天国まで何マイル?

1.

 月が綺麗だった。
 冴える、というのはこういう時にこそ似つかわしい表現なのだろう。透明な藍闇がどこまでも続く空の一番高いところに、真円を描いた月が浮かび、まばゆいまでに輝いている。
 降り注ぐ月光は、真珠と水晶を細かく細かく砕いて撒き散らしたかのようで、窓の外に広がる世界は、まるで海の底であるかのように蒼く沈んで見える。
 入浴を済ませて部屋に戻ってきた時、そんな月の光の明るさに、綱吉は思わず部屋の照明のスイッチから手を離してしまった。
 人工的な電気の明かりなどなくとも、カーテンを閉め忘れていた室内は、家具や小物類がはっきり見て取れるほどに明るい。
 月なんて、もう久しくまともに見ていなかった、と綱吉は引き寄せられるように窓際に歩み寄る。
 そして月を見上げ、その眩しさに思わず溜息をついた時。

「綱吉ー、電話よー!」

 開け放しだったドアから、階下から母親の奈々が呼ぶ声が聞こえた。
 電話?、と綱吉は振り返り、ドアに向かう。
 友人たちは全員、綱吉の携帯の番号を知っているし、こんな夜更けにわざわざ自宅の固定電話にかけてくる相手など、咄嗟に浮かばない。
 誰だろう、と思いながら階段を下りつつ、「誰からー?」と問いかけると、「いいから早く!」と答えになっていない答えが返ってきて。
 やっと受話器のマイク部分を手で押さえた奈々の元まで行って、目の合った母親の顔が、いつになくきらきらと輝いていることに気付いた。
 彼女のこんな表情には覚えがある。
 まさか、と思った時。
「お父さんからよ。ツナに替わってくれって」
 嬉しそうに奈々は受話器を差し出した。
「お話が終わったら替わってね。私もお父さんとお話したいこと、いっぱいあるから」
 鼻歌でも歌い出しそうな笑顔で言い、ダイニングキッチンに戻ってゆく奈々の後姿から、本当に軽やかなメロディーが聞こえてくるのを少しばかり呆然と見送って、それから綱吉は手の中の受話器を見つめ、ゆっくりと耳にそれを当てた。
「──父さん?」
『ツナか。久しぶりだな』
 何ヶ月、どころか一年ぶりくらいに聞く父親の声に、どくんと綱吉は心臓が脈打つのを感じる。
 自分が覚悟を決めたのは──それを顕わにしたのは、つい昨夜のことだ。
 ボンゴレの門外顧問であり、九代目の懐刀である父親がそれを知るのに、丸一日という時間が短すぎるということはない。
 頭ではそうと分かっていても、実際に父親の声を聞くと、どうにもならないほどに心が揺らぎ、張り詰めるのを止められない。
 そして、息子の性格や心理状態とどこまで把握しているのか、いっそ小気味よいほどに父親の言葉は単刀直入で潔かった。
『九代目に聞いた。いや、何も言うな、ツナ』
「何にも言ってないだろ、まだ」
『いや、言おうとしただろ。それくらい俺にも分かるぞ。いくら親父らしくない親父でもな。──それでな、ツナ。お前、本当にいいのか?』
 昨今の国際電話は国内電話と変わらないほどに電波がクリアで、遠い海の向こうの国で、父親が本気で心配しているのがくっきりと伝わってくる。
 ドアが開いたままのダイニングキッチンを気にしながら、綱吉は言葉を選びつつ答えた。
「──良くなかったら、とっくに逃げてるよ。俺が根性なしなのは、父さんも良く知ってるだろ」
『お前が根性なしに程遠いことは知ってるさ。そうでなきゃ、十歳かそこらのお前を十代目候補になんざ押すもんかよ。──そうか、今更だったな。すまん、ツナ。下らんことを聞いた』
「いいよ、別に。心配してくれてるのは分かったし」
『ああ。すまん、本当に俺はダメ親父だ』
「そんなことないって」
 そう思っていた時期もあるけれど、と心の中で付け加えながら、綱吉は微苦笑する。
