夜空に星があるように

1.

 刻一刻と時間は過ぎてゆく。
 そのことに焦りがないといえば、嘘になった。

 年が明けてしまえば、暦の上では春は目の前である。カレンダーもほんの二、三枚めくれば、春はもうそこにある。
 学校からの帰宅途中に駅前の商店街を抜ける途中、節分の声を聞いて綱吉は、ああ、と心の中で小さな吐息をついた。
「十代目?」
 言葉に出して何か言ったわけでもないのに、わずかに綱吉の歩調が鈍ったことに気付いたのだろう、獄寺が問いかけのまなざしを向ける。
「うん。……もう節分なんだと思って」
「……ああ、そうですね」
 商店街の目抜き通りは、節分というどちらかというと地味な行事よりも、バレンタインデーに向けてピンクや赤で華やかに飾り付けられている。
 だが、昔ながらの魚屋や乾物屋にとっては、バレンタインデーよりも節分の方が身近であるらしく、ピンクと赤の洪水の中に所々、鬼や豆、ヒイラギといった図柄が見え隠れしていた。
 綱吉も高校生であるからには、二月といえば節分よりもバレンタインデーの方が意識に上りやすい。
 にもかかわらず、今に限って節分を思ったのは、節分の翌日は立春であること……更に言うならば、節分のちょうど一月後に高校の卒業式があるからだった。
「節分にバレンタインデー、か。うちの学校もおかしいよね。どうして三年は、授業が二月十五日までなんだか」
 その理由としては、二月後半から私立大学の入試が本格化し始めるからということらしいが、十六日以降も卒業式まで教室そのものは閉鎖されるわけではなく、校内で自習したい者は自由に出入りできる。
 といっても、自習云々は就職組の綱吉たちには関係ないことであり、既に単位数も足りていたから、半月どころか二月を丸々休んでも、二人の卒業そのものには支障ないはずだった。
「十一日が金曜なんですから、いっそのこと、キリ良くそこで終わってくれると面倒が少ないんですが」
「まあねぇ」
 忌々しげな口調になった獄寺に、綱吉は苦笑する。獄寺の気持ちは、よく理解できるものだった。
 綱吉は、獄寺とは違い中学生の頃はとんとモテた覚えはないのに、高校に入って身長が伸び始めた途端、風向きが変わったように女生徒の注目を受けるようになって、相当に面食らった覚えがある。
 そうして分かったのは、モテても良いことはない、という何ともつまらない真理だった。
 バレンタインデーにしても、決してありがたくないわけではないが、大きな紙袋一杯のチョコレートをもらっても、処分には本当に困ってしまうのである。
 捨てて良いようなものではないし、いくら甘い物好きでも、毎日毎日チョコレートがおやつというのは一種の苦行に他ならない。
 また、チョコレートそのものにも原材料によって等級がピンからキリまであり、ブランド云々ではなく、混ぜ物の少ない純粋なチョコレートが一番美味しいという、ある意味当たり前の事実に綱吉が開眼したのは、奇しくもバレンタインデーによる意図しない食べ比べによってだった。
 否、単にチョコレートだけの問題ならいい。一月ばかり、多少の食欲の減退と戦うだけで済む。
 問題は、必ずやついて回る少女たちの気持ちだった。
「……でも、やっぱり行かないとね。十五日で本当に最後なんだし」
「まだ卒業式がありますよ」
「あるけど」
 獄寺はどこか憮然としていたが、それでも、サボりましょうとは言わない。いや、言えない、あるいは言いたくないのだろうと綱吉は推測する。
 その心情もまた、綱吉にはよく理解できるものだった。土日を除いてしまえば、あと高校に通うのは、実質十日しかないのである。
 そのリミットを目前にして、残された日々を惜しむか、あるいは、それならいっそのこと無にしてしまえと投げ捨てるか。
 詰まるところ、綱吉は後者ではなく、獄寺もまたそうではないということだった。
「まあ、バレンタインデーなんて一日だけのことだし」
 もちろん綱吉としても、少女たちの気持ちは重い。サボって逃げてしまえるのなら、それが一番楽だと思う。
 だが、彼女たちがささやかな思い出を望んでいるのなら、チョコレートを受け取るくらいは協力しても良いのではないかとも思うのだ。
 自分は決して、彼女たちが望むような答えは返せない。けれど、好きな人に好きと言えるのは、たとえ実らなくとも、言えずに終わるよりはほんの少しだけ幸せではないか、それくらいのことにならば協力しても良いのではないか、と。
 そんな風に考えるのは、綱吉自身が決して口には出せない想いを抱えているせいかもしれない。もしかしたら、彼女たちの中には、実らないのなら告白する意味などないと考える少女もいるかもしれず、そんな少女にとっては綱吉の考えは、傲慢な自己満足に過ぎないだろう。
 無論、綱吉としても告白を謝絶するのは気分が重い。避けて通れるものなら通りたいものだった。
 しかし、だからといって学校をサボるというようなやり方で、彼女たちの行動そのものを拒絶するような真似はできなかった。
 どんな形であれ、重さに軽重はあれど、人を想う気持ちは宝石に等しい。そう思うからこそ、謝絶するにしても正面から受け止めたかった。
「バレンタインデーにプラス一日学校行けば、もう終わるんだから。……行かないと、もったいないよね?」
「……はい」
 ちらりと隣りを見上げると、獄寺もかすかに複雑そうな表情を覗かせてうなずく。
 獄寺は学校という、とりわけ窮屈な環境を好んだことは、おそらく一度もないだろうが、それでも六年近くの間、綱吉と共に中学、高校と通い続けたのだ。
 学校そのものの思い出はロクにないだろうとしても、学校にまつわる記憶は綱吉と出会ってからの記憶でもある。胸をよぎる思いは、言葉では言い尽くせないものがあるだろうと思われた。
 その後は、どちらともなく無言になって、賑やかな商店街の人ごみをすり抜けるように歩く。
 気温は寒の底であるのに、年末に比べると少し日が長くなってきていて、四時前の今は、まだ空は夕刻前の明るさだった。
 あと十日余りも、この通い慣れた道を歩けば、二週間の空白を置いて高校生活は終わる。
 それは同時に、日本での生活の終わり、物騒な影が見え隠れしつつもどうにか平穏だった日々の終わりをも意味する。
 その先に、何が待ち構えているのか。
 今はまだ、想像すら難しかった。

2.

