錦秋、遥かなり
ぱらり、と乾いた音が響く。
音に合わせたように、ひらりと赤い葉がひとひら、舞い落ちる。
のどかなのどかな昼下がり。
白澤は、膝の上にある恋人の髪をさらりと指で梳いた。
ちょっと珍しい本が手に入ったから、読みに来ないか。
今回の白澤の誘い文句は、そんな言葉だった。
活字中毒の一歩手前程度には本の好きな恋人である。本のタイトルを告げた途端、行きます、と即答が返ったのには、思わず電話口でにんまりとしてしまった。
鬼灯がこうもすんなりと逢瀬を了承してくれるのは、実に珍しいことだった。
普段ならば、気のなさそうな感じで、分かりました、だの、いいですよ、だのと抑揚なく淡々と応じるのがせいぜいである。
誘いかけを断られることは滅多になかったが、積極的に応じてくることもまた、同じくらいになかった。
しかし、何事にも例外というものはある。
新しい漢方の処方と、手に入れにくい稀覯本。この二つだけは確実に鬼灯の気を惹くことができる。そのことを白澤は以前から知っていた。
無論、白澤とて毎回それらを用意できるわけではないし、あまり姑息な奴だと思われても困る。だから、この手段を使うのは、交際半年にして今回がまだ三度目だった。
電話でのやりとりから十日目の休日。
鬼灯は約束通りに極楽満月へとやってきた。
身に纏うのは、いつもの黒と緋ではなく赤朽葉。
黄の裏絹に、縦糸に紅、横糸に洗黄を用いた明るい紅の表絹を重ねた、華やかな秋の装束だった。
お前って案外、明るい色も似合うのな。
やっと最近、普通に口に出せるようになった褒め言葉を投げかければ、そうですか、と平淡に返してきたが、耳の先がほんのりと朱くなったのを見逃すわけがない。
素直な反応が嬉しくて、次の逢瀬でもまた異なる色合いを纏った姿を見せてくれるかもしれない、ほんのり可愛らしい様子をみせてくれるかもしれないと、つい、今から期待に胸が逸った。
少し遠出をしよう、と誘いかけたのは、浮かれていたからだと素直に認めるべきだろう。
せっかく秋の装いで来てくれたのに、桃源郷には春の景色しかない。真夏に比べれば気温は涼しくなっているが、それだけだ。
もっと似つかわしい場所で、恋人の姿を眺めたい。
その欲求に抗うほど白澤は天邪鬼な性分ではなかった。
当てはあった。
現世の人里離れた深山は時折、仙境への経路と重なっている。白澤の知るそのうちの一つが、ちょうど紅葉の美しい場所だった。
無論、距離はあるが、本性の姿で飛べば三十分もかからない。
籐の籠におやつを詰め、風呂敷に包んだ本を抱えた鬼灯を乗せて辿り着いたそこは、目論見通りに真紅と黄金に染まっていた。
筆舌に尽くしがたい程の色鮮やかさは、おそらく仙境の影響を受けた幽玄の地であるからこそだろう。
その只中に立ち、目を瞠って辺りを見回している鬼灯の横顔は、いつになく無防備に見えて、愛しい、と思った。
不意に彼がこちらを振り返っても、目を逸らさずにいられたのは慣れであるのか、鍛錬の結果であるのか。
すごく綺麗です。
そんな素直な言葉に、気に入ったのなら良かった、と自分もまた素直に言えて、言えたことがひどく嬉しいと思った。
鮮やかな色彩の真ん中には、誰がしつらえたのか鞦韆(ブランコ)が一つあり、白澤はそこに腰を下ろして鬼灯をも誘った。
ケヤキの巨木の枝から吊るされた木製のそれは寝椅子ほどの大きさもあり、風景を愛でつつ寛ぐにはちょうど良い具合になっている。
鬼灯は少しばかり微妙な顔をしたものの、取り立てて抗うことなく白澤の隣りに腰を下ろし、風呂敷包みから本を取り出した。
そこまでは、特筆すべきことは何らなかった。
しかし。
何故か、そこで鬼灯は身体の向きを変え、ころんと横になったのだ。
「――鬼灯?」
「昨夜、あんまり寝てないんです。未明まで残業していたので」
