きらきら 2
あの日、怪我を負わなければ。
右目の視力を失わなければ。
君も、君の夢見た未来を失わずにすんだ。
すべての元凶は、
君を悲しませ苦しませたのは、
自分、なのに。
何故 君は ここに いるの?
* *
今朝、目が覚めて以来、何度確かめたか知れない携帯電話の小さな液晶画面を見やって、綱吉は小さく溜息をついた。
今日ばかりでない。先日以来、朝起きた時から夜寝る時まで携帯電話を手放せなくなっている。昨夜などは、夜中にふと目覚めて着信を確かめてしまったほどだった。
「レポートの締切は今日だって言ったんだから……」
あの異常なほど綱吉に気を使う獄寺が、締切当日である今日、日がある内に連絡をしてくるとは到底思えない。
だが、それでも綱吉は、着メロなど鳴ってもいない携帯電話の確認を繰り返すことを止められなかった。
馬鹿みたいだ、と自分でも思う。
必ず連絡をくれるはずと思う一方で、このままもう二度と、声を聞けないのではないのかという不安もどうしても振り払えない。
もしかしたら自分は、一生、彼からの電話を待ち続けて――携帯電話の番号もアドレスも変えることすらできずに過ごすのかもしれない。そんな馬鹿げた妄想すら頭をもたげてくる。
そしてその想像は、あまりにも滑稽なのに、あまりにもリアルで、綱吉は自分を笑うこともできなかった。
「……獄寺君……」
最後に会ったのは、二年余り前、夏の終わりの退院の日のことだった。
綱吉が事故に遭って以来、めっきり口数が少なくなった獄寺は、その日も短く「どうぞお元気で」という一言だけで去ってゆこうとした。
綱吉の方も、何か言えたわけではない。
君も元気でね、今までありがとう。そんなことを口にするのが精一杯だった。
けれど、深々と頭を下げ、背を向けて立ち去ろうとした彼の名を、もう一度呼ばずにはいられなかった。
獄寺は振り返ってくれたが、そのひどく辛そうな、苦しげな瞳に告げるべき言葉はやはり見つからず、さよなら、としか言えなかった。
そして獄寺も、いっそう辛く悲しい何かを瞳によぎらせて「さようなら、沢田さん」と告げ、今度こそ去っていってしまい、綱吉も、もう彼の名前を呼ぶことはできなかった。
さよなら、と誰かに告げたのは、あれが最初の経験だった。
またねとか、バイバイとか、再会を前提にした別れ言葉なら日常的に使っていても、本当の永別を意味する別れ言葉は、それまでの綱吉には無縁のものだった。
だから、さよなら、という言葉がどれほど悲しいものか、あの日まで知らなかったのだ。
二度と会えないことを自覚して使う言葉が、どれほど深々と心を切り裂くのか。
皮肉にも一番最初に告げた相手が獄寺だったことで、綱吉は「さようなら」という言葉の持つ意味を――気持ちなど関係なしに、ただ別れるしかない悲しみを、その痛みを、身をもって知ることになった。
あの時、彼に本当は何を言いたかったのか、今なら自分の心が分かる。
言葉少なく別れを告げて背を向け、立ち去っていこうとした獄寺に、本当は自分は何を告げたかったのか。
何故、彼の名を呼ばずにはいられなかったのか。
今なら、それが分かる。
だから、先日、獄寺に自分の携帯電話の番号とメールアドレスを告げたのだ。
叶うならばもう一度、否、何度でも会いたかったから。
お願いだから電話をかけて、メールをして、と。
その思いが伝わったのかどうかは分からない。伝わったところで、獄寺が連絡をくれようという気になるかどうかも定かではない。
それでも、願わずにはいられなかったのだ。
どうか、もう一度、と。
窓の外の空は、とっくに藍闇に暮れてしまっている。いつもなら夕飯も済ませている頃合だった。
あの頃の獄寺は、綱吉が夜更かしに弱いことを気遣ってか、夜八時を過ぎてから電話をかけてくることは少なかった。