「考えてみるとさ、二週間の休みって結構長いよな。やることがないわけじゃないけど……」
「ふん。じゃあ、THE体力強化・雪山サバイバルでもやるか? 今の季節にぴったりだぞ」
「謹んで辞退します」
 間髪入れず、心の底から本気を込めて綱吉は遠慮する。
 ここで曖昧な態度を取ると、提案が数倍巨大化して現実になることは長年の経験で知っていたから、一瞬の隙も覗かせはしなかった。
 それを感じ取ったのだろう。心底詰まらなさそうに、リボーンは再び鼻を鳴らす。
「ま、日本で過ごせるのも残りわずかだ。せいぜい悔いの残らねーように過ごすんだな」
「分かってるよ」
 だから途方に暮れているのに、と思いながらも綱吉は、皮肉を響かせる家庭教師に言い返す。
 これが日本出立の日まで、ぎっしりスケジュールが詰まっているというのなら、文句を言いながらもそれをこなせばいいのだから、何も悩む必要はない。綱吉が困っているのは、一月末でリボーンが、一応の戦闘訓練の終了を宣言したからだった。
 無論、カリキュラムが終了したからといって、一月も何もせずにいたら、せっかく身に着けた射撃やナイフの戦闘勘が鈍ってしまう。ゆえに週に一回以上の自主訓練だけはするように言い渡されていたが、それだけだった。
 机上の勉強の方も、とりあえず『ボンゴレとは何か』という組織の現状に関する知識だけは詰め込みが完了し、こちらもまた、「お前が頭でっかちになることは一生ありえねーだろうが、これ以上は知識で覚えても無駄だ」というリボーンの台詞により、高校の授業と同じ十五日で終了することが数日前に明言されている。
 こちらに関しても、抜き打ちで口頭試問がぶつけられるのは、もはや当然のことだったから、今更綱吉は油断することもないし、動じることもない。
 そうして期間限定ながらも自由の身となることが決まった今、悩むのはその余暇の過ごし方だった。
「とりあえず部屋を片付けて、向こうに送る荷物の準備をして……。あ、そういえば、リボーン」
「何だ」
「ゲーム機とかって、持っていっても大丈夫なのかな?」
 どちらかというと物に執着の薄い綱吉にとって、唯一の財産と呼べるものは趣味のゲーム機&ソフトウェアくらいのものである。
 ドン・ボンゴレの私物としてはどうかという気が自分でもしないでもないが、だからこそ、ある意味、自分らしさの象徴にもなり得る。日々の気晴らしにもなるだろうし、許されるのならイタリアまで持って行きたかった。
「……ま、私室でこそこそやる分には許してやる。その代わり、公私の区別はつけろよ」
「ホント!? ありがとな、リボーン」
 珍しく甘い回答をくれた家庭教師に、綱吉はぱっと顔を輝かせる。
 そして、早速どのゲームを持ってゆくか、こたつを抜け出してソフトを納めてある棚ににじりより、選別を始めた。
「ツナ」
 ずらりと並ぶケース背表紙のタイトルを眺めて、これは絶対持っていこう、こっちはどうしたものか……と唸る綱吉の背中に、リボーンが呆れを滲ませた声をかける。
「お前、明後日から卒業式までどう過ごすか悩んでたんじゃねーのか」
「だって、そんなすぐに思いつかないしさ。てっきりギリギリまで、お前のスパルタ授業が続くと思ってたし」
「だったら、期待に応えていくらでも延長授業をやってやるぞ。雪山サバイバルなら退屈しのぎには最適だろうしな」
「だからなんでサバイバルなんだよ! 雪山なら雪山で、他にスキーでもスノボでも……!」
 あるだろう、と言いかけて、綱吉ははたと言葉を止めた。
「……そっか。雪山っていうのもありかも」
「なんだ、サバイバルをやる気になったのか?」
「違うって! サバイバルじゃない方だよ。いいからもう、ちょっと黙っててくれよ」
 言いながら綱吉はリボーンのいるこたつまで戻り、テーブルの上に置いてあった携帯電話を手に取る。そして、アドレス帳から一つの番号を呼び出し、通話ボタンを押した。
 コール音は二回で繋がった。
『はい、獄寺です』
「あ、ごめんね。夜遅くに突然」
『いえ、構いませんけど……何かありましたか?』
「ううん。何かが起きたわけじゃなくて、今、リボーンと話してて思いついたんだけどさ。明後日から休みに入るだろ? せっかくだから、皆で卒業旅行とか行けないかなと思って」
『卒業旅行、ですか』
「うん」
 電話越しの獄寺の声は、いつもより少しだけ低く聞こえる。
 目の前にリボーンがいなければ、その低い声の心地良い響きに浸れるのに、と心の片隅で思いながら、綱吉は続けた。
「ハルは俺たちと同時期にイタリア行きだし、京子ちゃんも去年のうちに推薦入学決まってるから暇だって言ってたし。あと山本と了平さんの都合さえつけば、皆で行けるんじゃないかな」
『そうですね……。いいお考えだと思いますよ』
「ありがと。で、冬だし、どうせならスキーとかスノボとかなら、皆で楽しめるかなって思ったんだけど……」
『いいんじゃないですか。笹川も三浦もスキーはそこそこの腕ですから、天候さえ良ければ楽しい旅行になると思いますよ』