 今となっては十分過ぎるほどに分かるのだ。
 父親があの世界で生きてきたことの凄さも、それでも尚、家族を愛し、愛するからこそ遠く離れることを選んだ心の強さも。
 父・家光もまた、ボンゴレの……全てを守ろうとしてボンゴレを創った初代の血と精神を濃く受け継いでいる。
 時代の巡り会わせで、家光の名はたまたまドン・ボンゴレの候補には上らなかっただけの話で、たとえば九代目があと十年早く生まれていれば、綱吉ではなく家光が十代目になっていた可能性も有ったのだ。
 父親ほどの傑物なら、それも十分に務まっただろうと──門外顧問も妥当な地位なのだと、今ならば綱吉も素直に認められる。
「それで、用は何? それだけ?」
『いや。──俺が電話したのは、母さんのことだ』
「母さん?」
 声を低めて返しながら、ちらりとダイニングキッチンを伺う。奈々の鼻歌はかすかに続いていて、自分のことが話題に上ったことに気付いた様子はない。だが、用心に如(し)くことはなかった。
『母さんには俺から上手く話す。母さんは、九代目が俺の父親代わりの人だってことは知ってるからな、お前の進路について心配させないような説明をすることはできると思う』
 俺を信用してくれないか、と父親の声は言っているようだった。
 切実で、誠実で、そしてかすかに不安を抱えている。
 その響きを正確に聞き取って、綱吉は目を伏せた。
「……分かった。父さんに任せるよ。俺も、どんな風に言えばいいのか、正直なところ分からなかったし。前から考えてはいたんだけど」
『ああ、任せてくれ。近いうちに日本に戻る。また連絡するから、お前の携帯の番号を教えてくれないか』
「いいよ」
 知らなかったのか、と内心驚きながらも、綱吉は十一桁の番号を口にする。
 おそらくだが、リボーンは聞かれたことを簡単に教えるほど親切な性格はしていないし、九代目も情に厚く義理堅い人である。二人とも、父親が綱吉の携帯の番号を尋ねたところで、本人に聞け、とそれぞれの言い方で答えるに違いない。
 それとも、父親自身が最初から息子に直接聞くべきだと考えたのか。
 本当のところは分からなかったが、父親が姑息な真似をしなかったことだけははっきりしていた。
『分かった。俺の番号も言うから、メモしてくれ』
「うん。……いいよ、言って」
 電話機の横にあるメモ用紙に書き付け、それを復唱する。
『じゃあ、またな。電話を替わる時、母さんには、俺が、お前に何か大事な話をしたいから日本に帰ってくると言っていたと答えてくれ』
「うん、分かった」
『すまんな、色々と』
「いいって。じゃあ、母さんに替わるよ」
『ああ。──綱吉』
「何?」
『九代目から聞いた時、俺は嬉しかった。嬉しかったが、辛かった。それは本当だから、覚えておいてくれ』
「……うん。忘れないよ」
『ありがとう。じゃあな』
「うん、またね」
 受話器を耳から離して、小さく溜息をつき、綱吉はダイニングキッチンに向かって母親を呼んだ。
「ごめん、先に父さんといっぱい話して」
「いいわよ。母さんもこれからいっぱい話すもの♪」
「うん。父さん、俺に話したい大事なことがあるから、日本に帰ってくるって」
「本当!? 本当に本当なら、すっごく嬉しいわ!」
 嬉々として保留ボタンを解除した奈々は、受話器を耳に当てる。
 その少女のようにはずんだ声を聞きながら、そっと綱吉はその場を離れた。
 階段を上り、二階の自室に戻ると、相変わらず窓の外の月は明るかった。が、少しだけ眺める気は削がれて、綱吉はベッドに仰向けに転がる。
 そして、父親の言葉を思い返し、他にも色々な人々の顔を順番に思い浮かべ、これから自分がすべきことを考えながら、静かに目を閉じた。

2.

