世の中にたえてもふもふのなかりせば

「しっぽ、出して下さい」
「は?」
 かれこれ十日ばかり、顔を見ていない。
 そう思い、ふらりと境界を越えて訪ねてみれば、開口一番、そんなことを言われた。
 即座に反応できなくても、おそらく罪はないだろう。
 ぽかんと阿呆みたいに口を開けて見つめ返せば、険しい闇色の瞳がこちらを見据えている。
「えーと……?」
 しっぽとは何だろう、としばしの間、白澤は、いわゆるゲシュタルト崩壊に陥った。

 仕事が忙しければ、時間というものはそれなりに過ぎてゆくのだけれど、今日はたまたま、注文も来客もなく開店休業状態だった。
 そんな暇な時間に考えることなど限られている。
 少し前までなら、対象は女の子たちだった。携帯をいじり、あちらこちらにメールを打ったり電話をしたり、遊ぶ約束を取り付けるのに忙しかった。
 けれど、今は違う。
 脳裏に思い浮かぶのは、まったくもって可愛くない男の面影ばかりだ。

 少し前に、酔った勢いで「ずっと好きだった」と告げたら、そいつは、ひどく胡散臭そうな顔をした後、「そうですか」と短く応じた。
 その返事は、果たして応だったのか、否だったのか。
 おそらく、その場で確認するべきだったのだろう。
 だが、白澤は躊躇ってしまった。
 何故だか、確かめるのが怖いような気がしてしまったのだ。
 これまで千年もの間、大嫌いだと言い合い、ずっと喧嘩をし続けてきた相手に向かって、「それはどっちの意味だ」と問うのは、とても難しいことだった。
 帰ってくる答えが否であれば、当然ながら大いに傷付くだろうし、かといって、応であっても、勢いで告ってしまっただけに、どうすればいいのか分からない。
 そんな風に、まごついているうちに件(くだん)の相手は勘定を済ませ、お先に失礼します、と居酒屋を出て行ってしまったのだ。
 店ののれんをくぐる際、ちらりとこちらに流されたまなざしは、いつもと同じく硬質で感情は読めなかった。  けれど。
 振り返ることをしない彼が振り返った。
 そこに意味があるような気がして、そのまなざしに縋りたいという欲求、あるいはもっと切実な希求を抑え切ることができず、その夜、白澤は眠れぬまま朝まで悶々と悩み続けた。
 それから十日。
 最後に会った居酒屋を連日覗いても想い人の姿はなく、誰に聞いても「お忙しそうです」と判を押したような答えしか返ってこず。
 いい加減、耐え難くなって、遥々と冥界まで下ってきたのだ。
 それなのに。

「しっぽ、って……」
「しっぽはしっぽでしょう。貴方の尻から生えてるやつです」
 物分りの悪さを咎めるように、苛々とした口調で常闇の鬼神が言う。
 彼が何を言いたいのか分からないまま、白澤は自分の腰の辺りをちらりと見やる。人型の今は当然、何も無い。白い布地があるばかりだ。
 だが、しっぽを出そうと思えば出せるのは確かだった。仮にも神獣、そのあたりの変化(へんげ)は自由自在である。
「ええと……、これでいいの?」
 考え考え、部分的に変化(へんげ)を解く。感覚としては、三角巾を取るようなものだ。
 途端、もふん、とやたら嵩張るしっぽが背後に広がる。
 豊かに渦を巻く長い毛は純白であるのに、照明の光を受けて一房一房が小さく虹をはじく。白澤自慢のしっぽである。
 すると、鬼灯は執務卓の椅子から立ち上がり、つかつかと白澤の元へと歩み寄ってきた。
「な、何?」
 眉間に深く皺を刻んだ険しい表情は変わらないままだ。一体何をする気なのかと白澤が身構えた次の瞬間。
 鬼灯は手が届く距離になっても立ち止まらずに白澤の横を回り込み、もふん、と両腕で白澤のしっぽを抱え込んだ。
「え、え?」
 そのままぐいとしっぽを下方に引っ張られて、白澤は堪え切れずに床に尻餅をつく。
 鬼灯もまた、床に直接座り込み、そして――。

 もふもふもふもふもふ、もふもふもふもふもふ。

 擬音にするならそんな勢いで、白澤のしっぽを構い始めた。
「あ、の……鬼灯?」
 何が起きているのか理解できず、白澤は恐る恐る滅多に呼ばない鬼の名前を口にしてみる。
 だが、返ってくるのは沈黙ばかりだ。
 ただひたすらに、もふもふもふもふ、もふもふもふもふと、ふかふかの巻き毛をやわらかく梳かれ、撫でられる感触ばかりが伝わってくる。
 背中合わせに男二人が床に座り込み、片や困惑、片や相手のしっぽを撫でている。あの世ならではの異様な光景である。
 一体全体、何がどうなっているのか。
 背中に鬼灯の体温が触れているため、振り返ろうにも身動きすることができない。
 そんな状態の中で全く動かない思考を懸命に動かし、白澤は事態を把握しようと努める。