「だよね? じゃあ、俺、皆に連絡取ってみるよ」
『それなら、笹川の兄貴の方と山本は俺から連絡します。女子の方を十代目はお願いできますか』
「うん。ありがと、獄寺君」
『それじゃ、連中の都合が分かったらメール入れますね』
「分かった。じゃ、今夜はそこまでにして、細かいことはまた明日、学校ででも話そうよ。行き先とか日程とか」
『はい、分かりました』
「じゃあ、よろしくね」
 これでよし、と綱吉は電話を切る。
 そして、リボーンの様子を伺った。案の定、ひどく詰まらなさそうな口調でリボーンは意見を述べる。
「どうせなら雪山サバイバルにすりゃ、面白さが倍増するのにな。詰めが甘いぞ、ツナ」
「面白いのはお前だけだろ」
「それで何が悪い」
 ふふんと悪びれもせずに、黒衣の赤ん坊は鼻で笑った。
 だが、卒業旅行そのものに異を唱えるつもりはないようだったから、悪魔の言うことは放っておけとばかりに、綱吉はそれ以上は構わず、京子宛のメールを新規作成し始める。
 長文メールは不得意なため、今夜も用件ばかりの短い内容になったが、京子とは結局、友人の仲を一歩も出ることはなかったのだから、これで良いのだろう。
 同様にして、ハルにも同じようなメールを続けて送信する。
 彼女たちからの返信と、獄寺からの連絡メールが立て続けに着メロを奏でたのは、それから約五分後のことだった。

3.

「それでさ、京子ちゃんから黒川も誘っていいかって聞かれたんだけど」
「黒川、ですか」
「うん。彼女も推薦入学が決まってて暇なんだってさ。俺としては、まぁ断る理由はないかなって思ったんだけど……」
「そうですねぇ……」
 うーんと獄寺はうなる。
 二人が話をしているのは、冷え冷えとした体育館の片隅だった。現在、体育の授業中である。
 三年生の体育のカリキュラムは変則的でレクリエーションの色合いが濃く、バスケットボール、バレーボール、サッカー、ソフトテニスの四種目の中から好きな種目を選択できるようになっており、綱吉と獄寺は、コート内の人数が決まっており適度にサボれるという理由から、一年を通じてバスケットボールを選んでいた。
 そして、二人が休み時間にでなく、こんな風に授業中に話をしているのは、単純に今日が二月十四日であるからだった。
 高校最後のバレンタインデーということもあり、女子の気合の入り方は半端ではない。同級生から下級生まで、朝からひっきりなしにチョコレートを持って押し寄せてくるのをさばくのが二人共に精一杯で、放課中に互いに言葉を交わす余裕など殆どないのである。
 結果的に今日は、こんな風に完全に男子生徒のみで隔離される体育の時間が、二人で校内で話をするには最適かつ唯一のタイミングとなっていた。
 目の前でクラスメートたちが、気温の低さを忘れたかのように額にうっすらと汗をにじませながらボールのやり取りをするのを合板製の壁に寄りかかって眺めながら、獄寺は低く抑えた声で言う。
「問題があるとしたら……黒川だけは何も知らないってことでしょう」
 綱吉も、少し離れた場所で同じようにゲームを眺めているクラスメートたちの耳には届かないよう、ひそやかに答えた。
「うん。それは俺も思ったけど……。でも、京子ちゃんもハルも、そういうことを軽々しく口にするような女の子たちじゃないし。大丈夫じゃないかなって」
「あの二人は信用してもいいとは、俺も思ってます。ただ、黒川は……俺の単なる印象ですけど、ちょっと鋭いところがあるように思えるんで……」
「鋭い……」
 言われて、そういえばと綱吉はぼんやり思い出す。
 中学校で同じクラスだった頃、時折、黒川が物言いたげというにはいささか冷めたまなざしで自分を見ていることがあった。
 視線に気付いた綱吉が何だろうと思っても、彼女は何も言わず、素っ気なく視線を逸らしてしまったから、結局、綱吉が何かを言われたことは一度もない。
 だが、今になって思い返してみれば、それは彼女が何かに気付いている、あるいは何かに不審を感じているサインだったに違いないと思われた。
「……言われてみれば、そうかも」
 綱吉が呟くと、獄寺はちらりと綱吉の方を見やり、またすぐにまなざしをコートへと戻した。
「だから、俺としては黒川をメンバーに入れるのは賛成できません」
「───…」
 真っ向から反対されて、綱吉は考え込む。
 獄寺の言うことは一理あった。黒川は京子やハル以上に一般人である。ボンゴレには本当に何の関係もない。
 だが、黒川は何かを感じている素振りはしつつも、綱吉にはこれまで一度も何も言わなかった。そしておそらく、京子やハルにも一度も問いただしたことはないだろう。
 綱吉が見る限り、黒川は友情を大切にする少女だった。綱吉の正体云々をつつくことが、京子やハルの気持ちを傷付ける結果になるかもしれないのであれば、彼女は自分の不審や好奇心など押さえ込んでしまうタイプであるように思える。
 また、たとえ仮にそんなことがあったとしても、京子もハルも問いに答えるはずがない。彼女たちもまた、綱吉たちに対する友情を──ハルについては愛情をと言い換えるべきかもしれないが──大切にしている。
