神々の休日 - Hymne a l’amour -

 前方に遥かな波濤が見えた瞬間、鬼灯は自分がこの国から連れ出されそうになっているということに気付いた。
 まだ日本の領海内である。だが、ここのまま進めば、あと一分も経たないうちに国境線を越えてしまう。
「ちょっと、白澤さん! どこまで行くつもりですか!?」
「大丈夫、大丈夫」
「どこがです!」
 がつんと踵で胴体に渾身の蹴りを入れてやっても、雲間を疾駆する神獣は止まらない。
 素晴らしい速度で海を越え、河を越え、山を越え。
 遥々と駆けること一時間。ようやく白澤が降り立ったのは、見知らぬ大地の上だった。
「何考えてんですか貴方!」
 久しぶりの休日に出かけようと誘われて、現世行きのビザの手配はした。だが、国境を越える手続きなど取っているはずもない。
 空を飛ぶのに重くて邪魔だから、という神獣の口車にうっかり乗ってしまったため、愛用の金棒も手元にはない。やむを得ず、片足を振り上げて力任せに白澤を蹴ってやったが、本性姿の神獣はこたえている様子もなく、へらへらと笑った。
「大丈夫だってば。国境は越えちゃったけど、ここも僕の私有地だからさ。他の奴の神域(なわばり)を侵さない限りは、誰も文句なんか言ってこないよ」
「ですが……!」
「固いことは言いっこなし。本当に大丈夫だから」
 手続きが、書類が、と言いかけた言葉は、能天気な反論に遮られる。
 鬼灯とて、ここまで来てしまった以上、今更どうにもならないことは分かっていた。ただ、立場というものがある。
 閻魔大王の第一補佐官が横紙破りをすると、何かと差し障りが出るのだ。バレたら外交問題になるし、第一、部下に示しがつかない。
 しかし、かといって、このまま怒り続けていても貴重な休日が無駄になるだけである。
 万が一の時は、この馬鹿に全責任をなすり付ければよいと割り切って、今を存分に楽しむ。それが最善の対応だろう。そう考えて、鬼灯は大きく溜息をつき、気を鎮めようと努める。
 そして、ここはどこなのだろうかと改めて風景にまなざしを向けた。
 気持ちが落ち着くと、急に周囲の色彩や物音が五感に迫ってくる。
 先程から辺りに轟いている水音は、目の前にそびえる大瀑布が発しているものだった。傲然とそびえ立つ断崖絶壁から大量の水が岩を叩きながら落ち、跳ね返る飛沫が虹を生んで辺りをきらきらと眩しく彩っている。
 鬼灯と白澤が居る場所は、森林と渓谷の間のせまい平坦地だった。
 大地にはやわらかな草がみっしりと生え、可憐な花が色とりどりに咲き乱れている。だが、視界を囲む山々の形は険しく、いずれも峻峰と呼ぶのがふさわしい。
 大瀑布の水音にも負けず、木立の奥からは美しくさえずり交わす様々な鳥の声が響き渡り、それ以外にも無数の生き物の気配がある。
「……ここは貴方の私有地だとおっしゃいましたね?」
「うん」
「では、ここが東望山ですか」
 和漢三才図会に書かれていた白澤の居住地とされる地名は、記憶の内に残っている。白澤にまなざしを向け、確かめると、彼は嬉しげにうなずいた。
「御名答」
 そういう彼は、何故か姿は本性のままで、未だ人型に戻る様子はない。どうしてだろうと意図を図りつつも、鬼灯は彼の言葉に耳を傾けた。
「桃源郷に引っ越す前はね、ここに居た。といっても、しょっちゅう他所に遊びに行ってて不在にしてたけど」
「昔、お会いしたのは東の海岸近くでしたね」
「うん。確か、桓山の近くだったね」
 ここから海岸線までは何千キロもある。そんな遠隔地で正体をなくすほど飲んだくれていたとは、全く呆れた神獣である。数千年前も今も、まったく変わりない駄目っぷりだ。
 だが、そんな鬼灯の内心に気付きもしないようで、白澤は向こうに見える峻険な山々を示した。
「あれが廬山。その向こうに香炉峰。この水は最終的に鄱陽湖に注ぎ込んでる」
 簡単に地理を説明するのを聞きながら、鬼灯は廬山地域に関する知識を記憶層の奥から引っ張り出す。
 深い森林に覆われた山深い土地であり、植物の種類はおよそ三千種、昆虫類は二千種余、獣類は三十三種、廬山の麓の鄱陽湖では四千種以上の鳥類が見られることで知られている。実に神獣白澤に相応しい土地だった。
 しかし、ふと鬼灯は、あることに思い当たり、首をかしげる。
「白澤さん。廬山には晴れの日は滅多にないと聞きますが……」
