誰が為に陽は昇る

21.

 綱吉がその人影を見出したのはローマ市内でのホテル、それもチェックインした直後のことだった。
「よう、ツナ。スモーキン・ボム」
 まるで待ち伏せしていたように、というよりも正真正銘待ち伏せだったのだが、エレベーターホールの、フロントから見ると影になる位置のソファーに、にこやかに微笑むディーノとロマーリオの姿を見つけた時の綱吉の驚きは、一体どう表現すればいいだろう。
「ディーノさん!? なんでこんなとこに……」
 ここはイタリア国内であるから、イタリア人のディーノがいるのは別におかしくもなんともない。
 問題なのは、どこかの路上や施設でばったり、ではなく、この場所が今夜、自分たちが宿泊予定のホテルの中、ということだった。
 だが、綱吉の問いかけにディーノは、きょとんとした顔で返した。
「なんでって、そんなの宿泊予約見りゃ一発だろ」
「へ?」
 しゅくはくよやく。
 日本語であったにもかかわらず、一瞬その単語が漢字変換ができずに、綱吉はひらがなで呟く。が、きちんと翻訳するよりも早く、ディーノが続けた。
「あれ、その顔だと知らなかったのか。ここはうちが経営してるホテルの一つだぜ」
「ええ!?」
 まさか、と綱吉は傍らの獄寺を振り仰ぐ。
 すると、獄寺は微妙に複雑な、表情を選びあぐねたような顔で、うなずいた。
「そうです。色々条件を考えると、ここが一番良かったもので……」
「そうだったんだ……」
 だったら最初に言っておいてくれればいいのに、と思ったものの、それは綱吉の中で怒りには転じなかった。
 獄寺の考えていることなど、基本的に見え透いている。おそらく彼は、綱吉に余計な気を遣わせたくなかったのだろう。
 獄寺の気遣いは、時には余計なこともあるが、どれもこれも綱吉のためだけを思って組み立てられていることが殆どである。それが分かっている以上、綱吉は怒る気になれなかった。
「ええと、それじゃあ一晩お世話になります、でいいのかな?」
 半分は獄寺を、もう半分はディーノを見るような形で、半端に軽く頭を下げながら、どちらにともなく問いかける。
 すると、ディーノは楽しそうに笑った。
「ああ。つーわけで、ほい、これ」
 そのままソファーからするりと立ち上がり、豹かピューマを思わせるようなしなやかで隙のない動作で綱吉との間の距離を詰め、何かを差し出す。
「あ、はい。……って、何ですか、これ」
 反射的に上げた綱吉の右手に乗せられたのは、どう見てもホテルの部屋の鍵だった。
 たった今、フロントでもらったものと同じ、部屋番号のついた大きなキーホルダーがついている。
「もちろん、部屋の鍵だ。せっかくだから、お前たちにはその部屋じゃなくて、こっちの部屋を使ってもらおうと思ってな」
「へ?」
 こっちの部屋って、と思いながら綱吉が見ると、当然のことながらキーホルダーに刻印された部屋番号は確かに違っていた。
 フロントでもらったのは、417号室、ディーノが渡してくれたのは1001号室である。
「1001号室は俺が個人でキープしてる部屋なんだ。オーナーズルームって奴だな。お前たちみたいに特別な客が来た時に使ったり、俺自身がローマで仕事がある時に使ったり……。自分ちの持ち物をどうこういうのもアレだが、すげーいい部屋だぜ」
「おい跳ね馬」
 綱吉が何かを言うよりも早く、幾分低めた声で獄寺がディーノを呼んだ。
「なんだ?」
「最上階で、お前がキープしてる部屋ってことは、特別室のオーナーズルームだろ? 十代目は今回、『十代目』としてイタリアに来てるわけじゃない。目立つのは……」
「ああ、それなら気にすんな」
 眉をしかめての獄寺の苦言にも、ディーノはあっさりと笑って返す。
「支配人は、俺が誰を1001号室に招いてるのかなんて知りやしないさ。フロントにも、あくまでもお前たちが417号室に泊まったっていう記録しか残らねーよ。そもそも1001号室はいつも空調整備中で、空室なんだ」
「──そーかよ」
 溜息混じりにうなずくと、獄寺は綱吉を見た。
「十代目、どうされますか」
「どうって……」
 問われて、綱吉は獄寺を見、ディーノを見、そして手の中の鍵を見る。
 ディーノが保障してくれたこと、そして獄寺の反応を見る限りは、チェックインした部屋ではない特別室とやらに泊まることには、特に問題はないのだろう。
 あるとしたら、おそらくは超豪華な部屋だろうその特別室とやらで、自分がくつろげるかどうかということだけだ。
「どうも何も、遠慮せずに泊まっていってくれよ。お奨めの部屋なんだぜ。サンタ・マリア・マッジョーレもよく見えるしな。ロマーリオ、エレベーター呼んでくれよ」
 言いながらディーノはさりげなく、しかし明確な意思のこめられた手のひらで綱吉の肩を押し、エレベーターの方へいざなってゆく。
「あ、あのディーノさん」
「いーからいーから。おら、スモーキン・ボムもさっさと乗れって」
 そして、1階で停まっていたらしいエレベーターの扉が開くと、綱吉を押し込み、ついでに獄寺をも押し込んで、ロマーリオが扉を押さえている間にすばやく十階のボタンを押した。
「荷物置いたら、夕飯一緒に食おうぜ。俺たちはロビーにいるからな」
 その言葉を最後に、にこやかな笑顔は閉まる扉の向こうに消えて。
 何だかよく分からないままに、綱吉はゆっくりと昇ってゆくエレベーターの階層表示へと目線を向け、それから獄寺を見やった。
「えっと……状況がよく分かんないんだけど、いいのかな。この部屋に泊まって」
「まあ問題はないと思いますよ。跳ね馬は大ボケのヘタレですけど、ロマーリオもついてますし、まずいことは何もないはずです」
「ふぅん」
 そんなものなのかな、と思いながら綱吉は、再び階層表示のランプへとまなざしを戻す。
 向けられたのが悪意なら、小さく縮こまってやり過ごすのは幼い頃から得意だったが、好意となると、十三歳の時にリボーンが沢田家にやってくるまで、とんと縁がなかった分、かわし方が分からない。
 というよりも、かわしてはいけないような気がする、と言う方が正しいだろう。
 友達が一人もいない時期があまりにも長かったため、向けられる好意には、つい卑屈と紙一重の反応をしてしまうのである。何でもかんでも感謝して受け取らなければならないような気がしてしまうのだ。
 もっともディーノは気心の知れた兄のような存在であるため、慣れもあって綱吉もそこまで卑屈な反応はしないが、特別室という響きには十分すぎるほど気が引けるものがある。が、好意を断るだけの理由もない。
 仕方がない、と綱吉は覚悟を決めた。
「でも、どうして獄寺君、ディーノさんのホテルを選んだの?」
「ああ、それはすみません。黙っていて」
「いや、別に黙ってたことはいいんだよ。教えては欲しかったけど、獄寺君なりに考えのあったことなんだろうし。でも、なんで?」
 重ねて問いかけると、獄寺は少しだけ困ったような表情で、ちょうど止まったエレベーターのドアの開ボタンを押した。そしてエレベータの外を用心深く窺ってから、綱吉を振り返る。
「どうぞ、十代目」
「ありがと」
 礼を言って、綱吉は降りる。
 初めての場所では、獄寺が安全確認をするまで綱吉は動かない。それはもう、鉄則のようなものだった。
 日本でもだが、イタリアで綱吉が無用心に行動することは、いくらお忍び旅行でも命取りである。そう主張したのはもちろん獄寺だが、これまでがこれまでであるから、綱吉も今さら反論したりはしない。
「あ、この部屋だね」
「鍵、貸して下さい」
「うん」
 いつもと同じく、素直に獄寺に鍵を渡して、開けてくれるのを待つ。
