愛せよ、汝、能(あたう)る限り

1.

 毎年のことではあるが、この土地の暑さは格別だ、と思う。
 海に程近いはずなのに、風は肌を焼くような熱風で、しかも湿度が高い。暑いのは平気な方だったが、それでも連日、熱い風に吹かれていると、ここよりは幾分涼しい並盛が少しばかり恋しくなってくる。が、その一方で、この厚さを今しばらく堪能していたいという気持ちも、この上なく強かった。
 屋外へ出た途端に照り付けてくる少し傾いた強い陽射しに目を細めながら、群がってくる人々を適当にあしらいつつ、チームメイト達と移動用のバスへと向かう。
 そして、十メートルも歩かないうちに、聞き覚えのある声に名を呼ばれた。
「山本!」
 張りのある明るく力強い声。聞いただけで誰であるか分かって、山本は振り返る。思った通りに、そこには笹川了平がいた。
 しかも、彼は一人ではなく、逞しい長身の傍らで三人の少女たちも、笑顔で手を振っている。
 山本も破顔して右手を挙げ、立ち止まった途端に取り囲もうとする報道陣やスカウト達を、ちょっとすみません、 とかき分けて、彼等のもとへ歩み寄った。
「先輩、来てくれてたんスか。それに笹川達も」
「うむ、勿論だ」
「山本君、すごかったね。もう夢中になって応援しちゃった」
「ホント、すごかったですよ〜。最後のランニングホームラン、ハルもすごく興奮しました」
「でも、呆れるというべきか当然というべきか、何よ、あのスカウトの群れ。うっとうしくないの?」
「んー。まあ、そんなに気になんないけどな」
 誰もが賞賛の言葉ばかりを投げかけてくる中、一人だけ少しばかりクールな感想を述べてくる黒川の反応が妙に新鮮で、山本は笑顔で答える。
 中学校時代にクラスメート(ハルは他校生だったが)だった彼女たちは、高校三年生となった今では、極まれに地元の駅や商店街で顔を合わせる程度で、示し合わせて遊びに行くことはもう滅多にない。が、それでも山本が甲子園や選抜高校野球に出場する時には、こんな風に必ず駆け付けてきてくれるのが常だった。
 高校一年生の時から強豪校のレギュラーを勝ち取り、活躍を続けてきた山本は、今では高校球界のちょっとした有名人だったが、そんなこととは関係なく、中学生時代と変わらない友情をもって接してくれる彼女たちの存在は、素直に嬉しいと感じる。
「でも、こんなに暑いのにサンキュな。スタンドも滅茶苦茶暑かっただろ?」
「うん。でも暑かったから、アイスクリーム美味しかったし」
「ハル達より、山本さんの方がもっと暑かったでしょう? あの擂り鉢みたいなグラウンドのまん中にいたんですから」
「いや、俺は慣れてるし」
「そうだぞ。スポーツマンたるもの、夏の暑さ如きで弱音を吐いてどうする」
「お兄ちゃん、私たちはスポーツマンじゃないよ。運動部でもないんだから」
 相変わらずの独特な持論を口にした了平に対し、京子はあっけらかんと笑う。その様子を横目で眺めて、黒川が小さく肩をすくめてみせた。
「久しぶりに会ったけど、相変わらずよねー。京子のお兄さん」
「でも、そこが笹川先輩のいいところじゃね?」
 山本も笑い、そして改めて了平に向き直る。
「先輩も来て下さって、ありがとうございます」
「いや、礼には及ばん。俺もテレビなんぞではなく、自分の目で見たかったからな」
「でも嬉しいっスよ」
 誰であれ、遠方はるばる応援に来てくれれば嬉しいのは当然だが、それが了平であるということは山本にとって、少々特殊な意味を持っていた。
 そして特別なのは彼ばかりでなく。
 そんな山本の思いを読んだように、了平が当たり前の口調で続けた。
「どうせなら、沢田と獄寺も連れて来たかったのだが……日本にいないのではどうにもならんしな」
 あのランニングホームランには一見の価値があったのに惜しい、とかなり本気で悔しがっているらしい了平に、山本は笑う。
「でも、ツナはおふくろさんに頼んでDVD録ってくれてるって言ってたし。準決勝には絶対に間に合うように帰るって、昨日もメール送ってくれたし。俺はそれで十分っすよ」
「お前が欲がないな。そこがお前のいい所でもあるが」
「そうでもねーですけどね」
 欲がないということはない、と山本は肩をすくめた。
 実際のところ、山本自身は、欲しいと望むものは必ず手に入れたい性格だと、自分のことを分析している。ただ、欲しいと感じる対象自体が、はっきりと限定されているため、傍目には欲が薄いように見えるだけだ。
 そして、今この瞬間に欲しいと思うものは、唯一つ。
 ──深紅の大優勝旗。
 それしかなかった。
「まぁ正直、あいつらが帰ってくるのは待ち遠しいっスよ。小僧には、決勝戦は完全試合を達成しろって言われてるし」
「完全試合だと?」
「ハイ。あの人らしいっスよねー」
「笑って言うな……と言いたいところだが、お前なら本当にやりそうだな」
「ええ。勿論、狙っていきますよ。最後の甲子園ですしね」
 どうせなら、ツナたちが見ている前で達成してやりたい、と深い黒の瞳を鋭く輝かせる。その様子を眺めて、了平はさもありなんとうなずいた。
「そうだな。それだけの価値はある」
「ええ」
 そうしてうなずいた山本の瞳が、日本人にしては色素の薄い、ややグレーがかって見える了平の瞳と真正面からかち合う。
 その瞬間、互いのまなざしの中に、互いにだけ通じる何かが一瞬閃いた。
