優しさ・かくれんぼ
入浴をすませた綱吉が宿舎代わりの部屋に戻ると、ドアを開けた途端、二段ベッドの下の寝台上で何かが動く気配がした。
綱吉が、何だろうと考えるよりも早く、「にゃおん」と小さな声で鳴いたそれが、ベッドを飛び降りて綱吉の足元まで小走りに近付き、体を擦り付けてくる。
いうまでもなく、それは獄寺の匣兵器である猫だった。
否、正確には猫であるかどうか分からない。
猫科の生き物であることは間違いないが、しかし、綱吉が見知っている世間一般の猫とは、体格のバランスが微妙に違っているような気がするのである。
手足が猫よりも遥かにがっしりしていて大きいし、しっぽがとても長い。毛皮も豹のような梅花模様だ。
だが、分かるのはそこまでで、動物の知識に乏しい綱吉には、この生き物が生物学上、どんな名前を持っているのかはさっぱり分からなかった。
ただ、とりあえず猫のように可愛いし、ハルや京子たちも喜んで世話をしてくれている。
獄寺に言わせると、兵器としてはイマイチということだったが、少なくとも今は彼女たちが喜んでくれるというだけで、この生物の存在意義は十分であるように思われた。
「にゃあお」
また甘えたように猫が鳴く。
綱吉の足に身体を擦り付け、見上げる仕草は、あきらかに甘えているものだった。
それくらいは猫を飼ったことのない綱吉にも分かって、綱吉は身をかがめて、こわごわ背中を撫でてみる。もしかしたら引っかかれるかも、と思ったが、毛皮はふわふわとやわらかく、猫は気持ち良さそうに目を細めて、ゴロゴロと喉を鳴らした。
「かわいーなぁ」
ハルや京子が夢中になるのも分かる、と思いながらも綱吉は少し大胆に頭からしっぽまで、毛並みにそってゆっくりと手のひら全体で猫を撫でる。
猫も気持ちよいのだろうが、撫でている方も毛皮の感触がとても気持ちいい。あたたかくて、やわらかくて、ふかふかしているのだ。そして毛皮の下には、しなやかな筋肉の弾力も感じられる。
匣兵器である以上、普通の生き物ではないのだろうが、こうして触れている限りでは何が違うのか、ちっとも分からない。
「お前だって生きてるんだよ、な……?」
匣兵器の動物は、あくまでも戦闘用の道具であり、死ぬ気の炎を電池代わりにしていて、それが切れたら動かなくなってしまうということは頭では分かっている。
けれど、この猫やクロームのフクロウが傷付いたら、主人である獄寺やクロームは悲しむだろうし、傷つけた相手に強い怒りを抱くだろう。
だったら、普通のペットと何が違うのか、綱吉には上手い説明を見つけることができなかった。
そうしてしばらく猫を撫でていると、背後でドアが開く音がして。
「あれ十代目、何して……って、あ!」
先程、大浴場で入れ違いになった獄寺が、部屋に戻ってくるなり慌てて綱吉の傍に駆け寄る。
「すいません、こいつが何か御迷惑を……!?」
「ううん。寄って来たから、撫でてただけだよ」
「そうっスか? すみません。引っかかれたりとか、しなかったですか?」
「大丈夫。大人しかったよ」
心配性の友人に安心させるように笑いかけると、ようやく獄寺はほっとしたように肩の力を抜いた。
それから猫を見下ろして、ああそうか、と何かに気付いたようにうなずく。
「こいつ、もしかしたら十代目の死ぬ気の炎が欲しかったのかもしれません。ほら、そろそろ炎が弱くなってきてますから」
「え?」
思いがけない言葉に驚きながら、獄寺が指差した猫の耳を見ると、確かにそこからバックファイアのように燃え輝いていた炎が小さく薄れている。
「ごめん、俺、全然気付かなかったよ」
「いいっスよ。こいつは俺のですから。十代目に御迷惑をおかけするわけにはいきません。つーか、十代目の炎をいただくなんて、もったいなさ過ぎます!」
