夢のほとり
見上げる夜空は吸い込まれそうなほどに澄んでいた。
雲一つなく、煌く星はまるで光り輝く砂粒を一面に撒き散らしたかのようだった。その星の海の端、木立の陰に隠れるか隠れないかの際に細い上弦の月が淡く輝いている。
美しい初夏の夜だった。
だが、その美しさが恨めしい、と丁は思う。
この空が陰ってくれたなら。
重い色をした厚い雲が、この空を覆ってくれたなら。
自分は、こんなところに居なくても良かったのに。
ふと我が身を見下ろせば、これまで手を触れたこともない、触れることも許されなかった真っ白な衣装が目に入る。
さやかな星の光を受けて白く夜に浮かび上がるその襟は――死人が纏う合わせ方だった。
どうしてですか、と天の星を見上げて丁は問う。
私が何かしましたか?
親が無いというだけで。
顔も知らぬ親がよそ者だったというだけで。
村の厄介者であるということは承知していました。
ですから、この小さな手でも懸命にやれることをやり続けたのに。
納屋の片隅の寝床と、わずかな食事をもらうために、雨の日も風の日も水を汲み、薪を運び、火を起こして、働き続けてきました。
そうしていれば、生きることだけは許されると思っていたのに。
早く大きくなって、もっと役に立つ人間になって、この先も生きてゆくことを許してもらおうと思っていたのに。
思えば、頭一つ撫でてもらった記憶はありません。
乳飲み子の頃は、もらい乳のために誰かに抱かれたこともあったでしょう。
けれど、覚えていないのです。
抱きしめられた記憶がないのです。
どうして私は独りだったのですか。
どうして私は愛されなかったのですか。
どうして――生きることすら許されなかったのですか。
生きたかったのに。
もっとずっと、この世界に居たかったのに。
もっと色んなことを見聞きして、大人になりたかったのに。
どうして―――。
* *
「――ずき、鬼灯!」
強い声で呼ばれて、はっと鬼灯は目を開く。
反射的にまばたきをすれば、両の目の端から何かが零れ落ちてゆく感触がした。
「え……?」
「大丈夫か? どこか痛むのか?」
呆然と戸惑いながら、声をかけてくる相手を見上げる。
こちらの顔を覗き込む白澤は、ひどくうろたえた顔をしていた。むしろ、彼の方が泣きそうにさえ見える。
だが、鬼灯は直ぐには答えられなかった。
「鬼灯?」
「……ああ、すみません」
驚かせました、と謝りながら、濡れた目じりをぬぐう。そして、まだ呆然とした気分のまま白澤を見上げた。
白澤は心配げに眉根を寄せたまま、鬼灯の額に散った前髪を指先でそっと払い、目元を撫でる。
「なんか不意に目が覚めたら、お前が……。驚いた……」
語尾をぼかしたのは、彼自身が信じられなかったからか、弱みを指摘するまいとする優しさか。
ふっと心が温まるような感覚を覚えながら、鬼灯は一つ息を吐き出して体の力を抜いた。
「私も驚きました。鬼になってから泣いたことなんて一度もありませんから」
「そうなのか?」
「ええ。泣く理由なんか一つもなかったですから」
人の頃は苦しいばかりだった生も、鬼になってからは楽しいばかりだった。
無論、鬼になっても孤児(みなしご)であったことは変わらない。それを理由に謗(そし)られたことも何度もある。だが、人の世の無慈悲に比べれば物の数ではなかったし、優しくしてくれたひとは黄泉の方が遥かに多かった。
本来生まれ落ちた明るい世界ではなく、永久(とわ)の黄昏色をした世界で、初めて自分は救われたのだ。
「……なぁ、どんな夢を見たんだ?」
おずおずと、いつになく弱い調子で白澤が問いかけてくる。
鬼灯が泣くことなど想像もしたことがなかったのだろう。彼自身も強く戸惑っているようで、覗き込んでくる目には躊躇いがある。
だが、彼にできる精一杯で、鬼灯に手を差し伸べようとしてくれているのは十分すぎるほどに伝わってきた。
「この間、僕が夢を見て泣いた時には、お前が話を聞いてくれただろ。だから、今度はお前にも話して欲しい。勿論、嫌でなかったらだけど……」
「大した話でもないですよ」
「大したことない話でお前が泣くもんかよ」
「でも、本当に大したことじゃないんです。――昔のことを夢に見たんですよ」
「昔……」
それだけで勘の良い白澤は察したようだった。
「ええ。死んだ時の……死ぬ直前の時の夢です」
白澤を見上げたまま、鬼灯は静かに告げる。
「あの時のことは何故かよく覚えているんです。忘れまいと思ったからかもしれません。星の美しい夜でした。天の星を見つめながら、何故、自分が生きることを許されなかったのだろうと考えていたんです」
言葉を紡げば、白澤は彼の方が痛みをこらえるような顔をしながらも、鬼灯の手に手を重ね合わせる。その温もりを感じながら、鬼灯は目を閉じた。
「人としての短い生を終えるまで、私は抱きしめられた記憶も、頭を撫でられた記憶もありませんでした。私は、よそ者が残した厄介者の忌み子でしたから」
これまで彼には聞かせたことのない、否、誰にも聞かせたことのない遠い昔の物語を今初めて語り出す。
決して耳に快い話ではない。誰が聞いても痛ましい、陰惨な話だと感じるだろう。
そうと分かっていたから、これまで決して口にすることはなかった。閻魔大王は勿論のこと、幼馴染の二人にすら話したことはない。
彼らが知っているのは、鬼灯と名乗るよりもずっと前、現世にいた小さな子供が孤児(みなしご)であったために雨乞いの生贄として死んだ後、鬼と化したということだけだ。
人の子としての生がどんなものであったのか、そして、死ぬ際に何をどう感じたのか。
鬼灯は自分の身に起きた事の表層を過去の出来事として語ることはあっても、自分の内面の思いについては明かさなかった。楽しくもない自分語りをして、優しい人々に切ない思いをさせる必要はないと思っていたからだ。
だが、目の前にいるこの男は、他の人々とは違う。
この先の永い時間を共に分かち合うことを選んだ、ただ一人の伴侶だ。
彼は決して積極的に昔語りを乞うことはない。だが、それは無関心ではなく、鬼灯の古い傷を抉るまいとする彼の優しさだ。
できることならば話して欲しい。痛みを分かち合わせてほしい。その上でもっと大切にして、愛したい。
そう願っていてくれることが分かっていたから、鬼灯も今、彼にすべてを語ることを選ぶことができる。
重ねられた手の温かさに、私のすべてを知って下さいと祈るように、ゆっくりと言葉を紡ぎ出す。白澤が真剣に聞いてくれることを疑う余地など、どこを探しても微塵ほどもなかった。
「私の両親は、どこかの里から流れてきた若い男女で、いかにも訳ありの風で自分たちの素性は決して語ろうとしなかったそうです。母は私を既に身ごもっていて、村に辿り着いてからほんの一月足らずで私を産んだものの、ひどい難産のために数日後に亡くなったと聞きました。
父もまた、母が亡くなって数日後に私を置いて、村から姿を消したそうです。どこに行ったのか、生きているのか死んでいるのかは、村の誰も知りませんでした。
残された赤ん坊の私は、村人達の相談の上で一晩、山の中に放置されました」
