DAY DREAM
-Honeyed Proposal- 01

 明るいマンションのエントランスを通り抜け、二人揃ってエレベーターに乗り込む。
 その間、静雄も臨也もずっと無言だった。
 別に、二人とも言葉に詰まっていたわけではない。ただ必要なかったのだ。
 自分がいて、相手がいる。
 手を伸ばせば直ぐ触れられる距離に、世界で一番大切な人がいて、その人が自分をとても大切に想っていてくれる。
 そんな状況で浮かぶ言葉など、せいぜいが相手の名前くらいではないだろうか。
 言葉が無力だとか無意味だとかいうつもりは毛頭ない。だが、全てが満たされていて、言葉すら入る余地がないこともあるのだ。そして、今がその時だった。
 エレベーターの四角い箱の中、視線さえ交わさずに、ひたすら直ぐ傍にある互いの存在を感じているうち、やわらかなチャイムが鳴って、僅かなショックと共に上昇が止まる。
 それから一秒遅れて扉が開き、二人は筐体を出て、そのままほんの数メートル先にある玄関へと向かった。
 カードキーを取り出したのは静雄の方が先で、臨也は彼が鍵とドアを開ける様を、ただ黙って見つめる。
 そうしてドアの内に入り、カシャンと音を立ててオートロックが閉まるのと同時に、静雄の手がそっと臨也の手を取った。
 指の長い、形のいい爪を短く切り揃えた大きな手が、臨也の一回り小さく細い手に重なり、優しい仕草で指を絡め取る。
 その様を見下ろし、先程と同じように手指にじんわりと伝わってくる温もりを感じてから、臨也はゆっくりと顔を上げた。
 至近距離で自分を見つめる優しい鳶色の瞳と目が合う。
「───…」
 相変わらず言葉もないまま、ゆっくりと顔が近付いて、唇が重なる。やわらかく触れ合い、温もりを感じるだけのキスだったが、これ以上ないほどの幸福感が臨也の胸の中に満ちてゆく。
 貪られるように口接けられるのも嫌いではない。でも、ついばむような可愛らしいキスも、戯れるように軽く触れ合うキスも同じくらいに好きで、そして、こんな風に想いを伝え合うような優しいキスは、格別に好きだった。
 決して欲望だけではなく、切ないほどにいとおしみ、いとおしまれる感情が、触れ合う唇から心の隅々まで染み透る。
 ただ触れ合うだけの子供だましのようなキスなのに、こんなキスをされるのが何よりも臨也は好きだったし、嬉しいと感じる。
 優しいキスは触れた時と同じようにゆっくりと離れ、二人は再び目を見交わす。
 きゅ、と絡めた指に軽く──静雄にしてみれば極々軽くだろう──力を込められて、臨也も同じように返し、そしてもう一度、ゆっくりと顔を寄せて唇を重ねようとしたその時。
 ミィ、とドアの向こうで甘く細い鳴き声がした。
 あ、と目をみはって至近距離で互いを見つめ、それから二人は同時に小さく声を立てて笑う。
 耳の良い猫のことだ。当然ながら二人が玄関に入ってくる音を聞きつけ、ドア前で待ち構えていたのに、中々上がってこないことに焦れて鳴いたのだろう。
「まあ、玄関はイチャイチャする場所じゃないよね」
「そういうことだな」
 苦笑しながら、ひとまず靴を脱いで玄関先から上がる。だが、その間も当たり前のように二人の手は繋がれたままだった。
 そして、短い廊下を歩いてリビングのドアを開ければ、待ち侘びていたようにサクラが甘えた鳴き声を上げながら、二人の足の間をくるくると8の字を描くように体を擦り付けてくる。
 その様はひどく可愛らしいが、下手に足を踏み出したら蹴飛ばしてしまいそうで、臨也は一瞬躊躇した後、繋いでいた手を解き、身をかがめてひょいと小さな生き物を抱き上げた。