 我慢できずに顔を見にきたら、執務室に足を踏み込んだ途端にガンをつけられ、しっぽを出せと言われた。
 さっぱり分からなかったけれど、とりあえずしっぽを出してみたら、しっぽを両腕で抱え込まれて。
 背中合わせで床に座って、もふもふもふもふもふ。

 そこまで理解したところで、白澤はぼふんと顔が熱くなるのを感じた。
 顔ばかりか耳や首筋まで熱い。
 心臓が急にばくばくと騒ぎ出す。
 ―――鬼灯が、僕のしっぽを、もふもふしてる。
 そう考えるだけで、何かが爆発しそうだった。
 今、鬼灯はどんな顔で、しっぽを構い倒しているのか。
 ものすごく見てみたいと思う。
 だが、この体勢で無理に振り返ったら、鬼灯は、もふもふするのをやめて離れてしまうかもしれない。
 そう思うと、とてもではないが動けない。

 嬉しい。
 恥ずかしい。
 どうして。

 その三語だけで、白澤の思考はいっぱいになる。
 しっぽに触れる鬼灯の手は、いつもからは想像できないくらいに穏やかで優しい。
 そう、いつも極楽満月で従業員のウサギを膝に抱いている時の手つきだ。
 優しく優しくウサギの毛皮を撫でる、大きくて指の長い手。
 一体どんな感触がするのだろう、その手は温かいのだろうかと、いつも心の中でこっそり思っていたその手が、今、自分のしっぽに触れている。
 熱と共に、じわじわと喜びが込み上げてくるのを感じて、白澤はたまらなくなった。
 けれど、何故突然、こんな事態になっているのか。
「……あの、さ。鬼灯」
 おそるおそる名を呼んでも応えは返らない。
 だが、この距離で聞こえないはずはなかったから、白澤は勇気を振り絞って続けた。
「何か、あった?」
「――何か、とは?」
 今度は返事があった。
 いつもと同じ、硬質な低い声だ。
 それに少しだけほっとして、白澤は言葉を探した。
「いや、だって、おかしいだろ。お前がそんな――」
 はっきり言ってしまうと、鬼灯が手を離してしまいそうな気がして、曖昧に語尾をぼかす。
 すると、短い沈黙を挟んで、再び鬼灯は声を響かせた。
「忙しいんですよ」
 今度の声は、機嫌が悪いのが露骨に伝わってくる低音だった。
「最近、寒さが厳しいせいか、新規の亡者がやたらと多くて。裁判を期日を間に合わせるのに、てんてこ舞いしてるんです。おまけに、私にはそれ以外の仕事も山のようにありますし」
「うん……」
 うなずきつつ、白澤はちらりと目線を上げて鬼灯の執務卓の上を確認する。
 確かに、こうして床の上に座っていても積み上げられた書類の山が複数見えるのだから、相当なものだ。

「おかげ様で、忙しくて視察にも出られないんです。シロさんも忙しい私に気を遣って、こちらに顔を出してくれませんし」

 その一言で。
 全ての謎が解けた。
 なんのことはない。
 激務で疲れているのに、ストレスが発散できない。それで苛々しているところに白澤が現れたのだ。
 そう、極上のしっぽを持つ、神獣が。
 種明かしとも呼べない、何とも単純な話だった。
 だが、それでも嬉しい、と白澤は思ってしまった。
 たとえしっぽだけであっても、今の鬼灯は自分を必要としてくれているのだ。
 この自慢のふさふさしっぽで癒されてくれるのだ。
 それをどうしようもなく幸せだと感じてしまうのは、恋する愚かさゆえだろう。
 会話する間もしっぽを撫で続ける鬼灯の手の感触は、相変わらず優しい。
 こんな風に彼に触れられる日が来るとは思ったこともなかったため、何となく涙が出そうになって、白澤は慌てて話題を探した。

