めぐる季節を、貴方と
「それで、どうなんだ最近」
「最近、とは?」
幼馴染に問われ、枡酒を傾けながら鬼灯は問い返す。
すると、明らかに酔いの回った赤い顔で烏頭は言った。
「ンなもん、決まってるだろ。桃源郷に引っ越して、何か変わったかって聞いてんだよ」
「何か面白いことは起きたか、でしょうが。貴方が聞きたいのは」
「分かってんじゃねーか」
分からないわけがないだろう、と思う。一体、何千年の付き合いだと思っているのか。
何か面白いこと、刺激的なことはないかと常にきょろきょろしていた悪ガキは、そのまま大人気ない大人になった。
鬼灯自身、自分が立派な大人になったなどとは微塵も思っていないが、それでも時々、TPOをわきまえているだけこいつよりはマシだと思うことがある。
今もそれに似たような気分だった。
「今更、何も変わりませんよ。ていうか、結婚してから十年も経つ私とあのひとに何を期待してるんですか」
鬼灯が桃源郷の極楽満月に住処を移したのは、二ヶ月ほど前のことだ。
一般の夫婦のように籍を入れて式を挙げた日から一緒に暮らすというのならば、トラブルもときめきも幾らでも起こるだろう。互いに異なった生活習慣を持っているのだから、何かしらの衝突が生じるのは当然のことである。
だが、鬼灯と白澤の場合は、いささか事情が異なっていた。
鬼灯が多忙すぎたせいで、結婚を宣言してから十年間、別居婚の通い婚だったのである。
ゆっくり会えるのは休日前夜から休日翌朝までという、恋人時代と何ら変わらない生活を合わせて十数年も続けたのだ。今更一緒に暮らすといっても、新鮮味など殆どない。
もし、何かあるとしたら。
「まぁ、毎日帰ったら美味しい手料理がテーブルに並んでいて、ちょっとでも疲れたなーと思ったら口に出す前に指圧やマッサージをしてもらえて、朝も起きたら出来立ての朝食がたっぷりテーブルに並んでいるというのは、一緒に暮らし始めて変わったことですかねぇ」
わざとらしく指折り数え上げて見せると、烏頭はガツッと卓に額をぶつけて撃沈した。
「このリア充野郎……!!」
「当たり前でしょう」
フン、と鬼灯は枡酒を干して、新たな酒を手酌で注いだ。
リア充でなければ、結婚している意味がないではないか。無味乾燥の不毛な同居生活を送るためにプロポーズにうなずいたわけではないのである。
一緒に暮らし始めて変わったところを数え上げるなら、他に幾らでもあった。
毎晩、自分のものではない温もりを感じて眠ることができるとか、独りの部屋に帰る必要がなくなったとか、おかえりと出迎えてもらえるとか。
お互いに独り身の時間が長かったこともあって、それぞれのマイペースなところは自然に尊重し合っており、一つ屋根の下に居ても窮屈さを感じることは滅多にない。
世間相場に比較しても、幸せな結婚生活を送っているのだろうという程度の判断は、鬼灯にもついていた。
「羨ましいでしょう?」
「ホンットに嫌なやつだなお前!」
「最初にこの話題を持ち出したのは貴方ですよ」
「この血液ミドリムシ野郎!!」
「何ですかそれ」
血液が緑色の虫けら野郎と言いたいのか、血管にミドリムシが流れているとでも言いたいのか。
相変わらず謎の語彙の持ち主だと思いながら、鬼灯はいい具合に焼かれた子持ちシシャモを頭から丸ごと齧った。
「その辺で止めておけって、烏頭。リア充に敵うわけないだろ」
苦笑交じりにいなしたのは、烏頭とは鬼灯を挟んで反対側の席についている蓬である。
鶏肉の朴葉味噌焼きを美味そうに口に放り込みながら、蓬は言った。
「鬼灯が毎日楽しくやってんなら、それでいいじゃないか」
「お前は寛大すぎるぞ蓬……!! リア充爆発しろって思わねぇのかよ!?」