 もちろん正直なことを言えば、綱吉も男である。お姫様扱いされるのは好きではなかったが、こういう場面での獄寺の表情や指先には、ぴんと張り詰めた美しさがあって、そんな横顔と手元を眺めるのは、綱吉の密かな楽しみの一つだった。
 そして、
「大丈夫みたいですね。入って下さい、十代目。跳ね馬が言うだけあって、なかなかいい部屋っスよ」
 内部に人の気配がないことを確認した獄寺が、一瞬で鋭い表情を崩し、笑顔で振り返る。その瞬間も、綱吉は好きだった。
「う…っわぁ」
 だが、そのひそかなときめきも、客室内に足を踏み入れた瞬間に霧散する。
 まるでどこかの城内の王様の部屋のようだった。深い緋色のベルベットが張られたソファー、サファイア色のドレープが美しい天蓋が付いたベッド、豪奢な装飾彫りの前飾りが印象的な暖炉、象嵌細工の優雅なテーブル……。
 薄いレースのカーテン越しに届く黄昏の光と、凝ったアンティークのシャンデリアから零れ落ちる光が、重厚な装飾に彩られた室内を幻想的なまでに美しく照らし出していて。
「すっごい……」
「続き部屋がありますから、俺はそっちで寝ます。そっちにもシャワールームがありますから、この部屋は、十代目が御自由に使って下さい」
「うん。でも、こんなすごい部屋、興奮しちゃって今夜眠れないかも」
「大丈夫っスよ。夕飯の時に少しワインを多めに飲めば、嫌でも眠くなりますし、どうしても眠れなかったら、明日の電車ん中で寝ればいいだけですから」
「それはそうなんだけど」
 言いながらも、綱吉はゆっくりと窓辺に近付いた。
 黄昏時のローマの街並みは、薔薇色と琥珀色が入り混じったような空の下、幻想的な影絵のように浮かび上がり、ネオンを星のように瞬かせている。その光景は夢のように美しかった。
「……ローマは本当に美しい街ですけど、美しいだけじゃないんです」
 綱吉の考えを読んだかのように、不意に獄寺が言った。
 綱吉はゆっくりと振り返る。獄寺は真面目な顔で、ローマの街並みを見下ろしていた。
「政治と宗教の聖地である永遠の都は、同時に暗黒社会の聖地の一つでもあるんです。名の知れたファミリーで、ローマ市内にアジトを持っていないファミリーはありません」
「……だから、このホテルを選んだんだね」
「はい。幾つか候補はありましたけど、どう考えてもここが一番安全でした。跳ね馬の知り合いだと思われたとしても、差し引きで考えれば大した問題じゃありません。ここなら万が一のことがあっても必ず、十代目を守り切れますから」
「──そう」
 取り越し苦労だとも思わなかったし、黙って手配した獄寺の行動に腹も立たなかった。
 今の綱吉は、そういう立場の人間なのだ。だから、ありがたいとも嬉しいとも思う。綱吉のためだけに獄寺は心を砕き、尽くしてくれているのだから。
「ありがとう。俺のためにいっぱい気を使ってくれて」
「いいえ、俺は当然のことをしてるだけです」
「そうかもしれないけど、やっぱり嬉しいよ。誰かに自分のことを大事に考えてもらえるのはさ」
「十代目のことを大事に考えるのは当然っスよ。俺はもちろん、十代目のことが一番大事ですけど、俺だけじゃありません。ファミリーの連中は全員、十代目のことを大事に考えてます」
「……うん。俺も皆が大事だよ」
 だから、十代目になるのだ、とは口にはしなかった。けれど、獄寺は何かを勘付いたかもしれない。しかし、彼はそれ以上何かを言わなかった。
 おそらく獄寺は、それ以上何か言って、ボロが出ることを恐れたのだろう。彼自身の個人的な想いや綱吉の嘘を、危うく燻り出してしまうことを避けたのだ。
 獄寺隼人という人間は、不器用で人間関係も下手くそだが、綱吉のためならどんな不得意なことでもやってのける。
 そうと分かっているから、綱吉も不器用な沈黙を不用意に壊したりはしなかった。
「そろそろ下に行かなきゃね。ディーノさんが待ってるよ」
「そうですね」
 言いながら、けれど、と綱吉は思う。
 互いの肩書きも立場もなく、ただの両想いの恋人としてこの美しい街の美しいホテルに二人で来ることができたなら。
 そんなことが叶ったなら、どんなにロマンチックで幸せだっただろう。
 未練がましくそんな風に思う自分を小さく自嘲しながら、綱吉は獄寺を振り返った。
「行こう、獄寺君」
「はい、十代目」

22.

 その小さな騒ぎに気付いたのは、四人で食後のワインとデザートをホテル内のバーラウンジで楽しんでいる時だった。
 どこかの城のサロンを思わせる優雅でシックな内装のバーは程々に混んでいて、生演奏のピアノをBGMに心地好いざわめきが空間を満たしている。だが、それが唐突に破られて、綱吉はその元凶となっているピアノのある辺りを見やった。
 グランドピアノの傍らで、ピアノを弾いていたロングドレスの女性と、蝶ネクタイをした中年男が言い争っている。よくは聞き取れないが、デートの約束がどうのという女性の声と、それを宥めるような男の声で、何となく事態は理解できた。
「あーあ、何やってんだか」
 溜息混じりにディーノが立ち上がり、そちらへと歩み寄ってゆく。すかさずロマーリオも付いてゆき、綱吉と獄寺の二人がテーブルに取り残される形になった。
「あ、女の人、出て行っちゃったよ」
「まぁ、珍しくないっスけどね」
 大して興味も持てない様子で、獄寺は肩をすくめる。
 何しろ、鉄道やバスですら客が少ないからと勝手に欠便にし、美術館や博物館も客が少ないと平気で休館にして、窓口の職員も、客の行列もそっちのけに携帯電話で恋人と延々お喋りしているようなお国柄である。あのピアニストはデートの約束があるのにもかかわらず仕事に来て、途中まででも弾いただけ偉いと言うべきなのかもしれない。
 そう思いながら綱吉が成り行きを眺めていると、蝶ネクタイの男となにやら低い声で話をしていたディーノが戻ってきた。
「隼人」
 スモーキン・ボムと呼ばない時のディーノは、獄寺のことを名前で呼ぶ。
「今の見てただろ。今夜のピアニストが逃げちまったんだ。代わりにお前、弾かねーか?」
「はァ?」
 突然の申し出に、獄寺は思い切り眉をしかめた。綱吉も目が丸くなる。
「CDでも流しときゃいいだろうが」
「それがなー、オーディオも故障中でな。せめて生演奏でもねーと、締まらないだろ」
「他の奴に頼め」
「そー言うなって。なぁツナ、お前だって隼人のピアノ、聴きたいだろ。前に聴いたのはいつだ?」
「前? えーと」
 いつだったっけ、と綱吉は考える。
 獄寺がピアノを弾くのは、彼のマンションの部屋でだけのことである。学校の音楽室では、彼は決してピアノに触れない。どういうこだわりなのか、自宅のリビングのど真ん中に据えられたグランドピアノでしか弾かないのだ。
「イタリアに旅行に来る一週間くらい前、だったと思うけど」
 そういう事情ゆえに他者が獄寺のピアノを聴くのは稀なことだったが、土曜日ごとに彼のマンションでイタリア語を教えてもらっている綱吉は、毎週とまではゆかなくとも、月に最低二度は獄寺のピアノの音を聴いている。
 獄寺自身、ピアノを弾くのは好きらしかったが、綱吉が聴かせて欲しいと願うと尚更に嬉しそうに鍵盤に指を躍らせ、そんな彼の姿と、彼の奏でる音が綱吉もとても好きだった。
「じゃあ二週間くらいは聴いてないわけか。だったら、そろそろ聴きたいだろ?」
「それは……」
 もちろんだけど、と思いながら綱吉は、獄寺の方へと視線を向ける。
 獄寺は何とも言いがたい、渋い顔をしていた。その表情を解読するのなら、十代目以外の人間の前で弾きたくないが、十代目が聴きたいとおっしゃるなら弾かないわけにいかない、といったところだろうか。
