きらきら 9
「あの……どこかに出かけられるんですか?」
獄寺が遠慮がちにそう切り出したのは、冷めてしまった緑茶を入れ直し、こたつテーブルの方へ移動してからのことだった。
え?、と彼の顔を見直し、それから綱吉は、帰省の荷造りが大方済んだスポーツバッグに気付く。
荷造りと言っても、実家に帰るだけだから、数日分の着替えを放り込むくらいで足りる。ゲーム機とソフトをどうするかが悩ましいところだったが、据置き型の本体は諦めてポータブルタイプの本体を1台持ち帰り、そして実家に帰る途中で、適当な電器屋に寄って新作ソフトを一本購入しようと目論んでいた。
「ああ、あれね。並盛の実家に帰るだけ。明日から帰ろうと思ってたんだけど……」
「明日から、ですか」
綱吉の言葉を聞いた途端に、獄寺の表情がしょげる。
ぺたんとしおれた三角耳としっぽが見えるようで、ああ、仕方がないなぁと思いながら、綱吉は微笑む。
何だか昔に戻ったような気分だった。
「うん。で、今思い付いたんだけど、獄寺君も一緒に帰らない? もちろん仕事が忙しいんなら無理は言わないけど……」
「え」
綱吉が提案した途端、獄寺の目が見開かれる。
綺麗な銀翠色の瞳を見つめながら、そんなに驚くことかな、と綱吉は思った。
何度もすれ違って、やっとお互いが同じ想いを抱えていたことを知ったばかりなのだから、できることなら一時たりとも離れたくない。
だが、帰省をそうそう何度も遅らせるのも母親に申し訳ない。
そして獄寺は、かつて、母親も殊の外、気にかけていた少年だった。そんな人間を一緒に連れて帰ることに何の不都合があるだろう。
「仕事、忙しい?」
「え? いや、今は新しい仕事を請けたばかりですから、納期はまだ二ヶ月も先ですけど……」
「じゃあ、一緒に帰れる?」
首をかしげるようにして問いかけると、獄寺は困ったように黙り込む。
何となく覚えのあるその表情に、綱吉は彼が考えていることに思い当たった。
「ねえ、獄寺君。もしかして、まだ俺の母さんに合わせる顔がないとか思ってる?」
「───…」
さほど咎めるつもりの物言いではなかったが、獄寺は更に困ったように、はいともいいえとも答えない。
はいと答えれば、綱吉が気分を害すだろうし、いいえと答えれば嘘になる。──彼の葛藤はそんなところだろう。
仕方がないなぁと、綱吉はもう一度微笑んだ。
これが獄寺なのだ。
彼がこういう人間でなければ、きっと好きにはならなかった。
きっと、好きになってももらえなかった。
「大丈夫だよ、獄寺君。母さんの性格、覚えてるだろ? 君がいなくなった後も、ずっと君のことは気にしてたから、会えたらすごく喜ぶと思う。君は、うちの母さんに会いたくない?」
「とんでもない! お会いしたくないだなんて……!」
勢い込んで否定した次の瞬間、しまったとばかりに獄寺は口をつぐむ。
だが、綱吉にはそれ以上の言葉は要らなかった。
「じゃあ、一緒に帰ろう。母さんにも連絡しておくから、今夜中に荷造りしておいてね」
「……沢田さん……」
いかにも情けない表情で呟く獄寺は、中学時代の彼を彷彿とさせた。
何となく嬉しくなって、綱吉はついでとばかりに続ける。
「それから山本も、もうすぐ宮崎でのキャンプを打ち上げたら並盛に帰ってくるって言ってたから、俺はそれまで並盛に居るつもりなんだけど……獄寺君も付き合ってくれる?」
「──野球馬鹿のために、ですか……?」
「うん。山本も獄寺君に会いたがってたし。あ、そうだ。電話番号とメルアド、君に教えないと」
「野球馬鹿のなら要らないっスよ!」
「でも、山本に約束したし」
綱吉はひょいと立ち上がり、コートのポケットに入れっぱなしだった携帯電話を取ってくる。
そして、んーと、と呟きながら、山本の番号とアドレスを獄寺へとメールで送った。
「はい、登録しておいてね」
数秒の空白を置いて鳴った獄寺の携帯電話の着メロに、綱吉は笑む。