「……そういう問題?」
別に減るものでなし、と小さく突っ込むが、獄寺は聞いていなかった。
右手中指にしたままの嵐のリングを確認してから、すっと集中する表情になる。
次の瞬間、音を立ててリングを核とした深紅の炎が燃え上がった。
──ルビーのような混じりけのない、純粋な深紅。
どこまでも純粋で真っ直ぐな獄寺の気質をそのままに映したようなその赤は、死を示す冷たい血の赤ではなく、生きている人間の熱い血潮の色だった。
その色の美しさに綱吉が見惚れている間に、獄寺はリングを猫の口元に近づける。と、猫が開いた口の中に、火炎放射器のように炎が吸い込まれてゆき、そして一秒ほどの間をおいて、猫の耳に宿っている炎がぼっと音を立てて大きく燃え上がった。
「これで一晩くらいは持つだろ」
それを確認してから、一見乱暴に見える仕草で猫の頭を撫でて獄寺は立ち上がる。
そして、じっと獄寺を見ていた綱吉の視線に気付き、少し慌てた表情になった。
「十代目?」
「あ、ううん。それよりも、今は引っかかれなかったね」
はっと我に返った綱吉は、獄寺の炎に見惚れていたことを知られるのは何となく恥ずかしくて、ごまかすように猫を指差す。
すると、獄寺は小さく苦笑した。
「こいつ、現金なんスよ。勘がいいっつーか……匣に戻そうと思って触ると、刃向かってくるんです。死ぬ気の炎が欲しい時と、死ぬ気の炎をやった直後だけは甘えてくるから、触っても平気なんスよ」
「へえ」
うなずきながらも、そこまで分かっていながら、と綱吉は少しばかり呆れた気分になる。
つまるところ、獄寺は都合の良い充電器にされているわけなのだが、獄寺自身はどうしたことか、その状況に不満はないらしい。
正直、意外だった。
普段の獄寺の行動パターンから考えると、こんな小動物は邪険に扱いそうなものなのに、実際はその真逆で、完璧に情にほだされている。
だが、その現実は、何故か綱吉の胸の中にすとんと落ちて、当然のように納まっているのだ。
まるで、彼が小動物を可愛がる、とても優しい人間だということは、最初から分かっていたとでもいうように。
「……腕、引っかき傷だらけになっちゃったね」
何故だろう、と自分の心を不思議に思いながら、綱吉は獄寺のTシャツからのぞいている腕ばかりでなく、頬や首筋にまでついた引っかき傷を、目で数えてみる。
全部で十箇所以上あるだろうか。しかも一箇所につき、二本から四本の傷が並行して走っているために、余計に傷だらけに見える。
すると、獄寺は忌々しそうに眉をしかめた。
「昼間、うっかり匣を開けちまった途端、暴れ回りやがったんで……。さっき風呂入ってた時も、むちゃくちゃ
染みて参りましたよ」
「消毒、しておく?」
「いえ、大丈夫っス。そんな深い傷は一つもありませんから」
「そう?」
言いながら綱吉は、いつの間にか獄寺のベッドに戻って、真ん中で丸くなっている猫へと歩み寄った。
照明の影になるベッドの上で、猫に灯った死ぬ気の炎は鮮やかな深紅に輝いていて。
そっと丸くなった背中を撫でると、ゴロゴロという返事が返る。
「ねえ獄寺君」
「はい?」
「本当にこの子、匣に戻さないつもりなんだ?」
「戻さないっつーより、戻せないんですよ、こいつは」
「そんなことないだろ」
隣りにやってきた獄寺を、綱吉は少しばかりからかうような笑みを込めた瞳で見上げた。
「フゥ太も言ってたように、放っておけばこの子は動かなくなるんだし。クロームのフクロウみたいにさ」
そう言った途端、獄寺は困った顔になる。
「そりゃ分かってますけど……」
そして、困った時の癖で前髪をかき上げながら、綱吉を見やった。