今日ももう連絡はないかもしれない、と思いながら、綱吉は手の中の携帯電話を見つめる。
先日再会した際、綱吉自身は携帯電話を持っていないわけではなかった。ダッフルコートのポケットの中にあったそれを取り出して番号交換をしなかったのは、次に話をする機会は、獄寺の意志が伴っていて欲しかったからだ。
二年余り前、家庭教師からボンゴレリングを返還するという通達と共に、これからのことを聞かれて、イタリアに帰ることを選んだのは獄寺自身だった。
別離の道を選んだ獄寺が綱吉との再会を望んでいたとは考えにくいし、喜んで連絡してくるとも思えない。
だからこそ、綱吉は四日前、連絡するしないの選択を獄寺に委ねたのである。
どうしても会いたくないというのなら、それも仕方のないことだと自分に言い聞かせながら。
もう諦めるべきだろうか、と携帯電話を見つめ、小さな溜息と共にこたつテーブルの上に置く。
時刻は既に、九時近い。
食事もせずに、かかってこない電話を――送られてこないメールを待ち続けるのは、無駄な行為ではなくとも、どこかみじめではあった。
やっぱり会いたくなかったのかな、と唇を小さく噛みながら、綱吉はテーブルの上で組んだ腕に顔を伏せる。
そのまま何分が過ぎたのか。もしかしたら少し、うとうとしていたかもしれない。
不意に鳴った着信を知らせるメロディーに、綱吉はびくりと飛び起きた。
テーブルの上でイルミネーションを点滅させている携帯電話を手にとると、液晶に浮かんでいる番号は未登録のものだった。
違うかもしれない、とはやる心を押さえ付けながら、小さく震える手で携帯電話を開く。
通話ボタンを押す指だけではなく、全身までもがかすかに震えているのを感じた。
「――はい、沢田です」
名乗って待っても、応答する声は返らなかった。
けれど、決して悪戯電話などではない張り詰めた気配を電話の向こうに感じて、綱吉はそっと、獄寺君?と呼びかける。
すると、『……はい』と低い返事が聞こえた。
けれどそれきり、言葉が続かない。
ぎゅっと電話を耳に押し当て、綱吉はもう一度、「獄寺君」と呼んだ。
「はいかいいえか、どっちかで答えて。――明日、会える?」
返事が返るまでには、数秒の間があった。
『はい』
短過ぎて感情の読めない低い声に、綱吉は眉をしかめる。
「獄寺君、無理に俺に合わせないで。駄目なら駄目、嫌なら嫌でいいんだよ。俺は君に、無理に会って欲しいわけじゃない」
はっきりとした口調でそう告げると、電話の向こうで少しばかり慌てた気配がした。
『嫌だなんて……、そんなこと絶対にないです、十代目』
十代目、と口にした次の瞬間に、はっと息をのむ声がありありと聞こえて。
綱吉はそっと目を伏せた。
『すみません、俺……』
「ううん、いいよ。君はずっと俺をそう呼んでたんだから、つい出ちゃっても仕方ないと思うし。気にしないで」
『……すみません』
「それよりも、明日、本当に会えるの?」
『あ、はい。それは大丈夫です。本当に予定は空いてますし……』
「そう、ならいいけど」
じゃあ、と綱吉は待ち合わせ場所を考える。先日以来、それについて考える時間は山ほどあったから、一番妥当だろうと思われる場所を口にした。
「この前、俺たちが会った、あの交差点。あそこで待ち合わせでもいい?」
『はい』
あっさりと獄寺は承諾する。彼は今、どこに住んでいるのだろうと思ったが、口に出しては尋ねなかった。代わりに、待ち合わせ時間を彼に委ねる。
「時間は俺が合わせるから、君の都合のいい時にして。俺はもう学校も休みだし、バイトもないし」
『……アルバイトされてるんですか』
「大したのじゃないよ。プレゼミの教授に、いいように雑用に使われてるだけ。時給もうんと安いし、お昼のコンビニ弁当が報酬だとかで言って、バイト代をごまかされることも多いし」