すると、いかにも渋々といった様子で獄寺は携帯電話を開き、山本のデータをアドレス帳に登録した。
その様子を見守ってから、綱吉は改めて、獄寺君、と呼びかける。
「ここまでの話は冗談として……本当にどうする? 君が嫌なら、無理に並盛に帰らなくてもいいよ? 俺も母さんに顔だけ見せて、一日二日でこっちに帰ってくるから」
「沢田さん……」
綱吉の言葉に獄寺の目が、驚いたように改めてみはられる。
そのまなざしを、綱吉は真っ直ぐに受け止めた。
共に帰りたいのは本当だったが、無理強いしたいわけではない。獄寺が本心から望んでくれるのでなければ、どんなことであれ嫌だった。
その思いが伝わったのかどうか。
獄寺の表情が、ふっと和らいだ。
「一緒に行きます。ご迷惑でなければ」
「……本気で言ってる?」
「はい。俺はいつでも本気です」
言われて、そういえばそうかも、と綱吉は思う。
獄寺は、基本的に真っ直ぐな人間だ。綱吉を気遣うあまりに嘘や隠し事をすることはあっても、それが最後まで成功することは少ない。
「じゃあ、本当に母さんに連絡するよ?」
「はい。──あ、でも」
「何?」
「それならそれで、お母様にお土産を用意しないと……。何がいいですかね?」
並盛までの電車旅を考えると、生ケーキは崩れてしまいかねないし、並盛商店街のケーキ屋・ナミモリーヌも中々の味なのだから、わざわざこの街で買って持ってゆくには値しない。
煎餅は並盛の隣町に有名な老舗があるし、羊羹や饅頭も、並盛駅の向こうに美味しいと評判の和菓子屋がある。
「……取り寄せしてる暇はねーし、アンテナショップも最近チェック入れてねーし、そうなると、清水堂のアレなんかが返っていいかもな……。沢田さん、明日の電車の時間は、何時の予定ですか?」
何やらぶつぶつと呟いていた獄寺が、不意に顔を上げて尋ねてくる。
呆気に取られていた綱吉は、思わず吹き出した。
「獄寺君って本当に変わんない。昔っからそうだったけど、そんなに母さんに気を使わなくっても大丈夫だよ」
「え、でも俺、お母様にお会いするのは久しぶりですし……」
「母さんなら、獄寺君に会えただけで大喜びしてくれるよ、絶対」
「……そう、かもしれませんけど、やっぱりお伺いするなら何かないと……」
困ったように獄寺が見つめてくる。
その様子に、綱吉はあっさりと折れた。もともと強硬に反対するような事柄でもないのである。
「まぁ、獄寺君の気持ちは分かんないでもないから、その辺は好きにすればいいよ。明日の電車は、二時か三時にこっちを出て、夕方までに家に着けばいいと思ってたし」
「二時ですか。じゃあ、結構余裕ありますね」
「うん。でも、程々にしておいてよ。うちに帰っても、母さんと俺と君の三人なんだから、それで食べ切れるくらいの量にしてくれないと」
綱吉がそう言うと、獄寺は虚を撞かれたようだった。
「ああ、そうですね……」
思い出したように呟く獄寺に、綱吉も、彼は彼自身が去った後の沢田家を知らないことに思い至る。
獄寺が並盛を去った直後にランボとイーピンが居なくなり、数年後にリボーンとビアンキも出て行った。
今、あの家にいるのは母親の奈々一人なのだ。
並盛町内に大学がなくとも、家から通える距離に他に合格圏内の大学がなかったわけではなく、母親を一人にしてしまったというかすかな罪悪感は綱吉の中にもある。
それを共有するかのように、獄寺は綱吉を見つめた。
「もしかして……沢田さんは、もっと早くに並盛に帰省されるつもりだったんじゃ……」
綱吉が絡むと、時折、獄寺は妙に鋭くなる。今もそうであるらしかった。
大学が春休みで、アルバイトも休み。それで綱吉が、このアパートにとどまる理由など殆どない。二ヶ月丸々実家に戻れば、その間は仕送りも必要ないのである。
その現実を前にごまかすのは、意味のないことだと綱吉にも分かっていた。
「──まあ、それはそうなんだけど……」
だから、ごまかさない代わりに正直に本音を口にする。