「俺は獄寺君次第、かな」
「十代目?」
 獄寺を見つめながら答えると、ディーノばかりでなく獄寺も不思議そうな顔になった。
「俺はいつでも獄寺君のピアノ、聴きたいけど、獄寺君がこういう場所で弾くのがいいのかどうか、分からないから。獄寺君が弾きたいのなら弾いて。弾きたくないと思ったら弾かないで」
「十代目、俺は……」
「そーいうことなら話は早い。隼人、あのピアノ、すげーいい音出るぜ。素人の俺が聞いてもはっきり分かるくらいだ。なんせベーゼンドルファーの逸品中の逸品、インペリアルだからな」
 どうだとばかりに、満面の笑みでディーノが獄寺の肩に手をかける。
 至極迷惑そうな顔をした獄寺だったが、ベーゼンドルファーと聞いた途端に、ぴくりと表情が動いた。
 音楽の素養は全くない綱吉だが、獄寺との付き合いも長くなったおかげで、ベーゼンドルファーが最高峰のピアノメーカーだということは知っている。そして、双璧とされるスタインウェイよりもベーゼンドルファーの音質の方が、獄寺が好きだということも。
「獄寺君、ちょっと触ってくる?」
「十代目」
「行っておいでよ。俺、ここで聴いてるから」
 まるで、友達に誘われて遊びに行きたいのに痩せ我慢しようとする、意地っ張りな子供のような表情をした獄寺に、笑顔で綱吉は言った。
「ね?」
 そして綱吉の笑顔は、獄寺に対してだけは絶対的な威力を誇るのであって。
「──はい。じゃあ、ちょっとだけ」
「うん」
「リクとか、ありますか?」
「ううん。獄寺君が好きなの弾いてくれればいいよ」
「分かりました」
 うなずいて獄寺は立ち上がる。
「助かるぜ、スモーキン・ボム」
「こういう場所で、その名前で呼ぶんじゃねえ」
「悪いな、ついうっかり」
「言ってろ、ヘタレ馬」
 何やかやと言いながら、獄寺とディーノは連れ立ってグランドピアノのほうへ歩いてゆき、蝶ネクタイの男と少々の言葉を交わして、ディーノだけが戻ってくる。
 そして、獄寺はピアノの前の椅子に腰を下ろし、全ての指輪を外してから、確かめるように鍵盤に触れて短い音を出した。
「あ、気に入ったみたい」
 感心したようにわずかに眉を開く、その小さな仕草で獄寺の心理を読み取って、綱吉は微笑む。
 そうして獄寺が弾き始めた一番最初の曲は、綱吉も知っている曲だった。普段でも指慣らしとして、最初に弾くことが多い、甘い旋律のゆったりとしたロマンティックな曲。獄寺の奏でる音はシルクのようでもあり、真珠が零れ落ちるようでもあって、綱吉はその響きに聞き惚れる。
 と、テーブルに戻ってきたディーノが半分呆れ、半分感心するような声で呟いた。
「ったく、参るぜ。渋っておきながら、指慣らしがリストの『愛の夢』かよ」
「いつも最初はこれですよ?」
「いつも、って簡単に言うなよ、ツナ。この曲はそうそう簡単に弾けるもんじゃねーんだ」
「それは聞いたことがありますけど」
 もちろん獄寺から教えてもらったことだが、リストはとても背が高くて指も長い、並外れた技巧を持つピアニストだったため、彼の作った曲は彼と同じように長くて強い指の持ち主でないと、完璧に弾きこなすことは難しいという。
 その難しい曲を美しく聞かせてくれる獄寺の才能に、綱吉はいつでも感動し、尊敬の念を抱いているのだが、ディーノの感想はそう単純ではないらしく、微妙な表情で、グランドピアノに向き合っている獄寺を見やる。
 そして、獄寺を見つめたまま、言った。
「なぁ、ツナ。俺はガキの頃から、あいつのピアノを何度も聴いてるんだ。その度ごとに、あいつの才能は並のものじゃねーと思ったよ」
 そう言う間にも、曲が変わる。甘い旋律から、躍動的な親しみやすい旋律へ。綱吉の知らない曲だったが、周囲の人々が軽く体を揺らしたりしているところを見ると、この国では良く知られた曲であるらしい。
「俺は音楽をやったことはねーが、レコードや演奏会では散々聴いてるからな。弾き手の良し悪しくらいは分かる。おまけに、あいつは気性も芸術家向きだしな」
「気性……ですか?」
「ああ。集中力とプライドの高さ、攻撃性。ついでにロマンティスト。絵でも音楽でも、そういう奴が生み出すものは、大勢に訴えかける力を持つんだ。あいつの音は、聴いてる奴の魂に噛み付いてくるんだよ」
「……あんなに綺麗な音なのに?」
「それが噛み付くってことさ。あいつの音は、一度聴いたら忘れられねーんだよ。ピアニストも色んなタイプがいて、聞き込むほどに味わいの増す地味なタイプもいれば、最初の音を聴いただけで分かるくらいに破天荒な個性を持つタイプもいる。隼人は後者の方だ。あいつは自分の感情を音に乗せるのが上手い。っつーより、感情抜きに弾けねーんだな。で、その感情に観客を引き込んじまう」
 それは綱吉にも思い当たる部分があった。
 獄寺のピアノは彼の瞳の色と同じく、とても素直で、獄寺が落ち込んでいる時にはどんなに明るい旋律でも悲しそうに聞こえるし、逆に獄寺が幸せな気分でいる時には、憂鬱な旋律ですらはずんで聞こえる。
 そして、そんな獄寺の奏でる音を聴いていると、綱吉の気分も同調して、沈んだり楽しくなったりするのだ。
「あいつも親がマフィアさえでなけりゃな。いいピアニストになってたと思うぜ。まぁ、誰だって親や親の職業を選べるんなら、苦労はねーんだがな……」
「ディーノさん……」
 名を呼ぶと、ディーノは綱吉を振り返って屈託のない笑みを見せた。
「俺も、家業が嫌で逃げ回ってた時期があるからな。ちっとだけ分かるんだよ、あいつの気持ちも、ツナ、お前の気持ちもな」
「──…」
「でもな、俺が今後悔してるのは、なんでもっと早く自分のやるべきことをやらなかったのかって、そのことだけだ。俺がもっと早く覚悟を決めてりゃ、親父だってあんな死に方はしなかった」
「おいボス」
 自嘲気味に言ったディーノの言葉を諌めるように呼んだのは、ロマーリオだった。だが、心配するなとばかりにディーノは、ロマーリオに片手を上げて見せる。
「だからな、ツナ。お前も隼人も、後悔するような道だけは選ぶなよ。誰だって、親も家業も選べねえ。だったら、そこから出発して、一番いい道を自分の力で探すしかねーんだ。後から後悔しなくてもすむような、自分と自分の大事な人たちが皆で幸せになれるような道をな」
「──はい」
 ディーノの兄のような温もりに満ちた言葉に、綱吉は真摯にうなずいた。
 ──自分と自分の大事な人たちが、皆で幸せになれるような道。
 夢物語のようだが、それを選ばなければならないのだ。大事な人たちを不幸にしないためには。
 それはもはや、できるできないの問題ではない。
 そうして話している間にも、獄寺は次から次に曲を弾き続け、十分に指がほぐれたのだろう。仕上げとばかりに再びリストに戻る。
「ラ・カンパネラ……」
 イタリアの街に鳴り響くカテドラルの鐘の音を映した、不世出のヴァイオリニスト・パガニーニの名曲。それをリストがピアノ用にアレンジした、大練習曲の第三番。
 いつだったか、世間に良く知られたこの曲ではなく、同タイトルかつ同モチーフでありながら遥かに難易度の高い、リスト本人にしか弾きこなせないと言われる超絶技巧練習曲を一度でいいから完璧に弾きこなしてみたいのだと、獄寺が話してくれたことがあった。けれど、練習不足で一生無理だろう、と笑いながら。
 切ないほどに美しく、胸に迫る激しい旋律が、水晶珠がぶつかり合うような透明かつ艶やかな音で響き渡る。
 全身でその音色を受け止めながら、綱吉はそっと目を閉じた。

23.

