※この作品はR18指定です。
 18歳未満及び高校生以下の生徒児童の閲覧は、厳しく禁止いたします。

Il fiore 〔花〕

 真紅の8Cコンペティツィオーネがなめらかに止まり、その猛々しいエンジン音を消したのは、パレルモの市街地から二十キロほど離れた田園地帯だった。
 緩やかな傾斜地の続く風景の中、丘陵はいずれも濃くなりつつある緑と色とりどりの花で彩られている。
 それらの丘陵を縫って走る田舎道の端に寄せて止められた車から外へ出た途端、甘い香りが微風と共に押し寄せる。オレンジの花の香りだと、獄寺はすぐに気付いた。
「本当は、もう少し前のアーモンドの花の時期の方が見ごたえがあったと思うんですけど」
「それは仕方ないよ。二月は忙しくて、花見どころじゃなかったし」
 少し歩こう、と綱吉は笑って、丘陵地の踏み分け道へと足を踏み入れる。
 大地は膝丈くらいの草で覆われ、そして一面の花が咲いている。
 黄色いキンポウゲ科かと思われる花が一番目立つが、その間には薄紅、濃桃、白、赤、臙脂、菫紫といった艶やかな色合いも混じっていて、まさに天上の花園のような美しさだった。
「屋敷の庭も好きだけど、やっぱり外の方がいいよね」
「はい。俺もこっちの方が断然、好きですよ」
 ボンゴレ総本部の広大な庭園は、どちらかというと『自然』であることに重きを置いて手入れがされているため、たとえばフランス庭園のような幾何学性や規則性はない。が、あくまでも塀の中の人工空間であり、どれほど鬱蒼と木立が茂っていても一抹の閉塞感がぬぐえないのだ。
 静かで綺麗で、何の危険もない。
 咲き誇る花や鳥の声、せせらぎの水音が、執務の合間の安らぎに役立っていないわけではなかったが、それだけでは足りないと綱吉が感じる気持ちは、塀に囲まれた広大な城で生まれ育った獄寺にはよく理解できた。
「葡萄畑とオレンジ畑の間に、こういう自然のままの丘が残ってるってことは、俺の御先祖様も同じことを思ってたのかな? どう思う?」
「はい、きっとそうです。周りは全部農地なのに、ここ一帯だけ手付かずというのは、どう考えても不自然ですから」
 手入れされた庭園は美しい。
 だが、人の手の入っていない自然の丘も美しい。
 どちらを好むかは人それぞれであり、そして歴代のボンゴレ当主はシチリアという島そのものを深く愛してきた。その答えが、この手付かずのままの丘なのだろうと獄寺が告げると、綱吉は笑ってうなずく。
「こういう場所があることに、御先祖様には感謝しないといけないよね」
 降り注ぐ午後の日差しに目を細め、曲がりくねった細い踏み分け道を頂上目指して昇る。
 さほどの急斜面でもないし、さほど高さのある丘でもない。程なく二人は丘の天辺に辿り着いた。
「風が気持ちいいね」
 昼間は後背の山地から、夜は海からの風が届く丘には、いつでも心地よい風が吹いている。
 そして目の前に広がるのは、幾つもの丘を連ねて広がる葡萄、オレンジ、オリーブ、アーモンドの果樹園だった。色合いの違う緑がどこまでも輝き、その向こうには遠くパレルモの市街地と地中海が見える。
 その美しい風景に、綱吉と獄寺は言葉もなく見惚れた。
 丘の一番上にも自生のオレンジが大きく枝を広げ、白い花をいっぱいにつけている。その香りと、足元に咲く濃いピンクのスイートピーの甘い香り、丘を埋め尽くす花の香りが入り混じった丘を吹き渡る風の心地よい甘さに、不意に酔いそうだと獄寺は思う。
 ここが自分の故郷なのだと、らしくもなくそんな思いを感じた時、左腕に重みとぬくもりを感じた。
「沢田さん?」
 名を呼ぶと、体を寄せてきていた綱吉の右手が、獄寺の左手にそっと触れる。
 そして綱吉は、丘の向こうの風景を見つめたまま言った。
「ねえ隼人。俺はね、イタリアに来たことを後悔したことなんて一度もないんだ。今だって……この風景を見るたびに思う。ここに来て良かったって。ここが俺の生きるべき場所なんだって」
「……沢田さん」
 綱吉の瞳は、本当に愛しいものを見つめている時の深い色合いに輝いていた。
 目に映る全てを抱き込みたいと願っている時の、切ないほどのまなざし。その色を、獄寺は良く知っていた。
 ゆっくりと、その瞳のまま綱吉は獄寺を見上げる。
「今ここで、君が一緒で良かった」
「え……?」
 思わず獄寺が問うような声を零すと、綱吉は微笑んだ。
「だって、一人でこの風景を見たんだったら、きっと綺麗だと思いながらも、俺は寂しかったと思うから。君と一緒に見たかったと思ったはずだから。……君が居てくれて、良かった」
「────」
 獄寺は、咄嗟に声が出なかった。綱吉が今、差し出してくれたのは、それほどに美しい、尊い言葉として獄寺の心の深い部分に響いた。
 見つからない言葉の変わりに、繋いでいた手に力を込める。大切な大切な手が痛くならない程度に、優しく包み込むように。
「沢田さん……綱吉さん」
「うん」
 下の名前を呼ぶと、綱吉の瞳が嬉しげに細められる。
 それが嬉しくて、獄寺は開いている右手を上げ、そっと綱吉の頬に触れた。
「大好きです。愛してます。俺の方こそ、あなたと一緒に居られて本当に嬉しい」
 うん、という綱吉の返事は、重ねられた唇の間に消える。
 ゆっくりと触れ合って、ただ相手のぬくもりとやわらかさを感じる。それから一旦離れて目を開け、互いを見つめながらついばむようなキスを繰り返し、もう一度目を閉じて深く口接けた。
 片手は繋いだまま、もう一方の手で相手を引き寄せ、抱き寄せる。
 やわらかく舌を絡み合わせる心地良さも、歯列や顎裏を舌先でなぞられた時のぞくりとするような快感も、何物にも変えがたくて、ひたすらにもっと近くにと相手を望む。
 もっともっと近づいて、相手も自分もないくらいに溶け合って───…。
「…っ、ん……」
 こらえきれずに零れた綱吉のくぐもった甘い響きを肌越しに感じ、獄寺は今ここでこれ以上は駄目だと身を引いた。
 離れる間際に、濡れて腫れぼったくなった下唇に軽く歯を立てたのは、このまま喰らい尽くしてしまいたい衝動を押さえ込んだ、せめてもの意思表示だった。
 長い長いキスが終わると、綱吉は脱力と甘えがないまぜになった仕草で獄寺の胸に体重を預けてくる。
 頬に当たるふわふわのやわらかな髪を軽くついばみながら、獄寺は細い身体をゆるく抱き締めた。
「……帰りますか?」
「うん」
 問いかけると、ためらいのない答えが返ってくる。
 それじゃあ、と獄寺は綱吉の背に回していた腕を下ろした。綱吉もまた、顔を上げて獄寺から半歩分、離れる。
 それでも繋いだ手だけは、どちらも解こうとはせず、二人は瞳を見交わして小さく微笑んだ。
「行こうか」
「はい」
 風の音と鳥のさえずり、羽虫の羽音、一面の甘い花の香り。
 雲ひとつない青空と、眩しい日差し。
 そんな美しいもので満ちた丘を、手を繋いだままゆっくりと二人は車を停めた場所まで下りていった。



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