「山の中?」
「ええ。母親を殺した忌み子をどうすべきか、山の神に判断を委ねたのですよ。山深い土地でしたから、近隣には山の神の使いとされていた狼も熊もいて……。おそらく生きて朝を迎えることは無いだろうと思われたのですが、翌日、村人が見に行くと私は無傷で泣いていたそうです。それで村に引き取られて、生きることだけは許されました。
乳飲み子の間は名は無かったのですが、物心がついて働けるようになると、丁と呼ばれました。倭(やまと)言葉での意味は御存知でしょう?」
「――ああ」
大陸で生じた丁という文字には本来悪い意味はない。成人した男を表す字であり、古代の王朝の歴代の王の名前にも使われていたほどだ。
だが、この島国にその文字が伝わってきた頃には、丁の字は強い男、働く男から派生した新たな意味を獲得していた。博学な彼は、それをきちんと知っているのだろう。静かに表情を曇らせた。
「自分が厄介者であること、もらい乳をして育ててもらった分も働いて返さなければならないことは、幼くとも理解していました。
そうして毎日、小さな寝床と少しの食事のために懸命に働いていたのですが、あの年は春先から雨が降らない日が続いて、豊かなはずの沢の水も涸れかけ、作物の苗がすべて駄目になってしまいそうになったのです」
「――それで、お前が生贄に選ばれたんだね」
「はい」
静かな声で言われ、鬼灯はうなずく。
目を閉じていると、あの時の絶望が蘇ってくるようだった。
村の不穏な空気は感じ取っていたし、恐らく自分が犠牲にされるのだろうとも予想はしていた。けれど、改めて村長に告げられた時は、ぱっくりと足元に口を開けた冷たく真っ暗な奈落に墜ちてゆくような恐怖と悲しみを感じた。
涙すら出てきはしなかった。それをまた可愛げがない、せめて震え泣けば子供らしいものをと謗られた。
泣けば叱られると分かっていたからこそ、どんなに辛くとも泣かずに唇を噛み締めて生きるうち、笑顔の一つ、涙の一つもない子供になったというのに。
「私が選ばれた理由は一つです。村のお情けで生きることを許されていた、よそ者で忌み子だったから。あの時は本当に親がいないことを辛いと……悲しいと思いました」
「うん」
「幼心にも惨めでしたよ。親に抱かれた記憶もなく、頭を撫でられた記憶も、褒められた記憶もない。きちんとした名前さえもらえなかった。
私はただ生きたかっただけなのに、何一つ許されず、何一つ与えられなかったことが悲しくて悔しくて、恨めしさのあまり、とうとう鬼になってしまったのです」
「うん」
白澤は辛そうな目をして、ただうなずく。
そして、言った。
「ごめん。僕には分かってやれない。僕の負の感情はとても薄くて……特に寂しさや恐怖は感じにくいようにできてるんだ」
だって、僕は『白澤』だから。最初から世界に独りきりだから。
寂しさがないわけではない。悲しみを感じないわけではない。けれど、それでも猶、永劫に続く孤独に耐えられる心の造りになっているのだと、とてつもない罪の告白であるかのように彼は懺悔する。
「ごめんな、鬼灯。もっときちんと分かってやれたらいいのに」
「そんなこと、私は望んでいませんよ。貴方の心の形が私とは違うことくらい、最初からちゃんと分かってます」
愚かしいほどに優しい神獣に、鬼灯は穏やかに応じる。
そして、泣きたいような瞳をした白澤の目元をそっと指先で撫でた。
「それに、鬼になってからはずっと幸せなんです。私が木霊さんに案内されて黄泉に行ったら、鬼の皆さんはごく当たり前のように私を受け入れてくれました。
貴方も御存じの友人の二人が、私が一番最初に出会った鬼でした。彼らに親も家もないと言うと、二人は直ぐにそれぞれの御両親に相談してくれて……。大人たちは、空いていた小屋を使えばいいと布団まで用意してくれて、御飯もうちに食べにおいでと言ってくれました。
私が働いて返そうとすると、子供は遊ぶのが仕事だから、大きくなってから返してくれればいいと頭を撫でてくれました。それでも私が何かを手伝えば、働き者だねと褒めてくれました。私が友達と一緒に悪戯をしたら叱ってくれて、ごめんなさいと謝れば許してくれました。
その頃に出会った閻魔大王は、私の小賢しい提案をまともに取り上げてくれただけでなく、鬼灯という名までくれました。
あの方は鬼ではなく人の子ですから、丁と名乗った私の言葉だけで、親が子に付けるような名前ではないこと、つまり私には親も名も無いことを察知されたんです。その上で、私に鬼灯と名乗るといいと言ってくれました。
分かりますか? 人の世では決して与えられなかったものが、黄泉では惜しみなく与えられたんです。だから、私はこの鬼としての生がある限り、黄泉と私に優しくしてくれた人たちのために働こうと決めました」
「――うん」
今度は、理解したと伝えるうなずきだった。
白澤は鬼灯の髪を撫で、顔を傾けて額に口接ける。
「お前は本当に、こちらの世界を愛しているんだね」
「ええ。現世も愛していないわけではないですが、どうしても恨みが残っていますから」
「うん。でも僕は、そういうお前をすごいと思うよ。お前はきっと、どんな時でも最善を尽くしてきただけなんだろう。現世でもあの世でも」
「……どこにいても、私は仕事の手抜きをしたことはありません」
「うん。お前はそういう奴だ。こちらの世界にお前がいなくても、いずれは日本地獄は今の形になったかもしれない。けれど、お前がいたから何倍もの速さで完成して、今も恙無(つつがな)く回ってる」
「だといいのですが」
「僕は世辞なんか言わないよ。ましてや、お前相手に」
「……そうですね」
いとおしむように顔や髪に触れてくる白澤の手指の温かさに、鬼灯は目を閉じる。
そして、この温もりについて考えた。
自分が何故、この神獣に惹かれたのか。考えたことは何度もある。
結論は、いつも一つきりだ。
――優しいから。
彼は、どうしようもなく優しいから。
誰かを裏切ることなど思いつきもしない、底抜けのお人好しだから。
白銀に輝くきらきらしい外見の内に秘められた、その永遠の優しさに焦がれた。
そう、報われないのも裏切られるのも、もう沢山だった。
与えたら与え返してくれる。優しくしたら、それを喜んで優しさを返してくれる。
そんな当たり前を約束してくれる永遠の存在が欲しかったのだ。
幼子(おさなご)が庇護してくれる大人を求めるのと何ら変わりない心理から、自分の発案を認めて名をくれた閻魔大王を慕い、そして、白澤の底のない優しさに焦がれた。
そんなことをぼんやりと思っていれば、目の下に口接けられる。
「何を考えてる?」
優しい、気遣うような声。
目を閉じていた上に、感情の表れにくい顔であるはずなのに、彼は何かを感じ取ったのか。ゆっくりと目を開けば、じっと覗き込んでくる神獣のまなざしがそこにはあった。
単純な黒ではない、薄墨色の薄い玻璃を幾枚も重ねたような深い色合いの虹彩と、その芯にある真黒の瞳。深く静かな輝きを見つめながら、言葉にして言うべきかどうか、しばし鬼灯は考える。