「十代目」
「うん?」
「一つ、聞いてもいいですか?」
 獄寺がその質問を切り出したのは、ローマからナポリへ向かうユーロスター・イタリア・アルタ・ヴェロチタの中でのことだった。
 特急列車の窓の外は見渡す限りの緑の丘が続き、その中を列車は時速300キロ近い速度で快調に走り続けている。
 今朝、ローマのテルミニ駅を出てから、綱吉はひたすらに車窓からの眺めに見入っていて、この一時間ほどの間、二人の間での会話はほとんどなかった。
「夕べのことですけど……俺がピアノを弾いてる間、跳ね馬のヤローと何を話されていたのかと思って……」
「────」
「いえ、俺に関係ないことだってのは分かってるんです。だから、どうしても聞きたいってわけじゃないんスけど、ちょっと気になるというか、」
 わたわたと言い訳する獄寺を、綱吉は深い琥珀色に透ける瞳で見つめ、その色合いの綺麗さに、獄寺の困惑は更に増す。
 昨夜ではなく今になって、こんなことを切り出したのには、一応獄寺なりに理由があった。
 というのも、昨夜、ディーノ所有のホテルで逃げたピアニストの代わりにピアノを弾く羽目になった折、目の端で捉えていた綱吉の様子が、どことなく気遣わしいものだったのだ。
 いつもなら綱吉は楽しそうに──こういう表現を使うことが許されるのなら、幸せそうに獄寺の奏でるピアノの音に聞き入ってくれるのに、昨夜に限ってはそうでなかったのである。
 耳を傾けていてくれるのは分かったが、意識の半分以上はディーノとの会話に集中していたようで、しかも、その表情は楽しそうとは言いがたかった。
 深刻過ぎはしない、けれど、少しだけ寂しそうな悲しそうな。
 だが、やきもきしながらもラ・カンパネラで演奏を締めくくってテーブルに戻ると、綱吉の表情は常と変わらないものに戻っていて、結局そのまま、獄寺は綱吉に問いかける機会を失してしまったのだ。
 そして今、綱吉は即答はしないで、答え方を探しているかのような沈黙越しに獄寺を見つめている。
 そんな綱吉のほのかな困惑が混じった静かな表情に、獄寺は質問を取り下げるべきだろうか、と迷った。
 会話の内容を知りたいのはもちろんだが、どうしてもか、と言われたならそうではない。綱吉が困るのであれば、自分のささやかな好奇心や心配など幾らでも箱に仕舞い込んでしまえる。
 だが、余計なことを聞いてすみません、と獄寺が口にするよりも先に、綱吉がほのかに困ったような顔のまま小さく笑った。
「……言ったら、獄寺君が気を悪くしそうな気がするんだけど」
「俺が、ですか?」
「うん」
 うなずき、しかし、それ以上だんまりを続ける気はないようで、綱吉は頬杖を付いて外を眺めるために車窓の枠にかけていた肘を下ろし、獄寺に向き直る。
「ディーノさんがね、君の性格はピアニスト向きだって」
「は……」
「それで……状況によっては、いいピアニストになってただろうになって。でも、親や家業は選べるものじゃないからってさ……」
 そんなことを、と獄寺は思う。
 だが、それで綱吉の表情の理由が分かったような気がした。
 獄寺の感覚が正しければ、綱吉は彼自身の進むべき道は決めていても、獄寺を含む他の連中を道連れにすることに、まだためらいを感じている。他の仲間には『もしも』の道が、まだ残されていると考えているのだ。
 もしも、マフィアにならなかったら。
 もしも、沢田綱吉という人間に関わらなかったら。
 そう考える綱吉の気持は、分からないでもない。むしろ、悩まなければ彼ではないだろう。しかし、獄寺にとっては無用な気遣いだった。
 獄寺自身はピアノを弾くことは好きでも、本職のピアニストになろうと思ったことはないし、子供の頃から胸にあったのは、いっぱしのマフィアになって周囲から一目置かれたいといったような物騒な願望ばかりだった。今ではマフィアになることについて、もう少し複雑な感情もあるが、基本的に自分は裏社会でしか生きてゆけない男だと思っている。
 親がファミリーを率いていたことは、単なるきっかけでしかない。血の気の多い自分は、たとえ堅気の家に生まれても、どこかの時点で道を外れていたのではないかという気がするのだ。
 他人を傷つけることが別に好きなわけではないし、戦いの中でしか生きている実感がないというほど物騒な性分でもない。
 ただ、世界が綺麗事では動かないことを知っているし、どこにでも人を傷つけることを喜ぶ外道がいることも知っている。  政治も経済も暗黒社会と緊密な繋がりを持っていて、大切なものを守るために時には暴力に頼らざるを得ない。そういう国で生まれ育った獄寺にとっては、暴力とは振るうことをためらうものではなかった。
「余計な世話ですね。俺はプロのピアニストになりたいと思ったことなんか、一度もないですから」
「……そうなの?」
「むしろガキの頃は、強制されて弾くのが嫌でたまりませんでしたよ。自分で好きなように弾くのはいいんですが、とにかく誰かに教わるとか監督されるってのが駄目で……。俺のピアノは、基本の運指だけを教わった後は、自分でCDを聴いたり演奏会で本物が弾くのを見たりして独学した部分が殆どです。だから正攻法の演奏でもないですし。弾くのは好きですけど、それ以上にはならない。一生、ピアノを仕事になんかしませんよ」
「そう」
 獄寺が言うと、じっと聞いていた綱吉は、困ったような安堵したような微妙な表情で微笑む。
「君が何を選ぼうと、俺は口出しする気はないんだけど。……ただ、俺は君のピアノの音、好きだから。ディーノさんの言葉じゃないけど、もしかしたら君が、って考えたことがなかったわけじゃないんだよ」
「そのお気持ちは嬉しいですけど、俺は今の状況に不満があるわけじゃないですから。十代目はご自分のことだけ考えて下さればいいですよ。俺のことは俺が考えますから」
「……うん、そうだね」
 自分がどうするかの方が大事だよね、と自嘲というほどではない淡い笑みを綱吉は浮かべて、再び車窓の外へとまなざしを向ける。
 その静かな横顔を、獄寺は黙って見つめた。
 ──君のピアノの音、好きだから。
 他意のない言葉だということは分かっている。
 綱吉はいつも自分が弾くピアノを喜んで聴いてくれるし、そうでなくとも弾いて欲しいと思っている時には、ちらちらとピアノの方を気にしているから、すぐにそれと分かる。
 そして獄寺も、綱吉が聴いてくれるのなら、何時間であろうと弾き続けても飽きなかった。
 生まれた時から、常に自分の傍らにあったピアノ。
 獄寺にとって、ピアノはいつも幸福の象徴だった。
 幼い頃は母の想い出に、少し成長してからは心を通わせた人々との想い出に直結し、現在に繋がるボンゴレ九代目との出会いも、下町の酒場のピアノがきっかけだった。
 幼少時のピアノ演奏会でひどい目に遭い続けた記憶も、トラウマとなったのは姉ビアンキの存在だけで、ピアノに対する忌避感には繋がらなかったのだから、それだけピアノという楽器が獄寺の内に占めるものは大きいのだろう。
 だが、ピアノを弾くということは、獄寺にとってはそのまま自分を弾くことを意味していた。
 根っから嘘が下手な性分が影響しているのだろうが、悲しい気分の時には悲しい音しか、嬉しい気分の時には嬉しい音しか出せないのである。
 そのことを自覚したのは日本に来てからのことだが、以来、獄寺は公共の場でピアノを弾くことをしなくなった。
 自分の部屋で一人きりでいる時だけ、ピアノに触れる。
 その孤独な習慣が崩れたきっかけは、やはり綱吉だった。
 中学二年生の夏休み、宿題を片付けるために初めて獄寺のマンションを訪れた綱吉は、リビングの中央に据えられたグランドピアノに目を丸くし、その黒く艶々と輝いている楽器に興味津々の様子を見せたので、獄寺も弾いて見せないわけにはいかなかったのである。
