I am. 01

 峠に差し掛かった所で、稜線の向こうに煙が立ち上るのが見えた。
 煙が一筋というレベルではない。激しく濃灰と灰白の入り交じった煙が渦を巻き、真っ青な青空へとさかのぼってゆく。
 それを目の当たりにした瞬間、隼人は車のブレーキを踏んでいた。
 日射し避けのサングラスを外し、眉をきつくしかめてフロントガラス越しにその煙を睨んだ後、再びアクセルを踏んで、今度は先程までのわずかにハンドル操作を誤れば谷底に転落するようなスピードではなく、牽引車のような速度で頂きまでのわずかな距離を登る。
 そして峠の一番上、周囲を睥倪することのできる開けた路肩に車を寄せて止め、車を降りた。
 荒いアスファルト舗装は一歩歩くごとに、じゃり、と耳障りな音を立てる。
 車から数歩、道の端に寄ると、峠の向こうの盆地が一望できる。猛烈な煙はそこから立ち上っていた。

 ―――燃えているのは、城だった。

 ここからはまだかなりの距離のある、盆地のやや西寄りの森の中。そこにそびえ立つ城が燃えている。
 遠目にも中世の城塞が近世に至って改築されたのが分かる城壁の、窓という窓から煙が吹き出し、あらゆる濃淡の灰色が入り交じるその煙の奥に、時折赤い炎が揺らめき、巻き上がる。
 その様を、隼人は言葉もなく見つめた。
 あの城に向かうつもりで、この荒れた山道に車を乗り入れ、ここまで来た。
 だが、今から向かっても、もう間に合わないだろう。ここからでは、まだ二時間以上の道程がある。城の全てが焼け落ちるにはもうしばらくかかるだろうが、いずれにしても間に合いはしない。
 吹き上げる煙が渦を巻いて伝説の悪竜のように城に絡み付き、赤い炎が城壁を舐め上げる。
 その無惨な光景を眺めながら、無意識のうちに隼人は手のひらを握りしめていた。
 痛みとも喪失感ともつかない、虚脱感というには激し過ぎる感情が腹の底から思いがけず込み上げる。それをこらえるには、手を握りしめ、歯を食いしばるしかなかった。
「なんで……」
 どうしてこんなことになったのか。
 経緯はおおまかにではあっても把握しているはずなのに、何故、という思いが沸き起こる。
 いつかこうなることは分かっていた。
 分かっていて、何の手も打たなかった。一つの言葉も届けなかった。
 そんなことをしてやる義理はないと、一年余りも前から思い続けていたのに。
 なのに、自分は今朝、夜明け前に車に飛び乗って、ここまで来た。
 何故、ここまで来てしまったのか。
 何故、今さらこんなにもやりきれない、悔しさに似た憤怒が込み上げるのか。
 ぎり、と歯を噛み締めて、炎の中に崩れ去ろうとしている城をただ見つめる。見つめることしかできなかった。


 ―――数時間後、黄昏の薄闇の中で炎はわずかにちらちらと赤くゆらめくばかりになった。
 城は燃え尽き、これ以上ここにいる意味はない。
 何時間も立ち尽くしてこわばったようになった膝の関節の感覚を確かめながら、路傍の砂利を踏んで愛車に戻る。
 運転席のシートに身を沈め、シートベルトを締めてエンジンをかけ。
 そして、車をUターンさせ、発進する間際にちらりと薄闇の向こうを透かし見た。
 ―――それが、生まれ育った家を隼人が目にした最後だった。

*     *

 初めて訪れたボンゴレの総本部は、壮大な城だった。
 城塞建築というよりも宮殿建築と呼ぶ方がふさわしく思える館は、リバティ様式の左右対称の両翼を持つ壮麗な本館と、複数の別棟や塔から成り立っている。
 そんな外観もとてつもなかったが、内部はいっそう華麗だった。
 隅々まで設計家の意図が行き渡り、熟練の極みとも呼ぶべき職人達の技術が至る所に光っている。
 その美しい建築の随所に名画や彫刻、美しい彩色を施された陶磁器が飾られ、それでいて良く調和を保ち、決して悪趣味には陥っていない。
 それはまるで、遡れば中世シチリア王国の名門貴族にたどりつくというボンゴレの血統の良さと洗練を無言の内に示しているかのようだった。
「――静かだな。多少は緊張してんのか?」
 美しい装飾手摺りのついた長い階段を上へ上へと先導していた男が、不意に低い声を響かせてくる。
 隼人はかなり背が高い方だったが、その男は更に数センチ、背が高かった。
 上背ばかりでなく、その内側に秘められた凄みも尋常ではない。
 隼人は五日前に初めてこの男と向き合った時、全身ばかりでなく魂までもが緊張に冷たくこわばるのを感じた。
 あの数分間に寿命が十年縮まったと言われても、決して驚きはしない。
 そんな相手であるから、答えを返すにもかなりの緊張が伴った。
「……緊張するなという方が無理でしょう」
 当たり障りない、実のところ丸っきり本音を口にすると、男はふんと鼻で笑った。
「案外、肝が小せえな。――着いたぜ、この部屋だ」
 言葉と同時に男の足が止まり、つられるように隼人も足を止める。
 見れば、目の前の巨大かつ重厚な木の扉には、真鍮でかたどられた紋章が燦然と輝いていた。
 二本の古い様式の小銃が、銃弾を描いた盾を囲んでいる壮麗な図柄。裏世界で呼吸をしている者ならば知らぬ者とてない、大ボンゴレの紋章である。
 この扉の向こうに、と思った途端、緊張とも何とも付かない感情が込み上げ、背筋を駆け抜ける。
 だが、そんな隼人に構わず、男は扉をノックした。
「俺だ。入るぞ」
 そんなぞんざいな言葉と共に、無造作にドアを開く。
 外に向かって大きく開け放たれたドアを、隼人も男に続いてくぐる。
 と、そこは床の石材がむき出しの廊下とは違い、分厚い手織りじゅうたんが革靴の靴底をやわらかく受け止める広い空間だった。
「連れてきたぞ」
「ご苦労様、リボーン。――君が、ルッジェーロ・ジェンツィアーナ?」
 男の声に答えて部屋の奥から聞こえてきたのは、意外なほど若く、やわらかな声だった。
 予想外のその声に思わず目を向けると、南向きの大きな窓を背にして、巨大なデスクの向こう側にその声の持ち主は居た。



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