今の物思いを白澤に告げた時、彼の答えは明らかであるように思われた。
それがどうしたと、何が悪いのだと笑って肯定するのだ。それ以外の反応など、どれほど考えても想像できない。
ならば、敢えて告げる意味などない気がした。
「大したことではありません」
「言いたくない?」
「……どちらかというと、言う意味がない、です」
「どうして」
「……貴方がどう答えるか、分かるので」
「それなら駄目だ、言わないと。だって、それはお前が自分の頭で考えた答えで、本当の僕の答えじゃない」
そう言い切り、白澤はまた鬼灯の顔のあちこちに口接けを落とす。
「言って、鬼灯」
心をとろかすような声で言われると、無理して堪えていたつもりもないのに、魂を縛っていたものがふっと解けるような感覚を覚える。
ああ、薬師の……治癒者の声だと思いながら、鬼灯は小さく溜息をついた。
痛みを抱えた者に問いかけ、心をほぐして痛みを吐き出させ、癒そうとする。彼の本質でもあり、長年の習い性でもある性分。
そして、そんなものに流されてしまうほど、自分はとうに彼に心を開いてしまっている。
諦めにも似た心地で鬼灯は目を開き、白澤を見上げた。
「では、言いますが……」
「うん」
「どうして貴方だったのかについて、考えていたんですよ」
そう告げれば、白澤はきょとんと目を見開く。
確かに、恋心の起因について考えるなど、自分らしからぬ物思いであったかもしれない。白澤にとっても予想外だったのだろう。
「お前でもそんなこと、考えるんだ?」
「おかしいですか? 私が理屈っぽい性質(たち)だということは御存知だと思いましたが」
「それは知ってるけど」
何か変な感じだ、と白澤は照れたような困ったような笑みを浮かべる。
その表情を見て、そういえば、自分はまだこの男に想いをきちんと言葉で告げたことがなかったのだと鬼灯は思い出した。
ならば、今から告げる言葉が告白に似た意味を持つことになるのだろうか。
それもどうかという気がするが、もっと問題なのは白澤の反応だ。もしそれで満足してしまうのなら、本当の告白がまた一歩遠ざかることになる。
それはそれで面白いと思わないでもないが、いい加減に言ってやった方が良いのだろうか。
つらつらと思案しつつ、鬼灯は続けた。
「でも、聞いてもあまり気分の良い話ではないかもしれませんよ?」
「いいよ」
それでも聞きたいよ、と鬼灯の髪を撫でながら白澤はねだる。
ならば、と鬼灯は告げた。
「私を裏切らないものが欲しかったんです。優しくしたら、それを喜んで優しさを返してくれる存在が。そして、私を無闇に傷つけたり貶めたりしない存在が」
真っ直ぐに目を見つめて告白すると、しかし、白澤はその言葉をしばらく吟味した後、小さく首をかしげる。
「でも、その条件だと当てはまる相手が多すぎやしないか? 閻魔大王様だってお前の友人たちだって、全部そうだろ。お前が何かをしてやれば喜ぶだろうし、裏切りは勿論、傷付けることも貶めることも絶対にしないと思うぜ」
「……まぁ、そうですね」
底抜けのお人好し、という形容は、確かに大王にも当てはまるし、友人たちだってそうだ。滅多にないことではあるが、鬼灯がプライベートで頼み事をしたときには、彼らは何やかんやと言いつつも必ず助けてくれる。
「じゃあ、なんでその中で僕だったの?」
不思議そうに、だが、少しだけ嬉しげに白澤が問いかけてくる。
その目を見つめながら、何故だろうともう一度、自分の心に問うた。
「――やっぱり、貴方が一番底抜けだったからじゃないかと」
「ええー。他の理由ないの? カッコよかったとか、頼り甲斐がありそうだったからとか」
「……まあ、貴方の本性の姿は気に入ってますけど」
「あ、それは気付いてた。けど、ちょっと微妙だなぁ。本性が嫌いと言われるよりはいいけど、いつも本性でいたら仕事もお前とやらしいこともできないし……。この人型の僕は? 駄目?」
嫌いではないどころか、どれほど見ても見飽きないと思う程度には好きである。だが、何となくそれは素直には言ってやりたくなかった。
「気に入らないと言ったら、変われるんですか?」
「それは……無理。僕は変化の術を使えるわけじゃないからね。人型になれるっていうだけで」
眉を八の字にしながら白澤はそう答え、情けない表情で鬼灯の顔を覗き込んだ。
「気に入らない?」
困り果てた顔の白澤に、思わず鬼灯は笑みを誘われそうになる。それでおそらく目に浮かぶ色が和らいだのだろう。こちらをじっと見つめていた白澤がまばたきをした。
「嫌いではないですよ」
右手を上げ、白澤の頬に触れる。陶磁器のような肌は、いつ触れてもなめらかで温かい。
そっと撫でると、白澤はゆっくりと表情を幸せそうなものに変え、鬼灯の手に自分の手を重ね合わせた。固い手のひらに口接け、それから鬼灯の唇にも軽く触れるだけのキスをする。
「じゃあさ、僕が一番優しくて裏切りそうにもなかったから選んだんだっていうのなら、もっと優しくしたら、もっと僕を好きになる?」
瞳を覗き込まれ、そう尋ねられて。
また鬼灯は考える。
「それは……どうでしょうねえ」
「えー」
最初に選んだ理由は優しさであったとしても、それだけで想いが何千年もの時を越えられるわけではない。
今現在、鬼灯が白澤に対して抱いている感情は、もっとあらゆる想いを詰め込んだ複雑なものだった。
「心はそんな単純なものじゃないですよ。それについては御自分で考えて下さい」
「ケチ」
「当然です」
それに、これ以上の優しさと言われても想像するのが難しい。今でも日々、うんと甘い香りの花の蜜をたっぷり注がれ続けているような状態なのである。
要らないとは言わない。だが、これ以上グレードアップされても手に負えないというのが正直な思いだった。
「まぁ、そういう意地の悪いとこも好きだけどね」
「それはどうも」
「うん。お前なら、もう何でもいいよ」
「優しいからと選ぶような狡い鬼でも?」
「どんな理由だって、僕を選んでくれたのなら文句ないよ」
「――本当に貴方って馬鹿ですねえ」
あまりにも予想通りの答えに、思わず鬼灯は微笑む。
すると、白澤は大きく目を見開いた。
「笑った……!」
「は?」
驚きとともに叫ばれて、ああ、と鬼灯は今の自分の反応に気付く。
「笑って……ましたか」
「うん! すごい! すげぇ可愛い……!!」
感極まったようにはしゃぎながら、白澤は全身で抱き着いてくる。
頬をすり寄せ、キスを繰り返して、可愛い、嬉しいと何度も口にする。
「お前が僕との会話で笑ってくれるなんて……、どうしよう、滅茶苦茶嬉しい!」
「――どんだけ安いんですか、貴方」
「だって貴重だよ! 他の奴だって、お前の笑顔を見たことのある奴が何人いる?」
「それは……」
言われて考える。だが、五千年分の記憶を遡っても、これといった場面は思い当たらなかった。
「気分的には笑ってることも結構あるんですけどねえ」
「でも、お前は顔に出ないじゃん。機嫌が悪い時は目つきが悪くなるけど、上機嫌の時は無表情がデフォだろ」
「それは、まあ」
「だろ? なのに、今は笑ってくれたんだ。本当に滅茶苦茶嬉しいよ」