 そしてクラシックに興味がない人間でも、どこかで必ず聞いたことがあるような名曲ばかり選んで聴かせれば、綱吉はひどく感激したようで、それ以来、彼の中での獄寺の認識が少し変わったようだった。
 思えば、綱吉と本格的に打ち解けて話をできるようになったのは、あのピアノがきっかけだったかもしれない。
 あの夏の日から、獄寺は機会あるごとに綱吉にピアノを弾いてきた。
 嘘をつけないピアノの音は、決して穏やかで優しいばかりではなかったはずだが、その音を綱吉は好きだと言ってくれる。
 それは何にも変えがたい宝石のような言葉だったが、一方で、どうにもならない棘の痛みを感じないではいられなかった。
 ──いつも指慣らしにと弾く、リストの『愛の夢 第三番』。
 この曲に歌詞があることを……冒頭に掲げられているフライリヒラート作の詩を、綱吉はおそらく知らない。知っていたとしても、獄寺がこの曲を指慣らしに弾く理由とは繋げて考えない。
 無論、獄寺とて知って欲しいわけではない。むしろ、知らないでいてくれなければ困る。
 なのに、この曲を弾き続けてしまう。そんな自分の浅ましさを自覚してしまうから、綱吉から与えられる賛辞は喜びである一方、かすかな後ろめたさをも獄寺に覚えさせた。
(でもね、俺はこの先もずっと、あなたのためだけに弾き続けるんです)
 沢田綱吉という存在を知らなかった頃ならばいざ知らず、今はもう他の誰かに自分のピアノを聴いてもらいたいとは思わない。否、聴かせたくない。
 世界でただ一人を喜ばせ、その慰めとなるのなら、それ以上のことなど必要ないし、ピアノを仕事になど決してしない。
(「愛せよ。汝、能得(あたう)る限り」。フライリヒラートの詩の通り、俺は……)
 独り言にすら出せない想いを、唯一つ具現化する手段。
 ピアノのことをこんな風に思う時が来るなどと、幼い頃には思いもしなかった。
 けれど、綱吉が望むのなら何でもできるように、彼が好きだと言ってくれるのなら、ピアノだっていくらでも弾く。
 そんな自分を獄寺は愚かだとは思わなかった。

24.

 ナポリは、列車を乗り換えるためだけの街のつもりだった。
 沖合いにカプリ島というイタリアきっての高級リゾート地を持つこの街は、古い歴史と情緒を持つ観光都市である一方、治安の悪さでも名を馳せる。
 ことに近年、上流階級が暮らす海岸沿いのわずかな街区を除いて、頓(とみ)に治安が悪化していることから、獄寺はこの街に長時間滞在することを避けるよう望み、綱吉もそれを受け入れて移動計画を立てていた。
 だが、ローマ発のユーロスターが快調に飛ばし過ぎて、定刻よりも遥かに早くナポリについてしまったことと、逆に半島東岸のフォッジャへ向かう列車が定刻よりもかなり遅れているらしいことから、この街で二時間近い空白ができてしまったのである。
 時刻表が当てにならないことなど獄寺は十分すぎるほどに知っているし、ここまでの十日近い旅程で綱吉も分かっている。
 だから、最初から駅員など当てにせず、駅のホームで他の列車待ちの旅客たちに電車の運行状況を尋ねた後、できてしまった空白時間をどう潰すか考えた。
「二時間って半端だよね。観光には短いし、ホームも外も暑いし」
「昼飯には早過ぎますしね」
「イタリアのバール(カフェ)は長居する場所じゃないし。でも、二時間も駅のベンチでボーっとしてるのもねえ」
「芸がありませんよねぇ」
 互いに首をかしげ、時計の針の位置を確認してから、じゃあ、と綱吉が提案した。
「駅から三十分くらい歩いた所で、目に付いたバールに適当に入って、一杯エスプレッソか冷たいフレッシュジュースを飲んで、また戻ってくる。それでどう? 少なくとも一時間ちょっとは潰れるよ」
「そうっスねえ」
「途中に土産物屋でもあれば、覗いてみてもいいしさ。身と荷物の安全には十分に気を配るってことで」
 ほんの一時間程度の街歩きなら大丈夫、と言えないのがナポリである。
 正直な所、この駅のホームでぼーっとしているのが、まだ一番安全に近いのだが、しかし外気にさらされる真夏のホームは、真冬のホームと同じくらいに過ごしにくい場所であるのも、また真実だった。
「……まぁ、観光客の多い表通りを選んで、裏道や旧市街に足を踏み入れなければ大丈夫でしょう。俺も十代目も、金目の物を身につけてませんし」
「あ、そういえば指輪外してるね。全部」
「さっきユーロスターを降りる前に外しました。駅のホームにだって、スリやひったくりはうようよしてますから。被害に遭わないようにするには、装飾品やブランド物の小物を持たないのが一番なんですよ」
「そりゃそうだよね。ボロっちいバッグと空っぽの財布をひったくったって、金になんかならないし」
「そういうことです」
 じゃあ、行きますか、と獄寺が促し、二人は連れ立って歩き出す。
 駅舎から一歩外に踏み出すと、夏の強い日差しが降り注いできたが、まだ午前十時という時間帯もあって、さほど厳しい暑さでもない。そうこう言っているうちに、みるみる気温は上がってくるのだろうが、少なくとも今は、ふらふらと街を彷徨っていてもバテる程の暑気ではなかった。
 途中、道の角から横小路の中ほどに見えたオリーブ細工の工房に綱吉が目を留め、立ち寄って、木目を生かした象嵌細工の掌サイズの綺麗な小物入れを二つ、ハルと京子への土産として買った以外は、街並みを眺めながらひたすら真っ直ぐに歩き、ちょうど三十分が過ぎたところで、古く落ち着いた感じのバールの看板を見つけた。
「ここ、どうかな」
「悪くなさそうですね」
 バールというのは、店によってある程度客層が決まっている。下手に場違いな店へ踏み込んでしまうと、周囲の客たちに白い目で見られるし、ことによっては何らかのトラブルを誘発しかねない。
 だが、獄寺が見たところ、その店は表通りに面しているだけあって、地元の人間も観光客も立ち寄る、気楽な雰囲気の店のようだった。
 中に入ってみると思った通りに、ほどほどに込み合っており、十数人の客たちは新しく入ってきた客にちらりと目を向けただけで、またそれぞれの会話に戻ってゆく。
 その感触を確かめてから、獄寺は綱吉と共にカウンターに向かい、オレンジのフレッシュジュースを二つ頼んだ。
 暑い中を歩いていると、どうしても冷たい飲み物が欲しくなる。コーラのような炭酸でもいいが、一番身体が欲し、美味しく感じるのは、果汁百パーセントのまじりっけのないフレッシュジュースである。
 日本にいる時は、ファミリーレストランやカフェでわざわざ頼もうとも思わない甘酸っぱい果汁の冷たさが、渇いた喉にひどく心地好かった。
「でも、なんでジュースにガムシロップがついてくるんだろ」
 無色透明かつ濃厚なシロップで満たされた小さなガラス製のピッチャーを指先でつつきながら、綱吉が首をかしげる。
「イタリアではコーラにだって付いてきますよ」
「……イタリア人はコーラを甘いと思わないわけ?」
「ええ、多分」
 笑いをこらえながら獄寺が応じると、綱吉は諦めたように溜息をついた。
「そーだよね。小さなカップにちょっぴりしか入ってないエスプレッソに砂糖山盛3杯も入れるお国柄だもんね。ジュースやコーラにガムシロも当然だよね」
「まぁ甘い物の苦手なイタリア人だっていますけどね。標準的なイタリア人は、日本人の味覚からしたら、まず極甘党です」
「そういう獄寺君も、結構甘党だよね。歯がきしみそうなくらい甘いものでも平気で食べてるし」