 廬山と言えば雲霧というほどにこの土地は雨が多く、晴れていても直ぐに陰ってきたり霧が出てきたりするのが常だとされている。なのに、今、二人の頭上には形の良い白い雲が浮かんだ青空が広がっているばかりだ。
 もしや、と問えば、白澤は笑った。
「うん。ここは僕の結界の内だから。雲や霧には少し避けてもらってるんだよ」
 深い霧に包まれた風景も神秘的だけど、今日はそういう気分ではないから、と白澤は目を細めて気持ちよさげに空を仰ぐ。
 陽光の下では、真っ白な獣の姿は殊更に美しい。純白の体毛はきらきらと光り、ほんの僅かな動きにも虹をはじく。澄んだ金色の瞳も、一つ一つが楽しげに輝いているかのようだった。
「というわけでさ、鬼灯」
 ひょい、と白澤は首を伸ばして鬼灯の襟首をくわえ、そのまま後ろに引き倒す。声を上げる間もなく、鬼灯は神獣の胴体に寄りかかるような形で仰向けに倒れこんだ。
「何を……!」
「いいからいいから、はい」
 続いて、ぼふんと白くやわらかなもので全身を包み込まれて抗議の声が遮られる。白いものが何かは確かめるまでもない。彼自慢のふさふさのしっぽだった。

「酷い顔してるぞ、お前。今日の休みを当てにして、何日か徹夜してるだろ」

 ずばりと言い当てられて、鬼灯は反論しかけた口をつぐむ。
 大地に腹這いになった白澤は、しっぽをぱたぱたと動かし、懐に抱いた鬼灯を宥めるように軽く叩いた。
「寝てしまえよ。本当は今日だって、僕が誘わなかったら一日寝てるつもりだったんだろ」
「……分かっていて、私を連れ出したんですか」
「お前が寝たいからって断るなら、その答えを尊重してたよ。いつも言ってるだろ。僕はお前に無理なんかさせたくないんだ」
 けれど、お前が断らなかったから、と白澤は言った。
「それなら昼寝に一番いい場所に連れて行ってやろうと思ったんだよ。桃源郷じゃ、お前の職場に近すぎるだろ」
 日本地獄から桃源郷までは、すぐに行けてしまう。それはつまり、地獄で問題が起これば、休みの鬼灯が桃源郷に赴いていてもすぐに呼び戻されてしまうということだ。
「……確かに、ここでは携帯が鳴っても直ぐには戻れませんね」
「そういうこと。本当なら圏外にもできるけど、電波は遮断してあげてないんだから、それには感謝して欲しいね」
「ここ、電波届くんですか?」
「三界の全周波数が届くさ。神獣の縄張りを舐めんな」
「そうですか」
 それなら、と鬼灯は肩の力を抜いた。
 何かあっても連絡さえつくのなら、最低限の対処はできる。白澤の脚力ならば一時間で日本地獄まで戻れるのだから、不測の事態が起きてもどうにかなるだろう。
 そう考えた途端、すうっと意識が何かに吸い取られるかのような強い睡魔が襲ってくる。
「気力だけで起きてたんだろ。大丈夫だから。お前の部下たちは優秀だし、僕も居る。安心して寝てろ」
 穏やかに語りかける白澤の声は、遥かな天から降ってくるかのように、或いは大地が歌っているかのように深い響きで心地良い。
 純白の豊かなしっぽはふわりと温かく鬼灯を包み込み、ビロードのような毛皮に覆われたしなやかで分厚い筋肉が鬼灯の体重を楽々と受け止め、支える。
 心地良い温もりと、花と果実と草葉、森林のいずれをも思わせる神獣の匂い。
 限りなく優しいそれらの全てに抱き留められて、あっという間に鬼灯の意識はやわらかな海の底に沈んだ。

*               *

 ふっと意識が浮上して目が覚める。
 全身を包む温かさにうっとりと溜息をつきながら、鬼灯は瞼を開けた。
 途端に飛び込んでくる純白に驚きはしない。この香りを持つ存在も、この温もりを持つ存在も他にはいない。少なくとも鬼灯は知らなかった。
「起きたか」
「何時間寝てました?」
「んー、三時間くらい? まだ昼を少し過ぎたくらいだ。もっと寝てていいよ」
「そんな程度ですか」
 驚いた、と鬼灯は呟く。
「二十時間くらいぶっ通しで寝た時と同じくらい、すっきりしてます」
「へえ?」
 面白げに白澤は相槌を打ち、それは良かった、と言った。そして首を伸ばし、鬼灯の顔に鼻面を寄せる。
 大きく丸みのある牛に似た鼻が顔や首筋に押し付けられるくすぐったさに、鬼灯は小さく首をすくめた。
「ああ、本当に大丈夫そうだな。心拍も血圧も、ちょっと下がってたのが平常に戻ってる」
「分かるんですか」
「そりゃあね。触診すれば体の調子なんて直ぐに分かるよ。お前、僕を誰だと思ってる?」
「ろくでなしの偶蹄類」
「バーカ」
 白澤はくすくすと笑いながら、更に鬼灯に鼻先を押し付けてくる。