「あのさ、もし、なんだけど」
「何です」
「疲労に効く薬膳とか作ったら、お前、食べる?」
 つい、そう言ってしまった。
 疲れている相手に何かできることはないかと考えて思いついた、自分の特技の一つ。
 料理はいつもしているが、鬼灯の為に特別に何かを作ってやったことは、これまで一度もない。
 たまたま料理ができあがったところに居合わせれば、互いに罵り合いつつ振舞ってやることもあるが、それだけだ。
 なのに、いきなり薬膳などと言ったら、鬼灯はどう思うだろう。
 心臓がばくばくと脈打っている。
 鬼灯はすぐには答えない。
 焦れて、催促したくなった頃、ようやっと口を開いた。
「ありがたい話ですが、桃源郷まで食べに行く暇がありません」
「じゃあ、ここまで出前したら……?」
「片手でつまめるものにしてもらえるのなら」
 食すのもやぶさかではありません、と言われて。
 白澤は、ぐっと拳を握り締める。
「じゃあ、飲茶形式で作ってやるよ。金魚の形の水晶餃子も入れてやる」
「胡麻団子も食べたいです」
「うん、任せろ」
 こんな穏やかな会話を交わすことなど、夢のまた夢だった。
 しかし、現実に背中に鬼灯の体温、しっぽに鬼灯の手の優しさを感じながら、喧嘩腰ではないやりとりをしている。
 このまま時間が止まって欲しい。そう心の底から願ったが、いくら神獣といえども時の流れに干渉する力は無い。
 やがて鬼灯の手がしっぽから離れ、背後ですっと立ち上がる気配がした。
「満足したのか?」
「満足したわけではありません。でも、少しだけ落ち着きました」
「そっか」
 会話の流れが流れだっただけに、いつものように日本銀行券を寄越せと憎まれ口を利くこともできない。
 それなら良かった、と小さく呟き、床に座ったまま肩越しに鬼灯を見上げれば。
 闇色の瞳が静かにこちらを見下ろしていた。
「何……?」
 そのまなざしに、覚えがある、と白澤は思う。
 十日前の夜。
 居酒屋を出て行く鬼灯が、さりげなく振り返ってこちらを見た。
 あの時のまなざし。
 物言わぬ、静かな漆黒の瞳。
 何を、と思う。
 何を思っているのか。
 何か告げたいことでもあるのか。
 あるいは。
 
―――何かを待っているのか。
 
 いきなり、背筋がざわりと粟立つ。
 そうだ、と天啓のように閃いた。
 彼は待っているのだ。
 何を?
 何を、と鬼灯を見上げたまま白澤は必死に考える。
「ほ…お、ずき……」
「何ですか」
 まだ考えはまとまっていない。
 けれど、何か言わなければ。
 焦りと衝動に駆られて、唇から飛び出した言葉は。

「お前が好きだ」

 短絡極まりない告白の言葉を、鬼灯は瞳を揺るがせもせずに受け止める。
「それはもう聞きました」
「うん、十日前に言った。それで……、」
 ごくりと唾を飲み込む。
 全身が心臓と化したかのように、ガンガンと体中で鼓動が鳴り響いている。
 指先が、喉が、震える。
 それでも必死に白澤は言葉を搾り出した。
「お前は、僕をどう思ってる?」
 そう問うと。
 鬼灯は静かにまばたきをした。
 言葉を選ぶようにかすかに頭を傾けた動きに合わせて、癖のない髪がさらりと流れる。

「森羅万象に関する知識以外はアホで好色で浪費家でだらしのない、最低最悪の偶蹄類」

 あっさりと口にされた言葉に白澤は轟沈しかける。
 が、反射的に反論しようと顔を上げて、再び鬼灯の闇色の瞳に出会い、そこに浮かぶ色合いが変わっていないことに白澤は気付いた。
 まだ、鬼灯は待っている。
 何故、待っているのか。
 求める言葉が得られていないからだ。
 白澤の言葉が、彼の的を得ていなかったからだ。
 ならば。
 ―――何と言って欲しがっている?
 気付いた途端、白澤の身体の一番深い部分から何か――言葉にならないものが怒濤のように込み上げた。

 ―――鬼灯。
 鬼灯。
 亡者を、地獄を導く鮮やかな灯火(ともしび)。
 冥府の深い闇にも決して呑まれないその光が、欲しくて、欲しくて。
 どうしても手を伸ばさずにはいられなくて。 

「鬼灯」
 湧き上がる期待にも似た願望を必死に抑え込みながら、白澤は言葉を選び、紡ぐ。
「その最低最悪の僕を、お前は好き? 嫌い?」
 そう、問えば。
 何の感情も映していなかった闇色の瞳がふわりとやわらいだ、ように見えた。