入学間もない頃にひょんなことで顔見知りとなり、その後は事あるごとにこき使われるようになった、偏屈で横柄で人使いの荒い、だけど奇妙に憎めない退官間近の老教授を思い浮かべて、苦笑しながら綱吉は答える。
『そうなんですか』
「うん。教授ももう休みに入ってるから、俺のバイトも休みなんだ。教授は湯治に行くとか言ってたし、多分、新学期近くまで呼び出されることはないと思う。本当に暇だから、時間は君の都合のいいように決めて」
『……それなら、あの場所に午後二時でどうですか?』
「いいよ。午後二時だね」
『はい』
そしてまた、沈黙が落ちる。
短いそれを打ち切ったのは、今度は獄寺の方だった。
『それじゃ、また明日に』
「うん。……獄寺君」
『はい?』
「電話、ありがとう。それから、かけさせてごめんね」
『……いいえ。嫌だったら、かけたりはしませんでした。それは本当ですから』
「……うん。ありがとう」
『いえ……それじゃ、おやすみなさい』
「うん、おやすみ」
別れの言葉を口にはしたものの、すぐには電話を耳から話すことはできなかった。
けれど、それ以上の言葉は見つからず、綱吉はゆっくりと携帯電話を持つ手を下ろして、スローモーションのような動きで通話を解除する。
思い出したように再び体が小さく震え始め、おののくように力の入らない手のひらに、携帯電話を握りしめた。
「明日の、二時」
そっと呟いて、目を閉じる。
会える嬉しさと、会うことへの恐れが、水中を浮かび上がる細かな泡のように入り乱れて、とても気持ちが鎮まらない。
今夜は眠れないかもしれない、と思った。
* *
待ち合わせの交差点は、綱吉のアパートから歩いて十分ちょっとの所だった。
少し余裕を見て、二十分近く前に部屋を出る。
晴れてはいたが街を吹き抜ける風が、気温よりも遥かに体感温度を低く感じさせる。マフラーをした首をきゅっとすくめて、綱吉はゆっくりと歩き出した。
あの場所には待ち合わせ時間よりも五分以上早く着いたが、獄寺はもう先に着ていた。
交差点より数歩離れた位置で、目線を落として道路標識に寄り掛かるようにして立っているその姿は人目を惹かずにはおかない存在感があるのに、ひどく所在なげに見えて、綱吉は何かに押されるように足を早め、近付いた。
「沢田さん」
綱吉が交差点を渡り終えた所で、獄寺はふと顔を上げ、こちらを見る。
だが、その美しいとさえ形容できる端正な顔に浮かんだのは笑顔ではなく、微笑未満の曖昧な表情だけだった。
「ごめん、待たせちゃったね」
「いえ、俺もついさっき、来たばかりですから」
それが本当ならいいけれど、と綱吉は思う。
獄寺は昔から、自分を待つことを苦にしなかった。今はどうかは分からないが、それでも彼のことだ。十分以上前にはここに来ていたのではないだろうか。
だからこそ自分も早めに出てきたのだが、やはり獄寺にはかなわなかった。
そのことを嬉しがるべきなのか、悲しがるべきなのか。
分からないと思いながら、綱吉は獄寺を見上げる。
「これから、どうする? 何か考えてある?」
「沢田さんは?」
「俺は特に、何も」
行きたい場所や見たいものなど、今は何一つない。
そんな綱吉の気持ちを感じ取ったのか、獄寺は、それなら、と言った。
「ちょっと歩きますけど、割といいコーヒー専門店があるんです。そこでもいいですか?」
「うん」
綱吉は迷いなくうなずく。
どこでも構わなかった。話をできるのなら。どれほど短い時間であっても、一緒にいられるのなら。
「じゃあ、行きましょう」
こっちです、と獄寺が示す。
そうして歩き出しながら、さりげなく彼が自分の右側に並んだことに気付いて、綱吉は思わず獄寺の横顔を見上げた。
獄寺は、以前は自分の左側を歩くことが多かった。
おそらく左利きの彼は、咄嗟の場合には綱吉が右側にいた方が庇いやすかったからだろう。
そして今、右側を歩いているのも一緒のことだった。
