為を繰り返しているうちに、それが習い性になったのかもしれない。
 臨也が指一本の質量に慣れ、物足りなさを感じて焦れ始めたところで、やっと指が増やされる。
 だが、二本の指がもたらす圧迫感は、熟れ始めた柔襞には切ないばかりで、臨也はたまらずに小さくすすり泣くような声を上げた。
「あ、……っふ、あ…、あっ……」
 指の動きに合わせて臨也が腰を揺らすのをOKのサインと見て取ったのだろう。更に指が増やされ、押し広げられた柔襞がひくひくと慄くのが臨也にも感じ取れる。
 張り詰めた熱の先端から蜜が溢れ、裏筋や蟻の門渡りを伝い落ちてゆくのにも快感がいや増されて、自分で自分の熱に手を伸ばしてしまいそうなのを必死に堪えた。
 ここで自慰にふけっても、静雄はおそらく咎めはしないだろう。だが、愛情のかけらも持っていてはくれない相手に、そこまで浅ましい姿を晒したくはない。
 今ここで絶頂することが叶えば、恐ろしく気持ち良いだろう――。そう想像してしまう自分を、かぶりを振って否定し、あられもなく叫んでねだってしまいそうな唇に手の甲を押し当てて懸命に耐える。
 そうしてどれほどの時間が過ぎたのか。前触れなく、ずるりと最奥から指が引き抜かれた。
「あ……」
 無言のまま静雄は、脱力しきってしどけなく開いたままの臨也の脚を、更に膝裏を押し上げるようにして開かせ、蜜口にみっしりとした重量を感じさせる熱を押し当てる。
 そして、ゆっくりとそこに体重を掛けた。
「っ、あ、あ、ぅあ……っ」
 挿入は一息ではなかった。馴染ませるようにゆるゆると抜き差ししながら、奥へ奥へと猛々しい質量が入り込んでくる。
 指とは比べ物にならないその熱さと重みがもたらす快感は凄まじく、最奥まで押し込まれた瞬間、臨也は後ろだけで達していた。
「ひ、あ…っ、あああっ、うあ、あぁ……!」
 吐精のない絶頂は、その分、腰の奥から全身へと寄せては返す荒波のように響き、長く余韻を残す。
 柔襞が喘ぎながら必死に食い締める静雄の熱は硬く、ごつごつとしていて、その圧迫感に柔襞はまた切なく疼き、よがり泣きながら逞しい楔を更にきつく締め上げた。
「あー、クソ。一人で達くんじゃねぇよ。俺まで持っていかれそうになるじゃねぇか」
 舌打ちするように言われても、激しい絶頂の余韻に震える臨也は、すすり泣きしながら小さく首を横に振ることしかできない。
 その間にも柔襞はびくびくと慄き続け、静雄も忍耐の限界に達したのだろう。前触れなく腰を引き、ぐいともう一度最奥まで押し込んだ。
 そのまま、ゆっくりと抽送を開始する。
「ああっ、ふ、あ、あうっ、あ、ん……!」
 決して乱暴ではない。だが、どろどろに蕩けた柔襞を容赦なく犯されて、臨也は悲鳴のような嬌声を切れ切れに噴き零す。
 脳裏が真っ白に焼き尽くされ、もはや何一つ考えられないまま、全身がばらばらになりそうな激しい快感を、シーツにしがみつくことで必死に耐える。
 いつのまにか両脚が静雄の腰に絡み付き、全身で静雄に応えていることも、もはや知覚できなかった。
「あ…んっ…、い、い…っ、そこ…ぉ…っ」
「ここ、かよ……っ」
 気持ちいいと訴えた箇所を、ごりごりと先端で抉られる。そのあまりの快感に、硬く閉じた瞼裏でちかちかと光が散った。
「ひあ…っ、あ、あぁ……ん、あ、やぁ…っ…!」
「や、じゃなくて、いい、だろ?」
 そう言った静雄の声にあったのは、もしかしたら冷めた嘲りであったかも知れない。だが、それを臨也が感じ取ることは、もうできなかった。
「あ、う、あ…、あ、だ…め……も、いく……っ!」
「さっき達ったばっかりだろうが……っ」
「や、だめ…っ、もぉ、無理…ぃ…っ……」
「俺はまだだっつーの」
 身体の奥の奥まで侵食されるような快感に、たまらずに無理と泣くと、舌打ちした静雄にキスを仕掛けられる。
 深く貪るような濃厚なキスに、臨也は一瞬驚いたもののすぐさま懸命に応え始めたが、上でも下でも深く絡み合うその形は、限界寸前だった身体には刺激が強すぎた。