 そして何よりも、京子、ハル、黒川の三人は、中学時代からの親友同士である。
 そういったことを考え合わせると、綱吉は、獄寺とは正反対の結論に行き着くしかなかった。
「獄寺君の意見は分かるし、正しいと思う。でも、俺は……黒川を信じたい」
「……はい、分かりました」
 綱吉の答えに、獄寺は特に迷う様子も見せず、うなずく。思わず綱吉は獄寺の横顔を見上げた。
「本当に、いい?」
「はい。俺は十代目を信じてますから。俺の意見を聞いて下さって、考えて、結論を出された。従う理由には十分すぎます」
 ほのかな笑みと共に告げられた言葉は、信頼と忠誠の告白としてはストレートすぎて、思わず綱吉は頬が熱くなるのを感じる。
 時と場合によっては……たとえば周囲に誰もいない二人きりの時なら、こんな台詞もかけがえのない言葉として真摯に受け止められるが、学校の体育館で体育の授業中にというのは、いささか邪道というべきか、場にそぐわずにぷかぷかと浮いてしまう。
 しかし、当の獄寺は何とも感じていないようなのであるから、更に性質(たち)が悪い。
 久々に感じる気恥ずかしさを少しばかり持て余しながら、それでも綱吉は何気ない風を装ってコートに視線を戻し、「ありがとう」と小さく告げた。
「それじゃ、参加者は俺たちと山本と了平さんと、京子ちゃん、ハル、黒川で決まりだね。合計七人か。……車一台じゃ無理かな」
「まあ、大型を借りれば乗れないことはないですが、荷物もありますからね。万が一の事故の可能性を考えても、大型二台に分乗する方が無難でしょう。山本は免許取り立てですから補欠にしておいて、俺と笹川で運転手は足りますし」
「そうだね、それがベストかな」
 うなずいて、小さく綱吉は溜息をつく。
「俺も免許、日本にいる間に取っておきたかったな。十月からずっと特訓特訓で、そんな余裕なかったんだけどさ……」
「まあ、免許だけで言うなら、イタリアの方が取りやすいですよ。日本みたいに何ヶ月も車校に通う必要もないですし。ボンゴレの敷地内で十分練習してから試験に行けば、一発で合格できます」
「それはそうかもだけどさ」
 一応、法律的には日本とイタリアの運転免許証は同等のものとして扱われるらしい。
 たとえば日本の免許証をイタリアの交通局に持っていけば、イタリアの免許証と交換してくれるそうだが、しかし、日本の免許証でイタリア国内を運転できるわけではない。その逆もまた同じだった。
「国際免許だと色々制限がありますから、やっぱりベストはイタリアと日本の両方で免許を取ることですけどね。イタリアで楽に取ってから、日本でも本試験会場で実技一発で取ればいいですよ。仕事でこちらに来る機会は幾らでもありますから」
「そうだね。それが現実的かな」
 綱吉がうなずく。その間にも、得点を知らせるホイッスルが鳴り響く。
 こうして眺めていると、コート上の誰もが残り少ない高校生活を精一杯に満喫しようとしてるかのように見えた。
 受験も就職も全て忘れたかのように、寒の底の冷え込みをものともせずに額に汗を滲ませ、ボールを回し、ゴールに叩き込む。
 邪気のない笑い声、かわされるハイタッチ、コートの内外に響く掛け声。
 綱吉もその中にいるはずなのに、何故か一瞬、彼らがひどく遠く見えた。
「十代目?」
「あ、ううん。そろそろゲームが終わりそうだなと思って」
「ああ、確かにそろそろ十分過ぎますね」
 正式な試合ではなく、体育の授業のレクリエーションだから、各十分のクォーター毎に選手は交代する。つまりは、綱吉と獄寺もそろそろ出番だということだった。
 そんな言葉を交わしているうちに、クォーター終了の高く長いホイッスルが響く。
 仕方ないとばかりに、綱吉は小さく溜息をついた。
 リボーンのスパルタ教育のおかげで、体育はどちらかといえば得意科目に変わっている。バスケットボールも嫌いではなかったが、しかし、今日は朝、高校前のバス停に着いた時から獄寺とはろくに話せない状態が続いていたから、できることなら、このまま話をしていたい気分の方が強かった。
 だが、高校の体育館でやるバスケットボールも、これが最後になる。そう思えば、このままサボろうか、という言葉は口からは出てこなかった。
「じゃ、行こっか」
「はい」
 揃ってコートに入り、双方のチームメンバーを確認すると、即ゲームは始まる。
 幾つかのパスが味方の間で回されるのを横目で確認しながら、綱吉は空きスペースへと素早く移動する。そこに到達した瞬間、狙い済ましたように獄寺の速いパスが通った。
 綺麗な回転のパスを胸の高さで受け止め、完全にフリーの状態で綱吉は九十度回転し、ゴールを見据える。
 少し遠い。だが、迷わなかった。
 伸びやかなフォームから放たれたボールは綺麗な放物線を描き、バスケットに吸い込まれる。
 ボールが床に落ちるよりも早くホイッスルが鳴り響き、先制のスリーポイントを告げた。

4.

