夜空に星があるように
11.
二日目の朝も、天気は悪くなかった。
ほぼ快晴で、時折空を千切れ雲が横切っていく。山上の気候はいつ崩れるか分からないが、インターネット上のピンポイント予報を見る限り、少なくとも夕方までは大丈夫だろうと思われた。
いつも通りの時刻に目覚めた獄寺は、日の出直前の薄暗い中、保養所の表に出てみた。
天気が良いせいだろう。辺りからは無数に小鳥の鳴き声が聞こえてくる。降り積もった雪に吸収されがちではあったが、それでも周囲が豊かな山林であることは十分に伝わってきた。
夜の間に雪が降ったものの、降雪量は大したことはない。レンタカーも全体的に十センチほどの雪に覆われているだけだった。
保養所の玄関に置いてあった除雪用のプラスチックショベルで、車体に積もった雪をどける。大した運動ではなかったが、大型ワンボックス二台分の除雪を済ませると、多少身体は温まった。
保養所からゲレンデまでは、車で四十分ほど。夏場なら半分の時間で行けるだろう。
温泉地にありながらも普段無人であるために浴場の湯は水道水だったが、その点に目をつぶればまず文句なしの立地だった。
作業を終えて、獄寺は周囲へとまなざしを向ける。
一面の銀世界というのは、馴染みのない空間だった。
無論、生まれ故郷のシチリアにも雪は少ないながらも降るし、標高三千メートルを越えるエトナ山は夏でも冠雪している。だが、イタリアの冬のリゾートは北イタリアのアルプス地域が本場だ。
幼少の頃は毎年、北イタリアのドロミテにある冬別荘に連れられて行ったから、雪遊びの経験がないわけではないし、雪が嫌いというわけでもない。
だが、冬木立は夏木立に比べれば見通しがよいことや、不審者の跡を追いやすいことを差し引いても、音が吸収されやすくなる積雪も、寒さで身体の動きが幾分鈍ることも、今の立場からすれば歓迎できることではなかった。
とはいえ、この卒業旅行が楽しくないといえば、全くの正直ではなくなる。
楽しいと手放しに言い切ることはできなかったが、それでも一年ぶりのスノーボードは純粋に爽快だったし、日本での最後の思い出作りとしても悪くないと思う。
ただ、獄寺の中には、卒業旅行も銀世界も関係なしにわだかまっているものがある。
どうにもならないものであることは百も承知だったが、それが今は少しばかり辛く、この二泊三日を楽しみ切れない原因にもなっていた。
「───…」
やり場のない溜息をつき、車の傍を離れる。
リボーンがこの旅行に参加していないということは、つまり逆に外からの警護の目にリボーンが加わるということであり、安全面については全くといっていいほど心配はなかったが、それでも自分の目で確認しないことには安心しきれない性分である。
保養所の外周を一周して室内に戻ろうと歩き出し、周囲の様子を確認しながらL字型の建物を回りこむ。
そうして南面の中程まで来た時、上方から窓を開閉する音が聞こえた。
反射的に振り仰ぎ、ベランダに出てきた人影に軽く眉をしかめる。相手もまた、一面の銀世界の中の黒っぽい服装の獄寺はすぐに気付いたらしく、驚いたようにまばたきするのが見えた。
だが、それも一瞬のことで、相手はすぐに室内に戻ってゆき獄寺の視界から消える。
小さく溜息をつき、もう一度歩き出そうとした時、ポケットの中で携帯が鳴った。
着メロを止め、開いて小さく目をみはる。
『談話室』
件名のない一言だけのメールの送り主は、黒川花。
昨夜、綱吉とどこか思わせぶりな気配のする会話をしていた、かつてのクラスメートだった。
一方的に呼びつけられたからといって、律儀にそれを守る必要はない。
そう考える獄寺は、当初の予定の外周の確認を済ませてから、やっと保養所の中に戻った。
談話室は独立した部屋ではなく、保養所の玄関と、奥の食堂や浴場、そして二階へ上がる階段との間、ホテルでいうのならロビーに当たる通り抜け空間である。
寒さの厳しい立地ゆえに、玄関側にも廊下側にもドアは取り付けられているが、透明な化粧ガラスのはまったデザイン的な木製ドアで、誰かが近づけば透かして人影が見える。
屋外や食堂で話していれば誰が聞きつけるか分からないし、獄寺の使っている寝室は個室ではあるものの、言い訳しなければならないような行動を嫌う黒川は入りたがらないだろう。他の空いている部屋も同様である。
そう考え合わせると、仲間たちがいるこの限られた空間では、談話室はベストな選択だと認めざるを得なかった。