「あの、こいつ、しまった方がいいですか? 匣から出してると、メシも欲しがるし……」
「ううん。それはいいんだ。京子ちゃんやハルも喜んでるし。獄寺君が出しておきたいのなら、ずっと出しておけばいいと思う」
「……すみません」
「どうして謝るの? 君は何にも悪いことしてないのに」
それに、と綱吉は獄寺を見上げる。
「俺も、獄寺君と同じ立場だったら、役に立ちそうにないからってすぐに匣にしまっちゃうんじゃなくて、役に立つかどうかは分かんなくても、その子が出ていたいそぶりを見せたら、匣から出しておいてあげる方を選ぶと思うから」
「十代目……」
「まぁ俺の場合、リボーンに無駄なことするなって、匣に戻すように言われたら逆らえないんだけどさ」
小さく苦笑して、綱吉はもう一度、猫の頭を撫でた。
と、少しだけ沈黙が落ちる。
隣りを見ずとも、獄寺が何かを考えているのが分かって、綱吉は彼の次の言葉を待った。
ほどなく、少しだけ困ったような声が降ってきて。
「──十代目、もしかしなくても俺がこいつを匣に戻せないの、おかしいと思ってます?」
見ると、獄寺は何ともいえない表情をしていた。
困ったような、気恥ずかしいような、自分でもこんがらがっているような。
その表情を目にして、綱吉は自然に笑みが浮かぶのを感じる。
「ううん。おかしいとは思ってないよ。意外な気がしたのは本当だけど」
「はあ……」
「でも、俺、意外だって思ったくせに、君が小さな生き物に冷たくできない人だって、ずっと前から知ってたような気がしてるんだ。おかしいよね」
けれど、と綱吉は思い出していた。
獄寺は、自分に対してはいつでも一生懸命だし、山本やランボに対しても、普段の態度がどうあれ、彼らが傷付いた時には心配して気にするそぶりを見せる。
そんな風に仲間のことを大切にできる彼が、目の前の『生命』に対して、冷たくなれるはずがないのだ。
彼がその内にある非情さを見せるのは、あくまでも『敵』──仲間と自分に害意を抱くものに対してだけなのだから。
「だから、獄寺君らしいって思ってる。おかしいなんて、全然思ってない」
「十代目……」
思わずというように銘を呼んだ獄寺が、ふいと視線を綱吉からそらして、うつむく。
それだけの仕草だが、照れているのだということは、綱吉にも十分に分かった。
「なんて言っていいかよく分かりませんけど……、なんか俺、すっげー嬉しいです。十代目にそう言ってもらえて……」
「そう?」
そんなすごいことを言ったつもりはないけど、と思いながらも、うっすらと赤くなった獄寺の顔を見ているうちに、何となく綱吉も気恥ずかしくなってきて、頬が熱くなってくる。
つられ照れとでも言えばいいのだろうか。
「そ、それよりもさ、こいつに名前付けないの?」
「名前、っスか」
これ以上放っておくと、なんだかいたたまれない気分になりそうで、慌てて話題を変えようと話を振ると、獄寺も素直に応じてきた。
「考えてなかったんだ?」
「はあ……。こいつとか猫とかで足りてたんで……」
そういう大雑把な所も獄寺らしい、と思いながら綱吉は猫を見やる。
何度見ても、ベッドの真ん中で丸くなった猫は、満ち足りて幸せそうだった。
「名前、考えてあげたらどうかな。せっかくだし」
「そう、っすね。……考えてみます」
「うん」
うなずいて、綱吉は猫を見つめる。
──ミルフィオーレが巻き起こした苛烈な嵐は、もうすぐそこにまで迫っている。
だが、今、獄寺と過ごしているこの時間は、確かに平和で、あたたかい。
そのことを、この先何があろうと絶対に忘れない、と綱吉は思った。
End.
『この上なく都合のいい充電器』な獄寺君がツボツボでした。
可愛すぎるよ、この子……。