烏頭は今度は蓬に食ってかかる。間に挟まれている鬼灯は、いい迷惑だ。
我関せずとばかりに酒をあおっていると、懐で携帯がメール着信を知らせて小さく鳴る。
開いて確認すれば、当の結婚相手からのメールだった。
『そろそろ僕は帰るよ。お前は今、どこ?』
ふむ、と考えてから、鬼灯は現在位置を知らせる返信メールを手早く打ち込み、送信する。
待つこと十秒。再び着信音が鳴る。
『了解。今から行く』
短い文面を見て、鬼灯は手にしていた枡を飲み干し、卓に置いた。
「そろそろ私は帰ります。勘定は割り勘でいいですよね」
「えー。何でだよ、奢れよ補佐官様。惚気を聞いてやっただろうがぁー!」
「聞きたがったのは貴方でしょう」
くだを巻く烏頭の顔面に、ぺしりと一枚、財布から取り出した高額紙幣を押しつける。
そして立ち上がった。
「じゃあ、お先に失礼します」
「おう、お疲れ。また時間作って飲もうな」
「ええ、蓬さん。申し訳ありませんけど、官舎まで連れて帰ってやって下さいね」
「分かってるって。いつものことだしな」
烏頭も蓬も、共に独身寮暮らしである。性格も趣味も正反対というほど違う二人なのに、仲がいいのは昔から変わらない。
気さくに笑った蓬に鬼灯は軽く会釈して、のれんをくぐった。
外に出て、衆合地獄の賑わいに視線を走らせる。
右を見て、左を見たとき。
人並みの向こうに目立つ白装束を見つけた。
あちらもほぼ同時に気付き、鬼灯、と笑んだ口が動く。
歩く速度を速めて近付いてきた白澤は、居酒屋の前にたたずんでいた鬼灯のところに辿り着くと、嬉しげな笑みを向けた。
「もう勘定すませちゃったんだ? どうせなら一緒に飲もうかと思ってきたのに」
「あの二人と飲んでもうるさいだけですよ」
「でも楽しい二人じゃないか、烏頭君も蓬君も」
白澤の言葉に鬼灯は肩をすくめ、歩き出した。
白澤も直ぐに肩を並べ、同じ速度で歩を進める。
「だからこそ、ですよ。気心が知れてる分、遠慮がないですから。貴方との夜のことなんか訊かれたくありません」
「あれ、そういう話してたの?」
「下世話な方向にはまだ向かってませんでしたけどね。一緒に暮らし始めて何が変わったかとか、そういうことを尋ねられました」
「へえ」
面白げに白澤は笑った。
「変わったことねえ……。『いってらっしゃい』と『おかえり』が当たり前になったとか?」
「官舎に帰らなくていいっていうのは大きいですよね」
「そうだね。また次の休みに、ってお前が言って出ていくの、結構寂しかったからなぁ」
「私だって好きで言ってたわけじゃありません」
恋人に別れを告げる朝というのは、実に嫌なものだ。次の休みにはまた会えると分かっていても、後ろ髪を引かれてしまう。
それがなくなったというのは、一緒に暮らすことの最大のメリットかもしれなかった。
「実際、別居してた頃と何が違うんだって聞かれても、お互い仕事があるし、毎日の生活が大きく違うわけじゃないんだけどさ。やっぱり気持ちとしては全然違うよね」
「違いますよね。状況としては、一つ屋根の下で暮らしてるってだけなんですけども」
「うん。それだけのことが心理的にはすごく大きい」
「それには同意です」
目抜き通りをそぞろ歩いていくうち、人の流れはまばらになり、やがて曲がりくねった道が続くばかりになる。荒涼とした地獄の風景の中を、しかし、二人は何とも思わずに三界を分ける門へ向かって歩いた。
「そんなこんなで馬鹿話ばかりでしたけど、いいお酒でしたよ。あの二人といると気持ちが楽です。貴方といる時とは、また別の意味で」
「うん、分かるよ。僕が鳳凰や麒麟といる時も似たようなものだからさ。お前と居るのとはまた別の意味で、遠慮が要らない」
「はい」
