きらきら 02

「……獄寺君」
 目の前にいる存在が幻ではないと確かめるように、もう一度名前を呼ぶと、獄寺は何か深い部分が痛んだかのようにかすかに眉をしかめる。
「お久しぶりです、沢田さん」
「うん。久しぶり……」
 二年ぶりに聞く声は、記憶にあるよりも一段低かった。そしてその分、綱吉の心の奥底にあるものを強く揺さぶった。
 話をしたいのに、もっと声を聞きたいのに、言葉が上手く出てこない。
 もどかしさにショルダーバッグの肩ベルトを、ぐっと握りしめる。
「どうして……獄寺君は、ここに居るの……?」
 やっと絞り出すようにした質問に、獄寺は即答しなかった。
 ただ、最後の日に見せたような苦しさを押し殺した顔で綱吉を見つめ、銀緑色の瞳を静かにまばたかせる。
 その沈黙の間に、何を考えていたのか。
「……俺は今、この街で仕事してますから」
 低く、感情を込めない声で、獄寺は答えた。
「仕事」
 オウム返しに返しながら、仕事とは何だろう、と綱吉は考える。
 獄寺を見上げたままだったから、思ったことが表情に出たのだろう。獄寺はかすかに首を横に振った。
「ボンゴレのじゃありません。……俺はもう、辞めましたから」
「――え」
 思いがけない返答に、綱吉は目をみはる。

 ―――あの頃の仲間で、もっともマフィアの世界から足を洗えそうにない人間は誰かと問われたなら、綱吉は、それは獄寺だと答えたはずだった。
 マフィアのボスの家系に生まれ、ファミリーを背負う人間として英才教育を受けた彼は、十代前半で既に凶名高きマフィアの一員となっており、そのことに誇りを持っていた。
 守護者仲間の内でも、マフィアであること、引いてはボンゴレであることに最も執着を抱いていたのは獄寺であり、他の面々はマフィア云々よりも自分自身であることにこだわりを持っている者ばかりだったから、本来なら正当であるはずの獄寺の在り方は、六人の中では逆に異端だった。
 そして、そんな彼は、ボンゴレリングの返還と共に綱吉の傍を――日本を離れていった、はずだった。

「辞めたって……いつ?」
「少し前です」
 聞いた瞬間に、嘘だと思った。
 ボンゴレの十代目候補を外れたからといって、血統から来る勘の鋭さが鈍るわけではない。
 おそらく獄寺は、あの後、イタリアに戻ってすぐにボンゴレを辞めたに違いなかった。が、それは指摘しても意味のあることではおそらくなかったし、それよりも足抜けに伴う慣例の方が綱吉としては重大事として思い浮かんだ。
「辞める時、何もなかったの? 普通ならあるだろ、色々……」
 脳裏を掠めた陰惨な私刑の数々に、首筋が嘘寒くなる。が、今度も獄寺は小さく首を横に振った。
「俺は一応、あなたの配下でしたから。九代目が特赦を下さいました」
 だからあっさり辞められたという獄寺の表情はほのかに苦く、それゆえに綱吉は、これは本当だと感じる。
 ファミリーを抜けるということは裏切りと同義だ。その罪の重さを知っている獄寺としては、掟に従って私刑を受ける方がまだしも気が楽だったのだろう。
 だが、自分に恩情をかけた九代目は、同じく自分が選んでボンゴレにいざなった少年をも切り捨てることができなかったのに違いない。
 それはあの老人の比類ない優しさであり、裏社会の覇者としてはあってはならない悪徳だった。
「……だから、日本に来たの?」
 ファミリーを抜けるのに五体満足ですんだとはいえ、そんな特別の恩情を受けてしまったら、かえって獄寺にはイタリアでの居場所がなくなる。
 そうして、どこに行こうかと考えた時に、浮かんだのが日本だったのだとしたら。
 それをどう受け止めればいいのか、綱吉には分からなかった。
「沢田さんは何故、ここに?」
 だが、綱吉の問いには答えず、獄寺は逆に問い返してくる。
 質問を無視されたのは意外といえば意外だったが、それも仕方がないと……心のどこかで答えてくれないことに安堵しながら、綱吉はちらりと自分のショルダーバッグに視線を向ける。
「今、大学に行ってるから」
「大学」
「うん。何とか一つだけ、合格できたから。去年の春からアパート借りて、この街に住んでる」
「そう、なんですか」
 そう言った獄寺は、本当に何も知らなかったようだった。意表を突かれたような表情は、綱吉が大学生になっているということすら、思い至っていなかったように見える。
 もう俺たちは十九歳なのに、と思いながら綱吉は獄寺を見つめた。
 世間一般でいえば、十九歳で大学生というのは珍しいものではない。かつては悲惨だった成績も高校に入学する頃には人並み程度になっていたし、普通に考えるのなら、さほど驚く程の進路選択ではないはずである。
 それとも彼の中では、時間が止まってしまっていたのだろうか。――高校一年生だった、あの秋の日から。
 さよならと告げた、あの日から。
「そんなに意外? 俺が大学に受かったことが」
「え!? いえ、まさか!! そうじゃなくて、俺はただ、じゅ…沢田さんがここにいらっしゃることに驚いて……」
 わざと的を外した質問をすれば、獄寺は慌てて言い訳をしてくる。
 その様子が、あまりにもかつてと変わらなかったから、綱吉はつい吹き出してしまった。
「獄寺君、全然変わってないんだね」
「……沢田さんだって、全然お変わりないっス」
 少しばかり憮然として言う語尾が昔に戻ったのは、もしかしたら拗ねたのだろうか。
 だったら、少しいい、と綱吉は思う。
 苦しい辛い表情よりは、断然に、いい。

