さくら、さくら

さくら さくら
やよいの空は 見わたす限り
かすみか雲か 匂いぞ出ずる
いざや いざや
見にゆかん

さくら さくら
野山も里も 見わたす限り
かすみか雲か 朝日ににおう
さくら さくら
花ざかり







 はらりはらり、くるりくるり。
 あるかなしかのそよ風に、淡い色の花びらが楽しげに舞い落ちる。
 一枚、また一枚と視界を横切る美しい色彩を眺めつつ、鬼灯は手にしていた三色団子にぱくりと食いつく。
 翠緑色の丸い団子は、もちもちとしてやわらかく甘く、蓬(よもぎ)の香りがさわやかに匂い立つ。
 薄紅色の団子は、山桜の香り。
 二つの間の白い団子は、丸くやわらかい餠そのものの甘さ。
 美味しい、と素直に思い、そして。
 鬼灯は、その作り手をちらりと横目で見た。

 鮮やかな緋毛氈をかけた縁台の端と端。
 向こう側で、白澤は鬼灯が手にしているものと同じ団子の串を行儀悪く咥え、片手を差し伸べて桜の花びらを受け止めている。
 何気なく手を差し出しているだけのように見えるのに、ふわり、ふわりとその手のひらに吸い寄せられたかのように花びらが落ちてくるのは、一体何故だろう。
 ひらひら舞う花片を捕まえようとしても、上手く捕まえられたためしのない鬼灯は、内心で首をかしげる。
 おそらくは、何かコツがあるのだろう。
 それを知りたいと思ったが、どう口に出せばよいのか分からない。
 なにしろ、こんな奴に薬学以外のことで教えを乞うなんて、といちいち思ってしまう相手である。
 とっかかりなど、どうやっても見つけることができない。
 そして、白澤の方はといえば、鬼灯の視線に気づく様子もなく、知らぬ顔で降る花を見ている。
 その横顔は何を考えているのか、さっぱり読めない。
 こっそり眺めるうち、もやもやとしたものが胸の内に湧き上がるのを鬼灯は感じた。

 ―――花を見ようって言ったの、貴方じゃないですか。

 それは、一昨日の夜のこと。
 衆合地獄で偶然顔を合わせた時、鬼灯は桜の花を見上げていた。
 あの世の歓楽街であるが故に、地獄の底であっても現世と同じ……否、現世以上に美しい花が咲く。
 紅灯を受けて照り映える枝垂桜の花には淡く紅色が差し、ほろ酔いの美女のような風情が何ともなまめかしい。
 ああ、今年も花の季節が巡ってきたのかと、木の下で足を止めたところに声をかけてきた馬鹿がいた。
 桜、好きなの?、と花を見上げつつ問われて。
 隠すほどのことでもないと思ったから、嫌いではありませんと答えた。
 そうしたら、うちにもあるよ、と馬鹿は返してきて。

 とっても大きい、古い桜。
 といっても、千年も経ってないけどね。
 でも、とても立派な枝振りで、綺麗な花がその枝いっぱいに咲く。
 多分、二三日中に見頃になるよ。

 お前がどうしても見たいって言うのなら、花見団子くらい用意してやるけれど。

 そんな風にそっぽを向きつつ、馬鹿は言った。
 さらさらと流れる黒髪の間から覗く耳の端がほの赤いように見えたのは、色街の明かりを受けていただけかもしれない。
 けれど、何となく。
 明後日は仕事が休みです、と口が勝手に動いていた。

 ……じゃあ、来る?
 ……はい。
 午前? 午後?
 ……午後から。
 分かった。

 それだけの会話。それだけの、もしかしたら約束。
 分かったという一言を最後に桃源郷へ帰って行った白い後姿を見送ってから今日までの二日間、鬼灯はどうしようかとずっと頭の片隅で考えていた。
 桜は好きだ。
 けれど、桃源郷まで行ったところで馬鹿が一匹いるだけなのだ。
 馬鹿と二人、花見をして一体どうするというのか。
 そんな風にずっともやもやと考えていたはずなのに、今朝、鬼灯はいつもよりも少しゆっくりめに起きて、朝餉と昼餉をきちんと食べてから、閻魔殿を後にした。
 地獄の門を出て、てくてくと長い距離を歩いて。
 花に囲まれてぽつりと立つ漢方薬局に辿り着いて、本日休業の札がかかった扉を開いたら。
 カウンターの向こうにいた馬鹿が、はっと驚いたような、泣きたいのを隠すような顔でこちらを見た。

