Complesso di superiorita 〔優越感〕

「――?」
 執務卓で書類を読み進めていた綱吉は、その半ばまで来たところで小さく眉をしかめ、首をかしげた。
 そのまま二枚、三枚とページを戻り、数字や本文を照らし合わせてまた首をかしげる。
「数字は……合ってる」
 それは当然のことだった。
 綱吉が目を通す書類は全て、秘書室を通過している。そこを統括する『彼』が整合性のない数字を上げてくることなど、決して有り得ない。
「説明の辻褄も、合ってる」
 それもまた、当然だった。
 綱吉をサポートする秘書室の実務能力は、ほぼ完璧といっていい。彼等が凡ミスをすることは、パレルモに雪が降る確率とほぼ等しいレベルにある。
 けれど。
「――駄目だ。やっぱり納得できない」
 計二十枚程ある書類を最初から最後まで、一言一句もらさないようじっくりと目を通した後、小さな嘆息とともに呟いて、綱吉は立ち上がった。





「ごめん、邪魔するよ」
 利便性重視で開け放たれたままのドアを綱吉がノックすると、室内の視線がざっと綱吉に集中した。
「十代目!」
 室内には約二十人の男が若いのから年輩までおり、皆それぞれにオーダースーツをダンディーに装っているが、男ばかりという辺りで綱吉的には既にアウトである。
 秘書室なのに、なんで綺麗可愛い女の子がいないかな、と平凡な男なら誰でも思うことを考えながら、綱吉はデスクの間の通路を真っ直ぐに抜けて、一番奥、綱吉の姿を認めた瞬間に立ち上がった男の所まで歩み寄った。
 その男――獄寺はデスク仕事用の眼鏡をかけたままで、ハーフフレームの洒落たデザインがよく似合っている。
 綱吉も一応男であり、見る分には、綺麗で可愛い格好をした女の子の方がスーツ姿の男どもより断然に華やかでいいに決まっているが、彼は特別だった。
 ぴったりに採寸され、極上の生地を熟練の職人の手によって仕立てられた何の飾り気もないダークスーツが、女性のカクテルドレスよりも艶やかに見える。
 そのことに何ともいえない満足を覚えて、綱吉はにっこりと笑んだ。
「どうかされましたか? 何か……」
 綱吉が秘書室まで出向くことは皆無ではないにせよ、頻繁にあることではない。
 緊急の事態かと神経を尖らせる獄寺のまなざしは鋭く、眉間にはお決まりのように険しい皺が刻まれている。
 人目が無ければ、心配しないでいいよ、とその皺を指先で撫でて伸ばしてあげられるのにと思いながら、綱吉は手にしていた書類を掲げてみせた。
「うん。今日の午前中に回ってきたこの書類なんだけど」
「はい」
 大きなデスクを回り込んだ綱吉から書類を受け取り、獄寺は文面に目を走らせる。
 その様子を眺めながら、綱吉は指先で、書類の表面をとんとんと軽く突いた。
「良くできてる。いい企画だと思うよ。ここに書いてある通りに、マグロの加工工場が稼働すれば、あの島にも単に魚を取って売るだけの漁業以外の地場産業が生まれることになる」
「はい。俺もそう思いましたから、企画を通しました」
「うん。――でも駄目。もう一度調べ直して。最初から」
 綱吉の声は、獄寺一人に聞かせる大きさではなかった。
 ざわっと秘書室全体が低くざわめく。だが、綱吉はそちらには目もくれずに続けた。
「本当に良くできてる。どこにも矛盾はないし、数字も全部妥当だと思う。でも、何かおかしい。この書類に俺はサインできない」
 サインできない、と綱吉が言い切ることは、滅多にあることではない。そうと知っているからこそ、秘書室の面々も更にどよめく。
 ボンゴレ十代目が、右腕とその部下を全面的に信頼していることは明らかであり、彼等が決裁を求めた書類を頭ごなしに否定することは、これまでに数えられる程しかない。
 だが、綱吉はどんな書類であれ、秘書室が通したからといって読みもせずにサインをすることは決してしない。いつでも、サインをするのは彼自身の意志――彼が許可した事柄のみだけなのだ。
 そして今日、滅多にない綱吉の不裁可の認定が下ったのである。
 その重みを分かっているからこそ、秘書官達はどよめき、獄寺もまた表情をいっそう険しくした。
「分かりました。ただちにやります」