「っ、ん、――――っ…!!」
 張り詰めて濡れそぼっていた昂ぶりをも静雄の硬い腹筋に擦られ、声も出せずに臨也は二度目の絶頂を迎えて、全身をがくがくと震わせる。
 酸欠も相まって意識がすうっと遠のきかけたが、
「だから、俺はまだだっつってんだろうが……!」
「ひっ、ああぁっ!」
 ずんと最奥まで深く突き上げられて、その強すぎる刺激に現実世界に引き戻された。
「や、あ、ああっ、ひぅ、うご…いちゃ、駄目ぇ……っ!」
 まだ絶頂痙攣の収まっていない柔襞を、未だ一度も欲望を解放していない灼熱に擦り上げられて、臨也は焦点を失った目を見開き、泣き叫ぶ。
「や、あ…っ、やだっ、も…やだぁ…っ、こ、われ、ちゃう……っ、溶け、ちゃう…っ……」
 砂糖細工が熱湯に放り込まれたかのように、全身の骨も筋肉も甘過ぎる愉悦にぐずぐずと溶けてゆく。そんな錯覚に囚われて、臨也は狂乱しながら身悶えた。
 縋る縁(よすが)を求めてシーツを引き裂かんばかりにきつく爪を立て、静雄の肩にも薄赤い筋を残す。
 ほっそりとした脚は静雄の腰に絡み付き、静雄の快楽を得るための動きに合わせて細腰も揺れ続ける。
「あっ、ああ…っ、ん、あ…、ふ、あ…ぁっ」
 ―――気持ちいい。
 ―――よすぎて気が狂いそう。
 もうそれしか臨也の中にはなく、本能が欲するままに無我夢中で静雄のことを求め続けた。
「あ…っ、ん、シズ、ちゃん……っ、シ、ズちゃ…ん…っ!」
「っ、おい、出すぞ……っ」
 それは一人だけ達するのは悪いという気遣いであるのか、何であるのか。限界が近付いたらしい静雄の手指が臨也の熱に絡む。
 そして、濡れそぼってどろどろになっているそれを律動に合わせて撫で回し、全体を上下に扱いた。
「ひ、ああっ、駄目、だ、め……ぇっ!」
 手を離してくれと懇願する余裕もなく、半ば強引に臨也は三度目の絶頂に導かれる。
「――ああああぁ…っ!!」
 悶絶して全身を痙攣させた臨也の最奥に、静雄もまた熱を吐き出す。そして、脱力した身体を肘で支えるようにしながら臨也に覆い被さった。
 だが、それも短い間のことで、さほど時も置かずに静雄は臨也から離れ、横に転がる。
 狭いアパートの室内に二人分の荒い呼吸が響き、やがてそれが静まり。
 臨也がうっすらと目を開いて、まばたきをしたのは、数分が経過した後のことだった。
 いつもよりも深く激しかった三度の絶頂は、臨也の体力を根こそぎ奪ってゆき、指一本すら動かすことも辛い。だが、この部屋で眠るわけにはいかなかった。
 今まで一度も、この部屋で朝を迎えたことはない。これからも、そんなことをするつもりはない。
 自分の気持ちを自覚したからこそ、このままここに泊まるわけにはいかないと、臨也は必死に気力を振り絞る。
 力を入れようにも入らない身体を無理矢理に叱咤して、上半身を起こし、そして傍らを見れば、静雄はこちらに背を向ける形で横になっていた。
 まだ眠っていないことは、何となく気配で分かる。もともと臨也がいる間は、静雄も眠りに落ちることはないのだ。
 そういう関係しか作れなかったのだと思うと、今更ながらに情けなさが身に染みた。
 ―――もうこんなことはできない。
 白くリセットされた脳裏に、不意にそんな言葉が思い浮かぶ。
 今夜のSEXで思い知ってしまった。
 心が通い合わなくても、一方的な想いを抱いていても、互いのテクニック次第で快楽を得ることはできる。だが、それは虚しい快楽だ。
 失神しかけるほど深い絶頂を三度も味わったのに、自分の心は今ひどく空虚だったし、静雄も同様だろう。
 今でこそ臨也は静雄をこうして見ているが、これまでSEXが終わった後に、まともに彼の方を向いたことはない。静雄が臨也に背を向けるように、臨也もずっと静雄に背を向けてきた。
 これだけ激しいSEXをしても、二人の間には何一つ築けたものはないのだ。
 そんな絆を臨也は望んでこなかったし、静雄も望む素振りを見せなかった。ただ身体だけの関係を、二人してここまで引きずってきただけだ。
