きらきら 01

 風が冷たい、と思った。
 マフラーをしていても染み通るような空気の冷たさに、綱吉は思わず首をすくめる。
 天気予報を見る限り、この街は故郷よりは気温はわずかに高いはずなのに、それでもまだこの冬の寒さに慣れることができない。
 もとより暑いのも寒いのも得意としたことは生まれてからこの方、一度もないのだから、この先、それらが好きになる日が来るとは思えなかった。

 今年の冬は全体的に平年並みであるらしく、温暖化が叫ばれて久しい昨今では冬らしい冬だと言える。
 が、その割には天候は不純で、例年なら幾日も晴天が続くはずのこの地方なのに、どうにも曇り空や雨が多い。
 今日もちらりと目をやった上空は、ほとんどが雲に覆われていて、東の空の端の方にわずかに雲の切れ目から日が差しているだけだった。

 寒いな、と思いながら、綱吉はゆっくりと歩道を歩く。
 故郷と違い、やたらと人の多いこの街では誰もが驚く程に足早で、ゆっくりと歩いている人間を気に止めようとする者はほとんどいない。
 他の通行人や自転車の邪魔にならないように、綱吉はテキストとレポートの資料の重みでずり下がるショルダーバッグの肩ベルトを時々引き上げながら、一歩一歩数えるように歩く。

 こうして歩いていると、いつも思うのが、昔はこうではなかった、ということだった。

 昔、といってもそれは十代ならではの大げささによる感覚で、実際のところは、ほんの二年と少し前のことだ。
 その頃の綱吉は、一人ではなかった。
 いつもいつも、こうして道を歩く時には隣に、あるいは前後に誰かがいた。
 しゃべりながら、騒ぎながら、夏にはアイスを、冬には肉まんを食べながら、声を上げて笑いながら歩いていた。
 そんな時間は、数えてみれば、たったの三年しか続かず。
 二年と少し前、ほんの一瞬の油断で、綱吉はその宝物のようなキラキラした時間を失くしてしまい、そしてまた、それ以前と同じ、一人の日々に戻ってしまったのだ。

「寒いなぁ……」
 小さく小さく呟いた声は、ひっそりと冬の空気に溶ける。
 暦の上では何日か前に立春を過ぎたはずなのに、ちっとも春の気配などない。年始に比べれば、日が落ちるのが遅くなったとは思うけれど、それだけだ。
 たまたま日当たりのいい場所にある梅の花が咲いているのは少し前に見たが、他の場所の梅は、まだまだ蕾は堅そうで、当分咲きそうにはなかった。
 春になったら、少しは色々と楽になるだろうか、と思いながら、綱吉はバッグを掛けていない方の肩を手のひらでそっとさする。
 冷え込むと、どうにも古傷がこわばるように軋んでうずく。
 傷跡は年々薄くなってきているのに、神経も筋肉も、そこに受けた傷を忘れようはとしないようで、まるで自分の心のようだ、と綱吉は自嘲せずにはいられなかった。

 今日は早めに入浴して温まろう、と思いながら、もう一度ショルダーバッグの肩ベルトを引き上げる。
 そうして足下を確かめるように、ゆっくりとした歩調で歩きながら、青信号の交差点を渡ろうと顔を上げた。

 そこで左方向にまなざしを向けたのは、何故だっただろう。
 あからさまな敵意や悪意のない視線を感じ取れる程、今の自分の感覚は鋭くない。
 なのに、普段ならさして周囲に目を向けない自分が、車道に足を踏み出す前に、ふと、そちらへとまなざしを向けた。

 どちらの方が、より驚いた顔をしていただろうか。
 あるいは、どちらの方がより、苦しそうな顔をしただろうか。

「……獄寺、君」

 口元だけの動きで、かぼそく名を呼んで。
 綱吉は無意識に、自分の右目を覆うように片手を挙げていた。

*     *

 ―――病院で意識を取り戻した時、最初に感じたのはうずくような右半身の痛みだった。

 痛みの出所は最初、良く分からなかった。
 最も痛むのが右目の当たり、次が右肩だと判別がついたのは、体の上に何かが乗っているような、あるいは内臓が鉛に変わってしまったような重苦しさに身動きしたからだった。
 そして、その全身を貫いた激痛がわずかに引いた時、「動いちゃ駄目!」という強い母親の声が聞こえて、やっと綱吉は、先程から母親が枕元にいて、何かを話しかけていたことに気付いた。
 母さん、と呼ぼうとして、初めて自分の口元が透明な樹脂製のマスクに覆われていること、そして、嗄れたように声が出ないことにも気付き、何故、とぼうっとした思考で考えている内に白衣を着た中年の男が枕元にやってきて、「この女の人が誰か分かるかい?」と母親を示したから、分かる、とうなずき、唇の小さな動きだけで「母さん」と呼ぶと、口元を細い手で覆った母親の目からぽろぽろと涙が零れ落ちた。
 ……意識が戻って一番最初の記憶で覚えているのは、それだけだ。
 何が起きたのかを思い出したのは、次に目覚めた時だった。