右目の視力が殆どない綱吉は、右側の死角がうんと大きい。
とりわけ、自分より身長が低い人間――女性や子供、老人が右方向や右後方から近付いてきた時は、まず目視で認識することはできない。
幸い、かつての生活の中で鍛えられた感覚の鋭さと、なるべく道路の右端を歩くようにしていることから、これまでさほど危ない思いをしたことはないが、それでも外を歩いていて人や物にぶつかることは、ままある。
それを察して、死角を補うために獄寺が当たり前のように右側に歩いてくれることは、綱吉の心の深い部分を静かに揺さぶった。
今に限らず、獄寺のすることは、いつも綱吉の心を強く揺さぶる。
最初に出会った頃は、揺さぶられるというよりも悪い意味でハラハラドキドキしっぱなしだったのに、いつの間にかそれが変わって、幾度目かの春を迎える頃には、獄寺の言葉の一つ一つ、表情の一つ一つ、仕草の一つ一つが、大切な意味を持つようになっていた。
なのに、やっとそのことに気付きかけていた時に、綱吉はあの事故に遭ったのだ。
だから、綱吉が本当に自分の心に気付いたのは、獄寺に「さよなら」と告げた時だった。
もう取り返しのつかない最後の時になって、「さよなら」の意味と同時に、自分の心が揺さぶられることの意味をも理解した。
悲しいということを、辛いということを本当の意味で、あの日、知ったのだ。
―─―もう二度と会えないのだと思っていた。
だからこそ、会いたかった。
そして今、獄寺は自分の右側を歩いている。
昔に比べたら幾分ゆっくりとなった自分の歩調に合わせて、同じようにゆっくりと。
あの頃のように無邪気な笑みを見せることもない。
あの頃のように、やたらと世話を焼こうともしない。
けれど、それでも。
彼は、今、ここにいてくれる。
「あの店です」
二度ほど角を曲がって、表通りから離れた小綺麗で少しばかりレトロな雰囲気の漂う住宅街の道を黙って歩いていた獄寺が、ふとそう告げる。
どこだろう、と前方に視線をさまよわせるうち、ヨーロッパの古い店のように壁に錬鉄製の看板を飾った、店鋪らしき建物が住宅と住宅との間にあることに気付いた。
この街は戦時中、一面の焼け野原になったはずだから、戦後すぐくらいに建てられたものだろうか。小さくてモダンな二階建てのくすんだ白い壁に蔦がはっているのが、レトロな雰囲気をいっそう強めている。
「なんだか雰囲気のある店だね」
「中はもっとですよ。六十年くらい前に新築して以来、一度も改装してないそうですから」
答える獄寺の声と表情は、少しだけ和らいでいる。けれど、微笑むと称するにはまだ足りなかった。
店の入り口のドアを獄寺が押し開けると、ドアの上部に付いていたらしい純銅製のカウベルが、からんとやわらかな音を響かせる。
いらっしゃいませ、という店主らしい初老の男性の声とコーヒーの香りに迎えられて見ると、獄寺の言った通り、くすんだ焦茶色の柱や窓枠と白い漆喰の壁、年代を経て磨かれた艶やかな茶色い木製のテーブルセットと、こればかりは新しい窓を縁取る薄青のカーテンとの対比が、とても落ち着いていて綺麗だった。
窓際のテーブルを選んで腰を下ろし、獄寺が開いてくれたメニューに目を通す。
が、コーヒーについては好きであってもこだわりがあるわけではない。
とりあえずという感じで綱吉はブレンドを頼み、綱吉とは違って昔からこだわる方だった獄寺はブルマンを頼む。
そこまで終えた所で、やっと綱吉は落ち着いて向かい側に腰を下ろす獄寺の顔を見つめた。
何を話すかは決めていなかったし、何を話したかったのかも今は思い出せない。
けれど、この一分一秒を無駄にはするまいと、そう強く綱吉は思った。
to be continued...
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