「あ、こらっ」
 そんなに押されては、寄りかかっている胴体からずり落ちる。そう思い、制止しかけた次の瞬間。
 ―――鬼灯は大地の上に仰向けに組み伏せられていた。
 突然の体勢の変化に驚いて目をまばたかせれば、当の相手は一瞬のうちに人型に戻ってこちらを見下ろしている。
 強過ぎない力で鬼灯の両肩を上から押さえつけたまま、白澤は甘く笑んだ。
「お前が眠ってる間、僕もうつらうつらしながら、お前が起きたら何をしようかと考えてた。まぁ、寝るだけ寝たら帰って、うちで滋養たっぷりの美味しい御飯かなと思ってたんだけどさ」
 お前が予想外に早く元気になるから、と白澤の右手が鬼灯の肩から離れ、頬をそっと撫でる。春風が触れるような優しい感覚に、鬼灯は僅かに目を細めた。
「私は食事の方が嬉しいです」
「でも、これも嫌じゃないだろ」
「こんな所で青姦ですか」
「言っただろ、僕の結界の中だ。僕の許可なしには誰も入れないし、覗けない。僕とお前の二人だけだよ」
 心をとろかすような声で囁き、ゆっくりと顔を寄せる。鬼灯はその様を目線だけで追い、唇が触れ合ったところで目を閉じた。
 軽く表面を押し当て、数度軽く唇をついばんだ後、改めて唇が重ねられる。薄く開いていた唇の合わせ目を舌先でなぞられて、乞われるままに口を開けばやわらかな舌が滑り込んできた。
「――っ、ふ……、ぁ」
 舌先を軽く噛んでやれば、やだ、と逃げてゆき、もっと奥に忍び込もうとする。丁寧に歯列をなぞられ、最も敏感な上顎をちろちろとくすぐられて、思わず小さく喉が鳴った。
 たかがキス、されどキスだ。口接けだけで気持ちよくなれる相手とならば、その先も大概何をしても心地よい。
秘め事においては体の相性は勿論のこと、最中の心の相性も重要で、その二つがぴたりと重なれば歓びは努力次第で無限大にも膨らむ。
 そして、白澤だけではなく鬼灯もまた、快楽を得るためには努力を惜しまない性質(たち)だった。
 攻守を変えて悪戯な舌を捉え、軽く吸い上げてやれば、今度は白澤の方が喉を鳴らす。手を上げて彼の頭を引き寄せ口腔を貪ると、下肢をぐいと押し付けられて、その仕草にまた煽られた。
「鬼灯……」
 白澤は熱にとろりと熔けたまなざしで鬼灯を見下ろし、首筋にゆっくりと唇を這わせ始める。わずかに首を逸らしてそれを受け止めながら、鬼灯も手を伸ばして彼の三角巾を取り去り、白衣のボタンに手をかけた。
 全てのボタンを外して白い布地を引き下ろしてやれば、白澤は小さく笑って袖から手を抜き、ついでとばかりに若草色の紐子で飾られた白い上衣をも脱ぎ捨てる。
 屋外で全裸かと思うものの、着衣で交わるのは鬼灯も好きではなかった。身体を繋いでも肌が触れ合わないと、どうにも物足りなさが残る。
 だから、帯を解くために白澤に背を浮かせるよう求められた時も逆らわず、器用な手に結び目を任せた。
「お前って結構やらしいよな」
 闇と血の色の衣をゆっくりと開かせ、あらわになる白い肌を撫でながら白澤が含み笑う。
「私だって所詮、男ですよ」
 色事に熱心であったことは一度もないが、健全な肉体を持っている以上、欲望は常に付きまとうものだ。幸いとも言うべきか、性欲はそれほど強くない方だったからあまり意識することもなかったが、こうして定期的に情を交わす相手を持てば、また感じ方は変わってくる。
「貴方みたいに、相手が誰でもいいような欲望を持て余したことはありませんけどね。楽しむ時は楽しむ性質(たち)です」
「うん」
 お前のそういうとこ好き。そう言って笑った白澤は、再び肌への優しく、執拗な愛撫を再開する。
 丁寧に指先や手のひら全体、あるいは手の甲、爪先と様々に形を変えて触れ、鬼灯がわずかでも反応すれば、そこに繰り返し刺激を与えてくる。
 脇腹から腰骨にかけてを指の腹全体で、触れるか触れないかの軽さで撫でられて、思わず小さく身をよじると、それに気を良くしたかのように白澤の手は大腿にまでするりと滑り降りた。
「……っ、ん、ん……」
 手や足は、普段は意識しなくとも触感がよく発達している部位である。産毛を撫でるようなやわらかさで触れられるだけで、ぞくぞくとするような快感が湧き上がる。
 脚の外側を撫でながら降りていった手のひらが、足の甲まで丁寧に触れてから、今度は内側の肌を辿りながら這い登ってくる。膝裏をやわらかくくすぐられ、内股に触れられると、それだけでどこかが濡れてゆくような感じがした。
「っ、あ」