「遅いわよ。何分待たせるつもり?」
「勝手に呼びつけといて、何言ってやがる」
玄関側のドアを開けた途端、そんな言葉が飛んでくる。
十八にもなって見てくれだけは女らしくなったものの、所詮性格は変わらないと溜息をつきながら、獄寺は暖炉の前にいる黒川に歩み寄った。
どうやら彼女は、暖炉に火をつけようとしていたらしい。確かに、暖房の切ってあった室内は零度に近く、エアコンをつけても広い空間だけに簡単には温まらない。
どうせこの後、面々が起きてくればここで朝食を取るのであり、これもまた悪い判断ではないと心の中では認めながらも、獄寺は表情は無愛想なまま、彼女の手からマッチを取り上げた。
「で? 用件は何だ」
細めの薪を選んで組み上げた間に古新聞を押し込み、マッチを擦って焚き付けに火をつけ、その炎を少し大きくしてから古新聞に火を移す。
黒川は室内にもかかわらずダウンのジャケットを着込んでいたが、それでも寒かったのだろう。薪の具合を調節する獄寺と並んで、暖炉の前にしゃがみこんだ。
「見当ついてるでしょ。昨夜の話よ」
「────」
馬鹿な女は嫌いだが、小賢しい女も褒める気にはなれない。男に生まれたが故の自然なものの考え方を除いて男尊女卑の思考は持っていないつもりだったが、獄寺はあまりこの女が好きではなかった。
鋭すぎるし、クールすぎる。ある意味、自分の性格とは水と油だ。
そう分かっていたから、これまで積極的に会話をしたことは一度もない。いつも必要に迫られての最低限の言葉を交わすだけだった。
だが、そんな黒川の次の言葉は、獄寺の度肝を抜いた。
「昨夜、沢田と私が話してたのは、あんたのことよ」
暖炉の火に手をかざしながらのその言葉に、思わず獄寺は表情を険しくして彼女を見つめる。その視線に反応してか、黒川は獄寺の方へ顔を向けたが、相当に険悪だろう獄寺のまなざしには眉一筋すら動かさなかった。
代わりに、ちらりと首を動かして、背後の廊下に続くドアを伺う。
誰もそこにはいないことを確認してから、声を低めて続けた。
「沢田があんたのことを見ているのは、昨日一日で分かったわ。でも、それならなんで、あんたたちが幸せそうに見えないのか。分からなかったからそう言ったのよ」
「……!?」
獄寺が声を上げなかったのは、単に驚きすぎたからだった。
黒川の言葉は、あまりにも様々な暗喩を含んでいた。その中には、獄寺自身の感情も当然として織り込まれている。
だが、黒川は獄寺の反応になど構わず、勢いよく燃え上がり始めた暖炉の炎を見つめたまま続けた。
「でも、全部あんたたちの隠し事に繋がるんでしょう、って言ったら、沢田は肯定も否定もしなかった。まあ、私がしなくてもいいって言ったんだけど。そうしたら、ありがとうって言ったわ。あいつも大概、お人好しよね」
「……そんな話をしたのか」
獄寺の低い声に含まれる怒気を感じ取ったのだろう。やっと黒川は、獄寺の顔に目線を戻す。
「正直、悪かったと思ってるわ」
静かな声だった。許しを請う媚など微塵もない、ただ罪を認めるだけの声。
「どうしようもないことなんでしょ、全部。私は何にも知らないし、知りたいとも思わないけど、あんたたちがとんでもない隠し事をしてることくらいは聞かなくても伝わってくるわ。──それは分かってたのに、昨日はつい、お酒の勢いで言わなくてもいいことを言っちゃった。
私の言葉くらいで沢田が傷ついたとは思わないけど、でも余計な言葉だったのは間違いない。あいつにだけでなく、あんたにとってもね」
「────」
「あんたに話したのはね、沢田はあんたには話さないと思ったのよ。でも、それじゃまずいような気がしたの。でも昨日はもう、あんたと話せる機会はなかったし……。そうしたら、朝起きてベランダに出たら、あんたがいるじゃない。神様がチャンスをくれたんだと思ったわよ。私は無神論者なのに」
淡々と言葉を紡ぐ黒川に、獄寺は憤りと共に呆れと賞賛をも覚えた。
こんな話を打ち明ければ、獄寺が激怒することは想像がついていただろう。だが、それでも話す潔さと度胸には呆れるしかなかったし、また獄寺にも話すという判断には賞賛を送るしかない。
確かに、これは綱吉一人が胸に収めてよい話ではなかった。
綱吉が一般人であるのなら、別に構わない。だが、今の綱吉には重い地位がついて回る。獄寺にもだ。
そして、綱吉と獄寺の間にある感情は、他人には決して気付かれてはならない類のものだった。
