きらきら 08

「とりあえず、こんなとこか。来週からは細かいバグ取りだな」
 無精髭にくわえ煙草の中年男が、大あくびをしながら首をこきこきと鳴らす。
 そして、赤く充血した目で獄寺を振り返った。
「悪かったな、今回も無理言って」
「いえ。引き受けたことっスから」
「あんたはそう言うけどな。そういう最低限のルールが守れねぇやつが多いんだよ、この業界。もともと業界全体の受注スケジュールが現実を無視してできあがっちまってるから、仕方ねぇんだが」
 言いながら中年男は立ち上がる。
 椅子に座りっぱなしで辛いのだろう。腰を叩きながら部屋の隅のディスペンサーに向かい、紙コップのコーヒーを注いで獄寺に差し出した。
 獄寺がそれを素直に受け取ると、自分もまた、もう一杯分の紙コップコーヒーを手に取る。
「助かってるぜ、実際。あんたは無茶な納期でもどうにかしてくれるし、急な仕様変更もきっちりこなしてくれる。今回のこれだって、あんたが手伝ってくれなきゃどうにもならなかっただろう」
「……世辞でもそう言ってもらえるのは、ありがたいです。次の仕事をもらえる見込みがあるってことっスから。俺も食ってかなきゃならないんで」
「あんたなら、こんなキツイ仕事しなくったって、取っ替え引っ替え、貢いでもらえそうなもんだがな」
 ちらりと横目で見て、男はにやりと笑う。
 そこに年上らしいからかいの色はあったが、同年代にありがちなやっかみめいたものは殆ど含まれていなかったせいか、獄寺の神経が逆なでされることは不思議になかった。
「そーいうのは苦手なんスよ。……昔から、色恋沙汰は下手で」
 そんな言葉がふっと口をついて出る。
 自分で驚きながら、それは多分、と獄寺は考える。
 この零細ソフトハウスの経営者が、少しシャマルに雰囲気が似ているからだ。
 くたびれ加減や、だらしのない外見から時折のぞく鋭さや、うさんくささでカモフラージュされた人間らしい温かみが。
 兄代わりというより父親代わりだった男を思い出させる。
「なんだ、好きな女がいるのか?」
「……片思いっスよ、ずっと」
「ふぅん?」
 少しばかり興味深げに獄寺を見やりながら、男が新たな煙草に火をつける。
 そして、ゆっくりと天井に向かって煙りを吐き出してから、再度口を開いた。
「なんなら話してみちゃどーだ? 他の連中は皆、連続徹夜で潰れてるからな。地蔵相手にでも話してると思いやいい」
 顎でエンジニア達の屍が累々と転がる室内を示しながらそう言った声は、ぞんざいなのに温かかった。
 ああ、やっぱりあの男に似ている、と独特の乾いた温かさを思い出しながら、獄寺はほろ苦く笑む。
「話す程のことはねーんです。……ただ、俺は馬鹿で、その人に取り返しのつかない真似をしちまったんで……」
 おやまあ、と男が眉を動かす。
「好きだとも言えなくなっちまったのか」
「……そういう、ことになりますかね」
 話しながら、獄寺は自分は疲れているのだろうと思った。
 普段なら決して他人には打ち明けないことを話している。
 三日続いた徹夜作業と、それ以前から降り積もっている葛藤に、心身が疲弊し切って、他人を遮断する壁にひびが入っている。そんな感じだった。
「すげー優しい人で。その人の人生を変えちまうような馬鹿をやった俺のことを、一言も責めないんです。俺は何を言われたって……殺されたって構わないのに。今でも、俺に笑ってくれる」
「――そりゃあ、いい女だな」
 でも、と男がこちらを流し見る。
「あんたは責めてくれた方が気が楽なんだろ。お前のせいで滅茶苦茶になったって」
「……でも、責められるのも恐いんスよ。今は笑ってくれてる人が、明日は違うかもしれねえ。考えるだけで、夜も眠れなくなる」
「……本気で惚れてんだな」
 からかうでも皮肉でもない笑みと共に男は言って、短くなった煙草を灰皿で揉み消した。
「苦しくて仕方ねえ。けれど、恋しくて仕方ねえ。だったら今はそのまま行くしかねーだろうよ」
「そのまま、っスか」
「ああ。この先、何か変わるかもしれねーし、何にも変わらねーかもしれねえ。いくら想像したところで、明日のことは結局、明日になってみなきゃ分かんねーんだよ。
 もう死にそうだと思っても、それでも好きで好きで仕方ねえんなら、それを抱えて生きていくしかねーだろ」
「……実感、こもってねーですか」
「おうよ。これでも昔はモテたんだぜ」
 ちょい悪オヤジを気取ったつもりか、男は徹夜明けのくたびれ切った顔でにやりと笑う。
「ま、結局、俺は彼女募集中になっちまったけどな。あんたの事情は相当に重そうだが、それでも本当にどうしようもなくなるまで、そのまんま行けばいいんじゃないかと俺は思うぜ。部外者の勝手な意見だが」
「そう、なんスかね」
「おう。年上の言うことは、とりあえず聞いたフリしとけ。どのみち、どうすりゃいいのかなんて分かんねーんだろ」
 そう言い、男はまた大きなあくびをした。
 そろそろ潮時かと、獄寺はぬるくなったコーヒーを一息に飲み干し、紙コップを握りつぶす。
「……じゃあ、俺もそろそろ帰って寝ます」
「おう。また週明けに頼むな」
「はい」
 紙コップを捨て、コートとバッグを拾い上げて出てゆこうとした獄寺を、男が呼び止めた。

「なあ、あんたくらいの男がそこまで惚れ込んでんだ。相当な美人なんだろうな?」
「――世界一の美人っスよ」

 その一言だけは。
 獄寺もほのかに笑って答えた。



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