「あ、獄寺君。おかえりー」
 教室に戻ってきた獄寺を、綱吉は机に頬杖をついた姿勢で迎えた。
 獄寺は片手に綺麗にラッピングされたチョコレートらしき包みを持ち、苦虫を噛み潰したような顔をしている。今日は一日、獄寺の笑顔を殆ど見ていないなと思いながら、綱吉はやれやれと立ち上がった。
「そろそろ帰っても大丈夫かな」
「もう十分でしょう」
 うんざりだとばかりに、獄寺は自分の机の横にかけてあった紙袋を取り上げ、手に持っていたチョコレートを放り込む。
 ひどい言葉で拒絶して女の子を泣かせたり、ラブレターを読みもせずにゴミ箱に捨てていた中学時代に比べると、獄寺も随分丸くなったなと思いながら、綱吉はその一杯に膨らんだ紙袋を覗き込んだ。
「やっぱりすごい数だね。俺も結構もらったけど、獄寺君には負けるな」
「どうしようもないですよ、こんなもの」
「んー。でも、ありがたいと思わなきゃ。チョコにも女の子たちにも罪はないよ」
「──そうですね。諸悪の根源は、三十年前にバレンタインデーは女から男にチョコを送る日だと煽りやがったチョコレートメーカーっスね」
 どうしてくれようかと凶悪な光を銀翠の瞳にちらつかせてうなる獄寺を、綱吉は、まあまあと宥めた。
「そう言わない。とりあえず帰ろうよ」
「……はい……」
 渋々と獄寺は自分の鞄と紙袋を取り上げる。綱吉も同じように、鞄と紙袋を手に取った。
 たかがチョコレートであるから、大きな紙袋一杯でも大した重さはない。ただ、かさばるのが難点だった。
 四角い箱ばかりなら、四角い紙袋にある程度きっちり詰めることもできるが、おしゃれなのか何なのか、丸かったり花形だったり、変形のラッピングも多い。
 駅前の商店街のバレンタインデーフェア特設会場も、遠目に眺めただけでも凄まじかったが、こういうものを売り出すメーカーも、それを吟味に吟味を重ねて購入する女性のパワーも大したものだった。
「これで当分おやつの心配は要らないけど……この量だと、日本にいる間に食べきれないよねぇ?」
「ま、無理でしょうね。三食をチョコに置き換えるくらいのことしないと」
「さすがにそれはなー」
 芸能人などは、大量に贈られるチョコレートを施設に寄付するという話を時折聞くが、一般人だとなかなかそうもいかない。
「チョコレートってイタリアまで送れる?」
「……ナマ物じゃないですから送れますけど、でも、イタリアの運送事情は滅茶苦茶ですから、届くまで下手したら一月以上かかりますよ。少量なら飛行機に手荷物で持ち込む方が、よっぽど確かです」
「……そんなもの?」
「そんなものです。日本の郵便や宅配は世界一優秀です。世界中どこを探しても、これだけ事故の少ない確実かつ迅速なサービス網はないですよ」
「……日本人って几帳面なんだね」
「世界レベルで見ると、ちょっとおかしいくらいに。電車やバスが必ず時刻表通りなんて、日本以外じゃ有り得ない話です」
「うーん。それは俺もイタリアに行った時に思い知ったけど」
 日本の常識は世界の非常識なんだよね、と呟きながら綱吉は紙袋を見下ろす。
「じゃあ、残り半月で手荷物をどこまで減らせるか頑張ってみますか」
 半分やけくそのように溜息をつくと、獄寺も同じように溜息をついた。
「こういう時だけはアホ牛がいるといいと思いますね。本当にこういう時だけですが」
「あー。そうだね、ランボにも送ってあげたいね。しばらく会ってないけど、まだ甘いもの好きかな」
「その辺は大丈夫でしょう。イタリア人は大人の男でも甘党が圧倒的に多いですから。一年や二年成長したくらいじゃ味覚は変わりませんよ」
「そっか。でも、イタリアの運送事情が日本からのチョコを阻むわけだね。世の中、うまくいかないもんだなー」
「──いいえ、十代目」
「へ?」
 不意に、獄寺が不機嫌の一歩手前の面白くなさそうな声を響かせる。
 何事かと思わず隣りを見上げると、獄寺は至極真面目かつ機嫌斜めな調子で続けた。
「たとえ運送事情が許しても、十代目があのアホ牛に何かプレゼントしてやる必要なんざ、どこにもありません。そういうのを豚に真珠、猫に小判って言うんです。あんなアホ牛に十代目からの贈り物の真価が分かるわけがありませんよ」
「プレゼントじゃないよ。チョコの横流しだよ」
「同じです」
「違うと思うけどなぁ」
 何だか珍しい、と思いながら、綱吉はのんきな口調で言い返す。
