狼たちの挽歌

「今夜はありがとう。気をつけて帰ってね」
 沢田家の玄関先でそう告げた綱吉の目元は、門灯でそうと分かるほどにまだうっすらと赤らんでいた。
「また明日の朝、お迎えに上がります。今夜はゆっくり休んで下さい」
「うん」
 少しだけ悲しげに微笑んで、綱吉はうなずく。
 その自分よりも一回り以上細い肩を抱き締めたくなる衝動を、獄寺は左手を軽く握り締めることでひっそりと押し殺した。
「それじゃ、おやすみなさい。十代目」
「おやすみなさい」
 頭を一度下げてから玄関先を離れる獄寺を、綱吉は一番最初の曲がり角まで見送ってくれる。
 そうと分かっていたから、獄寺はその角を曲がる寸前に肩越しに振り返り、小さな会釈と笑みを送って、次の街路灯の作る光の輪に足を踏み入れた。
 歩きながら取り出した煙草に火をつけ、深く吸い込んでから吐き出す。ゆらりと立ち昇って消える煙を目で追いながら、もう一度溜息のように小さく息をつく。
「───…」
 十代目、と呟いた声は、声にはならなかった。
 ──標準より背丈はあるのに、標準より少しだけ薄い肩は、しかし華奢というよりも綺麗さだけを印象に残す。
 深い琥珀色の瞳は何も見通しているかのように透明で、けれど今夜は、目の縁(ふち)が赤らんでいるのがどうにも悲しげで、零れ落ちていった涙が胸に痛くてたまらなかった。
 誰よりも綺麗で、強くて、優しい人。
 けれど、今夜は悲しみに打ちひしがれて、彼自身を責めているように見えた。
 何一つ、彼の責ではないのに。
 自分たちはただ、選んだだけだったのに、その決断をも背負って立とうとする彼は、とても綺麗で、悲しげで。
 ───だから。
 その細い肩を抱きしめたいと思った。
 強く優しく包み込んで、あなたが苦しむ必要などないんですと告げたかった。
 けれど、それは許されることではなく。
 彼もまた、そんなことを望んでいるようには見えなかった。
 そして、その場にいた二人のどちらの手を借りることもなく全てを背負い、目元に赤らみを残したまま、いつもの温かな笑みで山本に手を振り、獄寺を見送った。
 今日という日の最後まで彼は完璧なボスで、その間に、自分にできたことといえば。
「……でくの棒みてーに、そこにいただけ、か」
 ボスにただ付き従った、それだけ。
 彼が葛藤し、涙を零す間すら、何一つできはしなかった。
「あの人が……泣いていたのに」
 先刻のファミリーレストランの隅の席で、綱吉が涙を零した瞬間、獄寺を貫いたのはどうにもならない痛みだった。
 その涙が山本のために流されたものだということすら──嫉妬することすら忘れて、ひたすらにその涙が止まることを祈った。
 彼の涙を止められるのなら、何でもしてあげたい。彼の苦しみと悲しみを消すためなら、どんなことでもできる。
 血を吐くような思いでそう思ったのに、現実には自分には彼の涙をぬぐうことすら許されず、黙ってハンカチを差し出すのが精一杯のできることだった。
 己のあまりの無力さに、怒りを越えて吐き気さえ覚える。
 ───けれど。
 それが、自分の望んだ立ち位置だった。
 そして、彼が自分に望んだ立ち位置だった。
 二人がそれぞれに選んだことなのだから、誰に文句を言う筋合いでもない。文句など言えるはずもない。
 だが、それでも辛かった。
 独りよがりの感情であることは百も承知で、彼の涙をぬぐい、優しく抱きしめて、涙を止めることのできる何か魔法のような言葉をささやきたかった。
 その決して許されることのない想いは、痛みとなって今も澱(おり)のように血管の中を巡っている。
「情けねえ……」
 もとより封印する気のない想いではあった。というよりも、封印しようにも、あまりに根深く激しいために抑えようがないという方が正しい。
 それでも、自覚以来この想いを抱えて三年余りの間どうにかやってきたというのに、今になってこんなにも苦しんでいるのは、自分たちの関係が変わってしまったからだ。
 正式にボンゴレ十代目とその右腕となったこと、そして、それ以上に綱吉の心を知ってしまったことが自分を苛(さいな)んでいる。
 知らなければ、耐えるのは簡単だった。
 一生そういう目では見てもらえない、手に入らないと思っていれば、諦めるのはたやすい。その諦めは、自分にとっては想いと裏表に存在する日常の感情だった。
 けれど、あの日以来。
 自分の中には、制御できない喜びと嘆きが生まれてしまった。
 最愛の人が自分を想っていてくれるという歓喜、そして、それが今生(こんじょう)では叶わないという悲嘆。
 相反する表裏一体の感情が、常に相克を起こしていて気の休まる時がない。
 今夜も、ボスと右腕という立場さえなければ、想いのままに抱き締められた。彼の涙を止めるために、一人の男としてありとあらゆる手を尽くすことができた。
 そう考えることを止められないのに、ボスと右腕だからこそ極近い距離で居られるのだとも分かっている。その矛盾は、自分をひどく疲弊させる。
 だが、それでも知らなければ良かったと思ったことだけは一度もなかった。
 知らない方が絶対に楽だった。それは間違いないが、それでも知らなかった頃には戻りたくない。
 痛みで窒息しそうになっていても、それで構わないと思えるほどまでに、最愛の人に想われているという事実は甘美だった。
 想いを顕わにすることもできない。抱き締めることもできない。あの人に触れられることもない。
 けれど、二人きりの時だけに時折、彼の綺麗な瞳をかすかによぎる痛みと切望が、彼もまた同じ感情を抱えて苦しんでいることを教えてくれる。
 その喜びはどんな苦痛にも勝り、日々を耐える力を与えてくれる。
 自分が生きている限り、この喜びと苦しみは永遠に生まれ続け、嘆きながらも愛しい人と自分の明日のために一歩を踏み出す原動力となる。
 それは自分にとって大いなる力であり、端から見ればどんなに愚かで滑稽だろうと、それで良かった。
 少なくとも、この想いがある限り自分は生きてゆける。迷わずに歩いてゆける。
 自分が生きる理由には、それだけで十分だった。
 ならば、自分のやるべきことをやるだけだ、と獄寺は携帯電話を取り出し、メモリーから一つの番号を呼び出す。
 コール音は三回。
「話がある。今から出てこれるか?」
 スピーカーからの返答は、ごく短かった。



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