「え、お父様が」
「うん。今週末、帰ってくるって」
 バスを使う通学途中では、込み入ったことは話せない。
 綱吉が獄寺に、その件について切り出したのは、一時間目と二時間目の間の放課時間のことだった。
 校庭を見下ろす窓際で二人、秋の日差しを浴びながら、低めに抑えた声で言葉を交わす。
 前後左右の座席のクラスメートたちは今は席を立ち、周囲には誰もいない。教室の内外は学校特有のざわめきに満ち、二人の会話を第三者に聞かれる可能性はほとんどなかった。
「ごめんね、話すのが遅れて。父さんのスケジュールがはっきりしてからの方が、ややこしい事にならないんじゃないかと思ったものだから」
「いえ、それは構いませんが……」
 そう答えながらも、獄寺はやや難しい表情を崩さない。
 その様子をさりげなく見つめながら、もっと早く話せたら良かったかな、と綱吉は思う。
 父親から最初に電話があったのは三日前の夜だが、それを今日まで獄寺に黙っていたのは、単に話を切り出しにくかった、それだけの理由しかない。
 母親に自分の進路を話すということ自体、とてつもなく気分の重いことだが、それ以上に、綱吉のイタリア行きには多くの人間が絡んでおり、獄寺もその一人に数えられる。
 いわば獄寺も共犯者に当たるのだが、しかし、そういった裏事情とはかけ離れたところで、彼が奈々を深く敬愛していることを綱吉も知っているため、そんな彼の眼前に後ろ暗い現実を突きつけることは、どうしてもためらわれたのだ。
 だが、どうしたところで立ち向かわなければならない現実である。
 仕方がない、と腹をくくって、綱吉は話の続きを切り出した。
「それでさ、うちに帰ってくるのは土曜の夜ってことになってるんだけど、本当に日本に帰ってくるのは昼過ぎなんだ。で、空港の近くのどこかで俺やリボーンと打ち合わせっていう流れなんだけど」
「じゃあ、空港まで十代目が出向かれるんですか?」
「うん。父さんはあの通り図体がでかくて目立つから、下手に並盛付近で会うより俺が行った方が、母さんに気付かれる可能性が薄いだろ。──それで、獄寺君に一つ頼みがあって」
「はい、何でしょう」
 頼みがある、と綱吉が口にした途端、やや難しい顔をして考え込んでいた獄寺は、ぱっと顔を上げた。
 いつもと同じく真摯な光を浮かべて見つめてくる瞳は、いつもと何も変わらない。
 まなざしを返す綱吉も、何も変わってはいないはずだった。──たとえ、獄寺の耳元では美しく精緻な細工のフープピアスが鈍い輝きを放ち、綱吉のブレザーのワイシャツの下には、白銀にきらめく美しいプレートペンダントが隠されているとしても。
(今は、そんなことを考えてる場合じゃない)
 埒(らち)もない考えを振り払うようにして、綱吉は続ける。
「その打ち合わせに、君も俺と一緒に行って欲しいんだ」
「……いいんですか?」
 躊躇いがちにそう問い返した獄寺は、リボーンが同席するにしても、ひとまずは沢田家の身内だけで水入らずに、と考えていたのだろう。
 だが、それでは返って困るのだと、綱吉は小さく肩をすくめてみせた。
「いいも何も、君も来てくれないと。母さんに対して、どんな口実を作るにしても、イタリアが絡んでる以上、リボーンと君のことは切り離せない。母さんはあれで結構鋭いところがあるから、俺が来年の春からイタリアに行くって言ったら、絶対に君のことを結びつけるよ。今年の夏の旅行のことも」
「それはそうでしょうね。むしろ、繋げて考えない方がおかしいです」
「うん。結局のとこ、父さんやリボーンをひっくるめて、君も俺も同じ穴のムジナってことだから。君も一緒に来てくれないと、打ち合わせにならないんだよ」
「分かりました」
 納得した獄寺の反応は、素早かった。
 うなずいて、それなら、と提案する。
「土曜は、俺が車を出しますよ。下手に公共交通機関を乗り継いで往復するよりいいでしょうから」
「そうだね。じゃあ、迎えに来てもらってもいいかな。母さんには買い物に行くとか適当に言っておくから」