 思えば、最初から歪んだSEXだった。
 ただ相手を傷付け、貶めたいだけで仕掛けたSEXが、まともなはずがない。
 まともでなかったものが、時間の経過と共に更に歪み、ひび割れて限界に達した。そういうことなのだろうと、今は静かに現実を受け入れられた。
 ―――こんな風に終わるんだね。
 くっきりと見えてしまった自分達の終焉に、臨也は顔を歪める。
 ―――俺達の間には結局、憎しみと嫌悪しか生まれなかった。
 ―――俺の中は、そうじゃなかったけど。でも、もう何もかも遅い。
 ―――君はどうだったのかな。「死ね」以外に俺に言いたいことはなかった?
 ―――俺は一度も、君にまともなことを言わなかった。君の言葉もまともに聞かなかった。その結果がこれだなんて、当たり前すぎて笑うしかない。
 ―――ねえ、シズちゃん。
 ―――あと一言でいい。何か言って。
 ―――もう、これが最後だから。
 ―――俺はもう、居なくなるから。
 心の中で静雄に呼びかけながら、最後に言うべき言葉を臨也は必死に探す。
 だが、これまで真剣に向かい合ってこなかった報いなのか、最後に相応しい言葉が一つとして浮かばない。
 もがく喉から、ぽつりと零れた言葉は。

「もう、この街でやりたいことは全部やっちゃったなぁ」

 掛け値なしの、しかし、何の意味もない本音。
 そして、静雄からの言葉は――返るはずもなかった。
 ―――当たり前か。
 臨也が何と言ったところで、静雄は聞かない。臨也自身もこれまで静雄の言葉を聞かなかったし、意味のあることは何一つ言わなかった。
 今更何かを期待するのは虫が良すぎる、と臨也は自嘲の笑みを唇の端に浮かべて、自分の服に手を伸ばす。
 まず先にカットソーに袖を通し、立ち上がった時。
「―――…」
 まだ処理していなかった静雄の精液がとろりと蜜口から零れ、内股を伝った。
 僅かな間、その伝い落ちてゆく感覚を感じてから、臨也は無言のままティッシュを取ってそれを拭い、何でもなかったかのように服装を整える。
 そして、コートを羽織っていつもの姿に戻った。
「じゃあね、シズちゃん」
 いつものように玄関口で声をかけ、外に出る。アパートの階段を下り、道路に降り立って。
 ビルに区画された小さな夜空を見上げた。
 まだ日付は変わっていないだろう。冬に比べると明るい星の少ない寂しい空の中、かろうじてレグルスだけは天頂近くにその姿を認めることができた。
 小さな王という名の獅子座の一等星に、どうしようもない皮肉を感じて、臨也は小さく嗤う。
 そして、そのまま駅の方に向かって歩き、行き逢ったタクシーを呼び止めて乗り込んだ。
「新宿西口まで」
 短く行き先を告げる。
 週末であるせいか、道路は少し混んでいた。山手線の倍近い時間をかけてタクシーは西新宿に着き、臨也は適当なところでタクシーを降りて自分のマンションまで歩いた。
 鍵を開け、中に入ると、室内は何一つ変わらずにしんと静まり返っており、今日は波江も顔を出さなかったことが知れる。
 聡い彼女のことだ。昨夜、臨也が計画を実行した形跡がなく、今朝になってもメール一本を寄越したきり連絡が取れないという時点で、何かしら好ましくない事態が発生したと判断したのだろう。
 我が身が危ういかもしれないとなれば、即座に距離を取る。実に賢い身の処し方だった。
 口元に皮肉な笑みを浮かべて、臨也はソファーの上に転がしたままだったアイフォンを手に取る。
 電源を入れ、起動が済んだ時点で留守電や着メールを知らせるアラームが一気に鳴ったが、それらを全て停止し、削除してから、件(くだん)の秘書の番号を呼び出した。
「――波江? 悪いね、こんな時間に」
 スピーカーから聞こえる彼女の声は、相変わらず冷たく不機嫌だった。
 臨也が生きていて電話をかけてきたことさえ、もしかしたら疎ましいと感じているのかもしれない。
