星は光りぬ 01

 夜の狭間に残るものは何一つなかった。
 こうして身体だけの関係を持つようになってから、それなりの月日が過ぎている。一年か、二年か。それ以上の年月を超えているということはないが、かといって決して短い時間でもない。
 だが、何度身体を重ねても、臨也には静雄が何を考えているのか理解できなかった。
 静雄がくゆらせる煙草の煙がひそやかに立ち上り、夜の大気の中に薄れてゆく。そのことにすら疎ましさを感じながら、臨也はゆっくりと体を起こした。
 行為が済んでしまえば、この部屋には何の用もない。畳の上に散らばった衣服を順番に集め、身につけてゆく。名残は体のあちらこちらに残ったままだったが、この部屋で事後のシャワーを借りようとは思わなかった。
 否、シャワーに限らず、何一つ借りを作りたくない。静雄を利用し、使い捨てることはあっても、借りを作ることは決してあってはならないことであり、臨也にとっては大きなタブーだった。
 衣服を整える臨也に、静雄もまた言葉をかけることはない。帰るのか、と確認することもなく煙草を一本消費し、そして静かに灰皿でそれをもみ消す。
 その様を視界の端で捉えながら、臨也はコートに袖を通し、いつもの姿に戻った。
「じゃあね、シズちゃん」
 一瞥を残して、アパートの玄関を出る。
 無論、静雄からの答えはない。ないが、それでも嫌味を込めた静雄の嫌う声で辞去を告げる。
 もっとも、またね、と告げることはなかった。次があるかどうかは臨也にすら分からないからだ。曖昧なことを、敢えて確定事項のように告げて揺さぶるのは臨也の得意技だが、静雄には何故か、その話術が通用しない。
 確実に苛立たせることができるのであれば、やっても良いと思わないでもなかったが、徒労に終わる可能性が高い以上、しない方が賢明だった。
 真夜中を過ぎた都会の街は、それでもむやみに明るい。
 ビルとビルの隙間の細く切り取られた星のない空をちらりと見上げ、臨也は大通りに向かって歩き出す。
 そして、しばらく明治通りに沿って歩いた後、タクシーを捕まえて乗り込んだ。
 こんな深夜であれば、池袋から西新宿までの道路も空いている。さほどの時間をかけず、臨也は自分のマンションに帰りついた。
 昼間であれば、事務所を兼ねた居宅には矢霧波江が居るが、彼女は夕方、帰宅してゆく。無尽の室内を照明をつけながら奥に進んだ臨也は、真っ先にバスルームへと向かった。
 服を脱ぎ捨て、バスルームに入って、鏡に映った自分の表情にふと目を留める。
 鏡の中の自分は、ひどく険しい顔をしていた。
 当然といえば当然だろう。そもそも楽しくて静雄と寝ているわけではないのだ。
 身体を重ねる行為に、単純で原始的な快楽があることは否定しない。それがあるからこそ、今も関係を続けている。だが、事の発端自体は、静雄に対する嫌がらせの一環に過ぎなかった行為だ。
 数年前、どうあっても肉体的に傷付けることが難しい化け物を、従来とは系統の違う手段でどうにかして傷付けてやろうと思い立ち、強引に誘った。
 だが、何故かさほどの抵抗もなく誘いに乗ってきた静雄は、嫌い抜いているはずの仇敵によって快楽を得たにも関わらず、尊厳が傷付いたそぶりを見せることはなかった。
 仇敵が自分の下で組み伏せられ、肌を晒して脚を開いている――その無防備すぎる姿は、臨也を傷付ける絶好の機会であったはずなのに、暴力に走ることもなく、それどころか優しいと評せるほどの力加減で臨也に触れたのだ。
 その反応はあまりにも不可解で、否応なしに臨也を苛立たせ、結果的に一回限りだったはずの関係を今日まで続けさせる原動力となったのだが――。
「……本当にくだらない」
 およそ週に一度のペースで池袋の静雄のアパートを訪れ、言葉も殆ど交わすことなく抱き合う。それは限りなく非生産的な行為であり、その無意味さは臨也が一番理解していた。
 当初は静雄を傷付けるという目的があったものの、今では殆ど惰性のみで静雄と寝ているという自覚は、勿論、ある。
 静雄とのSEXは、所詮、互いの身体を使って自慰をしているようなものだ。だが、それでも自分のものでない手で触れられることは単純に気持ち良かったし、本来の性向がヘテロである以上、受け身の快感は他では得られないものだった。
 互いに嫌い合っているのに身体を重ねているという、背徳感やスリルも感覚を煽るのだろう。深く貫かれて味わう絶頂は、毎回失神しそうになるほど激しい。
 かろうじてここで意識を失うのはまずいという強い自制が働くため、遠ざかる意識をギリギリのところで引き寄せることに成功してはいるが、もし静雄の腕の中が安心できる場所であったなら、かなりの頻度で気を失っているに違いない。そう確信できるほどの快楽の深さだった。
「そうでもなきゃ、誰があんな奴と……」
 鏡から目を逸らし、シャワーのコックをひねる。温度を調節して、少し熱めの湯を頭から浴びた。
 髪を洗い、やわらかなスポンジにボディーシャンプーを泡立てて全身をすすげば、自分の体液もそうでない体液もたやすく流れ落ちてゆく。だが、胸の内の澱(おり)は流れ去るどころか凝(こご)る一方だった。