「それは慣れですよ。俺は逆に、日本の菓子を初めて食った時は、味がしないと思いましたから。今は日本の味の方が好きですけど、少なくとも十二まではこの国で生まれ育ちましたから、この国の甘さも平気だっていうだけです」
「……それでも十分すごいよ」
 俺だって甘い物好きな方なんだけどな、とぼやきながらも、綱吉はグラスのジュースを飲み干す。
 そして、ちょうどカウンターの隣りでエスプレッソを飲んでいた地元民らしい客が、カウンター内の店主らしき男に向かって笑顔で挨拶し、店を出て行くのに目を留めて、あれ、と不思議そうな顔になった。
「どうしました?」
「うん……今のお客さん、代金を払っていかなかったような気がして」
 ツケなのかな、と首をかしげる綱吉に、獄寺は、ああ、と思い当たった。
「それは多分、カフェ・ソスペーゾってやつですよ」
「カフェ・ソスペーゾ?」
 ソスペーゾとはどういう意味だっただろうか、と考えているのが丸分かりの綱吉の表情に、獄寺は笑みかける。
「俺も聞いたことがあるだけですが、ナポリの裕福な連中は、自分がバールでエスプレッソを頼んだ時に、一杯分余分に代金を払うことがあるんですよ。で、その後やってきた貧乏人が、無料のエスプレッソにありつくことができるってわけです。下町での習慣だって聞いてましたけど、こんな表通りの店でもまだやってる人間がいるんですね」
「へえ」
「ちょっと注意して眺めれば分かることですが、この街は金持ちと貧乏人の落差が激しいんです。カプリ島や海岸線には超高級ホテルや別荘が立ち並んでいるのに、一歩裏通りに入ればスラムが広がっている……。そういう街だから、貧乏人に施しをする古きよき伝統を守る金持ちも、まだ残ってるんです」
「そうなんだ……」
 感心したように、綱吉はさりげなく店内へと視線を向ける。周囲の客を眺めることで、この街の雰囲気を掴もうとでも言うかのように。
 それから、もう一度獄寺へと視線を戻して、尋ねた。
「で、sospesoってどういう意味?」
「宙ぶらりんの、とか、まだ決まってないとか、そんな感じですね。他にもカフェ・パガートっていう言い方もあるみたいですけど」
「pagato? 代金が払ってあるってこと?」
「ええ。おごりのエスプレッソってとこですね」
 その時だった。
「Che seccatura! Spero che degli scimmioni tornano. (耳障りだな。サルはとっとと家に帰りやがれってんだ)」
 さほどその声が低められていなかったのは、獄寺と綱吉が片言のようなイタリア語の単語を交えてはいても、日本語で会話をしていたからだろう。
 反射的に二人がそちらへと目を向けると、少し離れた立ち飲み用のテーブルに三人連れでいた若い男たちが、少々驚いたような顔になる。
 が、獄寺が行動するよりも早く、綱吉の手が獄寺の腕に触れた。
「駄目だよ」
 彼らを刺激しないようにだろう。低めた声で小さく綱吉はささやく。
 だが、獄寺としても綱吉に言われるまでもなく、本格的に事を構える気はなかった。列車の発車時刻まで、あと一時間余りしかないし、また、この旅行中には問題を起こさないと心に決めている。
 だから、その場は動かずに、ただ強烈に冷ややかな表情とまなざしを彼らに向けた。
「Parlo I’italiano piu bene di voi e so italia piu bene di voi. (俺の方がイタリア語は上手いし、この国にも詳しいぜ)」
 わざと南部訛りの特徴である、歌うように音を伸ばす発音を強調しながら言えば、彼らはわずかに怯(ひる)んだようだった。
 見てくれからしても、彼らは普通の街の若者であり、先ほどの罵詈も、単に日本人の観光客が少しばかり癇に障っただけの発言だったに違いない。しかしそれが、ナポリ訛りよりも更に南部イタリアの発言で言い返してきたのだ。驚かない方が不思議だろう。
 そして、その隙に綱吉が獄寺の袖を引き、二人は空になったグラスと代金をカウンターに置いて、店を出た。
「──大丈夫ですか」
 日の光の下で見ると、綱吉はわずかに青ざめているようだった。普段はやわらかな色をしている頬が、少しばかり血の気が失せている。
「うん。でも、ちょっとびっくりした」
 落ち着きを取り戻そうとするかのように、綱吉は大きく呼吸して、店を振り返った。
「イタリアで生活したことのある人の本とかブログを見て、知ってるつもりだったけど。直接言われると、結構こたえるね」
「……そうですね」
 気にするな、とは獄寺にも言えなかった。
 開けっぴろげで、日本人観光客にも親切だといわれるイタリア人だが、その実、内面における外国人蔑視はとても強く、同じヨーロッパ諸国に対しても痛烈だが、有色人種に対しては尚更に露骨な嫌悪を示すことも少なくない。
 だが、今回のようにそれを相手に直接ぶつけることは珍しく、当人の前では好意的に接しておいて、当人が居ない場になると手のひらを返したように悪口を言い始めるのが、この国の人間の常である。
 ともあれ、物心付いた頃から、それに晒され続けてきた獄寺には、いま綱吉が受けている衝撃の強さが十分過ぎるほどに理解できた。
「十代目」
 拳をぐっと握り締めて、獄寺は口を開く。
「この国は、こういう国です」
 真実を告げなければならない口の中が、ひどく苦かった。
「カフェ・ソスペーゾみたいな助け合いの精神は当たり前に根付いてますし、他にも良い所がないわけじゃありませんが、やっぱり楽園には程遠い。日本だって外国人蔑視は強いし、問題だらけの国ですが、俺から見れば、日本の方がまだ天国に近いように感じられます。──ですから、十代目」
 綱吉は、深い琥珀色の瞳を獄寺に真っ直ぐに向けてくる。
 その澄んだ優しい色合いを、この先も絶対に濁らせて欲しくなかった。だが、そう願うことさえも、自分の我儘なのだろうか。
「急がないで、ゆっくり考えて下さい。この国の持っている汚い部分とも付き合ってゆけるかどうか……。気付いていらっしゃると思いますけど、マフィアはその汚い部分に最も深く関わっている存在です。ボンゴレだって、例外じゃありません」
 本当は、考え直して下さい、と叫びたかった。
 その肩を掴んで、思い切り揺さぶって、何でもしますからこの国に来るのはやめて下さいと懇願したかった。
 けれど、全て決めるのは綱吉だ。獄寺には口を挟む権利はない。
 現実を苦く噛み締めながら、綱吉を見つめる。
 と、綱吉は小さく笑った。
「……うん。ちゃんと考えてるよ。だから、大丈夫。心配してくれてありがとう、獄寺君」
「──はい」
 うなずいて、獄寺もほろ苦く笑い返す。
 ───すべてはもう、遅すぎるのだ。
 彼にこの道を歩んで欲しくないのであれば、もっと何年も前にそう告げていなければいけなかった。彼がまだ、マフィアになることを拒んでいた頃に。
 今更、何を言ってももう遅い。
 ならば、と獄寺は覚悟を決める。
(良い所も悪い所も、この国のすべてを)
 楽しいばかりの旅行にしたかった。叶うならば、心はずんだ思い出だけを持って日本に帰って欲しかった。
 けれど、それはフェアではない。
 すべてを見てもらわなければ、この国に来た意味が半減してしまう。
 だから、この先は何一つ隠すまい、と思う。
 南に行けば行くほど、この国は貧しく、影の部分が大きく露出してくる。それらをありのままに見てもらえばいい。
 それで何かを感じ、考えたとしても、それらはすべて彼の財産になる。
 遠くない未来、ドン・ボンゴレ十世となる彼の。
「それじゃあ、行きましょうか」
「そうだね」
 瞳を見交わして歩き出す。
 アスファルトの上に落ちる二人の影は、天頂に近づいた真夏の太陽の下で、もう子供一人すら隠れられないほどに短くなっていた。

25.