 皮下脂肪など殆どない腿に浮かぶ筋肉の線を行きつ戻りつ撫でていた指先が、不意にやわく筋肉を押し揉んでくる。
 平時ならただの指圧であるそれが、思いがけずに身の内に響いて鬼灯は反射的にぎゅっと息を詰めた。
「気持ちいい?」
 肌を撫で、心地良い強さで筋肉を揉みほぐしながら、そんなことを聞いてくる相手に報復してやりたくとも、低い位置にまで下がっていってしまっている相手にはどうすることもできない。
「お前がぐずぐずに熔けてしまうくらい、もっと気持ちよくしてあげるよ」
 戯けた睦言を口にする相手に思わず、馬鹿、と口走れば、白澤は楽しそうに笑った。
 そして際どいギリギリのラインまで脚の内側の、他の箇所よりやわい肌の感触を楽しんでから、再び上へと愛撫を移動させ始める。
「――っ、ふ……」
 性感を煽られている分、同じ場所を触れられても先程までとは感じ方が全く異なる。ぴりぴりと火花が走るような快感を持て余して零す乱れた吐息にも煽られるのだろう。白澤は目を細めて唇を重ねてきた。
 深く唇を合わせ、舌を絡ませる間もよく動く手は体の脇を撫で上げ、肩を通って鬼灯の腕を撫で下ろす。そして、鬼灯の手の甲を包み込むような形で手指を絡めてぎゅっと軽く握る。
 指の股が性感帯であることは承知していたが、それでも、たったそれだけの愛撫にぞくりとするような感覚が腰の奥まで走り抜けて、鬼灯は小さな吐息を零した。
「ほーずき、可愛い」
 嬉しげに楽しげに囁きながら白澤は首筋に顔を寄せ、肌に口接けてから肩の筋肉にゆるりと歯を立てる。ぐっと筋肉を歯で押される感覚に鬼灯が息を詰める、その瞬間を見計らったように白澤の指先が胸元を掠めた。
「っあ……!」
 一度も触れられていなかった性感帯への刺激に、全身が大きく跳ねる。
「ここ、ずっと触って欲しかったんだろ。こんなに固くなってる。疼いて疼いてどうしようもなかったんじゃないの?」
 指先でごく軽くリズミカルに撫でられ弾かれるだけで、文句を言いたくとも声も出せないほどの鋭い快感が走る。
 何度唇を噛んでも喘ぐ形に解けてしまい、鬼灯は声にならない嬌声を懸命に喉に押し込めた。
 声を殺してしまう鬼灯を、白澤は一度も咎めたことはない。無理矢理に声を出させようとすることもない。
 その辺りは鬼灯の性格や、男としての性分をよく理解しているからなのだろう。感じているかどうかなんて顔と体を見ていれば分かるから、と白澤は頓着することはなかった。
「そんなに気持ちいい?」
 声は出さなくとも、びくびくと全身を震わせて反応し続けている鬼灯に含み笑った白澤の右手が、ふと胸元から離れる。
 その意図をほおずきが察して、きつく閉じていた目を見開き制止しようとするのと、白澤の手がそこに触れるのとは、ほぼ同時だった。
「――――ッ!!」
 これだけ全身を愛撫されて反応しない男などいない。はち切れんばかりに熱い血を集めていたそこをやわらかく握り込まれて、鬼灯は脳の全回路が真っ白に焼き切れたかと思うほどの快感に全身を跳ねさせる。
 巧妙に根元を押さえ込まれていなければ、それだけで達していただろう。それほどに強烈な感覚だった。
「……ふ、っ、あ、あ……!」
 そのままゆるゆると上下に手指を動かされて、殺し切れない喘ぎが切れ切れに零れる。
「このまま一回達かせてやった方が楽だと思うんだけどさ……」
 僕の方もそろそろ限界だからごめんね?、という白澤を、霞む目を無理矢理に開いて見上げた鬼灯は、声に出しては何も言わないまま、できる限り全身の力を抜いた。
 それを見て取ったのか、白澤は情欲の滲んだ顔にいとおしむような色を加えて鬼灯の脚を大きく開かせる。鬼灯はもう一度目を閉じて、その先の愛撫を待った。
「好きだよ、鬼灯」
 お前が欲しくて仕方がないよと甘く囁きながら、優しい指先が、まだ閉じたままの蜜口をそっと撫でる。やわらかな刺激を受けて焦れるような快感が薄く積もってゆき、ほどなくそこが小さく息衝き始める。
 頃合を見計らって、するりと滑り込んできた指に感じた違和感は極僅かで、鬼灯が得たものの正体の大半は純粋な快感だった。
「痛くない?」
「指一本で……何、言ってるんですか……」
 問われ、軽く睨み上げながら言い返せば、白澤は笑う。
「お前、こういう時も本当に元気ね」
「どうして、私が……っ、しおれなきゃ、いけないんです」
 身の内を探られながらの言葉は、どうしても切れ切れに途切れる。
 だが、すぐにそれは本格的な言葉の空白にとって変わった。
