Good-by, my friend
5.
【10/14 PM 4:30】
獄寺は真っ直ぐな瞳で、綱吉を見つめていた。
傾きかけた日差しのせいで、淡い金色が加わった銀翠色の瞳に、綱吉は、ああそうか、と気付く。
獄寺は、もうすべて分かっている。
すべて分かった上で、今日一日、綱吉に付き合ってくれたのだ。そう、昨夜、綱吉が電話した時点で、彼にはすべて伝わっていた。
今日という日に望んだことは、お互いに同じ。
なのに、その望みが今はもう、ひどく遠い。──最初から手の届かぬ、あるいは届いたと思った瞬間に消える夢幻のようなものであったのだけれど。
そんなことを思って、綱吉は小さく笑った。
どんな表情をしたのか自分では気付いていなかったが、それは、ひどく優しくて透明な悲しみと覚悟に彩られた、綺麗な綺麗な微笑だった。
「獄寺君」
「はい」
声は震えなかった。
「俺ね、昨夜君に電話した後、イタリアの九代目に電話したんだ」
「はい」
獄寺も震えなかった。
当然のことのように受け止める。そのことに綱吉は心から感謝した。
「それで、三月に高校を卒業したら、そちらに行きますって言った。俺に務まるかどうか分からないけど、九代目の跡を継ぎますって」
「はい」
獄寺の声は、揺るがなかった。
それが自然の摂理だとでもいうように静かにうなずいてから、ゆっくりと綱吉との間の距離を詰める。
そして、十代目、と呼びかけて、その場に片膝をついた。
獄寺の右手が、自分の右手を押し戴く。触れた肌から伝わる乾いた温もりが、切ないほど綱吉の胸に染みた。
「俺の命と魂の全てに懸けて、あなたに永遠の忠誠を誓います」
くどくどしい儀礼的な文句ではない。それは言葉通り、魂を懸けての誓約だった。
そこに込められたすべての想い、すべての熱情に綱吉は目を閉じる。
そして、手の甲に口接けて立ち上がろうとした獄寺を、左手でその肩に触れることでそっと制した。
「十代目?」
「君に、」
「君に俺の信頼の全てを預ける。この身がボンゴレ十代目である限り、俺と共に在って欲しい」
霧がかった湖のような灰翠色の瞳が見開かれる。
そこに浮かんだ純粋な驚愕が、激しい熱へとゆっくり色を変えるのを、綱吉は目を逸らすことなく見つめた。
「必ず」
獄寺の答えに迷いなど、決して混じらない。
そうと知っているからこそ、世界の果てへの道行きに彼を選んだ。
彼を、愛した。
「あなたが俺を必要として下さる限り、俺はお傍に在り続けます」
「ありがとう」
かすかに笑んでうなずき、綱吉は獄寺の右肩に置いていた手を引いて、立ち上がることを促す。
それに従って立ち上がった獄寺は、そっと綱吉の手をも離し、一歩下がって綱吉を見つめる。
綱吉も獄寺を見上げ、二人の視線が交差した時。
───綱吉の瞳からあふれ出したのは、涙だった。
傾いた日差しをはじいて、黄金色にきらめきながら零れ落ちてゆく雫。
それに、より狼狽したのは綱吉の方だった。
慌てて袖でぬぐおうとして──諦める。
流すだけ流してしまわなければ、この涙は止まらない。心の何かがそう叫んでいた。
───もう戻れない。
何も知らず、無気力に生きていた頃の自分にも、ボスとしての自覚もないまま戦い続け、その一方で、ただの中学生のように友人たちと楽しく騒いでいた頃の自分にも。
───もう会えない。
自分を見つけるたび、大声で「十代目ーっ!!」と銘を呼び、満面の笑顔で嬉しそうに手を振っていた銀の髪の少年。
彼のことが好きだった。
無邪気なまでに寄せてくる好意が嬉しかった。
けれど、あの少年はもうどこにもいない。
幼く無力だった自分も、もうどこにもいない。
ここにいるのは。
───世界最大のマフィア・ボンゴレの十代目当主と、その右腕。
友達でも同級生でもない。
それが今この瞬間からの自分たちの肩書きだった。
声を出さないままひとしきり泣いてから、綱吉は袖で涙をぬぐおうとする。