「君の手を借りたい。大したことじゃないよ、いつもと同じような事務処理だ。明日の朝、出勤してきてくれるかい? 時間はいつもと一緒でいい。ああ、危険なことは何もないよ。安心して」
 安心、という単語に言いたいことでもあったのか、波江は一瞬、返答に間を置いたが、夜更けに臨也と問答することに価値を認めなかったのだろう。分かったわ、と短く応じ、通話を切った。
「話が速くて助かるね」
 嗤い、臨也は再びアイフォンの電源を落としてソファーに放り出す。
 そして、キッチンの冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、一息にボトル半分ほどを飲み干してから、階上のプライベートスペースへと上がった。
 シャワーを浴びるべきだったし、浴びたいとも思いはしたが、躊躇うことなく寝室のドアを開け、コートだけその場に脱ぎ落としてベッドに転がる。
 横になった途端、ここまで無視してきた疲労がどっと圧し掛かってくる。息をするのも辛い、と感じるほどに憔悴したのは、もしかしたら初めてのことだろうか。
 ―――ああ、でも初めてシズちゃんに抱かれた時も、こんな感じだったな……。
 慣れぬ行為に軋む体を強引にタクシーに押し込み、ここに帰りついた途端、シャワーを浴びることも忘れてソファーで眠った。
 あの時に比べれば、ベッドまで辿り着いただけ、まだマシだと言えるのだろう。
「状況は、もっと悪いけどね……」
 呟き、臨也は自分の顔の上に自分の腕を乗せて、視界を遮る。
 たとえようもなく、空虚でみじめだった。
 ここまで自分なりに立ち回ってきたつもりなのに、何一つ手のひらには掴めていなかった。
 分かったのは、唯一つ、本当に欲しいものには決して手が届かないという事実のみ。
 他には何もなかった。
「最後にもう一回、声、聞きたかったなぁ」
 うるさい、でも、とっとと帰れ、でも。何でもいい、一言返してくれたら、負の方向にせよ、その程度の重さはあったのだと自分を慰めることもできただろうに。
 自分の最後の言葉に静雄が返したのは、沈黙という名の無視だった。
 自分にとっては唯一の存在に、自分は何の価値も、何の重さもなかったと思い知らされるのは、酷く辛い。
 だが、これまで数多くの人々を利用し、人間観察という名目で使い捨ててきた報いなのだろうかと思えば、そうだという気もする。
 何にせよ、臨也にできることは、目の前にある現実を受け止めることだけだった。
 じっと横になっていると、視界を遮る腕の重みもあって、緩やかに睡魔が忍び寄ってくる。
 このまま何も夢を見ませんように、と思考の最後のひとかけらで祈りを捧げ、臨也は意識を手放した。

*               *

「何ですって?」
 手持ちの財産を金融資産以外、全て処分する。そう告げた途端、波江は柳眉をひそめた。
「言葉通りだよ。俺はこの街を出て行く。もう何にも要らないんだ」
「要らないって、あなた……」
 計画はどうするのよ、と言いたかったのだろう。だが、波江は渋い顔のまま沈黙する。そして、小さく溜息を吐き出した。
「呆れたわ。今になって自分の感情に気付いたっていうわけ?」
 その言葉に臨也は苦く嗤う。
「――君は気付いてたんだな」
「当たり前でしょう。人を愛したことがある人間なら、誰だって気付くわ。きっと私だけじゃないわよ」
「それはまた、最悪だ」
「あなたは存在自体が最悪よ。第一、今更だわ」
 あんなにもあからさまに一人の人間に執着して見せていたんだから、と言われてしまえば、臨也としては嗤うしかない。
 確かに波江の言う通りだった。狩沢のような例は特殊としても、臨也と関わった多くの人間が、臨也が静雄に対して尋常ならぬ執着を抱いていることは知っていたはずだ。臨也自身、隠そうともしていなかったのだから仕方がない。
 問題は、それらの人々が臨也の執着をどう解していたかということだが、それもまた、考えても詮無いことだった。
「でも、いい気味だわ。そのまま地獄の底まで落ちなさい」
