真夜中の散歩者

 ガリガリ、という物音で意識が引き戻されたのは、寝付いてからまだ幾らも過ぎていない時刻だった。
 もともと眠りは浅い方であり、常人ならば絶対に気付かないような物音や気配であっても、瞬時に意識は覚醒する。それは訓練の賜物などというものではなく、単に彼が持って生まれた性分だった。
 何の音か、と寝床から耳を澄ませて、人間の出す物音ではない、と即座に判断する。
 もっと小さい生き物。けれど、ネズミというほど小さくはない。
 ここは地表から数十メートルをもぐった地下にある空間ではあるが、人間が出入りする以上、人間より小さい生き物が入り込む隙間を完全につぶすことは不可能だ。
 そして、この物音は無作為の仕草ではなく、明らかに何らかの意図をもって、この部屋の外の板戸を鋭いもので引っかいている音だった。
 害意はなさそうだが、自分が建材と職人を選び抜いて建てたアジトが傷付けられるのは許しがたい。
 この時点で、雲雀は無視するという手段を諦め、するりと寝床から置き出した。
 素足のまま畳敷きの広い空間を横切り、ふすまの錺(かざり)に手をかけ、空気の擦れ合うような軽く鋭い音を立てて、薄板と紙でできた日本家屋独特の間仕切りを開ける。そして更に、同じくらいに広い次の間を抜け、今度はふすまではなく板戸へと近付いた。
 問題の物音は、このすぐ向こう側から聞こえてくる。
 精巧に採寸され、組み立てられた板戸はかすかな軋み音さえなく、なめらかに敷居の桟をすべり、開かれて。
 釣り型の花灯篭が照らし出す淡い光の中、雲雀は足元の小さな生物を感情の浮かばない瞳で見つめた。
 猫のような外見の生き物。
 だが、両耳からは血のように赤い炎が燃え上がっている。
「深紅の炎……嵐の匣兵器か」
 猫科ではあるが、家猫の骨格ではない。野生の山猫に近い、と姿かたちから見て取る。
 どのような能力を持っているかは外見からは不明だが、嵐属性である以上、攻撃の基本は火炎であるに違いなかった。
 そして、匣兵器ということは持ち主がいるはずだが、嵐属性の炎を持つ者は、現在、この近辺にいるのは敵を除けば二人しかいない。
 状況から考えるに、持ち主は姉の方ではなく、弟の方だろう、と雲雀は見当をつける。
 自分と同じ時間軸に生きる獄寺隼人であればともかくも、十年前の獄寺隼人であれば、匣兵器を野放しにして他所のアジト内で迷子にさせる、それくらいのミスは朝飯前のはずだった。
「──面倒だな…」
 足下で、引っかく対象を見失った猫が、にゃーお、と雲雀を見上げて小さく鳴く。
 迷子の猫が、この広いアジトの中でよりによってこの部屋の戸を引っかいていたのは、単に人の気配に寄って来たのか、それとも雲雀の炎の気配に惹かれてきたのか。
 嵐属性の生き物が、大空ならまだしも雲の気配に惹かれるとは思えないが、猫は人懐っこい丸い目で雲雀を見上げている。
 迷子ならば保護者の呼び出しをかけたいところだが、あいにく保護者の見当はついても、今は直接の連絡手段がなかった。
 この時代の獄寺の携帯番号ならメモリーに入っているが、十年前の彼の携帯番号は知らないし、このアジトからボンゴレアジトへも、直接の通信回線は非常用のものしか備えていない。
 普段なら、必要とあれば非常手段を使うことなどどうとも思わないのだが、今夜ばかりはタイミングが悪かった。
 日常、手足として使っている草壁も、今夜は、非常用回線の使用を控える理由と同じ理由で、彼自身の持ち場に詰めている。それをこんな些細な用で呼び戻すことは、さすがの雲雀でも良策とは考えられなかった。
「迷子に一人で帰れって言っても無駄だろうしね……」
 自力で帰れるのならば、それは迷子とは言わない。散歩か家出である。
「直接返しに行くしかないわけか」
 面倒なことだ、と雲雀は溜息をつく。
 だが、迷子の返却を明日にはできない理由が、今夜はある。この猫がいないせいで獄寺が困るのは知ったことではないが、彼らに死なれるのは困るのだ。
 まあ、この際だから急ごしらえの修行が一段落ついた連中の面構えを見ておくのも悪くないだろう、と自分に理由をつけて、雲雀は上半身をかがめ、猫の首の後ろをひょいとつまみ上げる。