 自分の胸の奥に、肺でも心臓でもない、もう一つの重大な器官があると臨也が気付いたのは、もう随分と前のことだ。
 そのX線写真には決して映らない、名前のない器官の役割が何であるのか、臨也は知らない。他の人々に、その器官があるのかどうかも分からない。
 ただ、そこに鈍く暗い色をした何かが沈殿し、少しずつ凝(こ)り固まってゆくことだけは常に感じる。
 その重く冷たい『何か』は、十年前、来神の入学式で静雄と知り合った時に、最初の一かけらが生まれたものだった。以来、十年近くを経た今も尚、それは雪のようにしんしんと降り積もり続けている。
 累計すれば膨大な量の『何か』をその器官は受け止めてきたことになるが、臨也という人間の器(うつわ)の中にある以上、その容量は決して無限ではない。積もりに積もった『何か』は、事ある毎に臨也を内側から締め上げ、窒息させようと追い込んできた。
 その度に臨也は静雄を攻撃し、悪辣な罠に嵌めることで、どうにかその『何か』を散らしてきたのだ。
 しかし、何をしても胸の奥に凝る『何か』は一瞬軽くなるだけで、決してなくなりはしない。むしろ、臨也が行動すればするほど、『何か』が降り積もる速度は加速していくようにさえ思える。
 それが顕著に感じられるのは、最近では、とりわけ静雄に抱かれた後――たとえば、今この瞬間、だった。
 臨也が、自分の身体を犠牲にすることで静雄を傷付けようと思いついたのも、元はと言えば、その『何か』に追い立てられ、追い詰められたからだ。
 そして、静雄が自分を初めて抱いたその時は、確かに『何か』を散らすことに成功したような気がした。胸の奥に凝(こご)っていたものが、明らかに軽くなったように感じられたのだ。
だが、それはほんの一時のことで、また直ぐに『何か』は降り積もり始め、今では普通に呼吸をすることさえ苦しいほどに日々、臨也を苛んでいる。
 静雄の姿を目にする度、その声を聞く度、その手に触れられる度、しんしんと降り続けている『何か』が吹雪のように勢いを増す。
 かといって、会わずにいようとすれば、その『何か』がじわじわと内側から臨也を締め上げて、息を詰まらせようとする。
 そんな攻防がかれこれ九年近くも続き、もうどうすれば良いのか分からないというのが、昨今の正直な心情だった。