「――それはそれは。いつになく手厳しいね。そんなに気に食わないかい?」
「当たり前よ」
 波江の返答は、にべもなかった。
「これまで愛を唱えるばかりで、理解しようとはしてこなかった報いよ。人類ラブだなんて寝言を唱えて、それを愛だと嘯き続けていた。愛を馬鹿にする一方で、敢えて自分の唱える愛を真実の愛だと思い込むように演技していたようにも見えたわね。
 でもね、愛は他人を観察して理解できるものなんかじゃないのよ。本当の愛は、自分の心の中にしか存在しないものなんだから」
 愛に生きる彼女としては、これまでの臨也の言動が余程腹に据えかねていたのだろう。滔々と語られる言葉は、まことに御高説ごもっとも、としか言いようがないものだった。
 けれど。
「あいにく、俺には愛なんて理解できそうにもないよ。というより、理解しようとするだけ無意味だ」
「愛を理解しても愛されないから? 関係ないじゃないの。自分が愛していれば満たされるし、十分だわ。相手を思えば、それだけで幸せになれるのが愛よ」
 凛と波江は言い放ったが、臨也は苦笑するしかない。
 彼女の言い分は一定ラインまでは正論なのだが、そこから先は極端に過ぎる。ストーカーにも通じるその理屈は、執着心の強い臨也にも理解できないものではなかったが、それでも臨也はもう少し凡人だった。
 愛しているだけで満足できるのなら、昨夜のSEXをあれほど辛くは感じなかっただろう。
 相手を傷付けて嫌な思いをしたくないというだけの表面的な優しさで触れられるのではなく、真情を伴った優しさで触れられたい。そうでないのならば、いっそのこと乱暴に傷付けて欲しい。
 そう願ってしまう時点で、臨也はストーカー失格だった。
 愛を自己完結させられないのだ。想うからには想われたい。愛するからには愛されたい。
 そう、『愛して欲しい』。決して愛してはくれない相手にそう乞うた時点で、この恋はすべて終わりだった。
「まあいい、おしゃべりはここまでだ。君は新宿と池袋以外の不動産を全て処分してくれ。値段交渉はしなくていい。不動産業者の言い値で買い取らせてやれ」
「分かったわ」
 それでは勿体無い、などと言うような女ではない。波江は早速、自分用のパソコンに向かって素早く作業を始める。
 そして、キーボードに指を走らせながら、もう一度口を開いた。
「一つ、聞きたいことがあるのだけど」
「何だい?」
「首はどこへやったの?」
 極光が揺らめくような氷点下の声で波江は問いかける。彼女らしいその鋭さに、臨也は小さく笑んだ。
「――目敏いね」
「いつもあった場所になければ、誰だって気付くわ」
「それはそうだ。――君の手の届かない場所だよ」
「どこ?」
 波江の瞳が臨也を見据える。何一つ嘘を見逃すことは許さない、鋭いまなざしだった。
 その目を真っ直ぐに見返しながら、臨也は答える。
「本来の持ち主の一番近くに居る人間に預けた」
「……岸谷新羅に渡したの?」
「手渡ししたわけじゃないよ。隠し場所を教えただけだ」
 正確に言えば、それらはまだ実行したわけではない。全てが片付いた時点で、首を預けた貸金庫の鍵が新羅の元に届くよう、波江が出勤してくる前に手配をしただけだ。
 だが、それを打ち明けるには、矢霧波江という女には信用が全く足りなかった。
 案の定、臨也の返答に、波江はギリ…と唇を噛む。首が絡んだときの新羅が容易ならざる男であることは、これまでの経緯で彼女も重々承知しているのだろう。
 先程、愛を知らないと散々に馬鹿にされた臨也としては、何となく面白い展開だった。
「あいつとしては、君か張間美香のどちらかが首を喰ってくれる方が本望だっただろうけどね。そうしたら、運び屋には新羅を選ぶ以外の選択肢が自動的になくなるわけだから。しかも、傷心の恋人を慰めるという特典付きでね。でも、俺はそこまで優しくないからさ」
 新羅には、これまでの友人としての恩義は感じているが、しかし、手放しで彼の本当の望みを叶えてやるほど臨也は親切でもない。