その言葉を聞きながら、ああ、と鬼灯は思う。
この底なしのお人好しは、他の誰も見たことのない笑顔を見られたことよりも、自分の前で恋人が笑ったことを喜んでいる。
たかが笑顔一つで、こんなにも喜んでどうするのだと思わないでもない。だが、そういう相手を望んでいたことは事実だった。
どれほど尽くしても努力しても報われないことほど、虚しく悲しいことはない。それが辛かったから、人々が楽しそうにしている様を眺めているだけで幸せそうな顔をしていたこの神獣に惹かれたのだ。
誰かが幸せそうにしていたら、それだけで幸せになれる。そんな愛おしくも美しい性分を持つ彼だったから。
「本当に、貴方って馬鹿ですねえ」
「なんでだよ。好きな子が笑ってくれたら嬉しいに決まってるだろ?」
「まぁ、それは否定しませんけど」
その善良な単細胞加減が愛おしいと思いながら、鬼灯は続ける。
小さな笑み一つでこんなにも喜んでくれる優しい存在を、もっと喜ばせたくて。
もっと幸せにしてやりたくて。
「でも、そういう馬鹿な貴方が、私は好きですよ」
告げた途端。
白澤は固まる。
「……お前……、今……」
「聞こえませんでした?」
「っ、いや、聞こえた! 聞こえた、けど」
慌てて首を横に振る白澤の頬が、じわりじわりと赤らんでゆく。
その思いがけない初心(うぶ)さを鬼灯は楽しみながら眺めた。
「先日から不思議だったんですけど、どうして私が一生、好きだと言わないと思い込んでいたんです?」
「え……。だって、お前はそういうキャラじゃないと……」
「じゃあ、どういうキャラですか」
「え……」
赤い顔で言葉を詰まらせる白澤の顔には、分からなくなった、と書いてある。
固定観念を覆されて、どう判断すればよいのか分からないでいるのだろう。本当に愛すべき馬鹿な神獣だった。
「私は、貴方が思うより単純で素直なんですよ。言動は、あまり正直ではないかもしれませんけれど」
「全然正直じゃねーだろ!」
「そうですか?」
「だよ! あー、くそっ!」
耐えきれなくなったのか、白澤は鬼灯の上からどいて、横にごろりと転がる。代わりに鬼灯が上体を起こすと、彼は目の上に腕を置いて表情を隠したが、頬も耳も真っ赤ではどうしようもない。
「お前、分かってて言ったんだろ。威力あり過ぎだ」
「それは良かった」
心から言うと、白澤は腕の隙間から、ちらりとこちらを見る。そしてまた、目を隠してしまった。
「そんな楽しそうな顔してんじゃねーよ!」
「仕方ないでしょう、楽しいんですから」
言いながら、鬼灯は白澤の体に乗り上げるようにしてマウントポジションを取った。
ぎしり、とわずかにきしむ寝台と、互いの衣服がすれ合う衣擦れの音に、白澤が腕を下ろしてこちらを見上げる。
「鬼灯……?」
「せっかくですから、私がどれくらい貴方を好きか見せてあげましょうか」
「へ?」
間抜けな顔で問い返してくる白澤に、それ以上は答えず、鬼灯は白澤の体を跨いで膝立ちになったまま、浴衣の帯に手をかけた。
慣れた仕草で結び目をほどき、緩めて抜き去る。続いて、浴衣の襟に手をかけて気に入りの金魚柄のそれを、するりと肩からおろし、寝台の脇に脱ぎ落とした。
互いに夜目は利くから、寝室の明かりは灯されていない。光源はカーテン越しの仄かな月明かりだけだったが、それでも十分に過ぎる。この身体のどこが良いのか知れないが、食い入るようなまなざしを素肌の上に感じて、鬼灯は心の中で小さく微笑んだ。
そして、右手を後ろに回して蜜口に指先を触れる。途端、甘く疼くような感覚が走り、眠る前に一度たっぷりと愛されたそこは、まだ感覚を忘れていないことを教えた。
「これならいけそうですね」
常備されている駄獣謹製のローションで潤いを足せば、特に準備は必要ないだろうと踏んで、鬼灯は白澤に視線を戻す。
「お前……」
言葉が続かないのか、白澤は困惑半分、期待半分のまなざしで鬼灯を見上げたまま、語尾を途切れさせる。
そんな白澤を見下ろし、鬼灯は小さく首をかしげた。
「こういう私は嫌ですか?」
「いや、それはない!!」
問いかければ、途端に白澤は大きく首を横に振る。
そして、まだ戸惑ったままの顔で手を伸ばして、鬼灯の手に触れた。
「ちょっとびっくりしてるだけ。今夜のお前、意外性の塊だから」
夢に泣きながら目を覚まし、好きだと言葉にして告げて、揚句、自分から服を脱ぎ棄てて白澤に跨っている。
確かに、これまでなら決して有り得ないことの連続である。
「でも、すげぇ嬉しい。全部、僕だけ……だろ?」
「当然です」
他の者にこんな姿を見せるわけがない。見せたいとも思わないし、見せるような隙を作ることもない。
世界で、ただ一人だった。
「好きです、白澤さん」
「……うん。僕も好きだ。お前が好きだよ、鬼灯」
愛してる、と重ねられる睦言に応えるように口接ける。
唇を互いについばみ合い、ゆっくりとキスを深めてゆく。開いた唇の間から舌を触れ合わせ、やわらかな感触を楽しみながら奥へと忍び入る。
美しく整った歯列を丁寧に撫で、くすぐったがる舌を吸い上げながら優しく甘噛みして、更に奥をくすぐってやれば、白澤は心地よさげに喉を鳴らした。
そして、今度は逆に舌先をやわやわと甘噛みされる。深く絡み合わされ、舌の表面を擦り合わせられると、ぞくりと首筋にまで甘い痺れが走った。
その隙を逃さず、白澤の舌が鬼灯の口腔に押し入ってくる。深く唇を合わせ、ちろちろと上顎の裏を舌先でなぞる強引なようでいて計算し尽くされた動きは、ひたすらに甘く淫らな感覚を引き出してゆく。
鬼灯は考えることをやめ、本能のままに貪り貪られる行為に身を任せた。
「……っ、は……」
長い長いキスを終えて、やっと目を開けて見れば、視線の先で白澤が、発情した雄の匂いを強く纏わせた顔で笑んでいて。
長い指先で頬を撫でられる。それだけのささやかな触れ合いにすら、身体の奥がずくりと疼いた。
「僕がどれだけ好きか、見せてくれるって言ったよね?」
「――ええ」
「見せて、鬼灯。全部」
「ええ」
うっとりと注ぎ込まれる甘く低い声に、鬼灯もまた、望むところだとうなずいた。
そして、頬に触れている彼の手を取り、器用な長い指をそっと甘噛みする。指から手の甲、手首に歯形が残らない程度の愛撫を加えながら、白澤の夜着の上に手をかける。
心得ているとばかりに、白澤は上体を浮かせ、鬼灯の手を借りて上衣を脱ぎ捨てた。
人型を取った神獣の肉体は痩身ではあるが、バランスは良い。ぎりぎりまで絞られた筋肉が美しい骨格を覆い、すらりと長いシルエットを形作っている。
筋肉量では鬼灯の方がずっと上だが、パワーは通常では互角、白澤が今まで一度も出したことのない本気を出せば、鬼灯を軽々と圧倒するはずだった。
白澤が本気を出さないのは、鬼灯を軽んじているからではない。自分が神であるという自覚があるからだ。
他者を傷つけることを好まない神獣は、どれほど鬼灯が理不尽な真似をしても、釣り合うだけの相応の力しか出さない。
おそらく無意識であろうそのセーブが、彼の底抜けの優しさからくる慈しみであることは、もうずっと昔から分かっていた。