 家猫で言うのなら、生後半年ほどの大きさだろうか。二キロほどの重さしかなく、毛皮はしなやかでやわらかい。
 そのまま持ち上げ、目を合わせると、猫は丸い目できょとんと雲雀を見つめた。
「飼い主に似て、間抜けた顔だね」
 さりげなくケチをつけて、廊下へと足を踏み出す。
 単衣(ひとえ)の夜着に素足という格好だが、完全に空調の整った地下アジトで寒いも暑いもない。また、これだけの用のために着替えるのも面倒であって、そのまま雲雀は歩き出した。
「まったく面倒ばかりかけてくれるよ、君たちは」
 ───群れた小動物は、昔から大嫌いだった。
 十年が経って、やっとそれなりに見られるようになったかと思えば、この騒ぎである。馬鹿馬鹿しいにも程がある、というのが雲雀の正直な気分だった。
 だが、ボンゴレにはそれなりの利用価値があるし、匣兵器というこの上なく好奇心をそそられる物体にめぐり合ったのも 、彼らと関わりあったゆえのことだ。
 だから、この程度くらいのことはしてやってもいい、と思う。
 とはいえ、十年前と入れ替わった彼らと顔を合わせるのが楽しいかと言えば、否である。
 入れ替わった彼らの能力は物足りないことはなはだしいし、それに何よりも、目線が違うことに大きな違和感を覚えずにはいられない。
 十年という月日は、そんなにも長いものだったのかと今更ながらに感じさせられる。それは決して心楽しい感覚ではなかった。
 そして、その一方で彼らもまた、十年を経た自分や笹川了平にどう接すれば良いのか、戸惑っているのも伝わってくる。
 とにかく、あらゆる意味で不愉快だと断言できるほど、今の状況は面白くなかった。
 しかし、その不愉快さを生じさせててでも、彼らはこの無茶をやり遂げなければならなかったのだ。
 雲雀自身はボンゴレに属しているつもりはないし、十年バズーカにも興味を持てないため、ボンゴレが立てた計画の詳細のすべてを承知しているわけではない。ただ、タイミングが今しかなかったということは分かっている。
 十年バズーカが跳べる時間は、理論上、十年以上にも以下にもならない。せいぜいがわずかな誤差を生じさせる程度だ。
 そして、ボンゴレリングが破棄されたのは、ほんの数年前。だが、沢田綱吉と六人の守護者がボンゴレリングを所持していなければ、ミルフィオーレに対抗するすべはない。
 とにかくすべてにおいて、ギリギリの綱渡りの計画だった。上手く行けば起死回生が成るが、一つでも計算違いがあれば、それはボンゴレの全滅に直結する。
 ボンゴレファミリーの存亡などどうでも良いが、ミルフィオーレがこの先、裏世界の覇権を握ることにでもなれば色々と不都合も起きてくる。──それが今回、雲雀と風紀財団がボンゴレと全面的に共闘している最大の理由だった。
「さて、着いたけど、君の飼い主はどこにいるのかな」
 風紀財団アジトとボンゴレアジトを繋ぐ非常口を越えると、途端に周囲は殺風景になる。
 ボンゴレの面々が寝起きをしているフロアは分かっているが、誰がどの部屋にいるのかまでは、雲雀の関知するところではない。
 迷子をこの辺りに放って帰ることもできるが、また迷い込んでこられて、元の木阿弥になっても困る。
 どうしたものか、と考えて、雲雀は空いている方の手で、手近にある壁の表面を撫でた。建材にかろうじて塗装が施されているだけの表面は、程よくざらついた手触りであって。
「爪とぎにちょうど良さそうだね。思い切りやるといいよ」
 片手にぶら下げていた猫を顔の高さまで持ち上げ、目を合わせてから、壁の前に突き出す。
 すると、人語での指示を解したのか、単に猫の本能で雲雀と同じ発想をしたのか、それまで大人しくぶら下がっていた猫は、嬉々として壁面で爪とぎを始める。
 素っ気無い箱のようなボンゴレアジトの音響効果は絶大であり、ガリガリ、と盛大な音が夜更けの建物に響き渡るのを聞きながら、雲雀は安眠妨害された彼らが部屋を飛び出してくるのを、しばしの間、その場で待った。

End.

ヒバリスキーの後輩Pちゃんに捧げます。

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