「はい」
 多分その夜にはバレる嘘だけど、と、ほろ苦い笑みを滲ませながら綱吉は呟いた。
 ──父親とリボーンが、母親に対してどんなごまかしを口にするつもりなのか、分かるような気もするし、やはり想像が及ばないような気もする。
 だが、型破りを絵に描いたような彼らではあっても、相手が奈々である。不思議に鋭い彼女に対して、さほど突飛な嘘をつくとは考えにくかった。
(九代目が遠い親戚だってことは本当だし、ボンゴレだって表の商売の顔は持ってるわけだし)
 おそらくは、その辺りを取り混ぜて、適当な物語を作り出すのに違いない。
 綱吉自身としては、とにかく母親を心配させることなく、高校卒業後にイタリアに渡って仕事に就くことを了解してもらえるのなら、そのため言い訳の内容など何でも構わないし、父親たちの作る嘘がよほど荒唐無稽なものでない限り、それを受け入れるつもりでいる。
 だから、この件について綱吉が、何かを思うとすれば一つだけだった。
 おそらくは土曜の夜、綱吉がイタリアを選ぶよう仕向ける共犯者であったことが露見してしまうだろう獄寺が、母親に悪く思われなければいい、ということだ。
 獄寺が当初、九代目の命令によって日本にやってきたのは事実であるし、この六年近い年月の間、獄寺は傍目にはどうあれ、本質は決して綱吉の友人ではなかった。
 実際のところ、母親が獄寺のことをどう見ていたのかは、綱吉にも分からない。客観的に考えれば、朝晩の送り迎えを欠かさないような獄寺の献身は、友人という単語で片付けてしまうには、あまりに重い。
 その辺りについて、彼女が薄々何かを感じていたとしても、今更どうしようもないことだった。
 ただ、日本に来て綱吉に近づいたきっかけが何であれ、獄寺がこれまで傾けてくれた誠実さは本物であり、そのことは綱吉が一番良く知っている。
 また、その誠実さは、綱吉の母親である奈々に対しても忠実に向けられていたものでもあり、だからこそ、それについて母親にひとかけらでも疑いをもたれるのは、綱吉にしてみれば到底許容できることではない。
 だが、それはそれ、獄寺のことはおまけであって、事の本筋は綱吉の進路にある。
 土曜の夜、父親や自分が切り出す話を母親がどう受け止め、どう感じるかを想像するのは、綱吉にとって、大きな不安と恐れを伴うことだった。
「いずれ母さんにも話さなきゃいけないとは思ってたけど……」
「そう、ですね」
 ドン・ボンゴレの跡を継ぐのに、海を渡らないのではどうしようもない。遅かれ早かれ、母親にはこの話をしなければならなかった。
 だが、どう切り出せばいいのか分からないのも綱吉の本音である。
 いずれリボーンと相談しなければならないと思っていたところだったから、今回の父親からの申し出は、正直、渡りに船と呼んでいいものだった。
 しかし、それだけでは割り切れない気持ちがあるのも事実であり、綱吉は躊躇いがちにその気持ちを言葉にしてみる。
「本当はさ、父さんに任せていいのかどうか、って気持ちもあるんだ。もともとは父さんたちが裏で糸を引いていたにせよ、結局は俺の問題なんだから」
 別に獄寺を試そうと思ったわけではない。
 ただ、聞いて欲しかった。
 そして、彼の意見を聞きたかった。
 誰よりも綱吉の近くにいて、誰よりも綱吉を理解しようとしてくれている彼の言葉を。
「──でも、十代目がお一人で背負われなければならない問題でもないと、俺は思います」
 一瞬考える間を置いてから、獄寺は答える。
「十代目にあなたを選んだのは、九代目であり、門外顧問であり、そして俺を含めたボンゴレファミリー全員です。お母様に対する責任という意味でなら、ボンゴレ全員にあるんです。それならお父様のおっしゃる通り、全員で知恵を出し合って、お母様のお心を傷つけないように考えるのが筋でしょう」
「……そうかな」
「はい。この件に関しては、俺は自分が間違っているとは思いません」
 見上げた獄寺の瞳は、いつもと変わらない誠実で真剣な光を浮かべていて。