と、綺麗にアイロンの当てられたハンカチが差し出された。灰紺色のシンプルなそれを見つめ、口元にほのかに微笑を浮かべて綱吉はそれを受け取る。
そして、目元や頬の濡れた感触を全部ぬぐってから、ゆっくりと顔を上げた。
「───…」
獄寺は真っ直ぐに綱吉を見つめていた。
彼自身の心が八つ裂きにされる痛みを感じているような銀翠色の瞳に、綱吉は小さく微笑む。
「あの時も……そうだった」
「……え?」
「シチリアの海を見た時。あの時も君は、黙って俺の傍にいてくれた。あの時も俺は、今と同じことを思ってた」
「それは……何かとお聞きしてもいいですか……?」
そう尋ねた獄寺の声は、何かを壊してしまうかもしれないという恐れを含んでいた。
自制の手綱を緩めたら際限なく踏み込んでしまいかねない相手に、一歩だけ踏み込むというのは、無数のクレバスが隠れた雪原を歩くにも等しい。
獄寺の恐れは、綱吉にはよく理解できるものだった。
だから、綱吉は微笑む。
「俺が嬉しい時も悲しい時も、君はこんな風に傍にいてくれる。全世界が俺の敵になっても、君だけは俺の味方でいてくれる。俺が地獄に落ちる時は、地の底まで一緒に行ってくれる。──君は、そういう存在なんだって」
「十…代目……」
呆然と銘を呼ぶ獄寺の瞳に浮かぶのは。
驚愕と、歓喜。
そして、叶わぬ恋情を抱くものだけが持つ、痛み。
───愛してる。
そういう君を愛しているのだと心の中で呟きながら、綱吉は『十代目』の自分のままで獄寺を見つめた。
「獄寺君」
「はい」
「最後に一つだけ、お願いしてもいいかな」
最初に、ではなく、最後に、と綱吉は告げる。
そのことに獄寺も気付いたようだった。
「一度だけでいいから、俺を名前で呼んでくれる?」
これで本当に最後。そう思いながら綱吉が口にした願いに、獄寺が目をみはる。
すぐには反応が返らない。
けれど、と祈りながら、綱吉はかすかな微笑みに縁取られた静かな瞳で見つめる。
───これが、最初で最後の本当の願い。
だから。
「───…」
獄寺の唇が小さく動きかけて、逡巡する。
綱吉は、ただ待った。
「沢田……さん」
「下の名前で」
綱吉のつける注文に、獄寺は今度こそ本気のためらいを見せる。
けれど、綱吉は譲らなかった。譲れなかった。
「一度だけでいいから」
「────」
十秒か、三十秒か、一分か。
不用意に触れたら砕け散ってしまいそうな沈黙は、どうしようもないほどに長く感じられて。
「……綱吉、さん」
低い、どうにもならない感情に裏打ちされた、かすかにかすれた声。
たまらなく優しかった。
たまらなく悲痛だった。
永遠に耳に残る響きに綱吉は小さく目を伏せ、それからゆっくりと顔を上げて、微笑む。
「……ありがとう、隼人」
傾いた日差しの中で、獄寺が目をみはる。
それは、彼が何かに気付いたことを意味していた。
だが、それで構わなかった。自分ばかりが真実を知っているのは、二人の関係においてフェアではない。
すべて分かっていて、選んだのだと……自分もまた、獄寺とまったく同じ心を抱いて、同じ道を歩んだのだと知って欲しかった。
───それが、『沢田綱吉』の最後の願い。
そして、これがそのための最後の儀式。
今この瞬間を最後に、自分たちはもう振り返らない。
これから最後の日まで、地平だけを見つめて血塗られた道を歩いてゆく。
肩を並べることはなく、一歩先を行く自分に獄寺が従う、かたくなにその形式を守って。
「帰ろうか」
「──はい」
何事もなかったかのように告げた綱吉に、獄寺もうなずく。
綱吉が先に立ち、獄寺が従う形で砂浜を横切り、潮風にやや痛んだコンクリートの階段を上って、従順な犬のようにそこで待っていた真紅のSZに乗り込む。
そして、エンジンをかけ、発進しようとして──ふと物を思うような表情で、アクセルからブレーキに足を置き直した獄寺が、サイドブレーキを上げた。