それが理由になるのだろうか、と、しばしの間、白澤は真剣に考え込んだ。
自分の膝の上に、仰向けになった鬼灯の頭。
その事象をどう解せばよいのか、森羅万象に通じている神獣であっても咄嗟には判断が付かなかった。
鬼灯はと見れば、早速、本を開いて読み始めている。
一心に字を追っている表情は、いつも通りにしんと静かで、白澤はもうしばらく困った後、まぁいいか、と肩の力を抜いた。
少なくとも接触を拒絶されているわけではない。むしろ、その逆である。
それならば喜び、このひと時を楽しむべきだろう。
そんな達観した気分で、白澤はおやつを詰めた籠を引き寄せ、セロファンの小袋に包んであった焼き菓子を一つ、摘まみ出して鬼灯の口元に持っていく。
「鬼灯」
声をかけると、ちらりと焼き菓子を見やった鬼灯は口を開く。
そこに菓子を押し込んでやれば、ぱくりと食いついた。
餌付けかよ、とツッコミたい気分を抑えて、もぐもぐと咀嚼する様を見守る。
「美味い?」
口はもぐもぐと動いたまま、目は文字を追ったまま、それでも鬼灯はこくりとうなずいた。
それなら良かった、と白澤は微笑み、鬼灯の頭が乗っていない側の膝頭を引き寄せて、そこに顎を載せた。
晩秋の陽射しは、黄金色の穏やかさで世界を輝かせている。
肩に落ちかかる木漏れ日が温かい。
あるかなしかの風に、真紅の葉がひらりはらりと舞い落ちる。
ああ、と満足の吐息をつく。
至福。
その言葉がもし現実にあるのだとしたら、今がその時だった。
* *
はらりひらりと、真紅の彩が視界の端をかすめて舞う。
文字を追うのを一旦止めて、鬼灯はちらりとまなざしを上げた。
この位置からでは、白澤の表情は半分ほどしか見えない。だが、機嫌が良さそうなのは見て取れた。
突然、遠出しようと言われた時にはどういうつもりかと思ったが、連れてこられて意図を理解した。
確かにこの錦秋の風景は、常春の桃源郷では見ることが叶わない。
もし、今日の着物の色に触発されてのことだとしたら、少し嬉しいと思った。
最初のうちは何となく気恥ずかしい気もした黒以外の装束だが、このところは大分、慣れたように思う。
むしろ、いい色だなとか似合うなとか、ささやかながらも褒め言葉を白澤が投げてくれるものだから、つい調子に乗ってしまっている気さえする。
出かける前夜に着てゆく服の色目に悩むなどと、どこの愚か者だろうと思うが、しかし、最近では黒と緋の仕事着を着て逢うのには、もう躊躇いを覚えてしまうほどだ。
良くも悪くも、自分はこの関係に慣れつつある。
嫌ではなかったが、時折、我に返って戸惑いを覚えてしまうのも、また事実だった。
見上げた先の白澤は、どうやら目を閉じているようだった。
陽光は、いかにも秋めいた黄金色の透明感に満ちている。風も殆どなく、実に心地よい。
手元の本が興味深い内容でなければ、数ページをめくったところで眠ってしまっていただろう。白澤に告げた寝不足というのは、決して嘘ではない。
だから、下手にうたた寝して舟をこぐよりは、と最初からこうして横になってみたのだが、本の面白さに予想外に目が冴えてしまった。
そんな鬼灯に膝を貸している白澤も、眠っているわけではないだろう。呼吸は穏やかだが、寝息ではない。
ただ、寛いでいる。
そう見えた。
白澤と付き合い始めてから、もう半年余りになる。
だが、今でもこうして共に時間を過ごしていることが時折、不思議になる。
知り合ってから数千年の歳月が流れているが、好かれているなどと思ったことは一度もなかったし、この想いも、我が身が消滅するまで告げる気などなかった。
振り返れば、随分と長い恋煩いだったと思う。
あまりにも長すぎて、当初は一体何に惹かれたのかすらも思い出せない。
おそらくは、本性の純白の毛皮が美しかったからとか、そんなところだろう。昔から自分はもふもふしたものが好きだった。