「嫌いだと、言えたら良かったんですがね」
「うん」
「大変不本意で、残念ですが……」
 私も貴方が好きです。
 鬼灯は、確かにそう言った。




 感激が過ぎると何も言葉が出なくなるのだということを、数億年も生きて、白澤は初めて知った。
 嵐のように感情が巻き上がり、何か言わなければと思うことすらできない。
 好きだと言ってくれた。
 自分の好きな子が。
 この衝撃を、喜びを一体どうしたらいいのだろう。
 どうすることもできず、白澤はうつむいて唇を噛み締める。そうでもしないと涙が零れてしまいそうだった。
 しばらくの間、そうやってじっと嵐の第一陣が過ぎるのを待つ。
 そして少しだけ落ち着いたところで、白澤は口を開いた。
「鬼灯」
 声が少しだけ鼻にかかっていて、カッコ悪い、と思う。
 だが、スマートに振舞うだけの余裕が今の白澤にはなかった。
「謝々。すごく、嬉しい」
「そうですか」
 短い、けれど精一杯の感謝の言葉に素っ気なく応じて、鬼灯はかすかな衣擦れの音を響かせ、執務卓に戻ってゆく。
 椅子を引き、腰を下ろして、書類にまなざしを落としペンを手に取る。
 たった今、愛を告白したとは到底思えない硬質な物腰、硬質な表情。
 いかにも彼らしい凛とした様を、何よりも好きだと白澤は強く思う。
 一枚ずつ書類に目を通し、判を押してゆく鬼灯を床に座り込んだまま、一心に見上げる。
 そして、枚数が進んでゆくうちに、最初のうちはすっと伸びていた彼の背筋が少しずつ前に傾いていくことに気付いた。
 やや猫背気味の事務仕事特有の姿勢だ。
 いつも凛と背筋を伸ばした姿勢しか見たことのなかった白澤の目には、そんな鬼灯はとても新鮮に映った。
 ―――そっか。毎日こんな風に仕事してんのか。
 千年の間、喧嘩しかしてこなかった自分たちである。まだまだ知らないことは山のようにあるのだと思う。
 彼を形作るもの。それらを一つ一つ、知ってゆきたい。
 同じように、彼にもこれまで見せなかった自分を一つ一つ知って欲しい。
 そう思いながら白澤は立ち上がり、しっぽを元通りにしまって服の埃を払った。
「それじゃ、僕は帰るよ」
「はい」
「次来る時は薬膳弁当作ってくるからさ。きちんと食えよ?」
「それなら事前に連絡して下さい。私が食事を取れる時間は結構限られてますから」
「分かった」
 うなずき、書類仕事に没頭している鬼灯をもう一度見つめてから、彼の執務室を出る。
 獄卒たちに挨拶しながら広い閻魔殿を通り抜ける、その間中、ひどく胸の奥が温かかった。
 これは鬼灯がくれた温もりだ。
 なんて愛おしい。
 そして、なんて尊い。
 四肢に力が漲り、何でもできるという自信が、エネルギーが湧き上がってくる。
「お前が望むなら何だってしてやるよ、鬼灯」
 癒しが欲しければ、しっぽくらい幾らでももふらせてあげよう。
 疲れているのなら、滋養たっぷりの薬膳料理を振舞ってあげよう。
 何一つ惜しくないし、惜しみたくもない。
 これが誰かを愛するということなのだと、白澤は初めての感情を噛み締める。
「まずは、金魚水晶餃子と胡麻団子だな」
 呟きながら、陽気に挨拶をしてくる牛頭馬頭に手を振って地獄の門を抜ける。
 そして、空を見上げ、高揚する気分のままに本性である神獣の姿に戻った。
 ふるりと身震いすれば、長い鬣(たてがみ)と豊かな尾が、きらきらと虹をはじいて煌めく。
 足元から小さな風が巻き起こるのは、精神の高揚に合わせて有り余る霊力が溢れ出しているからだ。
 瑞獣の神気を受けて、四足の触れているところから広がるように大地に若草が芽生え、小さな蕾をつけたと思ったら、みるみるうちに膨らんで可憐な花が開く。
 これ以上、浮かれた気分のままこの場に留まっていてはいけないなと白澤は苦笑して、軽く四肢に力を溜めて地を蹴り、ふわりと宙に舞い上がった。
 壮大な閻魔殿を振り返り、その中枢にいる愛しい鬼神のことを想い、それから身体の向きを変えて雲間から覗く青い空を目指し、一気に駆け上がる。

 ―――鬼灯。

 帰宅したら、速攻で疲労に効く薬膳のメニューを考え、下ごしらえをしよう。
 けれど、今は。
 心を温かく満たし、全身を駆け巡る喜びに浸ろうと、神獣は全身をまばゆい白銀に輝かせながら、軽やかに雲を踏んで天を駆けた。

End.

はる樹さんが初描きして下さった白鬼イラストがあまりにも可愛かったので、思わず文章をつけさせていただきました。
元イラストは、背中合わせに座った白澤さんのしっぽを鬼灯様がもふっていて、白澤さんは恥ずかしさに顔を手で隠しているというものです。

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