恋人や伴侶と親友とでは、気心が知れているという表現でくくれば同じだが、内包する意味合いが全く違う。
恋人にだけ告げる言葉があり、親友にだけ語る話がある。
どちらも、自分にとっても白澤にとっても大切なことだと鬼灯は分かっていた。
「僕の方も今夜は楽しかったよ。店の女の子の一人が今日が誕生日だって言って、皆で乾杯したんだ。事前に知らせはもらってたから、大きな花束を持って行ったら喜んでくれた」
社交辞令かもしれないけど悪い気はしないんだよね、と白澤は笑う。
鬼灯と付き合い始めてから女遊びはぴたりと止めた白澤だが、衆合地獄に飲みに行くことまでは止めていない。鬼灯も咎めたことはなかった。
そもそも、この件に関しては、たとえ白澤が浮気をしても決して目くじらを立てるまいと最初から決めていたのだ。
日本地獄の側から見て白澤は大事な金づるであるし、白澤の性分からいっても女の柔肌なしに過ごせるとは思わなかったから、割り切ろうと思っていたのである。
だが、蓋を開けてみれば、白澤はそれまでの放蕩が嘘のように品行方正な恋人だった。
お前が謗(そし)られるようなことはしないよ、というのが白澤の言で、聞いた端(はな)は余計な世話だと腹を立てたが、気遣いに感謝をしていないわけではない。
割り切るつもりでいたからといって、浮気をされて喜べるはずがないのだ。お前だけだと言い、事実、その通りに振舞ってくれているのは、やはり嬉しいものだった。
「お祝い事はいいよね。楽しいし、皆も嬉しそうだし」
「そうですね」
鬼灯が同意すると、白澤は嬉しそうに笑む。
良い方向で意見が一致するのは心地のいいものである。鬼灯も悪い気はしなかった。
「あ、そうだ」
それぞれの酒席でのことを語り合いながら三界の境界の門を天国側に抜けたところで、白澤が何かを思い出したように白衣のポケットを探る。
「はい、これ」
差し出された紙包みを、鬼灯は手を出して受け取った。
「何ですか?」
平たくて、少しばかりやわらかくて軽い、一辺が十センチほどの真四角に近い包みである。
包装の紙袋は、藍染のようなやや渋い色合いをしていて品がいい。
「手ぬぐいだよ。花束を買いに行った時に高天原ショッピングモールで金魚柄の可愛いやつ、見かけたから」
「金魚……」
呟き、鬼灯は自分の手の中の紙包みに再び目線を落とした。
鬼灯の金魚草狂いをからかいながらも、白澤はこうして時々、金魚にちなんだ小物を贈ってくれる。根付や風呂敷といった小さなものから、湯上がりに着る浴衣まで品物は様々だった。
「貴方もマメですねえ」
「男はマメでなきゃモテないんだよ。女の子は女の子ってだけでオールオッケーだけどさ」
「貴方のはモテてるとは言わないと思いますけど」
鬼灯が見る限り、女性陣の白澤の扱いは良くて楽しい遊び相手、さもなければ都合のいい金づるである。だが、本人も承知の上で交流を楽しんでいるのだから、自分がとやかく言うことでもないと思っている。
付き合う前なら喧嘩の口実にもなったが、今はこうして家計を圧迫しないレベルで遊んでいるだけなのだ。
鬼灯としては、よくもまぁ飽きないものだと思うだけのことだった。
「でも、これはありがたくいただきます」
「うん」
小さな包みを鬼灯が懐に収めると、白澤は嬉しげに鬼灯の手に自分の指を絡めた。
反射的に鬼灯は手を引きかけたが、極楽満月まではもうあと少しの距離である。既に夜更けのこととて、道を行く影は自分たち二人しかいない。
手ぬぐいももらったことだし、たまには良いかと手の力を抜いた。
「貴方って本当にベタなことが好きですよね」
「いいだろ、別に。誰もがいいなぁって思うことだからベタなんだよ」