「ちょっと失礼します」
そう断って右手を伸ばし、助手席前のサイドボードを開く。
そしてその指の長い、大きな手でそこから取り出したのは、手のひらに乗るほどのサイズの箱だった。
艶消しの黒い包装紙に、鈍い銀のリボンがシャープにかけられている。
「……お渡ししようかどうしようか、迷ってたんですが」
差し出されたそれを見つめ、綱吉はそっと両手で受け取った。
「開けても……いい?」
「はい」
獄寺がうなずく。
綱吉は黙ったまま、丁寧にリボンを解き、包装を解く。
バースディプレゼントの受け渡しとは思えないほど、その瞬間の車内の空気は厳粛だった。
「……綺麗……」
ビロードの内張りを施された小さな箱に収まっていたのは、シンプルなペンダントだった。
小さくてなめらかな純銀の延べ板に掘り込まれた、力強く舞い上がる二羽の鷲の影。
上端の右寄りには太陽を象徴するダイヤモンドが一粒埋め込まれ、そこから放射線状に象嵌(ぞうがん)された金が燦然ときらめきながら広がる。
そこにあるのは、無限大の空、だった。
「──少し前に店頭で見つけて……。見た瞬間に、あなただと思ったんです」
「……ありがとう。大事にする」
「いえ。先月の俺の誕生日には、これをいただきましたし」
言いながら、獄寺は自分の左耳を指し示す。
小さいながらも蔓草が複雑に絡まり合う、重厚かつ華麗な印象の純銀製フープピアスは、綱吉が夏休みが終わる直前、インターネットで画像を見た瞬間に獄寺を思い出した代物だった。
これまで獄寺の誕生日にプレゼントらしいプレゼントを用意したことは一度もなかったから、購入すべきかどうかひどく迷ったのだが、『沢田綱吉』が渡せる誕生日プレゼントはこれが最後なのだと気付いたら、あとは考えるまでもなかった。
あれを渡したのも、このSZの中でだったな、と綱吉はかすかに笑む。
あの日以来、獄寺は常にこのフープピアスを身に着けており、外しているところを見たことはない。
そしてそれは、自分も同じだ、と綱吉は思った。
少しチェーンが長めのペンダントは、襟元が開襟にならない限り、外からは決して見えない。
獄寺がどこまでを意図してこれを贈ってくれたのかは不明だったが──少なくとも彼のことだ。常に身に着けることを期待したわけではないだろう──、そういう意味ではこの上ない、今日という日にふさわしいプレゼントだった。
「それじゃ、帰りましょうか」
「うん」
獄寺もいつものように、小さく笑んでパーキングブレーキを上げる。
そして、なめらかにSZを発進させた。広い路肩を利用してUターンし、西日に追われるように、あるいはそろそろ始まろうとする黄昏の薄闇を追うように加速して、海岸通を走り抜ける。
綱吉ももう、サイドウインドを過ぎゆく風景は見なかった。
ただフロントガラスの向こう、前だけを見つめる。
やがてルームミラーに、沈みゆく黄金の太陽が映り、そのまばゆさに綱吉は目を細めた。
去りゆく今日と、生まれくる明日。
もう二度と振り返ることのない、今日という日。
───さようなら。
愛しき日々と、愛しき人々。
───さようなら。
人知れず咲いた恋も、今日を最後にそれぞれが持つ純銀の棺に眠りにつく。
そして、自分たちは、うかつに触れたら砕け散ってしまうそれにはもう指を触れない。
すべては、あの沈みゆく太陽と共に、時の狭間に消える。
そして生まれ出るのは。
無限の青空であれば、いい。
獄寺が踏み込んだアクセルに反応して、SZが一途に加速する。
その咆哮にも慟哭にも聞こえるエンジン音を全身で感じながら、綱吉はそっと目を閉じた。
───さようなら。(行かねばならない理由があります。そうであるのなら、止むを得ません。心が引き裂かれるようですが、お別れいたしましょう。)
end.
あとがき >>
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