「……でも、それももう終わる」
 シャワーから上がり、バスローブを羽織りながら臨也は低く呟く。
 そして、そのままの姿で階下へ降り、仕事用のパソコンを立ち上げた。
 HDDが起動作業を終えるのを待つ間、アイフォンを操作して幾つかのサイトや掲示板をチェックして、口元に愉悦に歪んだ冷たい笑みを浮かべる。
「全部順調だね。皆、いい子だ」
 あと少しだった。
 母校の後輩である高校生三人の存在を知った時から、臨也が年単位の時間をかけて仕込んできた企みは、間もなく成就する。
 その時が来れば、臨也の操るままに真実と嘘と疑心が複雑に絡み合い、入り乱れて、池袋の街は戦場と化すだろう。それは正に、臨也が望んだ理想世界の顕現だ。
 周囲の協力者たちには、企みの目的をヴァルハラへの道を開くためだとこれまで嘯(うそぶ)いてきたが、本音では、臨也はそんなものには殆ど興味がない。デュラハンの首を目覚めさせる目覚めさせないは、所詮、実験の範疇を出ない話である。
 それよりも、罵声と悲鳴が響き渡る狂気の世界で、人々がどう動き、何を思うのか。生き地獄の中でしか見られないそれを臨也は見たかった。
 そして、何よりも。
「目の前で君の街が狂い、壊れていく。君の力をもってしても、それは止まらない。君が幾ら強くたって、肉体は一つ。腕は二本、足も二本しかないんだ。
 池袋中が戦場と化したとき、君が止めることができるのは目の前にあるほんの一部だけ。誰か一人を助ける間に、十人、二十人が血みどろになって倒れる。それを知った瞬間、君はどんな顔をするんだろうね……?」
 彼のことだ。全身の血を怒りに滾らせ、吼えるだろう。
 だが、それでも絶望はしないかもしれない。彼の精神もまた、肉体同様に強靭だ。自分自身のことについてはすべてを諦めているような虚無感を抱えているくせに、外からの理不尽に対しては決して屈しない。
「諦めなければ諦めないほど、頑張れば頑張るほど、君は見たくないものを見、聞きたくないものを聞くだろう。そうやって頑張って頑張って……最後は壊れてくれるかな。それとも壊れないで、全ての希望が失われたゴルゴダの丘に独りきり、佇むことになるのかな」
 そして、街が、人が、破壊され尽くした様を見ればいい。
 その神の如き力をもってしても、救えるものなどありはしないのだと思い知ればいい。
 理不尽に対する憤怒に、その総身を震わせて。
「俺を殺しに来るかい……?」
 まだ見ぬその光景を思い浮かべ、いっそ優しげに微笑んで。
 臨也は更なる災厄の種を播き散らすべく、パソコンに向かった。