きらきらした存在感に無性に惹かれるのに、だらしのない所、ふわふわした所に無性に苛立つ。それの繰り返しで、どれほどの衝突を重ねたか知れない。
そんな有様であったから、当然、向こうはこちらを嫌っているものだと思い込んでいた。
なのに、舞い散る桜の中。
花の美しさに惑わされるようにして互いの想いを知ったのだ。
―――信じていいのか。
―――夢を見ているだけではないのか。
そう疑っていたのは、おそらく自分だけではあるまい。
白澤もまた、当初は戸惑いを隠し切れていなかった。彼の方も、よもやこちらが想っているなどとは微塵も想像していなかったのだろう。
そんな風に運命のいたずらのようにして始まった付き合いだったが、不思議なほど、ここまで交際は順調だった。
最初のうちは上手く言葉を交わすことはおろか、まなざしをきちんと合わせることすら難しかったが、ぎこちなさは時間の流れが解決してくれた。
ゆっくりと季節が巡るうちに、二人でいる時の口数は少しずつ増え、互いに触れることも段々と躊躇わなくなった。
そのことが嬉しいと素直に思う。
目を合わせても喧嘩にはならない。手を伸ばしても、それは殴ったり頬をつねったりするためではない。
相愛の者同士なら当たり前のことだ。
だが、その当たり前のことが、これまでがこれまでだけに、かけがえのないほど嬉しく、愛おしかった。
視線の先で、白澤の黒髪が秋の陽射しを受けて艶やかに光っている。
鬼灯が仕事着でないように、彼もまた、今日は白衣も三角巾も付けていなかった。
服装こそいつもと変わらない白い中華服だが、プライベートでの外出なのだとはっきり示している。
二人きりで過ごす休日。
改めて胸の内で言葉にすると、ひどくくすぐったかった。
再び和綴じの古い本をめくっていると、前髪をさらりと梳かれる。
読書の邪魔をするようだったら殴ってやろうと思ったが、白澤はそれ以上何も仕掛けてはこなかった。
するり、さらりと温かな指先が髪を梳きやり、額に落ちかかる前髪をこめかみへと流す。
その感触はひどく優しい。
何度も繰り返されるうちに不意に眠気が嵩じてきて、鬼灯は開いていた本をぱたりと胸の上に伏せた。
「寝るの?」
「眠いです」
「こんな格好で寝たら首を痛めるんじゃないか?」
「別に」
白澤の脚は、当然ながら脂肪など全くついていない。筋肉はあるがそれすらも薄い。枕にするにはこれほど不適な太腿もない。
けれど、箱枕を千年近くも使っていた鬼灯にしてみれば、何となく懐かしい感触でしかなかった。
「貴方は、」
「ん?」
「貴方は退屈じゃないんですか」
ふと思いついて目を開け、見上げて問いかける。
すると、数秒の間手を止めた白澤は、小さく笑って再び髪を梳き始める。
「全然」
「でも貴方、何もすることがないじゃないですか」
珍しい本は、鬼灯が読むために用意されたもの。
焼き菓子も、甘いもの好きの鬼灯に食べさせるために用意されたもの。
白澤自身のためのものは、ここには何一つない。
けれど。
「お前、忘れてるだろ。僕の本性は獣だよ? 日向ぼっこして一日中ごろごろなんて得意中の得意だ」
「……でも、普段の貴方は結構まめに動いているじゃないですか」
「そりゃあね。店だってあるし、畑の世話もしなきゃいけないし。でも今日は休みだから」
何もしなくたっていいんだよ、と白澤は笑う。
それはまるで。
こうして二人で過ごせるだけで良いのだと言われているかのようで。
鬼灯は反応に困った。
交際に慣れてきたとはいっても、まだ表面的な部分だけだということは、誰よりも鬼灯自身が知っている。
心からの笑顔を向けられると目を逸らしたくなってしまうし、大切にされていると感じると腹の奥がむずむずする。
居心地が悪いのとは少し異なるその感覚につけるべき名前を、鬼灯は知っていた。
だが、知っていることが一体何になるだろう?