「私は敢えて王道の逆というか、誰も予想しない道を行くのが好きなんですけど」
そう言った途端、ぐっと手を握り込まれ、拘束される。
「せっかくいい雰囲気なのにバルスしようとするんじゃない」
「どうして分かりました?」
「分からないわけあるか馬鹿」
手首に力が入りそうな気配がしたんだよ、と呆れの混じる声で言う神獣に、チッと鬼灯は舌打ちをした。
付き合いが長くなれば、どうしても言動が読まれやすくなる。確かにバルスは、これまでに何度となく繰り返したお気に入りの悪戯だ。
もうこのネタは使えないかと少しばかり残念に思いながら、次の手を考え歩く。
だが、これといったものを思いつかないうちに極楽満月の戸口前まで辿り着いてしまい、続きはまた今度考えようと、鬼灯は繋いでいた手を解いて天国らしく施錠などしていない戸口を開け、中に入った。
ふわりと届く生薬の香りに、帰ってきた、と思い、そう思った自分を少しばかりくすぐったいと感じる。
ここで暮らすようになってから、もう二ヶ月なのか、まだ二ヶ月なのか。馴染んだような、まだどこか馴染み切らないような微妙な時期だ。
未だむず痒いような感覚はするものの、それは決して不快なものではなかった。
「お茶でも飲む?」
帰宅早々、持ち前のマメさを発揮して台所に向かいかけた白澤に、鬼灯は答える。
「それよりも腹が減りました」
たった今、飲み会から帰ってきたところでの発言だったが、白澤は驚きもせずに笑った。
「あー。割り勘だからって遠慮したんだろ」
「はい」
鬼灯が本腰を入れて飲み食いしたら、勘定は3対1対1でも割が合わない。ゆえに、烏頭&蓬と飲む時は、どうしても注文を抑え気味になるのである。
これが部下たちとの飲み会なら自分が全部勘定を持てば済む話だが、友人たちとの飲み会ではそうもいかない。
稼ぎ頭は間違いなく鬼灯であっても、それぞれ一人前に働いて収入を得ているのだ。自分の分は自分で払いを持つのが、互いに含むところなく楽しく飲むコツだと三人ともがわきまえている。
だからこそ、立場が変わっても関係性は何一つ変わらないまま、何千年も友情が続いているのだとも言えた。
「じゃあ、おにぎり食べる?」
「おにぎり?」
思いがけない単語を言われて、鬼灯は目をまばたかせる。
「そう。今日はあの二人との飲み会だって言ってたからさ。どうせお前は食べ足りないまま帰ってくるだろうと思って、夕方、出かける前に御飯炊いて作っておいたんだよ」
大当たりだったな、と悪戯が成功した子供のような笑みと共に言われて、思わずまじまじと白澤の顔を見つめた。
その顔がおかしかったのか、白澤は目を細める。
「何? 惚れ直した?」
「惚れ直したとは言いませんけど、今、これまでで一番、貴方と結婚して良かったと思いました」
鬼灯としては至極真面目な答えだったのだが、聞いた途端に白澤は噴き出し、そのまま笑い転げた。
「あはははっ、おにぎり様様だな!」
「何とでも言いなさい。それより、おにぎりはどこですか」
「台所。おいで」
笑いながら白澤は足を台所に向ける。
鬼灯もついて台所に入ると、白澤の言った通り、大皿に盛られてラップをかけられたおにぎりが食卓の上に燦然と鎮座している。
丁寧に炊かれた飯粒の艶々とした白い輝きが目に眩しいほどで、『美味しいから早く食べて』と甘く誘い掛けられているような気さえして、思わず鬼灯は生唾を呑み込んだ。
「具は何ですか?」
「梅干と鳥そぼろと焼きたらこと高菜」
「貴方って本当に最高です」
「そりゃどうも」
くっくっと笑いながら白澤は水を満たした鉄瓶をコンロにかけ、焼き海苔を炙り始める。
その様子が実に楽しそうなので、鬼灯は手を出すのを止めて椅子に腰を下ろした。