おそらくは、黒川もそのことを察したのに違いない。単に同性同士というだけではない、二人を押しとどめる何かに感づいたからこそ、報復されることを覚悟の上で獄寺にも話したのだろう。
ベストの選択には手が届かないと承知している。だが、ベターに繋がる選択をするためには保身をも厭わない。
黒川の言動は、そんな彼女の性格を見事に現している。
自分と彼女の性格が合わないことは百も承知である。だが、彼女が一般人でなければ、仲間として、あるいは部下として欲しい。
一瞬ではあるが、獄寺は本気でそう思った。
「私の話はこれだけよ。安心して。私はこれ以上、あんたたちには近づこうとも思わないから」
そう言うと、黒川は立ち上がる。そしてしわを伸ばすように、コーデュロイパンツの表面を払ってから、暖炉の前を立ち去ろうとした。
咄嗟に獄寺は、彼女を呼び止める。一言も無しに行かせていい相手ではなかった。
「黒川」
「何?」
「お前の判断は間違ってねえ。俺にも話してくれて……良かった。沢田さんに話したこと自体は余計だったがな」
「……そう。それなら良かったわ」
黒川の硬質な表情が、僅かながらやわらかくなる。
友人とは、互いに決して呼べない。だが、元クラスメートと呼べる程度の情を、獄寺に対しても彼女が抱いていることは、その表情から読み取れた。
そんな感情を自分に対して持っていてくれていること自体が獄寺にとっては驚きだったが、それでも黒川が、単純かつ下世話な好奇心で綱吉や自分に一連の話をしたのではないことだけは、はっきりと理解できた。
何のことはない。この女もお人好しなのだ。あの笹川京子と何年も親友をやっているだけのことはある。
癖はあるものの、困っていたり苦しんでいたりする仲間を黙って見過ごせない。ここに今、集(つど)っている連中と同じ、何の特にもならない性癖を彼女も持っているのだ。
「そういえば、獄寺。私をこの旅行に誘ってくれて、ありがとう。そのことだけは御礼を言わなきゃと思ってたのよ」
「どうして俺に? お前を誘ったのは笹川だろ」
「でも、それを許可したのはあんたでしょ。沢田は京子に頼まれたらOKしないわけはないけど、あんたの意見を聞かないはずもない。あんたが徹底的に反対したら、私が今ここに居るはずないわ」
「……俺は沢田さんが決められたことには反対しねえ」
「それが、沢田のためにならないことでない限り、でしょ。狂犬と紙一重のあんたの忠犬っぷりは、中学の時から見てんのよ」
皮肉っぽく微笑み、それから黒川は、ふっと表情を消して暖炉の炎にまなざしを落とした。
「──あんたたちが何を背負ってるのかは知らないけれど。京子やハルを泣かせるのはやめてね。あんたたちの誰に何があっても、あの二人は泣くわ。それがあんたでも。……私だって面白い気分にはならない」
「……黒川……」
「あんたとこんな話するのも、きっとこれが最後よ。沢田とも。だから、全部言っておきたかったの。自己満足だってことは分かってたけど、思ってたこと全部」
純粋な黒に近い彼女の瞳の中で、暖炉の炎が踊る。
その様子を獄寺はただ、見つめた。
「それじゃあね、獄寺。私は部屋に戻るわ。そろそろ京子たちも起こさなきゃ」
いつもの表情で淡い笑みを浮かべて、黒川は今度こそ踵(きびす)を返す。
その後姿を、獄寺は黙って見送った。
───本当ならば、彼女の口を封じる方法を考えるべきなのだろう。
自分も綱吉も、そういう立場にある人間だった。
だが、奇しくも綱吉が口にした言葉が脳裏に蘇る。俺は黒川を信じたい、と十日前に綱吉は言ったのだ。
黒川は、もうこれ以上近づこうとは思わないと言った。それは真実だろう。
彼女は、決して真実を知ろうとはしない。誰かに自分の考えを語ろうともしない。同い年の、しかも仲間ですらない少女の言葉だったが、獄寺はそれを疑う気にはなれなかった。
立ち上がり、身体の向きを変えてマントルピースに背を預ける。そして、立ち去っていったばかりの黒川の姿を思い浮かべる。
潔い後姿だった。凛として強い。
自分たちにさえ関わらなければ、この先、彼女は彼女なりの人生を歩いてゆけるだろう。
だから、遠くにいて欲しい、と思わざるを得なかった。
半分足を踏み込んでしまった少女たちのようにならず、ずっと向こう側の人間であり続けて欲しい。
自分と綱吉のために、そして彼女のために、心の底からそう願った。
12.