 そのことに綱吉は、心のどこかがふっと安堵するのを感じた。
 ───何があろうと獄寺は、自分にとっての最善を考えてくれる。
 二人の間にあるひそやかな、けれど、とてつもなく重く深い感情でさえも、それを妨げることはない。
 証(あかし)など何もない、けれど、揺るぎない確信が心の深い部分からゆっくりと立ち昇り、隅々まで満ちてゆく。
 ───彼が自分を裏切ることは決してない。
 世界が終わるその瞬間まで、彼は共に在ってくれる。
 今更ながらではあるが、正式にボンゴレ十世として立つことを選んだ今、そう信じられる人間が傍らに在ってくれることは、何にも替えがたいことだと綱吉は思った。
 彼の献身と、裏世界に生きる者としての知識、物の考え方。
 改めて自分のこれからを考えた時、それらはかけがえのないものであり、シシリアン・マフィアの本質と内情を知り尽くしている獄寺の存在が無かったら、自分がこの先やっていけるかどうかは到底おぼつかない。
(九代目は、きっとそれを分かっていて、獄寺君を日本に来させたんだ)
 形式や肩書きだけの関係ではなく、ボスと右腕が真の友愛と信頼を持ち合うこと、それなくば過酷な世界を渡ってゆくことはできない。
 そんな冷静かつ情愛に満ちた判断で九代目は、裏世界に生まれ育ちながらも、心根の純粋さと一途さを併せ持つ獄寺を選び出し、綱吉の傍らに沿わせたのだろう。
(まさか九代目も、俺たちの感情が友達を越えるなんて思いはしなかっただろうけど)
 だが、感情の形がどうであれ、自分と獄寺の間にあるものは、そう簡単に揺らぐものでも壊れるものでもない。
 彼は忠誠を誓い、自分も全ての信頼を彼に預けた。それに値するだけのものが、この六年の月日に培われたのである。
 それどころか、そもそもからして獄寺が居なかったら、ここまではっきりとボンゴレを継ぐと言えたかどうかすら分からなかった。
 何があろうと獄寺が支えてくれるという確信があったからこそ、最後の一歩を踏み出せたのだと、今になってやっと自分の心が理解できる。
 もちろん、一番根底の部分に、彼自身の命を引き換えにすることも辞さないほどに自分のことを想ってくれている獄寺や、他の大切な人々を守りたいという気持ちがあったことは事実だが、それでも修羅の道へ正式に足を踏み入れる覚悟には、もう一つ、その気持ちを支える絶対的な何かが必要だったのだ。
(それが、俺にとっては獄寺君だった)
 共に行く道を選びはしたものの、先のことは分からない。闇と光が混在するような未来を選んだのだから、尚更のことである。
 だが、少なくとも獄寺が傍らに居てくれる限り、彼の手を借りつつも、ボンゴレ十代目としての己を己で支えてゆけるはずだった。
「ありがと、獄寺君」
 微笑んで礼を言うと、何がですか、という表情を獄寺は浮かべる。
「君の言葉のおかげで、ちょっと気が楽になった。そうだよね、俺一人で考えたって、上手い嘘が思いつくわけじゃないし、本当のことを話せるわけじゃないし。皆で考えるのが一番、いいんだろうな」
 結局、母さんのことを一番分かっているのは父さんだろうし、と呟くと、獄寺もそうですね、とうなずいた。
「門外顧問は、お母様を本当に大切にしていらっしゃいます。お母様を傷つけるような作り話は決してなさらないでしょう」
「うん。そうだといいな」
 そればかりは心からの祈りを込めて、綱吉も同意する。
 そこまで話したところで、短い休憩時間の終わりを告げるチャイムが鳴り、それじゃあ、と綱吉は獄寺に席に戻るように促した。
 同じ教室ではあるが、綱吉の席は窓際の真ん中辺り、獄寺は教壇正面の最後列と、少しだけ席は離れている。
 だが、この小さな教室の中で、他の四十人近いクラスメートと共に過ごすのも、あと半年にも満たない期間だけだ。
 春から先、自分たちはどんな風に日々を過ごすことになるのだろう、と綱吉は自分の前に広がる途方もない未来のことを、少しだけ考えた。

3.