 ―――あんな顔で私を見たくせに。

 なのに、馬鹿は直ぐに目を逸らして、遅いと言いながら立ち上がり、無言でお茶の支度をして。
 無色の模様ガラスを底板に嵌め込んだ、取っ手付きの洒落た角盆に、花茶を入れたガラス製のティーポットとグラス、皿に山と盛った花見団子を載せて、外へと出て。
 鬼灯には、これ運んで、と外に置いてあった緋毛氈を載せた縁台を目線で示した。

 桜の古木は、本当に薬局の裏手からちょっとだけ歩いたところで、万朶(ばんだ)の花を咲かせていた。
 種類は大山桜だろうか。
 淡い薄紅の花が、午後の日差しを受けながらさやかに揺れている。
 こんなところにこんな見事な桜があるとは知らなかった鬼灯が目を見張って見上げていると、ちょっとすごいだろ、と馬鹿は小さく笑い、縁台を下ろすように指示をした。
 そして、緋毛氈を綺麗にかけ直し、真ん中に花茶と団子の皿を置いて。
 鬼灯が縁台の端に座ったら、白澤もまた、反対側の端に座って。


 何故か、そのまま今に至る。


 こうして縁台に座りながら、香りよい花茶を啜りながら、団子を食べながら。
 交わす言葉の一つさえ、ありはしない。
 いつも無駄にペラペラと喋る口は閉ざされ、目線は花ばかりを追っている。
 もともと鬼灯は温厚には程遠い。
 白澤の横顔を盗み見ているうちに、段々と腹が立ってくるのを止められなかった。

 ―――貴方が誘ったんでしょう?
 ―――だったら、もう少し何とか言ったらどうなんですか。
 ―――さっきからずっと、花ばかり見て、花びらばかり捕まえて……。

 何のために貴重な休日の午後を潰してここまで来たのかといえば、勿論、桜を見るためだ。
 けれど、ただ桜を見るだけならば、地獄でもどこででも見られる。
 それをわざわざこうしてやって来たのに。
 誘った当の相手は、花茶と団子は供してくれたものの、こちらを見ようともしない。
 こんな馬鹿な話があってたまるものか。

 ―――それならそれで、もういいです。

 食べるだけ食べ、飲むだけ飲んで、さっさと帰ってしまおうと心に決めて。
 花びらの色が照り映える白い衣装の神獣から目を逸らし、鬼灯はもくもくと花見団子を頬張り始めた。

*             *

 はらりはらり、 くるりくるり。
 あるかなしかのそよ風に、淡い色の花びらが楽しげに舞い落ちる。
 一枚、また一枚と視界を横切る美しい色彩を眺めつつ、白澤はそっと視線を横へと向ける。
 鮮やかな緋毛氈をかけた縁台。
 その向こう端に、黒と赤の衣装を纏った鬼がいる。
 花を見もせず、白澤が作った花見団子をもくもく、もくもくと平らげている。
 いかにも不機嫌そうに眉間にきつく皺を寄せた横顔は、到底美味いと思っているようには見えない。
 けれど、手は止まらないということは、味は気に入ったのかもしれない。
 こっそり見つめる白澤の視線の先で、鬼灯はまた、新たな団子の串に手を伸ばす。
 ここに来てもお前は花より団子かよ、と心の中で悪態をついて。
 白澤は、はらはらと目の前に舞い落ちてきた花びらを手のひらに受け止めた。

 地獄の底で桜の花を見上げている鬼を見つけたのは、一昨日の夜のこと。
 いつものように遊びに行った衆合地獄の花街の真ん中には、大きな枝垂桜がある。
 やっと満開になったその花は、花街の明かりを受けて実に美しく、なまめかしく。
 ほろ酔い気分で機嫌よく近寄って行ったら、その見事な花を見上げている鬼がいた。
 いつもは鋭い闇色のまなざしが、子供のような一途さで花を見上げていて。
 その奥に美しさに対する遥かな憧憬のようなものを見て取った時、思わず白澤は声をかけていた。

 桜、好きなの?
 そう問えば、鬼は、嫌いではありません、といつになく素直に答えた。
 だから、つい言葉を続けてしまったのだ。

 うちにもあるよ。
 とっても大きい、古い桜。
 といっても、千年も経ってないけどね。
 でも、とても立派な枝振りで、綺麗な花がその枝いっぱいに咲く。
 多分、二三日中に見頃になるよ。
 お前がどうしても見たいって言うのなら、花見団子くらい用意してやるけれど。

 そう告げたなら。
 明後日は仕事が休みです、と思っても見ない答えが返ってきた。

 ……じゃあ、来る?
 ……はい。
 午前? 午後?
 ……午後から。

 うなずくなんて思っていなかった。
 けれど、来ると鬼が言うから、分かったとうなずいて、その夜はそれ以上遊ぶ気にもなれず、桃源郷の我が家へと帰った。
 そして、おそらく約束をしたのだろう今日、朝から餠粉と砂糖を捏ねて、可愛らしい三色の団子を幾つも幾つも作った。