晴天に恵まれた二日目も、ゲレンデはやはりほどほどに混んでいたが、週末を避けた分、混みすぎてどうにもならないというほどではなかった。
上級者用のコースには十分にスペースがあり、スノーボードもスキーも思う存分に楽しむことができた。
日が傾くまで遊び、山の稜線に弱く輝く冬の太陽が消えるのとほぼ同時に保養所に戻って、今度は夜のお楽しみ──食事と酒の準備をする。
これには昨日とは違って、男たちが主体になった。二日続けての雪遊びは、男たちはともかくも女性陣にとっては体力的に辛いだろうと配慮したのだ。
もともとそのつもりで、二日目の夜は焼肉と決めてあったから、下準備も肉や野菜を切るだけのことだった。それくらいのことなら綱吉と獄寺も難なくこなせるし、家事については致命的に不器用な了平でも、力任せにカボチャやサツマイモを叩き切るくらいのことはできる。
幸い、誰一人として包丁で指を切り落とすこともなく、焼肉パーティーの準備は整った。
「えーと、それじゃあ今日もお疲れ様でした」
そんな綱吉の代わり映えのしない音頭で乾杯が交わされ、熱されていた鉄板に肉や野菜が投入される。たちまちのうちに食欲をそそる、焼けた油の匂いが辺りに漂った。
「ハル、今日は飲みすぎるなよ」
「大丈夫ですよぅ。でも、ツナさんが心配してくれて嬉しいです♪」
席割りは誰かが決めたわけではなく、銘々が適当に腰を下ろしただけだが、ハルはちゃっかりと綱吉の隣りに陣取っていた。
昨日の悪酔いに懲りたのか、今日はチューハイに氷を入れて更に薄め、烏龍茶のグラスまで確保してちびちびと飲んでいる。その様子は年相応というよりはかなり幼く見え、綱吉は微笑ましいものを覚えた。
こんなハルを見るにつけ、これから何があっても彼女が変わらなければいいと思わずにはいられない。
綱吉たちとは別口とはいえ、イタリアに渡れば、ハルもきっと嫌なものや辛いものをたくさん目にすることになる。一旦ボンゴレと縁を持ってしまった以上、それは避けられないことだろう。
彼女が自ら飛び込んできた結果ではあるし、彼女なりに覚悟もしているのだろうが、時には過酷な思いをすることが決してないとは言えない。
それでも彼女が彼女らしさを失わず、笑っていられるかどうかは、実質、綱吉の肩にかかっている。
ハルのことを大切に思ってはいても女性としては愛せないし、正式なファミリーとして引き込む覚悟もできない。
綱吉にできるのは、友人として最大限、彼女を守ること。それだけなのだ。
そして、ハルもそれでいいと言ってくれた。だとすれば、綱吉はその誓いを守り通すしかない。それが二人の関係の行き着くところだった。
「はい、ツナさん、どーぞ♪」
程よく焼けた肉を皿に取り分けて、ハルは嬉しげに綱吉に差し出す。
「ありがと。ハルも食べろよ」
「ハイ、食べますよー」
綱吉が礼を言うとにこにこと笑ってハルは、言葉通りに自分の箸を取り、熱々の肉を可愛らしく頬張る。途端、熱ーい美味しーいという歓声が上がった。
その様子に微笑みながら、綱吉もまた自分の皿に箸をつけた。
ハルの良いところは、素直である以上に愛情に押し付けがましさがないことだ。綱吉のことを好きだと言い出した中学生の頃から、それはまったく変わらない。
自分の気持ちを伝えようと懸命ではあるが、その表現方法は常に、どうしたら綱吉の役に立てるか、喜んでもらえるかという視点に基づいている。
もし独善的な視点で一方的に押し付けられるのであれば、綱吉も仲間としての好意すら抱くことは難しかっただろうが、そうではないから、綱吉はハルがこうして隣りにいても重さを感じない。彼女が笑っていられるのならいい、そんな風にごく当たり前に思えるのだ。