「君に、会いたかったから」
思わぬ再会をして、嬉しくて、けれどいつも不安だった。
少しでも連絡をとぎらせたら、またいなくなってしまうのではないか。
次に電話する時には、出てくれないのではないか。
もう会わないと言われるのではないか。
獄寺が戸惑い、苦しんでいることが分かっていたから、尚更に、ほんのわずかでも距離を空けることが怖かった。
そして、何よりも。
ただ、会いたかった。
一回でも多く、一分一秒でも長く、会っていたかった。
「俺も親不孝だよね」
気恥ずかしさ半分、自己嫌悪半分の笑みを浮かべながら顔を上げると、獄寺は真面目な表情で綱吉を見つめていた。
「沢田さんは親不孝なんかじゃないです。俺が……」
「ストップ。それ以上言わないで、獄寺君」
言いかけた獄寺の言葉を綱吉は遮る。
自分が会話をそういう流れに持っていってしまったとはいえ、どんな意味合いのものであれ、もうこれ以上彼の謝罪を聞きたくなかった。
「俺が君に会いたかった、それだけだよ」
獄寺の目を見つめて告げると、思いが伝わったのか、獄寺も考えるようなまなざしになる。
そして、言った。
「俺も、会いたかったです。毎日、あなたに会いたくて会いたくて、仕方がなかった」
「……うん」
会いたい。傍にいたい。
それだけの想いであるのに、それが罪を生んでしまうことも、互いを傷つけ合う結果となってしまうこともある。
そんな状態で一旦は遠く離れた自分たちが再会したことは、運命でも何でもなく、単なる偶然にすぎなかった。
それを一瞬の邂逅、あるいは不運な再会のままで終わらせなかったのは、自分たちの意志の力だ。
諦めない、あるいは諦めきれない想いが、再度切れかかっていた糸を繋いだのだ。
「諦めなくて、良かった」
呟いて綱吉が微笑むと、右手に獄寺の左手が重なった。
「俺もです」
優しく包み込んでくれる乾いた温かな手の感触が、嬉しく、愛おしい。
このままずっと触れていて欲しい、と思った。
「大好きです、沢田さん」
見つめてくる獄寺の瞳には、もう悲しい翳りはない。
彼の性格上、奥底にはきっとまだ痛みが潜んでいるのだろうが、煙るような銀翠色の瞳には温かな輝きが湖面に乱反射する陽光のように煌いていて、そのまっすぐなまなざしに、綱吉は出会った頃の彼を思い出す。
そして、そうか、とひそかに納得した。
先程獄寺は、昔から自分を好きだったと言ってくれたが、思い返せば彼は一番最初からこんな目で自分を見ていた。それはもしかしなくても、出会った最初の日から自分を想っていてくれたということなのだろう。
もっと早く気付けたら良かったのに、と自分の鈍さを恨む一方で、それでもきっと二年前の自分たちでは、たとえどんな関係に会ったとしても、あの事故を乗り越えられなかっただろうとも思う。
会いたくても会えない、どうしようもなく辛い空白を経たことによって、やっと自分たちは『それでも離れたくない』という結論を見い出せるところまで辿り着くことができたのだ。
「やっと笑ってくれた」
「え?」
「自覚ないんだ?」
ふふっと笑って、綱吉はそっと上げた左手で獄寺の頬に触れる。
まだ慣れないために少しだけ距離感が狂ったが、めざとくそれに気付いた獄寺が少しだけ切なげに目を細めた後、優しい手付きでその手を取り、手のひらに小さなキスを贈ってくれたから、もう構わないと思えた。
いつか右目の視力を完全に失っても、その先に左目の視力すら失うことになったとしても、獄寺はきっと傍に居続けてくれる。
この目が見えないことを世界中の誰よりも悲しみながらも、きっとそれを超える愛情で包み込んでくれるだろう。
唇に触れる優しい温もりを感じながら、諦めなくて良かった、ともう一度泣きたいほどの幸福の中で綱吉は思った。
* *
「それじゃ、また明日」end.
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