*               *

「あなた、本当にこれを実行する気?」
「勿論だよ。だから、君の大事な弟君にもハワイ行きのペアチケットを手配してあげただろ」
 冷ややかな口調での問いかけに、臨也はあっさりと答える。
 数年来、臨也の助手を務めている矢霧波江は、物事の善悪を問う人間ではない。彼女が関心を払うのは、唯一、実弟に対してのみだ。
 故に、この池袋を戦場とする計画の立案実行に際し、彼女が提示した条件は一つだけだった。
 ―――弟に決して害が及ばないこと。
 それは実に簡単に叶えられる条件であり、最終的な実行時期を高校の春休みに合わせ、ハワイ行きの豪華ツアーチケットを用意するだけのことで済んだ。
「弟君は君が渡したチケットを持って、今日の夕方の便で彼女と仲良くハワイに脱出。十日後に帰国した時には全て終わってる。もしかしたら、元クラスメートが何人かいなくなっているかもしれないけれどね」
「誠二のことは心配していないわ。あの女が一緒というのは腹立たしいけれど」
「悪いね、一緒に行かせてあげられなくて」
「まったくだわ」
 自分を裏切らないとある程度計算できる人材は、臨也の手元には決して多くはいない。波江は、その数少ないうちの一人であり、また、最も飛び抜けて優秀な人材でもある。
 故に、計画の実行までは付き合ってもらう必要があるため、今もまだ、こうして臨也の傍らにいた。
 そして事実、彼女は今も口を動かしつつ、書類を整理する手を、それ以上の速度で動かし続けている。
「まあ、計画が動き出してしまったら、もうすることはないから直ぐに弟君を追いかけてもらって構わない。三日後には弟君とハワイに居るんだと思えば、少しは気分が良くなるんじゃない?」
「だからといって、今、目の前で涼しい顔をしているあなたの目玉を抉りたい気分は変わらないわよ」
「おやおや」
 助手の毒舌に、臨也は唇の端を吊り上げる。
「どうしてだい。君は他人に何の関心もないだろう。それとも、この計画の悪辣さに心が痛むとでも?」
「まさか。何人死のうと私の知ったことではないわ」
「だよねぇ」
「ただ、あなたが気に食わないのよ。あなたの長年の悲願を成就させる手助けをしなきゃならない現状が腹立たしいだけ」
「ふぅん。それなら、今すぐ退職届を出してもらってもいいけれど?」
「そんな真似を今したら、あなたはこの計画の生贄リストの中に私の名前も加えるでしょう。俺を裏切ったお仕置きだって嗤いながら。一パーセント以下の確率で、たとえそうしなかったとしても、少なくとも私の安全は省みなくなる。そんな危険を冒すほど私は馬鹿ではないわ」
「まあ、確かにその推測は間違ってはいないね」
「だから、私はここであなたを手伝いながら、あなたに最大限、八つ当たりさせてもらうことにしたのよ」
「なるほど。やっぱり君は賢いよ。誰かとは大違いだ」
 臨也は嗤ったが、しかし、波江は冷ややかなまなざしを向けただけだった。
「その何でもかんでも平和島静雄を引き合いに出す癖、いい加減に止めたら? みっともないし、いい加減聞き飽きてうんざりよ」
「それは無理だなぁ。俺は年がら年中、シズちゃんを痛めつけることしか考えてないんだ。本能みたいなもんだよ、今となってはさ」
「愚かね。本当に死んだほうがマシよ、あなた」
 これを憎々しげに感情を込めて言うのならば、矢霧波江という女には、まだ可愛げがあるといえただろう。
 だが、現実の彼女は表情すら冷めた無表情であり、瞳に浮かぶ光は極光のような冷たさを隠そうともしていない。
 呆れるほど冷淡な口調で雇い主を切り捨てた波江は、これ以上の会話は無駄とばかりに再び沈黙し、作業を処理するスピードを更に引き上げる。
 そんな彼女の様子に臨也は皮肉めいた笑みを口元に浮かべ、自らの前にあるパソコンモニターに集中を戻した。
 全ては順調に進んでいる。
 臨也の描いた脚本に則って世界が崩壊し始めるまで、あと十二時間。およそ半日の猶予があるのみだった。