 中学時代の獄寺は、こんな風によく分からない理屈をこねることが日常茶飯事だった。最近は滅多に聞かなくなっていた『右腕の主張』は、何だかひどく懐かしく、愛おしい。
 そう思うと、ひとりでに笑みがこぼれた。
「十代目?」 
「ううん。なんか、こういうやり取り、懐かしいなぁと思って。中学時代の獄寺君、そういうことばっかり言ってたから」
「──そうですね」
 獄寺も、そういえば、という顔をした後、苦笑するように笑う。
「アホ牛の話になりましたから、俺も気分があの頃につい戻っちまったみたいです。ホント、馬鹿ばっかり言ってましたね、昔の俺」
「うーん」
 馬鹿かどうかはともかくも、と綱吉は思う。
「まあ、確かに俺も時々困ってたけど……でも、やっぱり楽しかった気持ちが一番残ってる、かな」
 それが正直な気持ちだった。
 中学一年の春にリボーンがやってきて以来、無茶苦茶なことばかりで、苦しい思いも辛い思いも沢山したが、それ以上に得たものは沢山ある。
 そうして今振り返った時、胸に込み上げてくるのは楽しかったという思いと、言葉にならないほどの過ぎた日々への愛おしさだった。
「獄寺君はどう? 振り返ってみて」
「俺……ですか?」
「うん」
 綱吉が問うと、獄寺は生真面目に考え込む。
 やがて、言葉を選ぶようにしながら答えた。
「そうですね。俺も、一言で言うなら、楽しかった、ってことになるかもしれません。あまりにも色んなことがありすぎましたし、俺自身、色々変わったんで、そんな言葉じゃ全然足りないんですけど」
「……うん」
 獄寺がそう言う気持ちは、綱吉にもよく分かった。
 本当に色んなことがあったのだ。綱吉も大きく変わったが、獄寺も同じくらいか、もしかしたらそれ以上に変わった。それを楽しかったの一言で片付けるには、あまりにも単純化しすぎだろう。
 だが、他に言い洗わず言葉が見つからない。
 この六年間の全てを語りつくすには、三日三晩かけてもまだ足りなさそうだった。
「……卒業旅行は皆で行くとしても、俺たちだけでもう一回、集まるのもいいかもね」
「俺たちっていうと……俺と十代目と、山本辺りですか?」
「うん。あと了平さんも。女の子たちがいたら話せないこともあるしさ。男ばっかりで集まるのも、ちょっとむさ苦しいかもだけど、いいかなと思って」
「いいかもしれませんね、それも」
「本当にそう思う?」
「勿論、思ってますよ」
 確認するような綱吉の問いかけに反論して、それから獄寺は何かに気付いたように軽く眉をしかめた。
「十代目、俺はそんないつまでも馬鹿なガキじゃないですよ。そりゃ、あいつらと親友みたいな顔はできませんし、仲良くする気もありませんが、あいつらのことは俺なりに認めてるつもりです。今更、あいつらがいることについて文句を言ったりしません」
「───…」
「本当です。信じて下さい」
「……いつだって獄寺君のことは信じてるけど」
 くすりと綱吉は笑みをこぼす。
 綱吉が沈黙していたのは、別に獄寺の言葉を疑っていたからではない。その変わりように感心していたからである。
 昔はあんなに俺を独占したがっていたのにね、と懐かしいような、ほろ苦いような思いで、心の中で呟く。
 おそらく今の方が、独占欲という意味では感情は昔を遥かに凌駕しているだろうに、今の獄寺はそれを抑え、コントロールする術を身に着けている。そして、それは綱吉も同じだった。
 昔は意識していなかった、獄寺が隣りにいるという安心感。それが当たり前になって、ずっと傍にいて欲しいと思う切望感が生まれて。
 けれど、それは表に出すべき感情ではないと理解できるところまで、自分たちは大人になってしまったのだ。
「やっぱり色々変わったよね、俺たち」
「……人間は変わるもんですよ。良くも悪くも。何年経っても同じ人間なんて、いやしません。変わってないつもりでも、一日一日が積もっていけば、何かしら変わらざるを得ないんです」
「うん」
 獄寺の言う通り、彼も自分も、今も少しずつ変わり続けている。どうやっても、あの頃には戻れない。この先も変わり続けるしかないのだ。
 その先に辿り着くのが──目の前に開けるのがどんな風景であるのか、今はまだ見当もつかなかった。
「とりあえず、これからも頑張ろうね。百パーセントは無理でも、ちょっとでも良い方向に変われるように」
「……そうですね」
 綺麗な表情で静かに答えた獄寺が、何をどう思っていたのか。
 知りたいと、その時、綱吉は少しだけ思った。

5.