 でも正直なことを言えば、本当に来るとは信じていなかった。
 約束を反故にする奴ではないけれど、そもそもあのやりとりが約束であったかどうかさえ、あやふやだった。
 だからといって、メールや電話で、お前本当に来るのと確認をすることもできず。
 薬局は休みにしてしまったから、愚痴を言う相手もいないまま、窓から差し込む日差しが中天を過ぎて、ゆっくりと傾いていくのをひどく悲しい気分で感じていた。
 沢山作った三色の団子。
 食べてもらう当てもない、沢山の団子。
 夕方になったら衆合地獄にでも持っていって、女の子たちに配ろうかとぼんやり思案していたその時。

 不意に店の扉が開いて、常闇色の鬼神がのっそりと入ってきた。

 まさか、本当に来るなんて思ってもいなかった。
 どんなに好きだと言っても、たかが桜だ。
 どこでだって見られる。
 地獄にもあるし、桃源郷にだってあちらこちらに咲いている。
 なのに、この鬼はわざわざ休日を潰して、ここまでやってきた。
 遅い、と文句をつける声が、震えないようにするのが精一杯だった。

 それから花茶の支度をして、鬼に縁台を運ばせて、桜の下に移動した。
 堂々たる枝振りの巨木。
 淡い薄紅に輝くような万朶の花。
 鬼灯が極楽満月に長居することはない。
 だから、ここにこんな樹があるとは知らなかったのだろう。
 目をみはって見上げる鬼の横顔は、やはりどこか子供のようだった。
 時折緩やかに流れる風に、艶のある髪がはらりと流れて。
 その髪を背景に、白く光るような花びらがはらはらと舞い落ちて。
 その様は、精緻極まりない螺鈿金蒔絵のようだった。

 なのに、縁台を置いて、緋毛氈を綺麗にかけ直し、花茶と団子をそこに置いたら最後、鬼はひたすらにもくもくと団子を食べ始めて。
 花には時々視線を向けてはいるものの、こちらの方など振り向きもしない。
 その団子を作ってやったのが誰であるかさえ、忘れてしまっているかのようだった。
 美味いとも不味いとも言わず、もくもくと皿いっぱいの団子を平らげてゆく。
 こんな馬鹿な話があるか、と白澤は思った。
 そりゃあ、花見団子くらい用意してやるとは言った。
 だから、食うなと狭量なことは言わない。
 ただ、せめて。

 ―――美味いか不味いかくらい、言えよ。
 ―――綺麗な桜ですねくらいの世辞くらい、言えよ。
 
 ―――こっちを見ろよ。

 念というよりむしろ恨を込めて、白澤は鬼灯を横目で見やる。
 けれど、鬼は一向にこちらを振り向こうとはしない。
 白澤は異様に気が長い方だが、それでも焦れる思いは段々と腹立ちに変わってくる。

 ―――もういいよ、お前なんか喉に団子を詰まらせちまえ。

 そうなって目を白黒させたって助けてなぞやらない。
 そんな風に胸の内で悪態をつきながら、白澤は、ふん、とそっぽを向いて花茶を啜った。

*             *

 高かった日も、少しずつ西へと傾いてくる。
 縁台の中央に置いてあったティーポットも皿も、とうに空だ。
 だが、白澤も鬼灯も、そこから立ち上がろうとはしなかった。
 大きく枝を広げ、輝くような花をいっぱいに咲かせている桜を、ただそれぞれに眺める。
 交わす言葉の一つもないまま、日差しに少しずつ色が付き、薄紅の花が仄かな曙色を帯びてゆくのを見守る。

 ―――なんで、何にも言わないんだよ。

 ―――どうして何も言わないんですか。

 ―――どうして帰らないんだよ。

 ―――何故、帰れと言わないんですか。

 互いに思うことなど、分かるはずもない。
 目ばかりは花を見つめ、けれど、全身で隣りの気配を探っている。
 そんなことなど、分かろうはずもない。

 けれど。

 その時、一陣の風が吹いた。

 ざあっと桜の枝が鳴り、周囲の木々が鳴り、花びらが狂ったように宙を舞う。

 咄嗟に目を閉じ、腕を上げて顔を庇った二人は、風が通り過ぎたところで、ゆっくりと瞼を開いた。
 何気なく互いの方へと目を向けて――ここへ来て初めて、まなざしが合う。
 傾いた日差しの中、それぞれに白い肌は温かな色合いにほんのり染まっている。
 そして。