 ──山本が、決勝戦での完全試合達成を狙うのは、単に高校生活最後の甲子園だからというばかりが理由ではなかった。
 それは、今回の決勝戦が、あらゆる意味で最後の試合になると分かっているからでもある。
 この甲子園を最後に、山本は野球とは縁を切るつもりだった。
 バットと剣は、共に両手で構えるものであって、同時には持てない。──それは三年余り前に、過酷な戦いの中で山本自身が痛感したことであり、また父に続く師であるリボーンが無言のうちに教えたことである。
 野球か、剣か。
 どちらも魂の奥底から愛するものであるからこそ、山本はどちらかを選ばなければならなかった。
 プロの野球選手になりたいのであれば、二十四時間、三百六十五日のすべてを野球に費やす必要がある。剣もまた同じだった。次の試合の配球を考えながら、真剣を携(たずさ)えて戦いの場に出てゆけるわけがない。
 が、その命題に対する答えを出すのは難しいように見えて、その実、山本にとっては単純明快極まりなかった。
 ──野球には、ツナも獄寺もいない。
 一言で言えば、それが全てだった。
 野球は勿論大好きだし、その時々のチームメイトも愛している。けれど、それだけなのだ。
 チームメイトは、綱吉や獄寺、了平や雲雀のような、魂で結びついていると感じられるほどの熱を自分にもたらすことは決してない。そう思い至った時、答えは自然に出てきたのである。
 だが、野球もまた、物心ついた頃から全身全霊をかけて愛してきたものだ。
 だからこそ、最後の形にはこだわりたかった。
 後のことなど一切考えず、一試合一試合に集中して投げ切り、地方予選からここまで完封を続けて、またチャンスと見れば、体力配分を無視して自ら盗塁は言うに及ばず、ランニングホームランまでも決める。
 他人から見れば、一体どんな無茶をしているのかと呆れるに違いない。現に、勝利チームインタビューでも度々、その類の質問を向けられている。
 しかし、他人にどう思われようと関係なかった。これが自分であり、自分の生き様の一ページである。十一年間の野球人生の全てを、この甲子園の六試合で出し切るつもりだった。
 そして、言葉にしないその思いを分かってくれる仲間もいる、と山本は了平を見る。
「先輩は、どうなんスか? 最近は試合は?」
「ああ、来週に学内戦と、来月初めに対外戦がある。対外戦は九州まで出向かなきゃならんのが骨だが、相手は今年の春の大会で九州チャンピオンになった男だ。戦い甲斐はあるだろう」
「九州っスか。博多ラーメンとか美味いっすよね」
「俺は試合が終わるまでは、食うわけにはいかんが、楽しみにはしている。九州に行くのは初めてだからな」
「頑張って下さい。九州じゃ、さすがに応援にはいけませんけど」
「ああ」
 さりげない自信をのぞかせてうなずく了平の瞳の中に、山本は自分の目を鏡で見た時と同じ光を見つける。
 ──山本の秘めた覚悟を、仲間内で最も正確に察しているのは、おそらくこの笹川了平だった。
 中学生時代から全国レベルで名を馳せ、高校時代にはボクシングのジュニアチャンピオンとなっていた了平には、当然のようにプロからのオファーも降るほどにある。名の知れたジムで、声をかけてきていないところはないと言ってもいい。
 だが了平は、山本たちよりも一足早く、今年、スポーツ推薦で体育大学に進学し、プロボクシング界からの誘いには決して首を縦に振ろうとしなかった。
 その理由としては、本人曰く、アマのうちに達成しておきたい目標がある、ということだったが、山本の目から見れば、それは単なる方言だった。
 了平も、全身全霊をかけてボクシングを愛している。しかし、プロボクシング界に身を投じて、そこに骨をうずめる気はないからこそ、少年時代から憧れていた有名ジムからのオファーにさえ謝絶を続けているのに違いなかった。
「──?」
 ふと視線を感じて、そちらへ山本が目を向けると、京子や黒川と談笑していたはずのハルと目が合った。
 その笑みのない、いつも明るい彼女らしくない瞳に、ああそうだ、と山本は思う。
 彼女も沢田綱吉に関する真実を知っている、数少ない一人である。ゆえに、彼女も彼女なりの何か……覚悟と呼ぶべきものを、その身の内に秘しているのだろう。
 だが、ハルは一瞬で目を逸らし、再び笑顔で少女同士の会話に戻ってゆく。
 それを見送ってから、それじゃあ、と山本は了平にまなざしを向けた。
「じゃあ、俺はこれから宿に戻らないといけないんで。本当にありがとうございました」
「ああ、決勝はまた見に来る予定だからな。頑張れよ」
「あ、山本君、もう行っちゃうんだ?」
「頑張んなさいよ。並盛中の出身者で、甲子園で優勝した奴はまだ一人もいないんだから」
「ハルも目一杯、応援してますからね」
「おう。お前たちも皆、サンキュな。甲子園が終わったら、また飯くらい、皆で一緒に食おーぜ」
「うん。楽しみにしてるね」
「ハルは、カラオケにも行きたいですぅ」
「夏休み中ならいいわよ。また連絡して」
「おう。じゃあな」
 片手を挙げて、山本は彼らから離れる。
 そして少し傾いた真夏の日差しの中を、足早に人ごみをすり抜けてチームメイトの元へ戻った。
 

to be continued...





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