 長く骨ばった指は蜜口に近い所から順番に触れられることの快楽を思い出させ、新たな歓びを導き出して教え込みながら、ゆっくりと奥へ侵入してくる。
 白澤は決して急がない。ゆるゆるとした動きでやわらかな粘膜を撫でさすりながら感じる箇所を見つけては、そこをまたしつこく撫でる。
 ほどなく柔襞に秘められた一点を探り当てて、指の腹で軽く押さえた。
「――っ、ん……っ!」
「ここ、されるのってたまんないよな」
 受け入れる側の感覚も知っている白澤は、より巧みに快楽の源泉のようなそこを愛撫する。その一点から指先を離さないままリズミカルに押し揉まれて、たまらずに鬼灯はかすれた声を上げた。
「ぁっ、はく、たくっ、さん……っ」
「何?」
「そ、れは……っ、も、うっ、」
 白澤が指を動かす度に、目の裏に白い火花が散る。
 やめてくれと無意識のうちに小さく首を横に振って乱れながら懇願する。だが、白澤は困ったように笑うだけだった。
「お前の頼みなら聞いてやりたいけどね……。でも、まだ指一本だし、これからもっと大きいもの入れなきゃいけないし」
 ごめんね?、と囁いて更に巧みに指を使う。
「い、や……、嫌、です……っ!」
 強く弱く押し揉まれ、ふっと逸らされて周辺をやわらかく撫でられる。達きたいと思うのに許されず、身体の奥に快楽ばかりが積み重なってゆくのは、ひどく苦しい。
 まるで煮えたぎった糖蜜を注がれているかのような甘い甘い拷問に、鬼灯は汗ばんだ背筋をのけぞらせ、びくびくと腰を震わせ続ける。
「っ、あ、そこ……は……っ」
「ここ?」
「やっ、ひ、ぅ……っ、んんっ」
 ひとしきり鬼灯をよがり狂わせてから、白澤は伝い落ちてきているぬめりを掬うようにして、指を増やす。一本では感じなかった圧迫感から生まれる新たな疼きに鬼灯が眉をひそめれば、宥めるように眉間に口接けが落された。
「もう少しだから我慢してて」
 汗に濡れて貼り付いた前髪を払い、こめかみを撫でて頬にそっと手のひらを当てる。
「好きだよ」
「……知っ、て……ます」
 そうでなければ、こんな真似を許すわけがない。焦がれ死ぬほどに自分を想っていて、そして自分もまた、同じように想っている相手でなければ。
 男相手に身体を開くような真似は決してしない。
 そんな想いを込めて瞳を見つめ返せば、うん、と白澤は愛おしさと情欲が渦巻く瞳で鬼灯を見つめたまま、うなずいた。
 そして一旦止まってしまっていた指での愛撫を再開しながら、鬼灯に口接ける。
 唇を重ねる角度を何度も変え、互いに貪り合いながら、深く身体を繋ぐために丁寧に鬼灯の最奥を開いてゆく。
 快楽にぐずぐずにとろけたそこを、ゆるゆると抜き差ししながら更に増やされた指で押し広げられても、痛みを感じるどころか疼きがひどくなる一方だ。たまらない、と鬼灯は喘ぎながら小さくかぶりを振った。
「っ、あ、ふ…っ、ぁ、も……ぅっ」
「んー。もう少し。駄目?」
「ばかっ……!」
「あ、今の可愛い。もう一回言って」
「しね……っ!」
「あはは、可愛い可愛い」
 くっくっと笑って、白澤はゆっくりと指を抜く。そして鬼灯の脚を更に一段と大きく押し開いた。
 だが、すぐには挿入せず、自分の猛ったものの先端を蜜口に馴染ませるかのように軽く押し当てて、ゆるゆると腰を使う。
 最奥が焦れ切っているのに、入り口に振動の刺激だけを与えられてはたまったものではない。本気の怒気を込めて、鬼灯は潤んで霞んだ目で白澤を睨み上げた。
「どんだけ、遊ぶ、気ですか……っ!」
「えー。言ったら怒るから言わない」
「もう、怒って、ますっ」
「でも、正直に言ったら、きっともっと怒るよ」
 ふざけた答えに、何を馬鹿なことを、と鬼灯が更に文句を付けようとした、その瞬間。
 前触れなく白澤が、腰に体重を乗せた。
「――――ひ、……っ!!」
 硬く漲った白澤の熱が、柔襞をごりごりと擦り立てながら身の内に押し入ってくる。
 凄まじい快感と共に半ばまでを一息に貫かれて、鬼灯は目を見開き、はくはくと唇を震わせながら声も出せないままに悶絶した。
 その耳元に、白澤は甘く低めた声を響かせる。
「お前が僕を欲しがって、入れただけで達っちゃうくらいになるまで、だよ」
 当然ながら、その言葉は鬼灯には届かない。真っ白に思考は焼け付き、肉体は必死に衝撃を受け止めようとして小さく痙攣する。
 いつでも強い光を宿しているはずの闇色の瞳は焦点を失い、薄く開いたままの唇からは断末魔のような切れ切れの喘ぎが零れる。