「そういえばハル、ローマで住む場所とかは決まってるの?」
「あ、はい。学校の寮に入ろうと思って申請してます。抽選率がちょっと高いみたいなので運任せなんですけど」
「そう」
うなずきながら考える。
学生寮に入れるのなら、それに越したことはない。だが、もし希望が叶わなかった場合、綱吉が多少手助けをするくらいのことは多分、許されることだろうし、またハルの安全のためにも必要なことだろう。
「じゃあ、もし駄目だった時は俺に言って。獄寺君に聞かないと分からないけど、ローマで条件のいい部屋を探すことの手伝いくらいはできると思うから」
「……え?」
綱吉の申し出に、ハルの目が丸く大きくなる。
だが、綱吉は笑って見せた。
「それくらいはね。あの国は色々といい加減だし、ヨーロッパじゃ抜け目ないのは悪いことじゃないから、のほほんとしてると、とんでもない物件を契約させられちゃうこともあるんだよ。地区によっては物騒な場所もないわけじゃないし」
「でも……」
ハルの目に珍しく戸惑いが浮かぶのは、この留学については一切、綱吉には頼ろうと思っていなかったからだろう。
綱吉が賛成するわけはないのに、自分の我儘で追いかけてゆく。その責任を取るために、すべて自分の力で頑張るつもりだったのに違いない。
その志は尊いと、綱吉も思う。だが、あの国はそれだけではすまない部分もあるのだ。ましてや、ハルは外部から見れば、本人たちがどう言おうと綱吉の関係者である。生半可なことでは身の安全を守れない可能性もないわけではない。
「言っただろ、ハルのことは守るって。これもその一つだよ」
綱吉はさらっと言ったつもりだった。
だが、内容が内容である。ハルにとっては爆弾発言であり、クリティカルヒットであったらしい。
「ツナさん優しいです!! 大好きです!!」
久しぶりに食堂中に響く声で叫び、箸も放り出して綱吉の腕にぎゅっとしがみつく。
何事かと仲間たちの視線が一斉に向けられ、さすがに綱吉も慌てた。
「ハ、ハル、落ち着けよ。今初めて言った事じゃないだろ」
「でも嬉しいです。ハル、幸せです」
窘(たしな)めに綱吉から離れはしたものの、満面の笑みは薄れない。頬を薔薇色に染めて、仲間たちに「えへ♪」と喜びを隠しきれない笑みを向け、鼻歌でも歌い出しそうな風情で箸を取り直す。
そんなハルの態度をどう受け止められただろうかと、綱吉は仲間たちの反応を伺ったが、さすがにハルの直情径行な感情表現には皆、慣れっこになっているようだった。苦笑するような、あるいは綱吉を励ますような微妙な笑みを見せて、それぞれの会話や食事に戻ってゆく。
その中でただ一人、向かい側の席にいた獄寺だけは笑みを浮かべることなく、綱吉を気遣うようなまなざしを見せていたが、口に出しては何も言わず、何でもないのならそれでいいとばかりに目線を外してビールの缶に手を伸ばした。
その一連の動きを目で追ってから、綱吉もさりげなく視線を彼から外す。
──今日は一日、綱吉は獄寺とはあまり会話を交わしていなかった。
いつもと同じような当たり前の会話はするものの、必要以上に互いに傍にはおらず、そこそこ近くにはいても、用のある時以外、殆ど目も合わせなかった。
綱吉がそうしたのはもちろん、前夜の黒川の言葉が原因である。
彼女とは長い付き合いであり、観察眼のある勘のいい女性だということをさておいても、たった一日で獄寺に対する想いを見抜かれたのは、綱吉にとっては少なからぬ衝撃だった。
気付かれたのが黒川だったから良かったようなものの、これがイタリアに渡ってからだったら、とりわけ獄寺の立場に致命傷を与えることになる。そうあってはならないと、自分の言動に修正の必要を痛感した綱吉は、今日一日、わずかにではあるが獄寺との距離を取ったのである。