 けれど。

 綱吉が顔を上げて、獄寺を見た瞬間に、獄寺の銀緑色の瞳が陰る。
 彼は知っているからだ。
 見上げる綱吉の右目が、外観は変わりなくとも、わずかな光と影しか捕らえられないと知っているから。

 彼はまだ、――を責め続けている。

「獄寺君、ケータイ持ってる?」
 はじかれたように唐突に、綱吉は尋ねた。
「え? あ、はい」
「じゃあ、今から言う番号、覚えて」
 軽く目をみはった獄寺には構わず、十一桁の番号を一気に唱える。
「それから、アドレス」
 こちらは少し長いが、意味のある英単語の羅列だから覚えにくいものではない。ましてや相手が獄寺なら、乱数表を読み上げたところで全く構わないはずだった。
「もう一回、言った方がいい?」
「――いえ、大丈夫です。でも……」
「今度の月曜がレポートの締切なんだ。それで後期の試験が終わるから。電話でもメールでもいい。……連絡して」
 見える左目と、見えない右目。
 両の目でひたと見据えると、獄寺の唇がかすかに動きかけ、だが、ぐっと押し黙る。
 その押し殺した表情の下で逡巡している端正な顔を見つめたまま、綱吉はもう一度繰り返した。
「どうしても嫌ならいい。でも、そうでなかったら、連絡して」
「――締切は月曜、ですね?」
「月曜じゃなくてもいいから」
 連絡する気になってくれた時ならいつでも構わないからと請う綱吉に、獄寺は折れたようだった。
「分かりました。……ただ、必ず連絡すると約束はできません」
「うん、それでいい」
 約束で縛ろうとは思わなかった。
 彼が再会を望んでくれるのでなければ、意味はない。会うことそのものに価値があるのは確かだったが、気持ちがなければ会っても辛いばかりだ。
 そうと分かっていたから、綱吉はうなずく。
「――それじゃあ、俺はもう帰るから」
「はい、お気をつけて」
「うん。獄寺君も」
 獄寺は、アパートまで送るとは言わなかった。
 その場を動こうとしない獄寺に小さく微笑みかけて、綱吉は先程渡った横断歩道をもう一度、今度は逆方向に渡る。
 そして、本来の帰路である横断歩道の信号が青に変わるのを待つ間、振り返って、まだ同じ場所に佇んでいた獄寺に小さく手を振り、青信号と共にゆっくりと歩き出す。
 ―――道を渡り終えてからも、何度も振り返りたいと思った。
 けれど、振り返ったらそのまま、獄寺のもとへもう一度駆けていってしまいそうで――彼の姿がもうあの場所になかったら、見つかるまで探してしまいそうで。
 だからもう、振り返れなかった。

*     *

 玄関の施錠を確かめ、照明のスイッチを入れながら奥の部屋へと向かう。
 今の住居は、かつて並盛で住んでいた部屋と少し似た間取りの2LDKだった。が、これは意識的に選んだわけではなく、日本の賃貸マンションの間取りはどこも似たり寄ったりだという偏平性に由来する、単なる偶然でしかない。
 リビングのエアコンを入れてからコートを脱いでハンガーにかけ、ポケットから携帯電話を取り出す。
 そして、その小さな端末片手に少し迷った後、先程聞き覚えたばかりの番号とアドレスを、ゆっくりと登録する。
 一連の作業の最後に、沢田綱吉、と入力した時が限界だった。
 ぽつりと水滴が、フローリングのラグの上に落ちる。
「十、代目……」
 呟きは、かすれた囁きにしかならなかった。

 会いたくて会いたくて、けれど、会えない人だった。
 もう二度と会えないと思っていた。
 もう二度と会ってはならないと思っていた。

 なのに、あの人は、あの頃と変わらない綺麗な瞳で、
 けれど、もう片方しか光を映さない瞳で、
 自分を見つめて、

 そして、あの声で、名前、を。

「十代、目、十代目、十代目……っ!」

 会いたかった。
 声を聞きたかった。
 姿を目にしたかった。

 会いたかった。会いたかった。会いたかった。


 あなたに、会いたかった。


「十代目……!!」
 一度堰を切った想いは、容易くは流れ尽くさない。
 誰よりも大切だった人の名前が光を放つ小さな液晶画面を開いたまま、獄寺はただ、声を殺して忍び泣いた。



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