 授業を聞いている綱吉は、それなりに真面目にノートを取りながらも、少しばかり心ここにあらずという様子だった。
 考え事をしているときの彼の癖で、手にしたシャープペンで開いたノートを小刻みに小さくノックしたり、その手を止めて、グラウンドの向こうに広がる空へとまなざしを向けたりしている。
 いずれも教師の注意を引くようなものではなく、さりげなく目立たない仕草だったが、三メートル余りの距離を隔てた斜め後ろの席にいる獄寺にはよく見えた。
 悩んでいらっしゃるんだろうな、とそんな綱吉の様子を見つめながら、獄寺は思う。
 ほとんど母子家庭のような環境で育った綱吉は、意識無意識にとても母親思いだ。
 そして母親の奈々も、明るく朗らかで愛情深い、獄寺の目にはマリアよりも聖母に見える女性だったから、そんな彼女を傷つけたくない、困らせたくないと思う綱吉の気持ちは、とてもよく理解できた。
(けど、罪って意味じゃ俺の方が重いよな……)
 綱吉はただ、自分の進路を選んだだけである。
 非常に特殊な進路であり、就職先ではあるが、彼が考えに考え抜いた結果での選択であったことは、傍にいた獄寺にも十分過ぎるほどに伝わってきている。
 そして、その選択が当然の結果であったこともまた、この夏に十分すぎるほどに思い知らされた。
 だから、獄寺が、綱吉がボンゴレ十代目になることを望み続けていたことは、奈々に対する罪ではない──本当にそうでないかどうかはともかく──と綱吉は言うだろう。それくらいのことは獄寺にも推測がつく。
 だが、その罪よりも本当に責められるべきなのは。
(素性を隠して、十代目のお傍に居たことだ)
 マフィアの息子として生まれ育ち、十二歳になるかならないかでボンゴレファミリーの一員となった悪童だと知っていたら、奈々は決して獄寺を綱吉の友人として迎え入れようとはしなかっただろう。
(俺はずっと……お母様の信頼を裏切ってきたんだ)
 彼女を裏切ろうと思ったことは一度もないし、裏切ったつもりもなかった。
 だが、獄寺が素性を明白に告げていなかったこと──それ自体が、彼女に対する裏切りだったことは言い訳のしようがない。
 最初の頃は、獄寺も素性を隠そうとは思っていなかった。それが変わったのは、高校に入った頃だっただろうか。
 あの頃……リボーンの厳しい言葉に平手打ちを食らわされて目が覚めたようになった途端、色々なことが見えるようになった。
 綱吉が、ボンゴレ十代目として扱われることを以前よりは拒絶しなくなくなったものの、公の場や母親の前で『十代目』と呼ばれることを望んではいないことに気付いて、獄寺は彼のことを、仲間以外の人間がいる時には十代目とは呼ばず、沢田さんと呼ぶように変えた。
 揉め事を嫌う綱吉の意向に沿って、極力、周囲との関係を波立たせないように神経を払うことも覚えた。
 他にもあの頃を境に変わったこと、変えたことは色々とある。
 その内の一つに、自分の素性については話さないようにしたことも含まれていた。
 もともとマフィアだということを言いふらしていたわけではないが、隠す必要性も感じてはいなかったから、ところ構わずダイナマイトを取り出しもしたし、人目があろうと敵を攻撃することにも躊躇いはなかった。
 だが、それでは駄目なのだと……綱吉が望んでいないことだと理解してからは、自分のマフィアとしての一面は、極力隠蔽するようにしたのだ。
 それが間違っていたとは思わない。少なくとも、綱吉の意向には適うことだった。
 しかし、綱吉の親しい友人として、いつも快く迎え入れてくれた奈々に対しても、己の素性を隠し通してよいものだったのかどうか。
(お母様は、俺を信用して下さっていたのに)
 沢田家を訪れるたび、向けられる輝くような笑みは、決してうわべだけのものではありえない。彼女の笑顔は、常に他人を疑ってかかる獄寺の心さえ、一瞬でとろけさせてしまう何かをたたえていた。
 おこがましいことを承知で言えば、彼女は、実の母親に次いで二人目に、獄寺が心の底から慕った女性だったのだ。
 なのに、獄寺は彼女の最愛の息子の『友人』ではなかった。少なくとも、心理的に友人であったことは一度もなかった。
 その現実が、今更ながらに獄寺を苛む。
 たとえ、綱吉がボンゴレの十代目となることが──その本業が何であるのか、彼女には明かされることがないとしても、罪は罪だった。
 一生、告白することも改悟することもできぬ罪。