 そんな鬼灯を見つめて、後ろだけで軽く達ったな、と白澤は呟いた。
「お前の中、滅茶苦茶ひくついてる。すごく気持ちいいよ。僕でなかったら持っていかれてるな」
 勝手なことを囁きながらも、白澤はそれ以上は動かず、手を上げてそっと鬼灯の髪や顔を撫でる。
 そして、幾らか時間が過ぎたところで、ゆるゆると目に光を取り戻した鬼灯は霞む視界に数度まばたきしてから、未だ身の内に響いている余韻にとろりと目を閉じた。
「……あんまり、無茶しないで下さい……」
「うん、ごめん」
 かすれた吐息のような声で告げられた抗議に、白澤は素直に詫びる。
「ちょっと意地悪したくなった。お前があんまり可愛いから」
「貴方の目は腐ってます。全部」
「いいよ、別に。そのせいでお前が可愛く見えるんなら、不都合は一つもない」
「……馬鹿」
「馬鹿だよ」
 お前が好き過ぎて馬鹿になってる、と白澤は笑って鬼灯に口接ける。そのキスを鬼灯も目を閉じて受け止め、投げ出していた両腕を白澤の背に回した。
 ゆっくりと舌を絡ませ合いながら、互いの背を、髪を撫でる。そして温かい想いが互いの胸に等しく広がったところで、二人は唇を離した。
「好きだよ、鬼灯」
「はい」
 知っています、私も好きです、と想いを込めて鬼灯はうなずく。すると、白澤は嬉しげに微笑んだ。
「それじゃ、続き、するよ」
「ええ」
 まだ二人の身体は完全には繋がっていない。半端に受け入れている鬼灯の最奥は満たされなさにひどく疼いていたし、半ばしか鬼灯に包まれていない白澤もまた、同様だろう。
 もう一度、唇に触れるだけのキスをしてから、白澤がゆっくりと体重をかける。
 今度は先程のような強引な挿入ではなく、ゆっくりとした抜き差しを繰り返しつつ熱を柔襞に馴染ませながら、少しずつ奥へと入り込んでゆく。鬼灯も呼吸を合わせて力を抜こうと努め、蕩け切った身体の一番奥深くまで白澤の肉体の一部を受け入れた。
 最奥を軽く押したところで白澤は止まり、そして鬼灯の頬を撫でる。
「痛くない?」
「ええ」
 これだけ優しく挿入されて苦痛が生じるわけがない。
 鬼灯は、いつの間にか縋っていた白澤の背から右手を離して、彼の汗に濡れて額に貼り付いた前髪をそっと払う。それだけの仕草にも白澤は目を細め、鬼灯の手を取って手のひらに口接けた。
 そんな白澤を鬼灯は、ぼんやりと見上げる。
 この上なくいやらしい事をしている最中で、目の前の神獣はどうしようもない好色漢であるはずなのに、それでも彼の造形はとても美しく目に映る。
 白澤の背後にはどこまでも蒼く澄んだ空が広がり、鬼灯は一瞬、雲間に遊ぶ白い霊獣の幻を見たような気がした。
「何、見てる?」
「……ここが、貴方の故郷、なんだなと」
「――うん」
 一度連れてきたかったんだ、と白澤は微笑む。
 係累が居るわけではない。暮らしていた痕跡があるわけでもない。ただ、空と山と川と森があるだけ。けれど、それでもここをお前に見せたかった、と。
 そう言う白澤の髪を、鬼灯はもう一度指で軽く梳いた。
「嬉しいです」
 たった一言。
 けれど、何の含みもない素直な言葉を告げると、白澤は軽く目を見開く。それから、満面の笑顔になった。
「我也很高興。謝々」
 僕の方こそ嬉しいよ、と彼の本来の言葉で告げて、白澤は鬼灯の額に口接けを落す。
 それから、鬼灯の首筋から肩にかけてを愛しげな手つきでゆっくりと撫でた。
 優しい手が薄く汗ばんだ肌の感触を確かめるように滑り、するりと胸元に辿り着く。鬼灯がびくりと反射的に身体を震わせると、それに気を良くしたのか、固く熟れた小さな尖りを器用な指先が何度も掠めた。
「……っ、く、んんっ……」
 胸元への愛撫はダイレクトに繋がり合っている箇所に響く。そういう風に神経系ができていると承知していて弄ってくるのだから、尚更に性質が悪い。
 指先でくりくりと転がされ、優しく摘まれれば、熱いものを受け入れたままの最奥がひどく疼く。たまらずに締め付ければ、白澤が小さく呻いた。
「っ、いきなり締めんなって……」
「誰のっ、せい、ですかっ」
「あー、まあ、僕だけど」
 さて困ったね、とでも言いたげな風情で呟いて、白澤は鬼灯の胸元に顔を寄せ、赤く熟れた先端をちろりと舐める。
 抵抗しようにも、いつの間にか両手首は彼の手に押さえ付けられていて逃げようがない。明らかに細身であっても、白澤の膂力は鬼灯と互角以上なのだ。この体勢では圧倒的に鬼灯の方が不利だった。