 いつもと違う駅西で通学バスを降りて、二人が向かったのは獄寺のマンションだった。
 卒業旅行のことを沢田家で打ち合わせる予定だったが、かさばるバレンタインデーの荷物に綱吉が気を回したのである。
 駅西のバス停からなら、少し迂回する形にはなるが獄寺のマンションに寄ってから沢田家に向かう道順になる。鞄と紙袋を置いて、制服から私服へ着替えるくらいなら十分のロスにもならない。
 といっても、獄寺は当然ながら、いつもの駅前のバス停から沢田家への直行コースを主張したのだが、綱吉は譲らなかった。
 普段は温和で寛容なのに、時折、何かのスイッチが入ったかのように梃子(てこ)でも動かなくなる。
 今日の綱吉もそうであるらしいと説得を諦めて、獄寺は遠回りになることを気遣いつつ、バス停からマンションまで五分ほどの距離を綱吉と共に歩いた。
 獄寺とて季節の良い時期ならこれほどには気にしないが、二月半ばの四時前というと、もう日が傾いている時刻である。夕方になると吹き始める季節風の冷たさが、コートを通して染み込んでくる。
「十代目、やっぱり先におうちに帰られた方が……」
「別に気にするほどの距離じゃないだろ。君の部屋から俺の家まで、十五分もかかんないんだし。バス停からの距離と比べたら、三分くらいしか違わないよ」
「でも寒いですよ。俺の部屋も、エアコンのタイマーセットなんかしてありませんし」
「構わないってば」
 情けなく言いつのる獄寺に対し、綱吉はけろりと答えた。
「いいんだよ、獄寺君。寒いだの暑いだの言いながら学校帰りの道を歩くのも、今日と明日で終わりなんだから」
「……十代目」
 それはここ最近、よく綱吉の口から聞くようになったフレーズだった。
 さほど感傷的でもなく、からりと、けれどかすかに優しい切なさをのぞかせる口調で、もうすぐ終わりだから、と綱吉は事あるごとに口にする。
 綱吉自身が、そのことをどれほど自覚し、意識しているのかは分からない。
 だが、その声は過ぎる時間を惜しみ、いとおしむ一方で、ダイヤモンドのように固く冷たく、透きとおった覚悟を心の内に磨いているようにも聞こえ、その度に獄寺の心にもさざなみが立たずにはいられなかった。
「そうですね。そう考えると、こうやって歩くのも、そんなに悪くないですね」
 こんな時に言える言葉は少ない。
 自分もまた口癖のようになった相槌を返すと、綱吉もいつもかすかに優しい切なさをのぞかせた微笑を浮かべる。その笑顔も、声以上に獄寺の心の水面にあるものと水底にあるものを、それぞれにざわめかせた。
 程なく辿り着いたマンションのエントランスに入ると、風を感じなくなる分、ふっと周囲の温度が上がったような錯覚を覚える。
 実際はエントランスにはエアコンはなく、外気温と変わらないはずなのだが、それでも肌を刺す風の冷たさがなくなったことに獄寺はほっと息をついた。
 そして、エレベーターに乗り込んで九階まで上がる。自室にたどりつくまで誰に会うこともなく、無人の周囲をさりげなく確認してから、鍵を開けて獄寺は綱吉を招き入れた。
「すみません、すぐに着替えてきますから、ちょっとだけ待っていて下さい」
「うん、適当にしてるから気にしないで」
「それは無理です」
 ボスを待たせて平然としていては、右腕失格である。そうでなくても大切な人だ。エアコンのスイッチを入れたばかりの冷え冷えとした部屋に放っておけるわけがない。
 だが、歯噛みしてもリビングの室温が上がるわけではなく、せめてと獄寺は寝室へ行く前にキッチンに寄って、エスプレッソマシーンのスイッチを入れた。
 それから寝室のクローゼットを開けて、手近にあったGパンとタートルネックのセーターというラフな格好に着替える。
 休日に綱吉と出かけるというのなら、もう少し吟味するが、さすがに今はそんな暇はない。もともと手持ちの服は、デザインも色彩も一定の方向性に沿っているものばかりだったから、適当に掴んでも上下がそんなおかしい組み合わせになることもなかった。
 アクセサリーを付け直し、ウォレットと携帯電話をポケットに押し込めば、もうそれで出かける準備は整う。いざという時のための暗器や高性能の超小型プラスチック爆弾といった武器はコートの方に仕込んであるため、ここで改めて装備する必要はない。
 急いでキッチンへと向かい、できる限り手早くエスプレッソを入れて、温めたミルクを加える。フォームドミルクにしないのは、単純に綱吉の好みに合わせた結果だった。
 獄寺自身はエスプレッソをそのまま砂糖だけ加えて飲むことが多く、カプチーノもカフェ・ラッテも、気分次第でどちらでも構わない方だが、綱吉はミルクを泡立てないカフェ・ラッテ、あるいはミルクを極少量にしたマッキアートの方が口当たりがいいと主張する。
 綱吉が主張するのなら全てが正義である獄寺にしてみれば、今ここで用意する飲み物を、カフェ・ラッテよりも量が少なく一息で飲んでしまえるマッキアートにすることは、もはや当然のことだった。
「すみません、お待たせしました」
「ううん、いいよ」
 リビングに戻ると、エアコンはやっと生ぬるい風を吹き出し始めたところで、室温はまだキッチンや寝室と殆ど変わりなかった。