 その罪を、綱吉もまたこの先、背負うことになるのかと思うと、心臓に杭を打ち込まれたかのように胸が痛んだ。
(十代目……、沢田さん)
 その罪の重さを予感しているかのように、綱吉は窓の向こうへとまなざしを向けている。
 ここからでは見えない、大空を映した深い琥珀色の瞳を脳裏に思い描いた時、不意に左耳に重みを感じた。
 ──美しい凝った細工のフープピアス。
 良かったらもらって。気に入らなければ、忘れてくれていいから。
 そんな風に笑顔と共に、漆黒の外箱に銀の細いリボンがシャープにかけられた誕生日プレゼントを差し出されたのは、一月余り前のことだった。
 綱吉は毎年誕生日を祝ってくれてはいたが、プレゼントとしては他愛ないものが多く、アクセサリーのような高価で身に着けるものは、これが初めてだったから、ひどく感激すると同時に恐縮もした。
 そうして贈られた、自分では購入することを思いつかなかっただろう、普段選ぶものよりも一回り精緻で流麗なゴシック調のデザインのピアスは、一目で獄寺を魅了した。
 ボスにふさわしいとは到底思えなかったひ弱な印象の少年が、思いがけない強さで獄寺を魅了したのと同じように、店頭のショーウィンドウで見かけた時は全く魅力的と感じなかったピアスが、手に取って間近で見てみれば、実は不可思議な力強さをたたえていることに気付いて、何故この美しさが分からなかったのだろうと、今更ながらに自分の感性を疑った。
 それ以来、そのピアスを大切に身に着け続けて、贈り主である彼にも形ある何かを贈り返したくて。
 迷って迷って、それでも渡したいと……渡すべきだと思った、大空のシルバーペンダントは、今、彼の元にある。
 おそらくは、今も……制服に隠れて見えない襟元に。
(沢田さん。……綱吉、さん)
 その名を呼んだ瞬間。
 彼は小さく目をみはり、それから感極まったような、泣きたいような表情を一瞬見せた。
 そして、深い深い声で自分の名を呼ばれた瞬間。
 全てが分かった気がした。
 いつからなんて分からない。何故、自分だったのかも分からない。いつ彼がこちらの想いに気付いたのかさえも。
 あの瞬間に浮かんだ問いかけは幾つもあったが、それらは決して答えを聞くことのできない謎であり、また答えを知る必要もない……あるいは知ってはならないことだった。
 けれど。
 あの人も自分のことを想っていてくれた。そして、自分と同じように想いを隠し、ボスと右腕として歩く道を選んでくれた。
 その事実は、どうにもならない悲哀であり、たとえようもない歓喜として全身に轟き渡った。
 決して成就ではない。成就などありえない。
 だが、間違いなく何かがあの瞬間、結実した。
 それで、自分はこの先も生きてゆけると思ったのだ。
 ボスと右腕の関係のままで、彼を愛し、信じ、世界の果てでも地獄の底へでも喜んで共に行くことができる。
 そうすることを、綱吉自身が望み、許してくれた。
(あなたを愛してます。愛しているからこそ、俺はこの想いを決して表には出さない)
 愛することはやめられない。封印できるような、生易しい想いではない。
 けれど、誰にも気付かれないよう隠蔽することはできる。
 この先二度と、綱吉は想いを匂わせるようなことはしないだろう。あくまでもボスとして獄寺を見つめ、接するだろう。
 獄寺も、綱吉をただ一人のボスとして崇め、献身し、忠誠を尽くすだろう。
 それで良かった。
 それだけで、良かった。
 ──あの瞬間。
 名前を呼び合ったわずかな時間だけ、自分たちは存在の全てで愛し合った。
 互いが差し出せるぎりぎりのものを全て捧げ、それを受け取った。
 あの瞬間こそが自分たちの恋にとっては、全てで、永遠だった。
(だから、俺はもういい。もういいんです。あなたもそうでしょう?)
 一瞬が永遠に値することもある。
 それを知り、その瞬間を二人して心の底からいとおしんだ。
 その記憶は、これからの生涯を生きてゆくのに十分すぎる。
(あなたを愛してます。これからも、この先も永遠に)
 口には出さない。態度にも出さない。
 あの人の名前も、もう二度と声に出しては呼ばない。
 ただ、どんな罪も痛みも、共に背負って生きてゆく。
 ボンゴレ十世として、血と栄光に満ちた修羅の道を行く人を、傍らで支え続ける。
 それだけだ、と思った。

to be continued...





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