だから、鬼灯は彼に一度も、本気を出せなどと詰ったことはない。そのくせ、自分は本気で暴力をふるうのだから、性質(たち)の悪いことこの上ない鬼だと自分でも思う。
だが、白澤は笑いながら、時には嫌な顔をしながら、理不尽な甘えも何もかも受け止めて、今もこうして自分と共に居てくれる。
好きだと、愛していると言ってくれる。
それがどれほど嬉しく、愛おしいか。
胸の奥から込み上げる言葉にならない想いに突き動かされるように、鬼灯は白澤に触れた。
組み敷いた神獣のなめらかな肌を撫で、首筋を食み、胸元に口接ける。
自分が抱く側に変わった時と変わりのない手順であるのに、感じるものが全く違うのが不思議だった。触れれば触れるほど、身体の奥深くが疼いて彼を身の内で感じたくなる。
たまらない、と浅く息をつきながら、引き締まった腹筋とその割れ目をなぞり、ごつりと尖った腰骨を包み込むようにして撫でる。
そして、夜着の下に手をかけて一息にそれを脱がせ、つま先から抜いた。
どちらかというと性急に進めてしまったが、白澤の雄はきちんと反応してくれている。その様子を見ながら、鬼灯はこの先の手順をどうすべきか少しだけ迷った。
「同時に行くのがロスが少ないですかね……」
「は? 同時にって……」
どうすんの、と言うのを遮るようにして、鬼灯は寝台横の窓枠に置かれた小引き出しを開け、ローションを手に取る。
だが、その蓋を開けたところで、意図を察したらしい白澤に手首を掴まれた。
「そっちは僕にやらせて」
「はぁ?」
「お前が自分で弄るのを見るのも楽しいけどね。でも、僕だってお前を可愛がりたいんだよ」
全てを自分でやろうと思っていただけに、白澤の申し出は、余計な世話といえば余計な世話だった。
だが、一方的に楽しむために始めた行為でもない。相手がやりたいと言っている以上、拒否するのもおかしいかと思い直し、鬼灯は小瓶を白澤に渡す。
白澤は謝謝と告げて受け取り、ついでに鬼灯の指先にも口接けた。
「それじゃあ、お前はあっち向いて」
「――――」
体位を変えるよう指示されて、鬼灯は小さく眉をしかめる。性行為そのものについてはあまり禁忌はない方だが、細かな好き嫌いはある。
しかし、今日は自分の想いの丈を分からせてやっても良いだろうと思い、こうして触れているのだ。不承不承ではあったが、鬼灯は体の向きを変えて無防備な後姿を白澤の眼前に晒した。
「これで――いいですか?」
「うん」
答えと共に腿の裏側、足の付け根に軽く口接けを落とされて、ぞくりとした感覚が走る。だが、敢えてそれを無視して、鬼灯は白澤の中心へと手を伸ばした。
髪よりはやや硬めであるもののしなやかな感触の下生えを撫でる。人体のうち、体毛に覆われている箇所の皮膚はとても敏感だ。
指先で毛を梳くようにしながら、薄い皮膚を優しく撫でてやっていると既に猛り始めていた白澤の熱が、ずくりと一回り立ち上がりを強くする。
反応が良いともっとやる気になるのは、ひとの性(さが)である。興に乗って、熱の周囲の肌と粘膜を余すことなく触れ、その奥の蟻の門渡りにまで指先を這わせた時。
タイミングを合わせたかのように白澤の手も、鬼灯の肌を撫でてきた。
脂肪のやわらかさはなくとも、良く鍛えられた柔軟な筋肉のしなやかさを楽しむように白澤の手が太腿の裏や内側、そして尻を這い回る。
産毛を撫でるかのような、触れるか触れないかのやわさで神経が集まる腰の窪みに指先を這わされると、言葉にならない甘い疼きが背筋を駆け上る。
そのまま指先を下方に滑らされ、双丘の狭間を蜜口のすぐ上まで繰り返しゆっくりとなぞられて、それだけでどこかが甘く痺れるような感覚が広がった。
そうしておいて白澤は、今度は彼の肩幅分に無防備に開かれた鬼灯の腿の内側を、手のひら全体でするりするりと撫でる。
ぞくぞくするようなそれらの感覚に耐えながら、鬼灯は目の前にある熱く張りつめた粘膜の表面にふっと息を吹きかけ、敏感になったそれが微かに震えるのを見ながら、太胴に指先を触れた。
形を確かめるようにあくまでもそっと手指で撫で、ごつごつとした表面を指の腹でするすると上から下までなぞってやれば、素直にそれは体積を増してゆく。
「ねえ、鬼灯。咥えてよ」
やわやわと鬼灯の白い肌を撫でながら、淫蕩な声で白澤がねだった。
「お前の口の中、好きなんだ。熱くて舌がやわらかくて……。そりゃあ一番気持ちいいのは、ここだけど」
言葉と同時に、ぬるりとした温かなものが蜜口に触れる。それがなんであるのか瞬時に察して、鬼灯は声を上げた。
幾つかある閨での苦手なこと、それがこの羞恥を煽るばかりの愛撫だった。
「白澤さん、それは……っ」
「嫌がらないで、鬼灯。お前を全部愛して、気持ちよくしてやりたいだけだから」
「ですけど……!」
「お前をうんと気持ちよくしてあげるから、お前も僕を気持ちよくして?」
ね、と甘く誘われて、鬼灯は唇を噛む。閨のことについては、羞恥心を持たない方が勝ちだ。その点、逆立ちしても鬼灯は白澤には勝てない。
そして、身体はといえば、心よりも遥かに白澤に従順だった。
蜜口周囲に口接けを幾つも落とされる度に、表皮は勿論のこと、もっと深い部分までもが愛されたがって甘く疼く。そんな鬼灯の反応を知り尽くしているからこそ、白澤も愛撫を止めない。
快感と羞恥を煽るやわい愛撫を積み重ねられれば積み重ねられるほど、肉体が甘く蕩けてゆくことは鬼灯も既に知っている。そして、それはまた鬼灯自身も求めていることだった。
甘やかな交歓の果て、一つになりたいと望んでいるからこそ、こうして今、無防備な姿を伴侶に晒しているのである。それなのに無理に抗うことは、互いの感覚を白けさせるだけの意味しかない。
白澤のやりたいようにやらせるしかないと観念した鬼灯は、吐息が乱れがちになるのを懸命に抑えて、こちらはこちらで責め立ててやろうと白澤の熱の先端にそっと唇を触れた。
もっとも、ここから先は白澤も調子づいて責めてくるはずだから、あまり悠長なことはできない。
わざと音を立てながら触れるばかりのキスを全体にくまなく落とし、横咥えにするように唇で甘く食んでやると熱塊が快感に小さくおののく。
特に反応の良かったところを重点的に舌先でちろちろと舐めてやれば、とろりと先端から透明な雫があふれ落ちて鬼灯の舌を濡らした。
「いいよ、鬼灯。もっとして……?」
低く甘やかに囁く声を聞きながら、鬼灯はもう一度全体をやわらかく舐め上げ、それから口を大きく開いて牙で傷付けないよう細心の注意を払いつつ、先端を口腔に迎え入れる。
すると、またタイミングを合わせて、蜜口にやわらかなものがぬるりと滑り込んでくる。その甘やかな衝撃に思わず体を跳ねさせたが、がっちりと腰骨の辺りを抑え込まれているために、下半身はわずかも動かすことができない。
口も白澤のもので塞がれているため、嫌だと文句をつけることもできないまま鬼灯は観念して目を閉じ、つるりとなめらかな感触の亀頭に舌を這わせた。
雁の丸みをなぞるように舌の表面をたっぷりと使って嘗め回し、先端の鈴口を舌先でやわらかくくすぐってやる。