「うん。それで、手間をかけさせて悪いけど、この件は企画を出してきた第二企画室も関係部署も通さずに、再チェックをかけて欲しい。絶対に信頼を置けるメンバーだけを使って」
「はい」
 綱吉の要請に獄寺は即座にうなずいて立ち上がり、鋭い声で「ファビオ!」と部下の名を呼んだ。
「聞いていたな? 今の手持ちの仕事を俺に回して、すぐにこのペッツォーリ島の件にかかれ。ジュリアーノとニコロ、お前たちはファビオのサポートだ。二人の手持ちの仕事は、アンドレアとジョルジョ、レオナルドで片付けろ。お前たちだけで間に合わない時は、俺に回せ」
「Si!」
 複数の小気味良い返事が返り、一斉に男たちが動きだす。
 その様子を一秒ばかり眺めてから、獄寺は綱吉を振り返った。
「一週間の猶予を下さい。その間に必ず真実を見つけ出します」
「うん。ごめんね、余計な仕事を増やして」
「とんでもありません。この企画を通した俺のミスです」
「まだ決まったわけじゃないよ。俺が間違ってるだけかもしれないし」
「いいえ、十代目が間違えることなんて有り得ません」
 熱心すぎる程に熱のこもった声で、獄寺は訴える。その眼鏡のレンズ越しの瞳を真っ直ぐに見つめ返し、綱吉はふっと微笑んだ。
「君がそう思ってくれるのは嬉しいけど。――とにかく頼むね。何かある気がして仕方がないんだ」
「分かりました。お任せ下さい」
「うん。ありがとう、隼人」
 最後に名を呼んだ声にひそむ甘さに気付いたのは、よほど耳のいい者だけだろう。そして、秘書室内は数分前から戦場と化しており、それに気付いた様子の者はなかった。
 だが、しかし。
「はい、十代目」
 間の悪い幾人かが、綱吉の声は聞こえなくとも、それに答える獄寺の笑顔を見てしまったらしい。先程とはまた質の異なるどよめきが、広い室内に波紋を起こす。
 割合に耳のいい綱吉の聴覚には、『獄寺さんが笑った……! 俺、今日が寿命かも……!』だの『幻覚見えちまった! 休暇取らなきゃ……って取れるわけねー!』だの不穏極まりない悲鳴が届くが、肝心の獄寺の全神経は目の前の綱吉に集中しているらしく、恐慌状態の部下達を顧みようともしなかった。
 いつもの凶悪な目つきはどこへやら、トレードマークの眉間の皺すら綺麗に消えた温かな微笑で、綱吉の手を取り、うやうやしく恭順のキスを手の甲に落とす。
「結果が出次第、ご報告に上がります」
「うん」
 綱吉はうなずき、顔を上げた獄寺にもう一度やわらかな笑みを向けてから、それじゃあ、ときびすを返した。
「俺は執務室に戻るから。皆もごめんね、仕事の邪魔をした上に仕事を増やして」
「構いませんよ。十代目のために身を粉にして働くのがこいつらの使命です」
「かもしれないけど。でも、冬のボーナスは期待してくれていいよ。ちゃんと査定してるから」
「十代目、こいつらにそんなお優しい言葉をかけられる必要なんかありません。馬鹿は甘やかすとつけあがります」
「君の部下に馬鹿なんていないだろ?」
「いいえ、とんでもありません……!」
「はい、そこまで」
 それ以上言ったら駄目、と綱吉が右手で獄寺の口を塞ぐ。
 このまま喋らせたら、獄寺はとうとうと部下達の欠点やミスを一人一人の実名を挙げて語り続ける。そして、それを聞かされた部下達は、どんなにささやかなミスですら忘却してくれない上司の記憶力と、ボーナス査定を口にした直後のボスの前でそれを語る非情さに涙するだろう。
 これから大仕事が待っているというのに、最前線の兵士達にそんな形で戦意を喪失されてはたまらない。
 だから、綱吉は獄寺に『君の言いたいことは全部俺は分かってるから』と言わんばかりの甘やかな笑顔を見せ、振り返って、獄寺の部下達には『この上司の言うことは気にしなくていいから』という慈愛と理解に満ちた笑みを向けた。
「とにかく、厄介事を持ち込んで悪いけど、頼んだよ。隼人も皆も」
「「はい!」」
 獄寺も部下達も、ボス直々の激励に異口同音に応じる。
 そして綱吉は、獄寺と、その地獄の鬼よりも苛烈な上司を手のひらで転がすボスに尊敬のまなざしを注ぐ秘書官達の感激に満ちた見送りを受けて、秘書室を後にした。



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