誰が為に陽は昇る 01

「Il Mare italiano e molto bello, vero? (イタリアの海って本当に綺麗だよね)」
 イタリアの名所名跡を紹介した写真集のような本を眺めつつ、心底感心したように綱吉が呟いたのは、いつもの土曜の午後、獄寺のマンションでのことだった。
 イタリア語を覚え始めてから二年半近く経った今、綱吉はイタリア語での日用会話は、ほぼこなせるようになっている。
 とりわけこの数ヶ月間における語彙の充実ぶりは目覚しく、発音も流暢さを加えて、最近ではイタリア語のレッスンの時間に充てている土曜の午後の殆どを、日本語を使わずに過ごすことも珍しくなかった。
「Si. Il reale e piu bello di una fotografia.(ええ、実物は写真よりもずっと綺麗っスよ)」
「Che bello! Voglio visitare il mare una volta.(いいなぁ。一度見てみたいな)」
「Viene nel? (行ってみます?)」
「え!?」
 ぱっと日本語に戻り、綱吉はソファーの隣りにいる獄寺の顔を振り仰いだ。
「今、行こうって言った?」
「ええ。ニュアンスとしては、行ってみましょうかって感じでしたけど」
 獄寺の方は何気なく言っただけのつもりだったのだろう。ええと、と考えるように小さく首をかしげながら、綱吉の表情を覗き込む。
「十代目はイタリアには行ったことがないんですよね?」
「うん、一度も。親父はあっちに行きっぱなしだけど、母さんも行ったことないんじゃないかな」
「じゃあ、一度行って、自分の目で見てみてもいいんじゃないですか? あと一月もしたら学校も夏休みに入りますし」
 まあ、真夏のイタリアは暑いわバカンス客が多いわで、行くとなるとそれなりに大変ですけど、と獄寺は言い、それから少しだけ真面目な表情になった。
「これは俺の勝手な意見ですけど、あなたは一度はイタリアに行った方がいいと思うんです。ただの観光旅行として、あの国に行って、あの国の風景や人を御自分の目で見て……。あなたがまだ、決めてないというのなら、尚更」
「───」
 それは、一月ほど前に二人が交わしたやり取りを発端とする言葉だった。
 望まないならボスになる必要は無いと言った獄寺と、まだ考えている最中だと答えた綱吉。
 その綱吉の言葉は、本当は真実ではなく、そのことにおそらく獄寺も気付いているのだろうけれど、あの日以来、獄寺は綱吉の言葉を真実として受け止め、振舞ってくれている。
 今の言葉の選び方も、その延長線上にあるものだった。
「今まで気付かなかった俺もボケてますけど、イタリアのことを何も知らないのに、将来、イタリアで暮らすかどうかを決めろっていうのは無茶な話です。あなたは今年の夏が終わるまでに、っておっしゃいましたよね。それなら、今年の夏休みにイタリアに行って、それから決めても遅くないってことじゃないですか?」
「……うん、それはそうかも」
 少しばかり綱吉は考え込む。
 確かに、この五年でイタリアに関する知識はかなり増えたし、イタリア語での簡単な会話にも困らなくなった。
 けれど、それではイタリアを知ったことにはならない。
 イタリアの大地に立ち、空を見上げ、海を見て、風を感じなくては。
「……一緒に行ってくれるんだよね?」
 首をかしげるようにして獄寺を見上げると、彼は当然とばかりに大きくうなずく。
「そりゃ勿論ですよ。俺から言い出したことですし、何より十代目をお一人で行かせるわけにはいきません」
「うーん。まあ、俺一人でも旅行会社のツアーにもぐりこんじゃえば何とかなると思うけど。でも君が居ると居ないとじゃ、心強さは段違いだもんな」
「はい! 頼りにして下さい」
「うん。でも母さんに相談してからだね。話す時には君もいてくれると嬉しいんだけど、今夜、時間ある?」
「勿論、大丈夫っスよ」
「じゃあ夕飯はうちでってことで。母さんにも連絡しとくから」
「はい。あ、でも御馳走になるのは……」
「平気平気。母さん、大人数の食事作るの大好きだからさ」
 そうと決まれば、と綱吉は携帯電話を取り出して、自宅のメモリーを呼び出す。
 だが、胸の内は早くも鼓動が、とくとくと逸り始めていた。



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