そして不思議なことに、獄寺もそんな綱吉の態度について不審げな表情をするでもなく、その距離感を尊重するように踏み込んでは来なかった。
もしかしたら獄寺は、前夜の綱吉と黒川が会話をしていた雰囲気から何かを察したのかもしれないし、あるいは、綱吉が知らないところで二人が会話をした可能性もある。
いずれにせよ、獄寺の態度は綱吉にとっては正解だった。獄寺がもし不満もあらわに踏み込んできたら、綱吉は更に引き下がって距離を取るか、もしくは互いの立場をわきまえろと叱責をするしかなくなる。
しかし、獄寺は今日一日、自分の言葉にすらしていない要求に完璧に応えてくれた。
そのことは何にも替えがたくありがたかったが、胸が痛むのもまた、どうしようもないことだった。
そういえば、とビールの苦味を噛み締めながら、綱吉は考える。
今日の自分と獄寺の距離感には、山本や了平が不審を感じてもおかしくないのに、二人とも何も言わないどころか、何かに気付いた素振りすら見せない。
これまで考えてみたこともなかった、というよりも、その可能性に思い至らなかったのだが、もしかしたら彼らも、自分たちの間にある微妙な感情の動きに気付いていたのだろうか。
だが、綱吉たちが何も言わず、表面上は何も無いことにしようとしているから、彼らもそんな思いを察して沈黙を続けていてくれるのかもしれない。
だとすれば、それもありがたいことだった。
自分たちの想いを非難されるのはもちろん辛いが、何故幸せになろうとしないのかと煽り立てられるのも辛い。
自分も獄寺も、好きで沈黙を保っているわけではないのだ。押し殺すしかない埋火(うずみび)である以上、黙って知らぬ顔をしていてくれるのが一番の友情だった。
「──俺って、本当に色んな人に助けられてるなあ」
思わずぽつりと呟いた言葉に、ハルが反応して顔を上げる。ちょうど焼きジャガイモを頬張ったところだった彼女は、ぷっくりと頬の丸くなった顔で慌てて口をもぐもぐとさせ、烏龍茶で飲み下してから、改めて綱吉を見た。
「ツナさん」
「うん?」
「ツナさんは優しいですけど、その分、辛いこともいっぱいあると思うんです。だから、辛い時は辛いって言っていいですよ。ハルは、ツナさんが知らん顔をして欲しいのなら知らん顔しますし、聞こえなかったふりします。だから、いいですよ」
「────」
不思議に真面目な顔で、ハルはそう言った。
黒目がちの大きな目はまっすぐに澄んでいて、そのひたむきな印象は獄寺に良く似ている。否、他の仲間たちにもだ。
結局のところ、綱吉がどれほど拒もうと、彼女もまた仲間なのだ。ボンゴレであるかどうかなど関係ない。辛い戦いを乗り越えて、心を結び合わせたかけがえのない人々の一人だった。
「ありがとな、ハル」
自分が彼女にそんな形で甘える日が、果たして訪れるかどうか。可能性としては高くない気がしたが、そんなことはきっと彼女も分かっているだろう。だが、それでもそう言ってくれる心が嬉しかった。
そんな綱吉の思いが伝わったのか、ハルもにっこりと笑う。
「はい。いつでも寄りかかって下さいね。ハルもこれまでツナさんにいっぱい元気と勇気をもらいましたから、恩返しです」
ハルの明るい声に、俺は何もしてないよ、とは綱吉は言わなかった。
何をしたつもりはなくとも、誰かの心を動かすことはある。それは分かっていたから、黙って微笑み、また焼肉のプレートに意識を戻す。
獄寺に向かう感情を押し殺しながら、自分を幸せだと思うのは欺瞞であるかもしれない。だが、心を預け合える仲間たちが幾人もいることは、間違いなく幸せだと心の底から思った。
13.