 やっと人目を気にせず繋ぐことのできた手を離すのは、ひどく惜しかったが、この場は仕方がない。そう思いながら静雄を見上げると、静雄もまた、仕方ないと言いたげな表情でサクラと臨也を見つめ、微苦笑していて。
「お前はソファーに行ってろよ。何か飲みたいもん、あるか?」
「んー。アルコールはもういいなぁ。ほうじ茶飲みたい」
「分かった」
 了解とばかりに静雄は、臨也の黒髪をくしゃりと撫でて、ダイニングキッチンへと去ってゆく。
 その背中をほんの数秒見送ってから、臨也はサクラを抱いたまま、リビングのソファーへと移動した。
 家具屋で吟味に吟味を重ねた、クッションの良い革張りのソファーに腰を下ろし、膝の上にサクラを放す。すると、サクラは少しばかり迷う素振りを見せた後、軽い動きで臨也の脚の上から下り、臨也が手を伸ばせば届く距離にある、彼女お気に入りのやわらかなクッションの上でうずくまった。
「本当にお前は勝手気ままだなぁ」
 好きなようにふるまう仔猫に苦笑しながら、臨也は黒ビロードのような毛皮に包まれた小さな頭を撫でる。二、三度、そのゆっくりとした手の動きを繰り返すと、サクラはゴロゴロと満足げに喉を鳴らし始めた。
 早いもので、静雄がサクラを拾ってきてから、もう一ヶ月以上が経つ。
 仔猫の成長は早く、体重で言えば百グラムかそこらだが、幾分大きくなったし、どこかたどたどしかった体の動きも日々なめらかになってきている。
 だが、家の中で我が物顔に振る舞い、静雄や臨也の膝に好き勝手に上がってくるのは一番最初から変わらない。
「まあ、名前を呼べば返事をするようになったけどね……」
 犬と違って、可愛い以外、本当に何の役にも立たない生き物だが、それでも家の中を小さな生き物がうろちょろしているのは、思ったよりもずっと悪くなかった。
「お前がシズちゃんと一緒に暮らすきっかけをくれたんだし。多少の我儘は御愛嬌、かな」
 そう呟きながら、臨也はサクラの小さな頭を指先でつつく。
 静雄が偶然、仔猫を拾い、そして、たまたま彼のアパートがペット禁止だった。要約すれば、たったそれだけのことだ。だが、それが無ければ、きっと今でも二人はそれぞれの部屋で暮らしていただろう。
 池袋と新宿に分かれて、週に一度のペースでデートをする生活も、十分に楽しかったし、幸せだった。しかし、こうして一緒に暮らせる喜びや幸せに比べたら、余りにもその濃さが違う。
 毎朝、目覚めて一番最初に目にするのが恋人の姿で、毎晩、一番最後に目にするのも恋人の姿なのだ。
 夜中に目覚めた時すら、一人ではない。気付いて、抱き締めてくれる温かな腕がある。寄り添える人が傍にいるという、胸が熱くなるような喜び。
 世の中広しと言えど、これ以上の幸せなど滅多に見つかりはしないだろう。
「……シズちゃんも、そう思ってくれてるといいんだけどな……」
 この毎日が楽しくて嬉しいと言ってくれたのだから、きっと心情は近いものがあるのだろうと思いたかった。
 それに、もしかしたら……、本当にもしかしたらだが、この喜びに溢れる気持ちはぴったりと重なってさえいるかもしれない。もしそうならば、と考えるだけで蕩けてしまいそうな甘い感情が胸に満ちる。
「まったく、俺らしくないよねぇ」
 全人類を愛するどころか、たった一人に惚れ込んで、それで幸せなのだから、もはや苦笑しか浮かんでこない。
 そんな風に仔猫を撫でながら甘ったるい感慨にふけっていると、静雄が二人分の湯呑みを手に歩み寄ってきた。



NEXT >>
<< BACK