 左右を交互に執拗に口舌で愛撫されて、鬼灯はもう嫌だと首を横に振る。だが、白澤は頓着せずに小さな尖りを舌先でつつき、やわらかく吸い立てては舐め転がす。
「や…ぁ、あ、っ、んっ」
 抵抗しようという声もかすれて上ずり、ただの嬌声にしかならない。その間にも最奥を苛む疼きは激しく、どうしようもないものに膨れ上がってゆく。
 そして、鬼灯の思考がまたもや真っ白に染め替えられた瞬間を狙ったかのように、白澤が動いた。
「―――ああぁっ!」
 最奥まで圧していたそれを前触れなく半ばまで引き抜き、焦れ切っていた柔肉をずんと突き上げる。その衝撃に耐え切れず、鬼灯は高い声を上げた。
 白澤の動きは決して激しくはなかった。乱暴にしたところで得られる快楽は少ないと知り尽くしている好色漢は、ゆるりゆるりと腰を使う。
 じっくりとした動きで柔襞に秘められた感じやすい箇所全てを余すことなく責められて、触れ合っている場所全てから全身が甘く熔け崩れてゆくような錯覚に鬼灯は襲われる。
「――っ、ん、ん……っ」
 感じ過ぎて嬌声は音節にすらならない。きつく閉じた眦から涙だけが零れてこめかみを濡らしてゆく。
「ひ、あ……、っ……!」
 圧倒的な快楽から逃れたいのか、もっと溺れて滅茶苦茶になりたいのか。それすら定かでないまま、鬼灯は白澤の動きに合わせて無意識のうちに腰を揺らす。
「鬼灯、鬼灯……」
 好きだよ。愛してる。
 何度も何度も甘い囁きが聴覚を、そして脳髄を満たしてゆく。
 恋人同士となって数ヶ月も経たないが、既に飽きるほどに聞かされた言葉だ。
 なのに、どうして今更こうも胸に染みるのか。
 どうして、これほどまでにも満たされるのか。
「は……く、たく、さん……っ」
 魂の一番深い場所から迸る何かに突き動かされるように、鬼灯は自分の全てをこの男の前に投げ出すような心持ちで両腕を白澤の背に回し、唇を求めた。
 白澤も直ぐに応え、二人は激しく互いを求め合う。
 もういっそのこと、このまま二人で一つになってしまいたいほどの切なさと欲望が二人を翻弄する。
「鬼灯」
 白澤の声もまた、深い情欲と愛おしさに濡れてかすれている。
 そして白澤は鬼灯に口接けを繰り返しながら、柔肉の全体を巧みに刺激しつつ、最奥を小刻みに突き上げた。
「――っ、あ、ああぁっ!」
 最奥を刺激されることで体内全体が揺らされ、刺激される。女性のいわゆるボルチオ快感と同じで、輻輳的な歓びがそこから全身へと雷撃のように広がってゆく。
 もう何も考えられないまま鬼灯はその全てを受け止め、ただ溺れた。
「ひ……ぁ、あ、や……ぁっ、あ……!」
「鬼灯……っ」
「っ、あ、はく、たく……さんっ、白澤、さん……っ!」
 繰り返し想いを込めて名を呼び、名を呼ばれ、これ以上は無理という限界まで愛されて。
 魂まで蕩けるような深い交歓の果て、鬼灯は声にならない声を上げて昇り詰める。
 それに一呼吸遅れて、白澤も煮え立つような想いの丈を鬼灯の奥深くに注ぎ込んだ。
「―――…っ」
 二人は折り重なったまま、激しい脱力感に身を任せて荒い呼吸を繰り返す。
 元より体力のある二人だから、それぞれゆっくりと呼吸は静まっていったものの、動き出すだけの気力は中々戻ってこない。
 どれほどの時が過ぎただろうか。とうとう鬼灯が涸れた声で呟いた。
「重いです……」
「あー、うん」
 苦情に白澤は生返事をして、のろのろと身体を起こす。そして、ゆっくりと鬼灯から身を離した。
「悪い、鬼灯。ちょっと夢中になり過ぎて、気遣い忘れた」
「?」
 何のことだ、と鬼灯は一瞬、悩む。
 体のことを言っているのであれば、この程度の交わりはいつものことである。謝られる必要など全くない。
 そう思ったのだが、白澤の意図は少し違っていた。
「僕の白衣を敷くつもりだったんだけどさ。うっかりそのままやっちゃったよ。悪い」
 お前の襦袢、ぐちゃぐちゃだ、と言われて、そういうことかと納得する。
「まァいいですよ、襦袢無しで着れば済むことです。一気に貴方の店の前まで飛べば誰に会うこともないでしょうし、自分の部屋に戻れば替えもありますし」
 でも閻魔殿のクリーニングには出せませんから、洗濯は貴方がして下さいね、と言えば、白澤は神妙にうなずいた。
 そこまで会話して鬼灯も、やっと身動きして起き上がる。全身ベタベタだったが、目の前にあるのは大瀑布のみで、水浴びができそうな淵は断崖絶壁の遥かな底にしかない。