 一言で言うのなら、不運な事故だった。そして、別の見方をすれば、幸運だった。
 高校に入学して間もなかったその日、近い将来ボンゴレを継ぐ存在を消そうと猛スピードで突っ込んできたダンプカーを避け切れず、綱吉は命が危うくなる程の重傷を負ったのである。
 アスファルトに叩き付けられた右肩は鎖骨や右上腕骨ともども砕け、筋肉も酷い裂傷を負い。
 そして、側頭部の傷は、右目の視神経までに達していた。
 緊急に神経を繋ぐ外科手術が行われたそうだが、綺麗に切れた傷ではなかったために技術的な限界は天井が低く、綱吉の右目の視力はその後、体力の回復を待って再手術を受けても殆ど戻らなかった。
 今では、右目では光のうつろいがぼんやりと捕らえられる程度で、物の輪郭すら淡い影のようにしか分からない。
 無事だった左目も、単眼視の状態が長く続けばかかる負荷が重くなり、いずれは視力低下を招くだろうと医者に言われた日、綱吉は自分が、ボンゴレ十代目の候補から外されたことを家庭教師と父親から教えられた。

 右目は回復を見込めなくとも、まだ左目で物を見ることはできるし、まだ十五歳だったのだから筋力もトレーニング次第で、ある程度までは元の動きを取り戻せる。
 ゆえに、綱吉が十代目候補から外れたのは、裏社会において絶対に必要である強さが理由ではなかった。
 九代目と門外顧問である父親、そして家庭教師が案じたのは、綱吉の身の安全と、母親の奈々の安心だった。
 息子が死にかけて平静でいられる母親はいない。
 そして、大切な大切な子供が死にかけて平然としていられる、男親たちも。
 事故前の綱吉の戦闘力は、最強の名をほしいままにした初代すら超えるかと思われるレベルにあったが、右半分に大きな死角を持つようになった今、これまでような鋭敏な戦い方は難しい。
 それはつまり、綱吉単身では身の安全が図れなくなるということで、彼等はそれを恐れたのだ。

 裏社会で生きる者にとっては、最初から死は近い位置にある。
 だが、それがよりいっそう近い位置に寄ってきた綱吉を、そのままボンゴレ十代目とするか。
 それとも、いっそのことファミリーの未来よりも綱吉の身の安全と幸せを考えて、表の世界に返すか。
 究極の選択を前にして、苦渋の決断をしたのは九代目だった。
 そして、残る二人もそれには逆らわなかった。

 綱吉の退院と同時に、ボンゴレリングは守護者のものを含めて九代目に返還され、その後、家庭教師も去って行った。
 最後の日に家庭教師が、新たな十代目の候補として、九代目の父親の従姉の血筋に当たる人物が立ったと教えてくれたが、それが、ボンゴレのことはもう心配するなという意味だったのか、ボンゴレのことは忘れろという意味だったのか、未だに綱吉には分からない。
 いずれにせよ、そんな経緯で綱吉はボンゴレの十代目ではなくなった。
 十代目にならなかったのではない。
 沢田綱吉は、ボンゴレ十代目にはなれなかったのだ。

*     *

 十代目、と動きかけた、獄寺の唇が止まる。
 そうと分かったのは、十代目と自分を呼んでいた時の彼を、今もまだ良く覚えていたからだった。
 横断歩道の手前で立ち止まっている間に、歩行者用の青信号は点滅し始めて、程なく赤に変わってしまう。
 だが、綱吉はもう、その車道を渡ろうとはしなかった。
 体の向きを変えて、新たに信号が青に変わった横方向の横断歩道へと向かう。
 二年余りの月日で単眼視の距離感には慣れたが、死角が大きいことには変わりなく、いつでも見えないことによる危険は付きまとっている。それでも、せいいっぱいの小走りで近付いた。
 そうでもしなければ、彼が消えてしまうのではないかという気がしたのだ。
 そして、おそらくそれは気のせいではなかったのだろう。

「獄寺君!」

 獄寺の革靴を履いた足が、自分とは正反対の方向に向きを変えようとするのを視界に捉えた瞬間、綱吉は反射的に彼の名を呼んでいた。
 途端に、びくりと獄寺の動きが止まる。
 そして、相変わらず忠実な飼い犬のように、自分が近付くのを待つ獄寺の姿に、ずきりと胸が痛んだ。

 やっと横断歩道を渡り終えて、歩道の端で向かい合う。
 背が伸びた、と思った。
 自分も高校を卒業するまでに人並みを超えるくらいには伸びたのに、獄寺の目線との差は、あの頃と殆ど変わりがない。
 向かい合った時の感じだけでなく、銀緑色の瞳も、薄日に光る銀灰色の髪も、何も変わりはなかった。
 顔立ちは二年分、大人びている。体つきも、あの頃よりも遥かにがっちりと力強さを増している。
 だが、違うのはそれだけだった。




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