食事とその後片付けが終わると、歓談の場は昨夜と同じように談話室に移った。
暖炉に赤々と火が燃えるのを眺めながら、備品棚にあったトランプをしたりオセロをしたりしているうちに時間は過ぎる。
男相手には容赦なくゲームに勝つ獄寺も、女子とはどうにもやりにくいらしく、特に京子に対してはオセロをしていても、京子がコマを置こうとすると「もっといい場所があるだろ」とぶっきらぼうに指摘するほどだった。
そんな様子を内心で面白がりながら、綱吉も勝ったり負けたり、ほどほどの勝負を幾つかこなし、山本にオセロで勝ったところで次のメンバーに席を譲った。
「やっぱり獄寺君は強いねー」
二戦目は最初から四隅のうち二箇所にコマを置くというハンデを獄寺にもらいながら、それでも負けてしまった京子が、笑顔で寄ってきて綱吉の隣りに腰を下ろす。
そんな彼女の様子に微笑みながら、綱吉はすぐ傍のテーブルに置いてあった烏龍茶の新しい缶を渡した。
「獄寺君はああいうゲーム、ものすごく強いから。ゲーム盤の縁全部に最初からコマを置くとか、ムチャクチャなことしない限り勝てないと思うよ。わざと獄寺君が負けるのは論外だしね」
「そうかも。──私、そっちの梅酒の方がいいな」
「ええ? 大丈夫? もう結構飲んでるよね」
「平気だよ。うちはお父さんもお母さんも強い方だし。私も中学生の頃から、晩酌にはちょっぴり付き合ってたし」
「そうなんだ、意外」
ぺろりと可愛く舌を出してみせる京子に、少し目を丸くしながら、そうまで言うのならと綱吉は梅酒の缶を取って烏龍茶と取り替えてやる。
確かに自己申告の通り、間近に見ても京子はさほど酔っている風はないし、こちらに歩み寄ってくる時も足取りはしっかりしていた。泥酔状態になったところをまだ見たことがないため彼女の酒量限度は分からないが、大してアルコール度の高くない缶の梅酒なら、確かにあと一本程度は平気そうに見える。
そして綱吉から缶を受け取ると、礼を言った京子は音を立ててプルトップを開け、くいと一口煽った。
「おいしー♪」
満足げなその一言に、綱吉は笑うしかなかった。つくづくこの少女は可愛い。見た目だけではなく、性根が素直で可愛らしいのだ。
「美味しいんなら良かった」
「うん」
うなずいた京子は両手で缶を持ち、暖炉の前でオセロ盤を挟んで向かい合っている山本と黒川を眺めやる。
あの二人は気質がどこか似ているのか、なかなかの好勝負を繰り広げており、その背後で獄寺と了平は無責任な野次を山本に向かって飛ばし、ハルは黒川に声援を送っている。
昨夜と同じ、それはとても良い風景だった。
「ツナ君」
ふと京子が名前を呼ぶ。いつもと同じ、優しく澄んだ温かい声で。
「ん?」
「花のこと……。花が昨夜、何を言ったのかは私、聞いてないけど、許してあげてね」
まっすぐに友人を見つめたまま、京子は言った。
「花は何も知らないけど、ずっと心配はしててくれたの。ツナ君たちが隠し事をしてることも、そんなツナ君たちと一緒にいる私やハルちゃんのことも。そんな風には見えないかもしれないけど、花はツナ君たちのことも、ちゃんと友達だと思ってるのよ」
「……うん。それは昨日、よく分かった」
京子の言葉に、綱吉も素直に応じる。
と、彼女の大きな瞳が綱吉を見上げた。
睫毛の長い、くるんと丸い大きな目。酔いのせいか少し潤んで見えるその瞳は、かつて綱吉がとても惹かれたころと変わらず、きらきらと光って綺麗で可愛らしかった。
「心配しなくていいよ、京子ちゃん。昨日、黒川が俺に言ったことは、俺のことを本当に思って言ってくれたことだったから。そんな風に……俺のことも友達だと思っててくれたんだなあって、すごく嬉しかった」
「ツナ君……」
京子はどう反応すればいいのか分からないかのように、泣きたいようにも微笑んだようにも見える表情で瞳を揺らす。