だが、自分がすべき行為に没頭しようとしても、敏感な場所に巧みに与えられる愛撫に意識が行ってしまうのは止められない。
鬼灯が表面に舌を這わせれば、白澤は同じように柔襞に舌を這わせ、深く口に含めば、同じように舌を深く浅く出し入れして遊ばせる。
指とも熱とも違う感覚はひたすらにやわらかく、なめらかに鬼灯の性感を煽った。
「……っ、ふ…、ん……んっ」
声は出すまいと思っても、乱れた吐息はどうしても唇から零れていってしまう。
はち切れんばかりに膨らんでいる白澤の熱を口に含んで愛撫しているだけでも精神的にくるものがあるのに、受け入れるべき場所にまで同時に愛撫されてはたまらない。
しかも、間違いなくわざとだろうが、白澤は指さえ入れては来ずに、舌と唇だけでぬるぬるとやわく焦らすような責め方ばかりを続けている。
わざとらしく立てられる粘着質の水音が小さく響く度、愛撫が届かない奥が切なくひくつくのをどうしても止められない。
「は、くたく、さん……っ」
やわらかな刺激ばかりだけでなく、せめて指でもいい、もっと確かな感触が欲しい。募る欲望に耐えきれず、白澤の熱から口唇を離して名を呼べば、ずるりとそこから舌が引き抜かれた。
「もう限界?」
「っ……」
「僕ももう限界かな。お前のここ、すごく熱くてさ。僕が何をしてもきゅうって締まるんだ」
早く入りたい、と言いながら白澤は鬼灯の丸く筋肉が盛り上がった尻を撫でる。
「でも、もう少し我慢な。お前を傷つけるわけにはいかないから」
その言葉から数秒遅れて。
ぬるりとした感触をまとった指先が蜜口に触れて、鬼灯はびくりと背筋を震わせた。
白澤の体温に温もっている粘液は、冷たくはない。けれど、指を動かされる度にぬちりと立つ水音がどうしようもなく卑猥だった。
形の整った指先で入り口をゆるゆると丸く撫で、耐え切れずにほころんだ粘膜が更なる快楽を求めてひくついたところで、白澤は指先をつぷりと差し入れる。
「お前の中、まだやわらかいままだから慣らさなくてもいけるけど、ちゃんと濡らしておいてあげないとね」
「っ、あ、ふ……っ、ん、んっ」
鬼の肉体が頑丈でも、体内がやわいのはヒトと大差ない。やわらかな肉を傷つけないよう、白澤の指は潤滑液を注ぎ足しながら丁寧に柔襞に塗り込め、淫らな水音を立てながら馴染ませてゆく。
だからといって、柔襞に秘められた敏感な個所には意図的には触れず、或いはそれこそが意図的なのか、かすめるだけで過ぎていってしまうのが一層、罪作りだった。
「あ……っ、く、ぁ……」
声を出すまいと思っても、焦らされてひどく敏感になった柔襞を優しくなぞられ、長い指をゆるゆると出し入れされると、それだけでどうしようもない愉悦がスパークする。だが、それで達けるかというと全く足りない。
なのに指だけが増やされて、圧迫感から生じる新たな疼きはひどくなるばかりだった。
ぐちゃりちゅぷりと淫猥な音と共に指を執拗に遊ばされ、粘液が内腿を冷えながら伝い落ちてゆく感覚にさえ、背筋がぞくぞくと震える。
脳髄まで白く焼けるような、それでいて焦らされるばかりの快感に懸命に耐えて何分が過ぎたのか。
やがて、満足したらしい白澤はずるりと指を抜いた。
「はい、もういいよ、鬼灯」
もう準備はできたと言われても、こうまで焦らし抜かれては即動けるものではない。
肩で息をつきながら、鬼灯は気力を奮い起こして震える腕に力を込め、上体を起こす。
そして、身体の向きを変えて白澤に向き直った。
「鬼灯」
見下ろしてやれば、白澤はひどく嬉しそうに名を呼び、微笑む。
「今のお前、すっげえエロい顔してる」
「……どうして貴方を好きだと思ったのか、自分が全然分からなくなりましたよ」
この好色漢の偶蹄類、と詰りながら、鬼灯は身を乗り出して白澤に口接ける。
深く唇を重ね、舌を絡ませて貪り貪られてから、ゆっくりと唇を離すと、透明な雫が二人の間で細い糸を形作った。
「それでも、貴方が好きです」
「うん」
幾度目ともしれない告白に、白澤は心底幸せそうな目をして鬼灯を見つめる。
そんな白澤を見つめてから、鬼灯は体の位置を整え直し、左手を彼の腹部に突いて体を支えながら後ろ手で白澤の熱に触れる。そして、ゆっくりと息を吐き出しつつ、腰を落とした。
今夜は一度愛された記憶がまだ残っているし、今も散々に弄ばれたから、それほどの肉の抵抗はない。
目を閉じ、体重をかけて幾らか呑みこんでは、そこで息をつく。そんなことを数度繰り返して、鬼灯は白澤のすべてを自分のうちに収めた。
「……は、ぁ」
深く繋がった個所から生じる圧迫感と疼きを持て余しながら息を吐き出せば、白澤の手が気遣うように頬を撫でる。
「大丈夫?」
「ええ」
男相手の経験は白澤としかないが、それでもこれまでに随分と回数は重ねている。体を繋いだだけで苦痛が生じるようなことは、手順をきちんと踏めば最早なかった。
平気だと告げれば、白澤は小さく笑んで、いとおしむ手つきで鬼灯の頬を撫で、首筋を撫でて肩を滑り降り、胸をも通り過ぎて、脇腹を大きな掌でそっと包んで止まる。
「それで、これからどうするの?」
「どうして欲しいですか」
「お前の好きなように動いて。僕の体を使って、気持ち良くなって感じてるお前を見せて」
「エロ偶蹄類め」
「そういう僕が好きだろ」
「ええ、好きですよ」
答え、鬼灯はゆっくりと腰を揺らした。
まずは慎重に自分の感じる場所を探す。てっとり早く快感を得られるのは入り口付近や前立腺だが、しかし、いずれも上手くピンポイントで責めなければどうにもならない場所である。
普段は白澤任せでいるだけに少し手間取ったが、それでも動くうちに少しずつ自分の感じ方が分かってくる。ずるりずるりと出し入れすれば熱く濡れた粘膜がすれ合って気持ちいいし、含んだままで腰を捏ねるように動かせば、敏感な箇所にごりごりと当る感触がたまらない。
「あ、っ、ん、ん……」
「気持ち良くなってきた? それじゃあ、もっと腰を揺らして?」
鬼灯が快感を得るにつれて、柔襞も自らを苛む凶悪な熱に馴染み、やわらかさを増してねっとりと絡みついてゆく。
息をつくために僅かに動きを止めるたび、柔襞がひくひくとおののきながら白澤の熱を抱きとめているのが感じ取れて、鬼灯は一層熱を煽られた。
「っ、あ、白澤、さん……っ」
白澤との行為で自分が上になるのは初めてだったが、どうされれば男が気持ちいいのかはよく分かっている。
ともすれば、きつく締めすぎてしまいそうになるのを息をついて加減しながら、丁寧に熱を擦り立ててやる。同時に、自分がが感じていればいるほど受け入れている場所の具合も良くなると分かっているから、自分が快楽を貪ることも忘れない。
「あ、っあ、っ、く、んんっ」
「うん……いいよ、鬼灯。すごい、気持ちいい」
歓びを伝えてくる白澤の声も、濃い情欲に彩られて濡れている。その声を耳にするだけでも、鬼灯の身体はより一層、深い快楽に蕩けた。
「っ…、ん、あ、あ……っ」
男に自ら跨って腰を振る。これを世間では浅ましいと称するのだろう。だが、鬼灯は構わなかった。