 波江は無駄口を叩かない助手であるだけに、彼女が退出しても事務所内の静けさには余り変化がない。二人分のキーボードを叩く音が一人分になる程度の差である。
 そして臨也は、自分一人しか存在せず、自分一人しか呼吸をしていない空間が好きだった。
 一人きりの空間であれば、誰しもが絶対者になり得る。永遠の中二病と囁かれるような性格であればこそ、この一人きりの時間はたまらなく心地良い。
 波江は確かに便利な存在だが、しかし、何もかも一人きりでこなしていた頃が時折ふっと恋しくなることがある。彼女の退出後に訪れる夜は、その静けさと孤独を満喫する絶好の機会だった。
「うん、全てが順調だ」
 あと一手、最後の楔を臨也が打ち込めば、すべてが音を立てて崩壊してゆく。
 それは例えるならば、高層ビルの爆破解体に似ていた。かつてテレビCMにも使われたことのある光景だが、熟練の解体屋によって爆薬を仕掛けられたビルは、スイッチ一つで砂の城のように沈んでゆく。
 それを池袋の街で、人間の集団を対象に再現するのだ。その瞬間のことを思うと、ぞくぞくするような愉悦が背筋を駆け上る。
「まずは俺が幾つかの掲示板に書き込みをして、幾つかのメールを流す。それが一つ一つ伝播していって連鎖反応を起こし、明日の朝までにおおよそのところが広まる。そして夕方には……」
 血で血を洗う乱闘が至る所で始まっているだろう。
 明日と明後日の天気予報は晴れだ。季節が季節なだけに、夕日はそれほど鮮やかには空を染めないかもしれない。だが、地上の醜い争いに天上の朱赤の輝きは、きっと良く映えるはずだった。
「その頃、君は何をしてるんだろうね……?」
 くすくすと嗤いながら、臨也は端末にあらかじめ練ってあった文章を打ち込んでゆく。
「のんきに債務者を追い回しているか、異変に気付いて血相を変えているか……。勿論、君にもスペシャルゲストをたっぷり用意してあるんだよ?」
 今回は一度に多数の場所で揉め事が発生するため、これまでのように静雄がすばやく現場に駆けつける可能性は低い。だが、その可能性を更に限定するために、臨也は静雄にもヤクザ絡みのネタを用意してあった。
 仕込んでおいた証拠品と一緒に、池袋の自動喧嘩人形とどこそこの組と繋がったという情報を流せば、裏の社会に生きる者たちは中々無視できるものではない。それほどまでに世間的には凶悪な存在なのだ。平和島静雄という人間は。
「まあ、シズちゃんは人間じゃないけどね」
 呟きながら、臨也はくすくすと嗤い続ける。
 静雄に関するネタを流すのは、明日の昼頃と既に決めてあった。静雄は社会人であるだけに、十代を中心とした街の噂にはあまり耳が早くない。故(ゆえ)に、街の空気が変わったことに彼が気付く、そのタイミングを狙って罠をぶつけるのである。
 暴力のプロの手による静雄の包囲網が完成するのは、計算通りに行けば、およそ夕方。街が血に染まる頃、静雄はどこかで足止めを食らう予定だった。
「二時間でも三時間でも時間稼ぎができればね、それで十分なんだよ。それだけで君の手には負えないまでに惨劇は広がるだろうから」
 二年ほど前にヤクザをけしかけた際に分かったのは、静雄は、自分が不利な立場になると判断をした場合には、自らは決して手を出そうとしなくなったということだった。
 だが、それは臨也にとっては不快ではあっても、ある意味、好都合な静雄の進化だった。
 手を出さないで解決法を探ろうとするのならば、それは殴って解決するよりも遥かに時間と労力を必要とする。つまり、臨也の側から見れば、冤罪に陥れることが難しくなる代わりに、足止めの効果が高くなるのだ。
 だから今回も、静雄に対しては足止めのみに目的を特化して、念入りにネタを選び、証拠を仕込んだのである。
 そうして明日の夜か、明後日の明け方か。やっとの思いで包囲網を突破した静雄は、自分の街が理不尽な暴力で踏みにじられた様を目撃することになるだろう。
 その瞬間の静雄を、臨也は見たかった。
 最強の化物が、傷付き、怒り、吼えるその様を。
 そして、可能ならば、その涙を。
「俺はね、この計画に色々なものを期待しているんだよ。これまで見たくても見られなかったものが数え切れないほどに見られるはずだから。――でも、一番見たいのは、シズちゃん。君の心だ。君の心がずたずたに引き裂かれ、その強靭な魂がひしいで歪むところが何よりも見たい」
 引き裂かれた彼の心は、どんな色をしているだろう。
 きっと美しいのだろうと思う。元が純粋な色であればあるほどに、引き裂かれた様はより一層、無残(むざん)に見えるだろう。
 そして、憤怒でその身も心も焼き尽くさんばかりになりながら、必ず静雄は臨也の元へとやってくる。
 どこかのビルの屋上から街を見下ろす臨也を視界に捉えた瞬間、ビルの階段なり外壁なりを猛烈な勢いで上がってくるだろう。
 そうしたら――。
「俺は掴まらないよ、シズちゃん。だってもう、掴まったらそれが最後なんだから」
 その時の彼は、これまでの池袋から追い払おうとするばかりの静雄とは、きっと何もかもが違ってしまっている。
彼のことだ。必ず本気で臨也を殺そうとするだろう。
自分一人が殺人者となることで、この先も臨也が引き起こすだろう惨劇を食い止められるならと、良識も良心も捨て、家族すらも心の中で縁を切って、臨也の前に立ちはだかるだろう。
 そんな静雄とまともに向き合ってしまったら、臨也の命は次の瞬間に消える。だが、臨也はここで死ぬ気など毛頭無かった。
「君が俺を殺そうとするのなら、俺も、もう手段を選ばずに君を殺すよ」
 静雄の肉体が強靭ではあるといっても、所詮は炭素と酸素と水素の化合物である。ならば、費用さえ問わなければ、その驚異的な再生が追いつかない速度で破壊する術は幾らでもあった。
 それこそ単純に言うならば、脳か心臓を丸ごと吹き飛ばしてしまえば良いのだ。そのどちらかが無くなってしまったら、生物である以上、決して生きてはいられない。
 そして、その方法の幾つかを臨也は既に、波江をはじめとする自分の伝(つて)を通して手配していた。
「明日だよ、シズちゃん。明日になれば、君とのことも何もかも終わる」
 高校入学の日以来十年もの間、嫌い合い、殺し合ってきた。挙句、身体まで重ねたが、通い合うものなど未(いま)だに何一つない。その悪縁も、やっと明日終わるのだ。
 自分か、静雄か。
 そのどちらかの死をもって。
「そろそろ幕開けだね」
 ちらりとアイフォンの画面隅にある時刻表示を臨也は確認する。
 あと二分で日付が変わる。
 最初のターゲットである掲示板の流れを確認し、用意した文章をもう一度読み直し、そして。
 日付が変わると同時に、送信ボタンを押そうとした臨也の指は。