 セルティの首は、碌でもない目にも遭わされた親友に対する最後の置き土産だった。
「本当にあなた、最低よ」
 首のことは、また後日にどうにかしようと思考を切り替えたのだろう。毒に満ちた一瞥を向け、波江は再びパソコンのモニターに向かう。
 この場面で、自分に首を渡すよう請わないところが、臨也が彼女を気に入っている理由だった。
 正当な報酬は遠慮なく受取るが、自分から媚びてねだることはしない。そのプライドの高さと聡明さが、一緒に仕事をしていて楽だったし、ある程度は信用もできた。
 そんな彼女と仕事をするのも、これが最後になるだろう。
 長くて短いような二年余りの月日を思い、臨也は口の端に小さな笑みを浮かべる。
 その年月の間中、彼女には静雄の話をし続けた。名前を出さなかった日は、おそらく一日たりともない。
 それは憎しみか、愛か。
 歪んでいるとはいえ、愛に生きている彼女には、四六時中一人の男のことばかりを考えている臨也の深層心理など、最初から透けて見えていたのだろう。
 時々彼女が口にしていた、愚か、という臨也を評する言葉は、そのことも指していたのかもしれない。
 だが、何もかも、もう過ぎてしまうことだった。
 まだ終わってはいないが、数日中には全て終わる。今更彼女に確かめることなど何もない。
 そう思い切り、臨也は自分のパソコンに向かって、この事務所と池袋に複数ある拠点を処分すべく、複数の不動産業者にコンタクトを取り始めた。

*               *

 全てを片付けるのには、ちょうど六日間かかった。
 西新宿にある自宅兼事務所は、出国の日を引渡し日としたため、立会いは波江に頼むことになったが、それ以外の手続きは全て終えて、臨也は夜明け前に大型トランクを含む幾らかの荷物と共にマンションを出た。
 事前に呼んでおいたタクシーに乗り込み、成田まで、と告げる。すると、直ぐにタクシーは走り出した。
 時間帯が時間帯であるだけに、道路は空いていた。
 車窓から見える未だ明け切らない空は、蒼く澄み渡り、光を淡くした星が幾つか残っている。ビルに遮られて見えないが、西の地平線近くには、あの夜見たレグルスも、まだ光っているかもしれない。
 そんな風に思いをめぐらせているうちに、タクシーは首都高速四号新宿線に入り、正面方向が東となったことで、白み始めている空が眼前のビルとビルの谷間に広がった。
 薄紫と薄紅、そして薄曙が入り混じったような生まれたての朝を見つめながら、臨也はぼんやりと静雄のことを考える。
 この時間帯ならば、間違いなく彼はまだ眠りの中だろう。
 あの夜以来、本当に一度も会うことはなく、一度も声を聞くこともなかった。
 未練がないとは言わないが、どうせ池袋に行ったところで、昼間なら青筋を立てて追い払われるのが関の山であるし、夜であっても意味のある遣り取りができるはずもない。
 そんな虚しさが募るだけの真似をするほど、臨也も酔狂ではなかった。
 ―――結局、君には一度も勝てなかったなぁ。
 初めて出会った時から特別な存在だった彼に勝ちたくて、自分の存在を認めさせたくて、数え切れないほどの企てを立てては敗れてきた。
 今となっては、何と意味のないことを続けてきたのだろうと思わざるを得ない。
 愛されたいのであれば、優しくすれば良かった。素直になれば良かっただけだったのに、それができなかった。
 自分の感情に気付けなかったという時点で、この結末は決まってしまっていたのだろう。
 いずれにせよ、もう会うこともないし、会うつもりもない。
 もう全て、これで終わりだった。
 未だ交通量の少ない首都高速を、タクシーは東に向かってひた走る。

 ―――バイバイ、シズちゃん。
 
 心の中で、そう別れを告げて。
 少しだけ眠ろうと、臨也は目を閉じた。

End.

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