自分の体は今、白澤に触れていて、白澤の手も自分に触れている。
生薬のくすんだ香りに混じる彼自身の清々しさを感じさせる匂い。
髪を梳く指先のぬくもり、優しさ。
穏やかに透る声。
笑み。
―――ああ、もうどうすればよいのだろう。
彼という存在をこんなにまでも注がれて、自分の内には彼という存在が溢れている。
これ以上は無理だと思うのに、一滴たりとも手のひらから零したくないと思う強欲はどこから生まれてくるのだろう。
考えなくとも済むのなら、想うことを止められるなら、きっと今の何倍も楽に生きられる。
そうと分かっているのに、何があっても手放したくないと願う、この気持ちは。
一体、どこから来るのだろう。
「鬼灯?」
黙ってしまったことを気にかけたのだろう。
どうしたのだと優しい声が名前を呼ぶ。
そんな風に呼ばないで欲しかった。
そして、同じくらい、その声で呼んで欲しかった。
「眠くなった?」
「……さっきから、そう言ってるでしょう」
そういうことにしてしまえと、目を閉じる。
けれど、本当はそうではなかった。
自分が今、本当に一番したいことは。
好きだと。
彼に、そう言うことだった。
今、こうして共にいられることが、本当は何よりも嬉しいのだと。
名を呼ばれることが、ぬくもりを感じていられることが、本当は何よりも幸せなのだと。
そう伝えたかった。
なのに、喉から言葉が出てこない。口が上手く動かない。
口喧嘩なら負ける気はしないのに、どうしてこういう時ばかりは頑是無い幼子のようになってしまうのだろう。
もやもやとした悔しさに似たものが胸にこみ上げて、自分の襟元を手で鷲掴みにしたくなる衝動を何とか押さえ込む。
何か――何か、きっかけがあれば、きっと言えるのに。
これまで一度も言ったことがないわけではない。片手で数えられるほどではあるが、きちんと伝えたことは何度もある。
だから、言えるはずなのだ。
喉を塞ぐ、意地とか羞恥とかそういう類の何かさえ取り除けたら、きっと。
* *
何だか様子がおかしい、と気付く。
恋人、と呼んでいいはずの鬼は昔から変わらぬ鉄面皮だが、よくよく観察すれば細かい感情の機微がきちんと伺える。
さっきまで寛いでいたはずの鬼灯の目元と口元に、ほんのかすかながらも硬さが覗いているのを見逃すほど、白澤の目は節穴ではなかった。
何か気に触ることを言ってしまっただろうかと、自分の発言を思い返してみるが、これといって引っかかるものはない。
だとすると、問題は彼の内面だろうか。
少しばかり途方に暮れた気分で、白澤は鬼灯の整った白い顔を見つめる。
春頃に比べれば、随分上手く付き合えるようになってきたとはいえ、この鬼のことはまだまだ分からないことが多すぎた。
こんな風に沈黙している時、何を考えているのか、さっぱり見当もつかない。
何かに苦しんでいるのか。何かを悲しんでいるのか。感情の判別すらできない。
他の誰か相手なら、どうしたの?と何の気負いもなく訊けるのに、恋人相手にはそうしていいのかどうかすら判らない。
何とも情けない有様だと思う。
けれど、打つ手が判らないからといって、手をこまねいているだけの男にもなりたくない。
意を決して、そっと名を呼んでみた。
「鬼灯」
何ですか、と見上げてくるまなざしが問いかける。
黒曜石のような瞳は、内面を覗かれることを拒んで光をはじいている。
その美しい色合いを見つめるうち、白澤は不意に切なくなった。
こんなにも好きなのに。
それだけは本当なのに、分かってやれない。
鬼灯もまた、心の内を見せようとはしてくれない。
自分も、鬼灯も。
呆れるほどに負けず嫌いで、強情で、意地っ張りで。
けれど、それでも。
ゆっくりと上体を傾けて、無防備な唇に自分の唇を重ねる。
好きだと。
大切だと。
本当は嬉しいことも悲しいことも、何もかも知りたいのだと。
稚拙と言われようと、他に想いを伝える手段を白澤は知らなかった。
「―――…」
ゆっくりと触れて、ゆっくりと離れる。
ただ、それだけの口接けだった。
けれど。
「鬼灯……?」
閉じていた目を開いてこちらを見上げた鬼灯は、反動をつけることなくほぼ腹筋の力のみで身体を起こす。
そして。