 ―――何故か、動かなかった。


「え……?」
 何が起きたのか理解できず、臨也は自分の右手を見つめる。
 親指は液晶画面上の送信ボタンにかかっている。あとほんの数ミリも下ろせば、第一の作業は完了する。その瞬間、惨劇が幕を開けるのだ。
 なのに、どれほど押そうとしても指が言うことを利かない。見えざる何かによって押しとどめられているかのように動かない。
「なんで……っ」
 このタイミングで指令を出さなければ、全てがずれていってしまう。綿密に計算した企てなのだ。このままではありとあらゆる方面で、ありとあらゆる勢力が、臨也の望みとは違う形で暴発し、或いは暴発し損ねてしまうだろう。
 無論、それでも十分に街は混乱する。静雄も怒り狂うだろう。だが、それは決して臨也の望んだ形ではない。
 そう思った時。
 臨也の脳裏で閃くものがあった。

「――シズちゃん……?」

 この計画が発動したら、間違いなく失ってしまうもの。二度と修復できないもの。
 そんなものは幾らでもある。数えだしたらキリがないほどだ。昔からの馴染みである新羅や門田とて、今度ばかりは臨也を許さないだろう。
 決して静雄だけではない。ないのに、混乱する臨也の脳裏に浮かんだのは静雄の姿だけだった。
 この計画が発動したら。
 静雄はけっして臨也を許さない。今度こそ、どちらかが死ぬまでチェイスは続く。
 そして、どちらかが命を落としてしまったら。
 ―――もう二度と、会えない。
 もう二度と、その姿を見ることも、声を聞くことも、肌に触れることもない。
 もう二度と、街でその存在を探すこともない。邪魔をされるのではないかと気にかける必要もない。
 喪う、ということは、つまりそういうことだった。
「ははっ、まさか、俺がそんなことを気にしているとでも?」
 有り得ない、と臨也は嗤う。嗤うが、しかし、瞬(またた)く間に笑みは薄れて、まなざしは硬直したままの右手へと向かう。
 相変わらず親指は動かないままだった。
 親指が動かなければ、他の指でキーを押せばいい。だが、他の指も凍り付いたように動かない。
 否、全身が動かなかった。身じろぎ一つ、アイフォンを投げ捨てることすらできない。
 全身が拒絶しているのだ、とようやく臨也は悟る。
渾身の力で、肉体が思考に逆らっている。
 否、肉体は思考に従うものだ。必ず、その持ち主の意思に。
 にもかかわらず、思考に反発するのであれば、それは。
「……俺の……深層心理……?」
 無意識が意識のままに動くことを拒絶している。
 失くすのは嫌だ、壊すのは嫌だと、声なき悲鳴の限りに叫んでいる。
「まさか……、そんな……」
 有り得ない話だった。
 これまで静雄との付き合いを楽しいと感じたことなど一度もない。罠に嵌めることによる意地の悪い喜びはあったが、そんなものは惜しむようなものではない。
 良いことなど一つもなかった。
 そう強く思った時、違う、と胸の奥で何かが囁く。
 一つだけ。
 たった一つだけある。