腹が鳴るのを感じたものの、白澤がまだ立ち働いているのに、おにぎりに手を付けるわけにはいかない。
気を紛らわせるために懐から紙包みを取り出して、シールで留められた紙袋の封を開け、中からやわらかな布地を引っ張り出す。
丁寧に広げると、白い木綿地に色鮮やかな金魚が何匹も泳いでいる図柄が現れた。共に描かれた水連が何とも涼しげな、これからの季節に似合いの手ぬぐいだった。
「これ、ありがとうございます。早速、使わせてもらいますね」
「あ、気に入った?」
「はい」
「良かった」
綺麗な深翠色に焼き上がった海苔を持ってきた白澤に礼を言うと、またもや嬉しげな笑みが返ってくる。
その表情を見つめながら、この十年間、笑顔ばかりを見てきたな、と鬼灯はふと思った。
もともと自分は愛想がないし、他人を喜ばせようなどと殊勝なことを思う性格でもない。共に暮らして楽しい相手ではないはずなのに、白澤は共に在り続けることを望み、こうして上機嫌で日々を過ごしていてくれる。
勿論、鬼灯も自分なりに、二人の生活を良いものにしようと心がけていないわけではない。
だが、それでも今こうして幸せに笑い合っていられるのは奇跡に等しい出来事であり、とても不思議で、同じくらいにありがたいことだと思えた。
「はい、お茶」
「ありがとうございます。いただきます」
白澤も座ったところで、鬼灯はおにぎりを一つ取り、帯状の焼き海苔を巻いてぱくりと食べる。
米の甘みと弾力、ほろりと口の中でほどける心地よさ、それから酸っぱさの中に甘さを感じる梅干の味。
これ以上はないだろうという極上の梅干にぎりに、鬼灯は思わず溜息をついた。
「ものすごく美味しいです」
「うん。全部食べていいよ」
「はい」
こくりとうなずき、二つ目に手を伸ばす。今度の具は焼きたらこだった。
これまた、たらこの焼き加減が良く、口の中でぷちぷちと香ばしい粒がはじける。塩気のある旨味が白飯の甘みと渾然一体となり、絶品としか言いようがない。
続けて手に取った鳥そぼろも、生姜を利かせた甘辛い味付けが実に食欲をそそる。
夢中になって黙々と食べている間、白澤は自分の湯飲みを手に取り、茶を啜っていたが、ふと思いついたように口を開いた。
「なぁ、お前って誕生日は分かんないんだよな?」
聞かれ、口の中にあった飯をごくんと咀嚼してから鬼灯は答える。
「ええ。あの時代は暦なんか無かったですから。きちんと御両親のいる烏頭さんや蓬さんでも、誕生日のお祝いなんかしたことはないと思いますよ。そもそも自分が何歳なのかも、私たちの世代は覚えてませんし。正確に年齢を言えるのは、ここ千年くらいの間に生まれたひとだけじゃないですか」
「だよねえ。正月になったら一つ歳を取る、って風習も結構後の時代だしなぁ」
「はい。突然、どうしたんです?」
問いながら、最後の高菜のおにぎりに手を伸ばす。これまた具の漬物特有の塩気と旨味が何ともバランスよく、しみじみと美味かった。
「んー。今日、衆合地獄の店でお誕生日祝いをしてあげたって言っただろ。その時にさ、生まれてきてくれてありがとうって年に一回言えるのって、いいなと思ったんだよね」
「なるほど」
白澤らしい、と鬼灯は思う。
楽しいこと嬉しいことが好きで、幸せそうな光景を何よりもいとおしんでいる吉祥の神獣である。誕生日を祝われている様子に素直に喜びを覚え、己の伴侶に思いを馳せたのだろう。
「それで私の誕生日が気になったというわけですか」
「うん」
「でもそれ、同じことが自分にも言えると思わないんですか?」
「へ?」
きょとんと白澤の目が鬼灯を見る。
その目を鬼灯は真っ直ぐに見つめ返した。
「誕生日どころか、自分が発生したおおよその年代しか分かってないのは貴方も一緒でしょうが」