世界で唯一の存在に焦がれ、求めることをどうして恥じる必要があるだろう。愛し愛されて、何が悪いというのか。
この天の獣の身も心も魂も、何もかもが欲しい。
不遜と言われようと、自分だけのものにしたい。
同時に自分もまた、身も心も何もかもこの獣のものでありたい。
心底そう願う浅ましさも強欲も含めて、これが自分、これが鬼神鬼灯だった。そこに何一つ、恥じることはない。
「ふ、あっ、もっと、は…くたく、さん……っ」
最初のうちは余裕なくこわばりを残していた最奥も、今はやわらかくとろけて白澤の熱を包み込んでいる。
深くまで屹立を呑み込み、最奥に先端が当たるように小刻みに腰を揺らすと、頭の奥まで白く痺れるほどに気持ち良かった。
「鬼灯」
お前ももっと気持ち良くなって、という熱に浮かされたような声で紡がれた言葉と共に、不意に胸元に白澤の指先が触れる。その予期せぬ刺激に、鬼灯は目を見開いて全身を跳ねさせた。
「――っあ……!」
今夜の一度目に散々に愛されたそこは、うんと軽く触れられただけでも、甘やかな快感が繋がり合った箇所まで突き抜ける。
その甘やかさに耐えきれずに自重を支えていた脚から力が抜け、はずみでこれ以上ないほど奥まで白澤の熱に貫かれた鬼灯は、たまらずに高い声を上げて喘いだ。
それでも白澤は許さずに、片手で鬼灯の腰骨の辺りを掴んで抑え込み、もう片方の手で鬼灯の胸元を執拗に弄る。鬼灯が反射的に片手でその腕を抑えても、白澤の悪戯は止まらない。
「や、っあ、やめ…て、下さい……っ!」
「嫌だよ」
だって感じてるお前、可愛い。
そんな風に含み笑いながら、白澤は腹筋の力だけで上体を起こす。
「っ、んん……っ」
そのせいで内部に当たる角度が変わり、鬼灯は小さく呻いた。
「鬼灯、キスして」
甘くねだられて、鬼灯は霞む目を見開き、間近にまできていた白澤の唇に首を伸ばすようにして口接ける。
そして力の入らない両腕を持ち上げ、白澤の首筋に絡めれば、白澤の腕が鬼灯の背を抱き寄せて支えた。
「――ん、ふ……ぁ」
舌を深く絡ませ合う間も、深く繋がり合った身体をゆっくりと揺らされて、とろけるような甘い疼きが最奥から全身へと広がってゆく。
更に、もっと堕ちればいいとばかりに汗に濡れた背を情感に満ちた手のひらで撫でられ、胸の小さな尖りをも愛撫されて、鬼灯は思考が真白く熔けてゆくのを感じた。
「……ぁ、はく、たくさ……んっ」
「うん」
可愛い。愛してる。鬼灯、鬼灯。
甘い毒のように耳に流し込まれる睦言に酔いながら、とめどもなく湧き上がる欲望と快感に突き動かされるように鬼灯は腰を揺らす。
とろとろに蕩けた柔襞はよがり泣きながら白澤の熱に絡み付き、更なる歓びをねだってやわやわと絞り上げる。もう何をどう動いても、たまらなく気持ち良かった。
「いいよ……すごくいい、鬼灯」
快楽に狂い泣いているような柔肉に肉体の最も弱い部分を抱きとめられている白澤もまた、強い快感を得ているのだろう。熱と欲に浮かされた声で囁きながら、鬼灯の動きに合わせて緩く腰を突き上げる。
「ふ、あっ、もぅ……、だ、め……っ」
揺れ合うことで生まれる快感は限界を知らないまま、どこまでも膨れ上がってゆく。繋がり合った箇所から体の隅々まで広がる甘さに耐え切れず、鬼灯は息も絶え絶えに喘いだ。
「駄目? もう達きそう?」
問われ、偽ることもできずに、こくこくとうなずく。
すると、白澤は甘やかに笑んで囁いた。
「いいよ、鬼灯。我慢しないで達って?」
同時に、胸元で固く熟れている尖りのうち、より敏感な心臓の直ぐ上にある方を指先でかりりと引っ掻く。
「ひ、あ、あああ……っ!!」
胸元への愛撫は神経系を伝わってダイレクトに最奥へと響く。きゅうっと柔襞がおののいたところを最奥までずんと貫かれ、甘すぎる衝撃に耐え切れずに鬼灯は高く声を上げて昇り詰めた。
その身体がびくびくと震えるのを抱きとめていた白澤は、絶頂痙攣が幾分収まったところで、鬼灯を敷布の上にあおむけに横たわらせる。
ぐったりと力を失った鬼灯の身体は汗に濡れて、さざめくように時折震えている。
だが、その中心は、身の内に与えられた快楽が大き過ぎたために返って熱を吐き出すことができなかったのだろう。まだ萎えてはいなかった。
身体を深く繋げたまま、その様を見下ろして白澤は微笑む。
「うん、初めて後ろだけで達ったね」
可愛いよ、と囁いて、汗に濡れた鬼灯の髪を撫で、額や頬に口接ける。そんなことを繰り返しているうちに、鬼灯はうっすらと目を開いた。
いつもは強い光を宿している闇色の瞳も、今は強い快楽の余韻にぼんやりと霞んでいる。だが、数度まばたきをするうちに、霞はゆっくりと晴れてゆき、いつものまなざしが戻ってきた。
「大丈夫?」
「あ……、はい」
「今、後ろだけで達ったの、分かった?」
「え……」
「ドライオーガズムってやつ。聞いたことあるだろ」
問われて、甘く痺れたままのような思考で、鬼灯はほんの数分前のことを思い返そうとする。だが、上手く思い出せなかった。
ただ、これまでになく強い快感に襲われて自分を保てなくなったことだけは、ぼんやりと分かる。普段なら絶頂の後でも、ここまで余韻が残ることはないのだ。
「すごく気持ち良かったと思うけど……でも、まだ終わりじゃないよ」
「え……?」
どういう意味か、と考える間もなく、ぐいと熱く猛ったままのものを深く押し込まれて、鬼灯は小さな声を上げて背をのけぞらせた。
「っあ……!」
「ごめんね、鬼灯。でも、もう少し付き合って」
「付き合って、って……っ、あ、んんっ」
白澤の動きは、鬼灯を気遣っているのか、決して激しくはない。だが、絶頂に達したばかりの身体はゆるゆるとした動きにさえ過敏に反応して、鬼灯を甘く苦しめる。
「ひ、あ、ああ、っ、やっ」
余すところなくじっくりと柔襞を擦り上げられながら最奥を突かれる。ただ濡れた粘膜が触れ合っているだけのはずなのに、生まれる感覚はどうしようもないほどに切なく気持ちいい。
「ここ、好きだよね。気持ちいい?」
ずくずくと疼いてたまらない箇所を執拗なまでに雁で刺激される。弱く優しく、不意に強く擦られて、そこから煮えたぎった糖蜜のような快感が全身に広がってゆく。
そうしておいて白澤は再びゆっくりと抽挿を繰り返し、鬼灯がそれに僅かに馴れたと見て取るや、深く貫いたままで柔肉を捏ねるように腰を回した。
「っ、やあっ、ぅ、あ、ぁ、ん……っ」
甘く巧みに責められて、熱く蕩けた柔襞は持ち主の意思に関係なく淫らによがり狂い、更なる喜びを求めて逞しい熱塊にねっとりと絡み付いてゆく。
たまらずに鬼灯は甘く声を引き攣らせ、すすり泣きにも似た悲鳴を上げた。
「ふ、ぁ……や、っ、も、うご、くなっ」
動かれる度に甘過ぎる快楽に全身がすり潰されてゆくようで、耐え切れず哀願する声を恥と思うだけの理性などとうに失せている。
繋がり合った箇所から生まれる愉悦に、指先までもが脆い砂糖細工に変わったかのように甘く疼き、体中の細胞が白澤が与えてくれるものに狂喜し、更なる歓びを求めている。
何もかもこれまでに経験したものとは桁違いの反応で、初めて感じる空恐ろしいほどの深く激しい快感に、固く閉じた目尻から涙だけが零れ落ちてゆく。
