Primavera 〔春〕

 復活祭を過ぎると、途端に空の青さが一段と増す。
 冬の間、ぐずぐずと続いていた天候不順が落ち着き、雲一つない青空から降り注ぐ日差しは、早くも夏を予感させる透明さと眩(まばゆ)さに満ちている。
 その中を、獄寺は急ぎ足で歩いていた。
 表通りから少し入った旧市街の石畳の道は、乾き、革靴の歩みに従ってこつこつと調子良い音を奏でる。
 市民生活の中心であるバッラロ市場が近いせいだろう。さほど広くもない道を行き交う人も多く、犬や猫も時折、路地を横切ってゆく。
 人々の生活する音、賑わい、足音。
 そんなものが混然となった路地を、獄寺は油断なく気を配りながら歩く。
 内ポケットの携帯電話は静かなままだし、ここしばらくは物騒なことは何も起きていない。ゆえに過剰な緊張は不要だったが、それでも身に染み付いた、隙を見せることは死に直結するという感覚が薄らぐことはない。
 あと三分、と目的地までの到着時間を予測しながら、獄寺は神経を最大限に尖らせて、周囲の気配を探った。
 ───誰も付けてきてはいない。
 ───誰も自分を見てはいない。
 大丈夫だ、と心の中で一人ごちる。
 このまま真っ直ぐに目的地に向かっても、取り立てて危険なことはないだろう。
 それは獄寺にとっては喜ばしい話だった。
 待ち合わせの時間に遅れているわけではないが、これ以上、あの人を待たせずにすむ。自分も待たずにすむ。
 そう思い、そして、このまま何事も起きないようにと祈った。
 誰も厄介事を運んでくるんじゃねえ。十代目が無事にそこに居てくれますように。
 そればかりを繰り返し心の中で唱えながら、獄寺は道を急ぐ。もちろん、心の大部分は周囲に向けて警戒を張り続けることは忘れない。
 そして、最後の曲がり角を曲がる前に、もう一度だけ振り返らないまま背後の気配を探った。
 ───大丈夫だ。
 誰も自分を見ていない──訳ではない。
 ダークグレーの仕立ての良いスーツに、しなやかな素材のスプリングコートを羽織った背の高い青年に対する好奇心や賞賛のまなざしは、幾つも感じる。が、そんなものは最初から計算には入れていないから、数えない。
 獄寺が気にするのは、敵の気配だけだ。
 だが、そんな敵意は何も感じない。何ということはない街の、人々の賑わい。それだけを感じて獄寺は、足を真っ直ぐ前に進める。
 そして、その通りの先、道幅が広くなり小さな広場のようになった場所に面して店を開けているカフェの店先に、目を細めて視線を走らせた。
 ───居た!
 見つけた瞬間、思わず早足が小走りになる。
 屋外席というより広場に大きくはみ出たテーブルの一つで、綱吉はテーブルに肘をついて両手の指を軽く組み、そこに顎を乗せて、広場を行き交い、あるいは立ち話し、あるいはベンチに腰掛けている人々を楽しげに見つめている。
 そのまなざしが、獄寺が駆け出した途端に、気付いたようにこちらへと向けられた。
 獄寺の姿を捉え、もとより楽しげだったまなざしがぱっと明るくなり、表情が花が咲いたような笑顔に変わる。
「お待たせしました、沢田さん」
 そのテーブルに辿り着いた時には、獄寺も完全な笑顔になっていた。
「ううん、待たされてないよ。俺もさっき着いたとこだもん」
 チョコラータもまだ冷めてない、と自分の前にあるカップを指差す。
 確かにまだ半分以上がカップに残っている濃厚な色合いの飲み物からは、ふんわりとほのかな湯気が立ち昇り、揺らめいていた。
「隼人も座ったら?」
「はい」
 勧められるままに同じテーブルの椅子に腰を下ろすと、不意に肩に春の日差しを強く感じる。
 広場にはみ出たカフェのテーブルは当然、テント屋根も何もなく、春というには少々眩しすぎるシチリアの陽光を遮るものは、せいぜいが建物や樹木の陰くらいだが、綱吉が取っていた席はそれらすらもない全くの日向だった。
 綱吉がスプリングコートを脱ぎ、隣の椅子の背にかけている理由が分かったと思いながら、獄寺は注文を取りに来た給仕にグラッパを加えたカフェ・コレットを頼む。
 エスプレッソを一杯飲む程度の時間なら、わざわざコートを脱ぐまでもない。テーブルの上で両手の指を組みながら、獄寺は隣りでチョコラータの濃厚な甘さを楽しんでいる綱吉を見つめた。
「今ここで、報告をするのはまずいですかね?」
「んー。別にまずくないんじゃない? そういう言い方するってことは、何も問題は無かったんだろ?」
「はい。話を聞いてみれば何のことも無い、単なる親子喧嘩でした」
「やっぱりなー。アンジェリカはやることなすこと、過激だもんな。どうせニコラとの交際をドン・カルロが認めてくれないとか、そんな話だっただろ?」
「その通りです。来週のパーティーのエスコート役をニコラがするのを許してくれないとかで、アンジェリカが癇癪を起こしたのが、きっかけだったようです。で、腹いせに父親に強烈な下剤を一服盛って……」
「娘に負けず劣らず過激な父親が、どこかのファミリーが毒殺を仕掛けてきたと勘違いして騒いだってことだね。悪かったね、隼人。変な仲裁役を押しつけて」
「いえ、ドン・カルロも頑固なクソ親父ですからね。昔っから知ってる俺が行くのが一番、手っ取り早いんですよ。頭に血が上った時のあのタコ親父は、十代目が直々にお言葉をかけたって聞きやしませんから」
「……まあ、茹蛸みたいになった時のドン・カルロを怒鳴りつけても平気なのは君くらいだよね。アンジェリカも君の言うことなら聞くし」
 そう言って綱吉は言葉を切り、少しばかり意味ありげな微笑で獄寺を見つめた。
 こういう表情をした時の綱吉は、ひどく綺麗に見える。やましいことは何一つ無いものの、少しばかりどぎまぎしながら獄寺は綱吉の深い琥珀色の瞳を見つめ返した。
「ドン・カルロには、いい加減ニコラを認めてやれって言っておきましたよ。ファミリーの会計係上がりで腕っ節は立たなくても、アンジェリカのことは本気で惚れ込んでますし、数字には強い。少なくともカラマーロの表向きの商売については、ニコラは任せるに足る男だろうと」
「それから?」
「────」
 まさか突っ込まれるとは思わなかった獄寺は、思わず綱吉の顔を見つめる。
 綱吉は片頬杖をついて、獄寺を見ていた。口元も瞳も楽しげに笑んでいる。全てを見透かしていて、それでも答えを聞きたがっている。そんな表情だった。
 獄寺は軽く咳払いし、仕方がないと腹をくくる。
 自分の切った啖呵を再現するほど気恥ずかしいことは無い。が、世界でただ一人の大切な人に求められたら、拒めるはずがなかった。
「──俺は一生をボンゴレの十代目に捧げるつもりだから、嫁さんをもらう気もないし、どっかのファミリーに婿入りする気もない。とっとと諦めろとはドン・カルロに言っておきました」
「よくできました」
 獄寺が一時間ほど前に口にした自分の台詞を、少しばかりソフトな言い回しにして再現すると、綱吉は更ににっこりと笑む。
「ドン・カルロもお気の毒に。でも、俺からすると、君ってボス向きの性格はしてないと思うんだけどねえ」
 綱吉の溜息と笑いが半々の感想に、獄寺も深々と溜息をついた。
「まったくもって向いてませんよ。だから、あのタコ親父は駄目なんです。アンジェリカの方がよっぽどボス向きですよ。自分の好みと、自分に足りないものをちゃんと考え合わせて、ニコラを選んだんですから」
「まあ、ドン・カルロはいけいけの武闘派だからね。君くらいに過激なタイプの方が、自分の跡継ぎにふさわしいように思えるんだろうな。
 でも、父親そっくりのいけいけのアンジェリカと君との組み合わせじゃ、あっという間に炎上・大爆発して、カラマーロは終わりになっちゃう気がするよ」
「俺も同感です」