「十代目、お願いがあるんですが」
 改まって獄寺がそう切り出したのは、イタリア半島の踵(かかと)に位置するレッチェの街のホテルでのことだった。
 レッチェは日本ではあまり知られていないが、小さな町全体が美しいバロック建築に満ちていて、欧米ではかなり人気のある観光地であるらしい。実際に今日、地図を片手に南欧の強い日差しをものともせず歩き回っている、アメリカ人らしい観光客グループを街中の至る所で見かけた。
 綱吉も、ローマやフィレンツェといった大都市の歴史的建築が持つ豪壮さとはまた趣の異なる、象牙色の石灰石に『彫りまくられた』と形容しても過言ではない、執念すら感じさせる装飾彫りに感嘆を越えて唖然としつつも、その凝りに凝った華麗さには魅せられずにいられなかった。
 日本人の感覚からすると、懲りすぎではないかと思えるほどの装飾過剰ではあったのだが、しかし地中海の真っ青な空の下で、シャンパンを思わせる淡い金色の石灰岩でできた教会や政庁舎は、確かに輝かんばかりに美しく見えたのだ。
そうして現在、旅人二人が落ち着いているドゥオーモ広場近くにあるこのホテルも、こじんまりとした造りながら華麗な石灰岩の装飾で飾り立てられた外装を持ち、客室も品良くアイボリーとセピアでまとめられて、日の落ちた今は、オレンジがかかった灯りがやわらかく室内を照らし出している。
その中で、獄寺は至極真面目な顔で綱吉に向かって言った。
「ここから先の移動についてなんですが、車を使うことを許していただけませんか」
「……車?」
 何を言い出すのか、と綱吉はまばたきした。
「はい。車です。もちろん、俺が運転します」
「え。ちょ、ちょっと待ってよ。獄寺君、免許証持ってないでしょ? ていうより、それについては計画立てる段階で、もう話し合ったよね?」
 いささか慌て気味に確認する。
「イタリアでは移動手段といったら車で、電車もバスも不便だって、最初から獄寺君は言ってたし、俺だって十分すぎるくらいに実感してるよ。でも、俺も君も、十八歳の誕生日は夏休みの後だし、今回は仕方がないって言ってたよね? それとも俺の記憶違い?」
「いえ。十代目の記憶は間違っていらっしゃいません。俺も、その時は納得しました」
「──その時は、ってことは、蒸し返す理由ができたってこと?」
「はい」
 眉をしかめての綱吉の確認に、獄寺は悪びれもせず、真剣な顔でうなずく。
 どうしたものか、と綱吉は、そんな獄寺の顔を眺めながら考えた。
 車を使いたい、という獄寺の主張は、イタリアでも日本でも自動車運転免許は十八歳にならないと取得できないという時点で、既に破綻している。
 だが、中学生の頃ならまだしも、今現在の獄寺は、最低限の一般人の常識はわきまえた上で発言し、行動するようになっている。そのことを考えると、この無茶な主張にも彼なりの考えと言い分があるのではないかと綱吉には思われた。
「じゃあ、君が法律違反してでも、車の方がいいと思う理由を教えてよ。それが納得できる理由なら、俺も考えるから」
「理由は簡単です。ここから先、正確には半島の土踏まずを走る路線の列車が、相当に酷いからです」
「……酷いってどんな風に」
 綱吉が尋ねると、初めて獄寺は、心底嫌そうに眉をしかめた。
「ムチャクチャ汚いんですよ。落書きだらけのゴミだらけで、臭いもひどいですし。俺が昔乗った時も世界最悪の列車だと思いましたが、地元の知り合いに聞いてみたら、今も全然変わってないらしいんです」
「俺は別に構わないけど。それくらい」
「そういうレベルじゃねーんですよ!」
 強い口調で言うなり、獄寺はとうとうと語り始める。
 罵詈雑言というほどではないが、乗務員や地元の利用客が聞いたら間違いなく気分を悪くするのではないかと思われる言い様に、綱吉もうーんと首をかしげた。
 綱吉としてみれば、汚いのは確かに嫌だが、だからといって法律違反をしようと思う理由にはならない。
 だが、獄寺が綱吉に困った顔をさせてまで自己主張を押し通そうとすることも、最近では珍しくなっている。
(よっぽどの理由があるって考えるべきなのかなー?)