「あー。それはそうだけど……僕は生き物ってわけじゃないし」
「だからといって、存在してくれていることにありがとうと言いたくならないというわけじゃないんですよ」
先程だって、自分の行動を見越して夜食を用意していてくれたことを本気で嬉しいと思った。
金魚柄の手ぬぐいにしても、ショッピングモールで見かけたのを買ってくれたということは、自分の存在が彼の中にあるということだ。嬉しくないわけがない。
日々の手料理や気遣いに満ちた言動の数々に対しても、すべてに礼を言えているわけではないが、いつでも感謝の心と共に受け止めているつもりでいる。
「確かに、私にも貴方にも明確な誕生日はありませんけど、だからといって存在に感謝する機会がないというわけではないでしょう?」
姿を目にした時。声を聞いた時。肌のぬくもりを感じた時。
ふとしたはずみに感じる愛しさと幸福感。
胸に小さな灯がともるような感覚を伝える機会も方法も、その気にさえなれば幾らでもあるのだ。
かたんと小さな音を立てて椅子を引き、鬼灯は立ち上がる。
「鬼灯?」
どうしたのかと問う白澤の声を聞きながら食卓を回り込み、白澤の傍らに立つ。
そして身をかがめ、唇にそっと口接けた。
変わらぬ温もりとやわらかさだけを感じて、ゆっくりと離れる。
「これはおにぎり分の御礼です」
それから、ともう一度。
「これは手ぬぐいの分」
目を覗き込むようにして告げると、白澤の朱に彩られた切れ長の瞳がまばたいた。
「いつだって気持ちを伝えることはできるんですよ。誕生日なんて関係ありません」
イベント事は鬼灯自身も嫌いではない。
だが、記念日にこだわって、日々想いを伝えることを忘れてしまっては本末転倒で意味がないと思うのだ。
今時の世代のように誕生日を祝えないのなら、代わりに、自分たちは共に季節を経てゆけることを喜びとすればいい。
千年に及ぶ長い長い時間、いがみ合い、喧嘩をしながらも恋心を紡いできたこと、これからも紡いでゆくことを二人でいとおしめばいい。
それは年若い世代には、まだできないことだった。
「鬼灯」
名を呼ばれ、腰を抱き寄せられる。鬼灯は抗わなかった。
頬に添えられた手の温もりを感じながら目を閉じる。
口接けはいつも通りに甘く優しかった。
「本当だ」
ゆっくりと唇を離してから、白澤がやわらかな声で呟く。
「難しく考える必要なんかないね。どれだけ考えたところで、僕らに誕生日ができるわけじゃないんだし」
「ええ。それに誕生日でなくったって、節句は年に四回ありますし、それ以外にも年中行事なんて幾らだってあるんですよ。その気になれば、いつだって特別な日になるでしょう?」
「うん。お前の言う通りだ」
好きだと思ったら、抱き締めればいい。
愛しいと思ったら、そう言えばいい。
自分達には唇も両腕もある。記念日を待つ必要など、どこにもなかった。
「愛してる、鬼灯」
「知ってます」
私もです、と想いを込めて白澤の目を見つめた。
「おなかもいっぱいになりましたし、そろそろ風呂に行きますか?」
「そうだね。……明日はちゃんと休みなんだよね?」
「ええ。よほどのことがない限り、もう休日出勤なんかしないことにしましたから」
だから、と鬼灯は誘いかける。
「この身体、貴方の好きにしてくれて構いませんよ」
「お許しをくれるんだ?」
「嬉しいですか?」
「勿論」
甘やかに笑った白澤が、もう一度鬼灯を引き寄せ、唇がやわらかく重なる。
抱き締め、抱き締められて、目を閉じ、互いの熱に酔う。
いつもと変わらぬ二人きりの長く幸せな夜が今、静かに始まろうとしていた。
End.
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