 綱吉はコートを脱がないままソファーに寛ぎ、獄寺がテーブルに放り出したままにしてあった、イタリアのバイクの雑誌を読んでいたらしい。顔を上げ、獄寺が手にしているデミカップを見ると、顔をほころばせた。
「音がしたから、エスプレッソ入れてくれてるんだとは思ったけど。ありがとう」
「いえ。エアコンじゃなかなか温まりませんから、熱い飲み物の方が手っ取り早いと思いまして」
「そうだねー」
 言いながら、綱吉は受け取ったデミカップを嬉しそうに両手で包み込む。
「あったかいや。なんか生き返る気がする」
 そうして、湯気の立つマッキアートを子供のように吹いて冷ましながら、そっとすすった。
「俺もあちこちでエスプレッソやラッテを飲んでるけど、獄寺君のが一番美味しい気がする。何かコツがあるの?」
「いえ……普通にやってるだけですけど。うちのマシーンは業務用でもないですから、気圧も足りませんし……一応、豆は選んで買ってますけど」
 何の気もない調子で、そんなことを口にされると、ひどく反応困る。内心ひどくドギマギしながら、獄寺は極力平静に答えた。
 だが、綱吉の方は意識的なのか無意識なのか、さらりとうなずいた。
「ふぅん? コーヒー豆は良くてもマシーンが力不足だっていうのなら、残りは獄寺君の腕だね。4Mだったっけ? エスプレッソを美味しく入れるコツ」
「はい」
 かなり前に獄寺が説明したエスプレッソの4M──豆のブレンド、挽き方、マシーンの性能、人間業という薀蓄を綱吉は覚えていたらしい。
 嬉しかったが、中学時代のように単純に有頂天になるには、今の獄寺はもう月日を重ねすぎていた。
「でも、俺は大したことないですよ、本当に。バールで働いたこともありませんし」
「仕事でやったことなくっても、好きで自分で入れてれば、それなりに腕は上がるものじゃないのかな。うちの母さんも、リボーンが来てからエスプレッソマシーンを買ったけど、かなり上達したと思うし。……そういえばボンゴレの総本部には、エスプレッソマシーンはあるのかな」
「あると思いますよ、もちろん。業務用の最高級の奴が入ってなきゃおかしいです」
「そっか。ちょっと楽しみだなー」
 本気なのかそうでないのか、やや判然としない微笑みで言い、綱吉はゆっくりとマッキアートを飲み干す。
「ありがと。すっごく温まったよ」
「いえ。俺の方こそ寄り道させてしまって、すみません」
「そんなの、俺が言い出したことだろ。気にしなくていいよ」
 明るく流されてしまえば、それ以上のことは獄寺は言えない。苦笑いして、マグカップをキッチンのシンクに置き、戻ってくると綱吉もソファーから立ち上がっていた。
「じゃあ、行こうか」
「あ、荷物持ちます」
 綱吉が手にした大きな紙袋に手を差し伸べると、別にいいのに、と言いながらも綱吉は素直に差し出した。
 そして、受け取る瞬間。
 ───指がかすかに触れ合った。
 指の関節がかすったほどの、ほんのかすかな触れ合い。
 綱吉は何にも気付かなかったかのように表情を変えなかったし、獄寺も、おそらく表情には何も出なかった。
 けれど、その瞬間、獄寺は綱吉の瞳の奥で、小さな小さな光がぱちりと輝いたのを確かに見たと思った。
 真夏の花火の一番最後に残った火花のような、さやかなきらめき。
 錯覚のようなそれは、決して幻ではないと獄寺は信じた。
 切望と諦め、喜びと悲しみ。そんな幾つもの相反する思いが、彼の内側、水面下の深いところで静かにたゆたっており、今のほんのかすかな触れ合いに反応して、かすかな光を放ったのだと思うことは──許されることだろうか。それとも、許されざることだろうか。
 十代目、と獄寺は心の中で彼の銘を呼ぶ。
 心の中でさえ、もう名前では呼べなかった。一度でも名前で呼んでしまえば、抑えているものが弾け飛んでしまいそうで、それが何よりも怖かった。
「行きましょうか」
 何事も起こらなかったかのようにうながすと、綱吉も何事も起こらなかった顔でうなずく。
 そうしてエアコンと照明のスイッチを切って部屋を出ながら、獄寺はやっと、今日、遠回りの帰路を選んだ綱吉の真意が理解できた気がしていた。
 明日で学校が終わるというのもある。それは彼にとって、とても大きな意味を持っているのは間違いない。
 だが、もう一つ。
 二月十四日、という日付にも意味があった。
 日本では恋人の日のように扱われている、このキリスト教の聖日も自分たちには何の意義もない。意義を持たせることができない。
 あるものをあると口にできない二人にできるのは、二人だけの時間をほんのわずかに引き延ばす、それくらいのことしかないのだ。
 少しだけ遠回りの道を選んで、プライベートな空間で少しだけ休憩して。
 ささやかすぎて誰にも気付かれないような、小さな小さな交歓。
 それが今日という日に、未来について何も望めない自分たちのために、綱吉が望んだものだった。
「やっぱり外は寒いですね」
 玄関から一歩外に出ると、冷たい冬風が肌に突き刺さる。
「今が寒の底だろ。きっともうすぐ、あったかくなるよ」
「そうですね」
 冬が過ぎれは、春になる。
 当たり前のことなのに、その当たり前が今は少しだけ、胸に痛いと獄寺は思った。

to be continued...





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