そして、綱吉から表情を隠すように、そっとまなざしを伏せた。
「そうなの、花は本当にすっごく優しいの」
「うん」
優しいのは京子もだった。そう思いながら、綱吉は黙ってうなずく。
すると、短い沈黙を挟んで、また京子が口を開いた。
「ツナ君……、イタリアに行っても、私たちのこと忘れないでね。ううん、忘れてもいいけど、時々は思い出して」
「京子ちゃん……」
前触れなしにそう言った京子の気持が咄嗟に分からず、綱吉は思わず彼女の名前を呼ぶ。
だが、その声に反応して顔をこちらに向けた彼女の目を見た瞬間、何もかも分かったような気がした。
京子は分かっているのだ。イタリアに渡ったら、綱吉が綱吉ではいられなくなる可能性を。
日本でのすべてを──十八年間のあらゆる出来事を、遠い思い出として心の隅に片付けるしかなくなるかもしれないことを。
綱吉が一生続く修羅の道を選んだことを知っているから、祈り続けてくれている。
綱吉が綱吉であり続けることを。
故郷で過ごした幼い日々の思い出くらいは、せめて遠ざけなくてもいられることを。
行かないでとは言わない。
大切な兄を連れて行かないでとも言わない。
すべてを知るからこそ心が磨り減るほど心配し、悲しみながらも、口に出しては何も言わずに、ただ祈り続ける。
そんな彼女の心を映した瞳は、言葉を失い、泣きたくなるほどに、美しく悲しかった。
「……忘れないよ、京子ちゃん」
胸を突かれるような思いに、言葉を探して惑いながら綱吉は告げる。
精一杯の思いを、大切な大切な少女に。
「絶対に忘れたりなんかしない。それに、皆もいてくれるんだ。お兄さんも獄寺君も山本も。俺は一人じゃないから。皆がいてくれる限り、俺は変わらない。約束するよ」
「──うん……」
かろうじて京子は涙が零れるのをこらえたようだった。
赤くなって潤んだ目をまばたかせてうなずき、それから梅酒の缶を握り締めて顔を伏せる。
「イタリアに行っても元気でいて。そして、お兄ちゃんをお願いします」
「……うん」
きっとそれは、彼女がずっと言いたかった一言だったのだろう。
その重みが分かるからこそ、大丈夫だとか、安易な気休めは口にできなかった。
この春から先に何が起こるかは、とてもではないが予想がつかない。何があるともないとも断言できないのだ。
それでも、こんな時には、男なら女性に向かって優しい思いやりに満ちた一言を口にするべきなのかもしれない。
そうとは思っても、綱吉にはやはり偽善めいたことは言えなかった。
「お兄さんも俺にとっては大事な人だから。ちゃんと守るよ。俺たちは守って守られる。そういう仲間なんだ」
せめてもの誠実さをもって告げる。
拙(つたな)い言葉の選び方ではあったが、込めた思いを心優しい彼女は汲んでくれたようだった。
「──ありがとう、ツナ君」
目は赤いままだったが、やっと京子は微笑む。
やわらかな色合いの花が開いたような笑みに、綱吉はリボーンが来る前、彼女の姿を見ることだけを楽しみに学校に通っていたことを思い出す。
優しく強い彼女は、その外見の可愛らしさだけでなく、ずっと綱吉の心を温かくしてくれる太陽のような存在だった。
獄寺のことを愛してはいても、京子を大切に思う気持ちは変わらない。おそらく生涯、彼女のしなやかな強さと優しさは綱吉の心の中に在り続ける──おそらくは彼女こそが、綱吉にとっての永遠のマドンナなのだろう。
だから、ハルに対するのとはまた少し違う思いで、綱吉は彼女の幸福を祈る。
京子が悲しみの涙を零さなくてもすむように、一人ぼっちだった頃の心を温めてくれた笑顔を失わなくてもすむように。
それは何があっても守り通すべき誓いだった。
to be concluded...
NEXT >>
<< PREV
格納庫に戻る >>