「お前、花びらだらけになってる」

 白澤は立ち上がり、鬼灯の方へと歩み寄った。
 傍らに立ち、鬼の髪についた花びらをそっと払い、黒い着物の肩の辺りに宿っている花びらをそっと摘まんでは風に流す。

「貴方だって、花だらけですよ」

 鬼灯の手も伸びて、白澤の白衣の胸の辺りについていた花びらをそっと摘み、袖に宿っている花びらを、そっと払う。
 そして。

 これまでになく近い距離で、二人のまなざしが合った。

「――――」
「――――」

 思いもかけぬ距離に二人は息を呑み、目をみはって互いを見つめる。
 漆黒の髪と、漆黒の髪。
 白い肌と、白い肌。
 闇色の瞳と、玄色の瞳。
 よく似通っていると他人には言われる。
 けれど、徹底的に異なる生き物だと、互いにだけは分かっている。
 そんな存在が目の前にあることに、それぞれの魂の奥深い部分が震えた。

 ほんの僅かにも逸らすことのできないまなざし。
 急にざわつきだした鼓動がうるさい。
 耳朶が、ほの熱い。
 かかる吐息が――…。

 触れ合う唇、が。

 熱かった。






 どちらからともなく重なった唇は、随分と長い間、離れなかった。
 技巧も何もない。
 ただ唇を押し当てるばかりの拙い、幼い口接け。
 互いにそれ以上を良く知っているはずなのに、何故か、それ以上動くことができなかった。

 僅かでも動いてしまったら、全てが壊れてしまいそうで。
 薄い玻璃が砕け散るかのように、夢が覚めてしまいそうで。

 桜の見せた夢だと思った。
 美しい儚い、一瞬の夢幻。
 そうでなければ、こんなことが起こるはずがない。
 こんな風に唇を重ねて、長い長い年月、触れることすら叶わなかった相手の温もりとやわらかさを知ることなど。
 起こり得るはずがない。

 そのはずなのに。

 ゆっくりと唇を離し、目を開けても。
 神獣は、鬼は、まだ目の前にいた。

「これは、現実ですか」
「え?」

 どこか呆然としたまなざしの鬼灯に問われて、白澤は考える。
 分からなかった。
 だから、目の前の鬼に触れてみた。

 問われて困った顔をした神獣が、そっと手を上げて頬を撫でてくる。
 指先でそっと頬を撫で、髪を梳いて。

「お前、消えないね」
「貴方も消えません」

「じゃあ、これは現実?」
「じゃあ、これは現実ですか?」

 互いに途方に暮れたまま、互いの目をじっと見つめる。
 けれど、相手は消えはしないし、自分もここに在り続けている。
 どうしよう、どうすれば、と惑ったその時。
 再び、一陣の夕風が吹き抜けた。

 ざあっと木々が鳴る中、反射的に白澤は鬼灯の頭を抱き寄せ、胸の内に庇う。
 そして、風が通り過ぎたとき、その事に気付いて、更に途方に暮れた。

 ―――どうしよう。
 ―――離したくない。

 叶うことならば、このままずっと抱き締めていたい。
 その想いに、無意識に腕に力がこもる。
 鬼灯は――抵抗しなかった。

「白澤さん」

 小さく名前を呼ぶ。
 その名前に、全てを込める。
 今ならばそれだけで全て伝わるはずだと、普段なら思いもしないことを信じて、鬼灯は神獣の名前を呼ぶ。
 期待は、裏切られなかった。

「鬼灯」

 その瞬間、泣きたかったのはどちらだろう。
 優しい優しい声で名前を呼び返し。
 白澤は鬼灯の頬に手を添えて、そっと顔を上げさせる。

 困惑と、期待と、安堵と、喜びと。
 全てがないまぜになったまなざしを至近距離で交わして。

「好きだよ」
「好きです」

 異口同音に告げて、二人はもう一度、そっと唇を重ねた。

 互いに求め、求められ。
 無心に口接けを交わす二人の頭上に、はらりくるりと夕陽に光る花びらが舞いながら降り注ぐ。
 睦み合う二人を見守る万朶の桜を、夕風がざわりざわりとさざめかせる。
 桃源郷の美しくものどかな夕暮れは、またたく間に蒼空を黄昏色へと染め変えてゆく。
 いつしか遠く東の地平線からは、満ちた春の月が白く淡く輝きながらゆっくりと昇り始めていた。

End.

黒壱さんの素敵イラストに燃え上がって、お花見白鬼ちゃんを書かせていただきました。
作中の桜のモデルは長野県の駒つなぎの桜です。本物は江戸彼岸ですが、作中では大山桜に変更しました。

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