その透明な雫を、白澤の舌がぺろりと舐め上げた。
「お前でも気持ち良くなり過ぎると泣いちゃうんだね。めちゃくちゃ可愛いよ」
「や……、も、やだっ、やめ、て、ください……っ」
「うん、お前のお願いなら何でも聞いてやりたいんだけどね……」
今だけは無理、と白澤は困ったように笑みながら、体重を乗せてずんと最奥までを突き上げる。
「ひっ、あ、あ……!」
「あと少しだからさ。僕もそろそろ限界だから……」
甘やかに囁きながら、白澤はよがり泣く鬼灯の身体をかき抱(いだ)いて猶も深く貪る。
計算し尽くした動きで小刻みに最奥を突かれ、揺さぶられて、耐え切れずに鬼灯は上ずった嬌声を止め処(ど)もなくあげる。
「や、も…、や、ひぅ……っ、あ、あぁ…っ」
襲いくる快楽に押し潰されて手足が引きつり、背が大きく反り返る。だが、それでも白澤は容赦しなかった。
白澤もまた荒い息をつきながら、これまで敢えて触れずにいた鬼灯の熱に手を伸ばす。器用な手指が絡んだ瞬間、鬼灯はびくびくと全身を震わせて悶絶した。
「――っ、ああっ、ひっ、ああああぁ……っ!」
数度上下に擦り上げられて、目もくらむような快感に鬼灯は抗うこともできず昇り詰める。
その激しい絞り上げるような締めつけを受けて、白澤もまた小さく呻き、堪えに堪えていた熱を迸らせた。
「っ、……あ…、ぁ……」
愛し抜かれ、過敏になり過ぎた柔襞に白澤の精を受け止めて、鬼灯は全身を痙攣させながら小さく喘ぐ。
その鬼灯の震える身体を白澤はしっかりと抱き締めた。
「愛してる、鬼灯。愛してる……」
ただ熱情に浮かされているだけでは決してない、深く激しく優しい想いの込められた愛の言葉に、鬼灯は半ば無意識のうちに力の入らない両腕を持ち上げ、白澤の背をやわく抱き返す。
そして。
私もです、と声になり切らない吐息で小さく呟いて。
そのまま意識を手放した。
* *
こんこんと眠る鬼灯を見つめ、白澤はそっと手を伸ばして額に散る前髪を梳く。
さらさらと零れ落ちる癖のない黒髪は、白澤のものに比べると張りがあり、わずかな月明かりにも艶々と光った。
「ごめんな、無理させて」
激し過ぎる快楽の果て、意識を失った鬼灯はそのまま安らかな眠りに落ちて、今はひどく穏やかな顔をしている。ただ、目元が幾らか赤くなっているのが行為の僅かな名残だった。
もっとセーブすべきだった、と白澤は今更ながらのことを悔やむ。
元来、享楽的な性格ではあるが、しかし、理性の箍が外れかけるほど快楽に溺れたことは、実はこれまで一度も覚えがない。いつもその数歩手前で、女性たちとは遊んできたのだ。
つまるところ、遊びと本気の差ではあるのだろう。だが、まさか鬼灯を失神させてしまうとは自分でも想定外だった。
それでも、言い訳かもしれないが、本当に嬉しかったのだ。
夢のせいとはいえ、自分の前で泣いてくれたことも、過去を語ってくれたことも、笑ってくれたことも、好きだと言ってくれたことも。
本当に嬉しくて、幸せで、愛おしくて。
おまけにこれまでに見せたことのない淫蕩さで誘ってくれたものだから、つい理性を飛ばして限界まで責め立ててしまった。
「なのに、よがりながら嫌だって泣くのが可愛かったとか思ってるんだから、本当に最低だよなぁ」
これが噂に聞く賢者タイムかと思いながら、白澤は鬼灯を見つめる。
眠っている鬼灯は、普段の険しさなど微塵もなく、ただ綺麗な顔をしている。
美しいばかりでなく優しくて真面目で、そんなすべてを苛烈な性格の下に秘めている大切な大切な恋人。
たった一人の魂の伴侶。
「ごめん……、でも愛してる」
囁き、そっと髪を撫で続ける。
――先程、愛してると何度も繰り返した言葉に、私もですと返して抱き締めてくれた。
あの瞬間、息絶えてもいいと本気で思ったし、このままこの恋人と永遠に生きたいとも心底思った。
どちらも叶わぬ願いだと分かっていても、この世界を形作る何者かに祈らずにはいられなかったのだ。
「お前さえいたらもう何もいらない、なんて、こんな陳腐な台詞を僕が言う羽目になるとはね」
けれど、それが今の嘘偽りない本心だった。
鬼灯さえいればいい。鬼灯さえいてくれれば、自分は幸せになれる。
たった一人にここまで心を傾けてしまうことを、正直、空恐ろしいとも思う。しかし、だからといって今更失うことなどできない。
いつか遠い未来にこの鬼を喪う日が来たら、先日の夢のように泣いて哭いて歔きながら、愛しい魂を探し求めるのだろう。
そのことを思うと、心が氷塊になったかのように全身が凍えるが、それでも鬼灯を愛したことを悔やむ気にはなれなかった。
「愛することを諦めて悔やむより、愛して泣く方がいい。将来、どんなに辛く悲しい思いをしても、僕はお前がこの世界にいる限り、お前を愛したいよ」
だから、お前もずっと僕を愛していて。愛したことを悔やまないで。
ずっとずっと傍にいて。
囁き、祈りを込めて、そっと唇をついばむ。
そしてまた、鬼灯の顔を見つめていると、不意に薄い瞼が小さく震えた。
「ん……」
小さく声を漏らしながら、ゆっくりと鬼灯が目を開ける。そして、まだ目覚めきらないぼんやりとしたまなざしで白澤を見つめた。
「……どうしてそんな顔をしてるんですか」
「え?」
「また怖い夢でも見たんですか?」
いつもの凛とした響きには欠ける、どこかやわらかな声で言って鬼灯は右手を挙げ、白澤の頭をよしよしと撫でる。
そして、ぐいと手首に力を入れて白澤を寝台の上に引き倒した。
「え、わ、何?」
「寝なさい」
ぎゅうと白澤の頭を抱き締めたまま、鬼灯は、彼こそが眠そうな声で命令する。
「貴方、不眠症じゃないでしょう? だったら寝ちゃえば、そのうち朝になります。大丈夫、朝までちゃんといてあげますから……」
「鬼灯……」
「なん、ですか……?」
答えてはくれるものの、その声は再び眠りに溶けかけている。そっと目線を上げれば、鬼灯はもう目を閉じていて、呼吸も安らかな寝息に変わりかけているようだった。
「いいや、何でもない。ありがとう、鬼灯」
「……はい……」
何となく胸がいっぱいになって感謝の言葉を告げれば、白澤を抱き締める鬼灯の腕に、きゅうっとわずかながらも力が籠められる。
その腕も胸も、やわらかくはなくともとても温かくて、白澤は目の奥が熱くなりかけるのを強くまばたきを繰り返すことで懸命に散らした。
――本当に本当に、お前だけがいればいいよ。
これからもずっと、自分の傍で幸せそうにしていてくれたらいい。
くだらないことで喧嘩をして、たまには笑い、好きだと言ってくれたらいい。
それだけで、自分は世界で一番幸せになれる。
いつの日か別れが訪れたとしても、その思い出さえあれば永劫の時を渡ってゆける。
「愛してるよ、鬼灯。お前だけだ」
何度とも知れない愛の言葉を告げて。
優しい温もりに包まれたまま、白澤は目を閉じる。
今夜はもう、夢さえ見ない気がした。
End.
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