 諦めて、汗だの何だのに濡れた襦袢を退(ど)け、その下になっていた袷の黒衣をそのまま素肌に羽織った。
「――何です」
「いや、表が黒で裏が赤ってのはエロいなぁと。お前は肌が白いからよく映えてるよ」
 ふと視線を感じて傍らを見下ろせば、ズボンだけを穿いて胡坐をかいた白澤が面白そうなまなざしをこちらに向けている。
 一瞬、鬼灯は何故自分がこんな駄獣と愛を交わしたのか理解できなくなり、溜息をついて彼に背を向けた。
「おーい、鬼灯ぃ?」
「知りません。どうぞそこの滝壺に飛び込んで死んで下さい偶蹄類。線香の一本くらいは義理で立ててあげますから」
 表地の黒は地獄の色、裏地の赤は血と業火の色だ。それをエロいなどと言われては立つ瀬がない。
 愛用の金棒が手元にあれば、このケダモノの頭をカチ割ってやったのに、と鬼灯は、遠出すると言われて自室に武器を置いてきたことを心底惜しんだ。
「ったく、こんな最高のSEXをしてもお前は変わんないんだもんなあ。まぁ、そういうとこが好きなんだけど」
「私は、何をしようと変わらない貴方のそういうところが大嫌いですよ。死ね、白豚」
「それは残念」
 何をどう言ったところで、白澤は鬼灯の本心を知っている。小さく含み笑いながら、彼もまた身支度を整えた。
「それじゃあ、帰るか」
 鬼灯が襦袢の汚れた箇所が内側になるように小さく折り畳んだのを見届けて、白澤は告げる。
「死にそうなくらい腹が減りました」
「分かってるって。帰ったら、直ぐに温めて食べられるように準備はしてあるよ」
「だったら、一分一秒でも早く帰って下さい。でないと、貴方を丸焼きにして差し上げます」
「残念、地上の火じゃ僕は焼けないよ」
「大丈夫です。うちで一番強い大焦熱地獄の炎を使ってあげます」
「それ、何度くらい?」
「さぁ。一万度くらいでしょうか。太陽よりは少し温度が低かったと思いますが、何しろ測りようがないので」
「その温度はさすがに焦げる。やめて」
「良いことを聞きました。やめません」
 くだらない応酬をしながらも白澤は本性の姿に戻り、鬼灯はその背に跨る。
 そして、行くよ、と一言声をかけてから白澤は軽やかに大地を蹴り、宙に舞い上がった。
 大瀑布を見下ろせる高さまで一気に昇り、けれど一旦、そこで上昇を止める。意図を理解して、鬼灯は眼下に広がる雄大な風景を改めてつくづくと眺めた。
「本当に綺麗な所ですね」
「うん」
 そっと本心を口にすれば、白澤もうなずく。
「またここに来る時は、お前と一緒にだよ」
 もう一人では来ない、と告げる白澤の声は伸びやかで、どこか誇らしげだった。
「じゃあ、次はお弁当を用意して下さい。幾ら風景が綺麗でも、半日も物を食べられないなんて最悪すぎます」
「今日はお前は寝て過ごすと思ったんだって。三時間で起きると分かっていたら、食べる物も用意したよ」
「今度は忘れたら許しませんから」
「はいはい」
 笑ってうなずき、白澤は行こうか、と宙を蹴る。故郷をいとおしむようにくるりと上空を一周してから、頭を東に向け、天を疾駆し始めた。
 地上の生き物とは異なり、一蹴りで一里も進む神獣の背は、速度の割りに大して揺れない。振り落とされる心配もなく、逞しい筋肉が毛皮の下で動くのを感じながら、鬼灯は豊かな鬣(たてがみ)にそっと顔をうずめる。
 ふわふわの毛は絹よりも滑らかでやわらかく、それでいてしなやかな張りがある。白銀色なのに光が当たると一本一本が虹をはじいて、まるで五色の瑞雲のように美しい。
 天界の獣ならではの清々しい香りと、生き物らしい心地良く優しい温もり。
 中身は所々どうしようもなかったが、そんな部分も含めて愛おしい、美しいこの獣は鬼灯のものだった。
「白澤さん」
「ん?」
「ありがとうございました」
 ただ休日をのんびりと過ごさせるためだけに、大切な場所に連れてきてくれた。そんな彼の深い愛情に対する感謝は決して忘れてはならないと鬼灯は思う。
 その想いが伝わったのかどうか、白澤のビロードのような体毛がざわりと歓喜を伝えるかのようにさざめいた。
「お前が良かったんなら僕も嬉しいよ」
 あとは御飯だな、と白澤は笑って返し、飛ばすぞ、と更に加速する。
 遥かな下方に広がる青い海と頭上に広がる午後の空、それから彼方の水平線に浮かぶ島国の影を見つめて。
 鬼灯は、ゆるやかに過ぎてゆく休日にそっと満ち足りた溜息をついた。

End.

<< BACK