ゆっくりと自分の唇を白澤の唇に重ねた。
甘くやわらかな唇の感触に、白澤は少しばかり驚きながらも目を閉じる。
閨でならともかくも、こんな風に普通に過ごしている時に鬼灯の方から口接けてくることは、滅多にない。
どんな気まぐれだと思うが、仕掛けられたものを拒むほど野暮でも潔癖でもない。
両腕を背に回し、やや斜めの不安定な姿勢を支えるように抱き寄せると、鬼灯の両腕も首筋に回された。
そのままひとしきり深い口接けを交わす。
互いにこんなにも強情で上手く言葉を紡ぐことさえ難しいのに、何故かキスをしている時は、二人の舌も唇も驚くほど素直に動いた。
優しい動きで好きだよと伝えれば、好きですとやわらかな動きが応える。
どこまでも甘く、温かく、胸の内が幸福感に満ちる。
好きだと、強く強く思った。
ゆっくり唇を離すと、悩ましい吐息を一つついて、鬼灯は白澤の肩口にことんと顔を埋める。両腕もまだ、背に回されたままだ。
甘えたい気分になったのだろうか。
それならそれで構わない、嬉しいと髪を撫でてやると、きゅっと鬼灯の腕の力が強くなった。
「好きです」
それは、小さな小さな声だった。
強い風が吹いたらまぎれて消えてしまうほどの。
小鳥が鳴いたら聞こえなくなってしまうほどの。
けれど、きちんと白澤の耳に届いた。
届いて、心臓まで伝わり、魂を打ち抜いた。
もしかして。
もしかして、この一言を言いたかったのだろうか。
だから、あんなにも難しい顔をしていたのだろうか。
自分が想いをキスに託すしかなかったように、鬼灯もまた、言いたくても言えなくて。
だから、あんな顔、を。
思わず、ぎゅうと思い切り抱く腕に力を込める。
愛しかった。
泣きたいほどに愛しくて、苦しかった。
「僕も――好きだ」
みっともなく声が震えた。
言うのは初めてではない。
決して初めてではないのに、手が震える。体が、熱い。
本当に好きだと思った。
好きで好きでたまらない。
「鬼灯」
顔に触れる髪に頬を摺り寄せ、きつくきつく抱き締める。
苦しいだろうに、鬼灯は離せとは言わなかった。
そのままどれ程、互いを抱き締め合っていただろう。
鬼灯が小さく身じろぎしたのを機に、二人はそろりと腕の力を緩める。
至近距離で見た鬼灯の顔は、いつになく甘いものだった。
困っているような恥ずかしがっているような戸惑いを目元に載せながらも、じっと見つめてくる。
綺麗だと思った。
可愛いと思った。
いっそのこと頭からばりばりと喰らってしまいたいほどの愛しさを抑え込みつつ、白澤は、なぁ、と呼びかける。
「鞦韆(ブランコ)の本来の使用目的って、覚えてるか」
「……ええ」
―――その昔、女官たちは昼間、鞦韆で遊び、色鮮やかな裳裾をひらめかせて男の目を惹こうとした。
鞦韆院落夜沈沈。
昼間は華やかに揺れていた鞦韆も今は静かに垂れ下がり、春の夜はしんしんと更けてゆく。
有名な詩の一説である夜沈沈、の意味は考えるまでもない。
問いかけると、ほのかに羞恥の色を濃くしながら鬼灯はうなずく。
頼むから煽るのはやめてくれと思いながら、白澤は理性を総動員して言葉を続けた。
「じゃあ、僕は今夜、お前を選ぶ。いいよな?」
「――他の誰かを選んだら、貴方が挽き肉になるまで金棒で叩き潰します」
「……もうお前、口利くな」
こんな屋外で襲われたくないだろうと釘を刺して白澤は立ち上がり、鬼灯をも地面に立たせる。
そして掴んでいた手首を引き寄せ、額の角の際に口接けを一つ、落した。
「帰るぞ」
「……はい」
こくりとうなずいた鬼灯と共に荷物をまとめ、自身は本性の獣へと立ち戻る。
身をかがめると、鬼灯は身軽に背へと昇った。
「飛ばすからな。しっかり掴まってろよ」
「はい」
ぎゅうと鬣を握られる感触が伝わってくる。
白澤は一つ胴震いして、大地を蹴った。
上空まで一息に駆け上ったところで一旦足を止め、地上を見下ろす。
鮮やかな朱紅と黄金、そして深く冴えた常緑の競演。
たとえる言葉もない程に美しい。
けれど。
背に愛しい鬼の体温を感じながら、顔を上げた白澤は天を目指して雲間を駆ける。
またたく間にその姿は白く輝く点になり、やがて、どこまでも遥かに澄んだ空の彼方に溶け消えた。
End.
<< BACK