 ボンゴレの同盟ファミリーの中でも大きいカラマーロのボス、ドン・カルロは獄寺の父親の馴染みで、獄寺にしても幼少時からの知り合いだった。当然、アンジェリカも幼馴染に当たる。
 子供の頃のやんちゃ過ぎる獄寺を見ては、あんな息子が欲しいと獄寺の父親にこぼしていたドン・カルロは、やがて獄寺の父親が破産し、ファミリーも解散に至ってからというもの、露骨に獄寺を一人娘の婿養子に欲しいと公言するようになった。
 しかし、当の獄寺は下町を放浪した挙句に、ボンゴレに入って日本に渡ってしまったため、そんな話は知っていても知ったことじゃないという気分だったのだが、綱吉の十代目就任に伴ってイタリアに戻った途端、ドン・カルロの養子熱が再燃したらしく、事あるごとに声をかけてくるようになったのである。
 一方、美しく成長していたアンジェリカも、獄寺が帰国した当初は、獄寺の容姿を見てまんざらではない様子を漂わせていたのだが、もともとが女王様気質であるため、獄寺の素っ気なさに早々に見切りをつけ、自分を女神の如く崇めてくれる男──但し、父親の好みではない──を選んだのだ。
 そんなこんなの事情により、現在の獄寺は、何としてもニコラと結婚しようと決意しているアンジェリカに対父親用の最終兵器として、時折こんな風に担ぎ出される羽目になっていた。
 獄寺自身としてもそんな役回りは嫌なのだが、何しろドン・カルロがタコ親父の頑固親父のカミナリ親父で、娘のアンジェラを除いては彼に意見をできる人間が、獄寺とドン・ボンゴレ、つまり九代目と十代目しかいないのである。
 とてもではないが九代目や十代目にそんな真似はさせられず、結局、渋々ながら獄寺は何かあるたびに、仲裁役としてパレルモ市内のカラマーロ屋敷に出向くのが、ここ数年の通例になっていた。



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