 ローマに行ったらローマ人の飯を食えっていうし、と綱吉は細い顎に手を当てて考える。
「ねえ、獄寺君」
「あ、はい?」
「素朴な疑問が幾つかあるんだけど」
「何でしょう?」
「君が電車を利用したくないのは、良く分かったよ。でも車を使うって言っても、その車はどうするの? あと免許証の問題は?」
「どっちもすぐに手配できます」
 即答だった。
「免許証なんて、事故でも起こさない限り見せる必要なんてありませんし、偽造だって、その辺りの警察に見破れるようなシロモノは使いませんしね。車も今から連絡しておけば、明日の朝には、このホテルの前に回してもらえますよ」
「───…」
「あ、俺の運転技術に関しては、信用して下さい。前にも言いましたけど、八歳の頃から車もバイクも転がしてますから、運転歴は十年近くあります」
「……うん。それは確かに聞いたけど……」
 これは獄寺ばかりでなく、リボーンやディーノにも確認したから間違いない情報なのだろうが、イタリアではブレーキペダルに足が届くようになったら車の運転練習を始める子供(特に男子)は珍しくないのだという。
 そして、十八歳になったら自動車学校に通うことなしに即、試験を受けて免許を取得する若者の割合は、かなり高いということだった。
(まぁ、同級生でもバイク屋の息子とかは、中学生の頃から近所の道で大型バイクの練習してるって言ってたしな。それと似たようなものかな……)
 どうにもならない育ちの差というべきカルチャーショックを、身近な例で理解しようと務めながら、もう一度綱吉は獄寺の顔を見つめる。
 やわらかな照明の光の中、獄寺の淡く霧がかったような灰緑色の瞳は、どこまでも真剣だった。
「……一つだけ、約束して欲しいんだけど」
「はい」
「交通ルール違反は絶対にしないって、約束して。信号無視も、スピード違反もダメ。それがこの国の普通の運転でもね」
 イタリアにおいては、交通ルールなどあってなきが如しだ。誰も赤信号など守らないし、駐車禁止という言葉も知らなさそうだし、一方通行すら無視される。
 だが、どう想像してみても、そんな運転をする車に同乗するのは、精神的に大きな負担を強いられること間違いないし、何よりも偽造免許証しか持っていない状況で事故を起こされてはたまらない。
 無論、事故を起こしたところで、獄寺のことであるからどうにか片をつけるのだろうが、それでも一応の釘は刺しておくべきだった。
「約束します。絶対に事故を起こしたりしません。誓います」
「……うん」
 それならいい、と綱吉はうなずく。
 法律破りはしても、約束したことは必ず守ろうとしてくれる。それが獄寺という人間だ。
「じゃあ、君を信じるよ。君がそこまで言うんなら、それなりの理由があるんだろうし。その代わり、本当に安全運転してね」
「はい! ありがとうございます!!」
 ぱっと顔を明るくして、深々と頭を下げ、獄寺は早速、携帯電話を取り出して、どこかにかけ始める。
 まぁこれくらいの妥協は仕方がないか、ここまでも獄寺はこの旅行が不愉快なものにならないよう精一杯に尽くしてくれているわけだし、と溜息交じりの微笑を浮かべながら、荷物の整理をしようとトランクに伸ばした綱吉の手が、耳に飛び込んできた獄寺の一言に、止まった。
「Sono Ruggero.」
 それは自分の名前を名乗る時の、ありふれた言い回しだった。英語で表記するのなら、(I)am Ruggero.に相当する。
 けれど。
(ルッジェーロ、って……)
 肩越しに振り返った綱吉の視線には気付かないまま、獄寺は速い口調のイタリア語で話し続け、相手の応答に耳を傾けては、短い注文を幾つか重ねて、最後に彼らしい満足げな表情で電話を切った。
「十代目、万事OKです。明日の朝までに全部、手配できます」
「……あ、うん。ありがと」
 うなずきながらも、綱吉はじっと獄寺の顔を見上げる。と、獄寺は不思議そうな顔になった。
「十代目? 何か……」
「うん」
 少しばかり迷ったものの、尋ねてはいけないことだとは思えなかった。本当に綱吉に聞かれたくないことであれば、獄寺は最初から電話をかける段階で、部屋の外に出るなりバスルームに行くなり、それなりの行動を取るだろう。
 だから、と綱吉は問いかける。
「今の電話だけど、獄寺君、隼人とは名乗らなかったよね?」
「あ」
 獄寺は気まずいというほどではないものの、うっかりしていた、という表情になる。
「……聞こえちゃいましたか」
「聞こえるも何も。この距離だもん」
 綱吉はベッドに腰掛け、電話をかける際に立ち上がった獄寺は窓際だ。距離としては三メートル程度にしかならない。
「そうっスよね……」
 どう説明したものか、と考える様子の獄寺を、綱吉は見つめる。彼は困惑しているだけのようであって、綱吉の質問が、特に彼の何かを傷つけたという雰囲気はない。そのことに、綱吉は少し安堵した。
 そうして黙って待っていると、少しばかり言いにくそうに言葉を選びながら、獄寺が話し始める。
「ええとですね……。俺の名前は獄寺隼人で、誰に対してもそう名乗りますし、それ以外は無いと思ってるんですが……俺の父親は純粋なイタリア人でしょう? ……つまり、俺にはイタリア名の名前と姓もあるんです」
「……ああ」
 考えてみれば当たり前のことだった。イタリア人の父親が自分の跡を継がせようという長男に、獄寺隼人などと異国風の名前を付けるわけが無い。
「出生届は母親が出したんで、母親が付けてくれた『隼人』が俺の正式な名前なのには変わりないんですが、父親が付けた名前もあって……それがRuggero、なんです」
 Hayatoをファーストネームにして出生届を出したことを知った父親は、そのことで母親を責めたらしいが、と獄寺は苦笑いした。
「俺は最初から自分の名前は、母親が呼んでくれた『隼人』だと思ってましたし、それで通してましたけど、実家で俺をそう呼んだのは姉貴とシャマルだけでした。それでも、どうしてもRuggeroは自分の名前だと思えなくて……。でも、家を出て一人の間は良かったんですが、ボンゴレに入った後は、そうとも言ってられなくなりましてね。無用なトラブルを回避するために、Ruggeroを通り名として使うようになったんです」
 相手が電話口でHayatoと呼んだだけで、電話をしている相手が自分だということが周囲にバレてしまう。それがまずいのだと獄寺は言った。
「一匹狼なら別に、どこの誰に狙われようと構いやしないんですが、ボンゴレの幹部になろうとすると、そういうわけにはいかないんですよ。まぁ、本当の大幹部になることができれば、そういう細かいことは返って気にしなくても良くなるんですが」
「……そうだったんだ」
「はい。そーなんです」
 困ったように獄寺は笑い、だが、いつもと変わらぬ快活な声を出した。
「まぁ、便宜上のことですから。最初のうちはちょっと抵抗がありましたけど、今は何とも思ってません。だから、十代目も気になさらないで下さい」
「うん」
 うなずきながらも、綱吉はRuggeroと心の中で呟く。
 綺麗な響きだと思った。
 けれど、獄寺が望まない名であるのなら、綺麗な響きだとは口に出さないし、その名前でも絶対に呼ばない。
 綱吉にとっても、やはり彼は『獄寺隼人』だった。
(むしろ、『隼人』って呼んでみたいかも。それから、俺の名前も……)
 十代目という呼び名が嫌なわけではない。その呼び方をするのは獄寺だけだから、むしろその響きは心地好いと感じることすらある。
 けれど、もし名前を呼び、呼ばれることがあれば。
(すごく幸せな気分になれるかな。それとも、いっそ泣いちゃうかな)
 分からない、と思いながらも綱吉は、ゆっくりと荷物を整理してトランクに詰め直す。
 そして、獄寺を振り返った。
「そろそろ寝ようか?」
 と、ベッドサイドの肘掛け椅子に腰を下ろした彼は早速、道路地図を広げていて。
「あ、すみません。明日のルートだけ確認したら俺も寝ますから、お先に休んで下さい」
「そう? じゃあ、そうさせてもらおうかな……」
 無理に付き合っても、獄寺を恐縮させてしまうだけだと分かっていたから、綱吉は素直にベッドにもぐりこむ。
 それから、もぞもぞと身動きして寝心地のいい体勢を作った後、そっと地図に見入る獄寺の横顔を眺めた。
(隼人、隼人……。うん、やっぱりRuggeroより綺麗な響きだな。こっちの方がずっといい)
「おやすみ、獄寺君」
「はい、おやすみなさい。いい夢を見て下さいね、十代目」
「うん、ありがと」
 微笑んで目を閉じ、そして再びこっそりと目を開いて獄寺の横顔を見つめる。
 そうしていつの間に自分が眠ったのか、獄寺がいつ灯りを消したのか、綱吉は気付かなかった。

to be continued...





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