 ―――長い指を持つ、男っぽい大きな手。

 子供のように温かな手。
 破壊しか生まないあの手が、何故か嘘のように優しく肌に触れる。触れて快楽を引き出してゆく。
 まるで、心底いとおしんでいるかのように。
「違う……っ!」
 違う、と臨也は否定する。
 そんなことは有り得ない。決して有り得ないのだ。
 あの手を惜しむなど。
 あの甘やかな愛撫を惜しむなど。
 世の中には温かな手をした人間も、優しい愛撫をする人間も数え切れないほどにいる。
 その内の一人が消えたからと言って、世界が変わるわけではない。世界が終わるわけではない。
 ――その一人が、世界でたった一人の存在でない限りは。
「ちが……う……」
 そんなはずがなかった。あの男には傷付き、苦しみもがいて死ぬこと以外、何一つ求めたことはないはずだ。
 惜しむものなど何一つない。
 未練に思うものなど、何一つない。
 ―――本当に?
「ない……。ないよ、あいつになんて……」
 十年もの間、憎み抜いてきた。嫌い抜いてきた。
 何一つ期待したことなどない。
 ただ、目の前から居なくなってくれれば良かった。どこかに消えてしまってくれれば良かった。
 けれど、居なくならないから。
 いつまでも目障りなままだから。
 消そうとした。
 肉体を傷付ける前に、心をうんと傷付けて、踏みにじって、ずたずたに引き裂いて。
 それから心臓か頭を吹き飛ばしてやろうと。
「ずっと、そう思ってきた、のに……」
 最後の最後になって、この右手が嫌だという。
 彼を間違いなく失ってしまうキーを押したくないという。
 それはひどい裏切りだった。他の誰かに裏切られたわけではない。自分が自分を裏切ったのだ。
 頭で考えたことを、心が拒絶した。
 頭が要らないと判断したあの化物を、心は。
「欲しい……?」
 小さく小さく呟いた瞬間。
 臨也の息がぐっと詰まる。否、息が詰まるほどの勢いで何かが込み上げてくる。
 それは痛みのようだった。熱のようでもあった。
 濃密な気体のようでもあり、灼熱の濁流のようでもあり、重苦しい岩塊のようでもあった。
 それらに呼吸器を詰められ、臨也は噎せる。必死に酸素を取り込もうとするがままならず、ひどく苦しい。
 だが、臨也はこの只ならぬ感覚を知っていた。
 ここまで激烈であったことはない。だが、これよりも軽いものであれば、過去に数え切れないほどに経験している。
 それは『何か』だった。
 胸の奥、心臓でも肺でもない特別な器官。そこに降り積もり続けていた『何か』。
 それが今、マグマを蓄えに蓄えた火山が噴火するように爆発しつつある。
 ――『欲しい』
 たった一言だった。そのたった一言が箍を外したのだと臨也は悟らされる。
 これまで押し込められ、強引に排除されてきた『何か』。
 不要なものと眉をしかめられ続けてきた、特別な器官。
 その正体は。
「ち…が、う……っ」
 必死に臨也は抗う。
 認めたくなかった。認めるわけにはいかなかった。
 その特別な器官が、自分の心であったなどと。
 降り積もり続けた『何か』は、たった一人を求める想いだったなどと。
 認めてしまったら全てが崩壊する。何もかもが壊れてしまう。
 自分が自分でなくなってしまう。
「違う……っ、嫌だ……!」
 折原臨也が平和島静雄だけは愛さず愛せないように、平和島静雄も折原臨也だけは愛さず愛せない。
 それは世界の不文律だ。
 臨也はずっとそれを信じてきた。世界がどうなろうと、それだけはけっして変わらないはずだった。
「俺はシズちゃんのことなんか好きじゃない……!」
 魂を振り絞るようにして臨也は叫ぶ。
 自分自身に、そして世界に言い聞かせるように。
 けれど、どれほど抗おうと、どれほど叫ぼうと右手が動くことはなく。
 自分が築き上げてきた世界が音を立てて崩壊してゆく様を、臨也はただ見つめていることしかできなかった。

to be continued...

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