星月夜

 口接けを交わしながら寝台にもつれこむ。
 その段階に至って、白澤ははたと途方にくれた。
 あれ、どうすればいいんだろうと困惑しながら、喉元に鬼灯の唇が触れる感覚に小さく首を反らせる。
「……なあ」
 そして彼が僅かに身を起こした隙に、恐る恐る声をかけた。
「何です?」
「いや、何て言うか……この体勢って身の置き所がないんだけど」
 どうしたらいい?、と結構真剣に尋ねると案の定、鬼灯は三界一の馬鹿を見る目で白澤を見下ろした。
「流されていればいいでしょうが」
「そう言われてもなー」
 永年浮名を流し続けてはいても、抱かれる側になるのは正真正銘これが初めてのことである。
 積極的な女性に押し倒されることは多々あれど、さすがにそれと同義には現状を捉えることはできない。
 さて、この手と足はどこに置いて、どう振る舞うべきなのか。
 さっぱり分からない白澤は、この世に出現してから初めて経験する困惑を味わっていた。
「前回、お前はどうしてたの」
「……何だか力一杯、貴方を殴りたくなりました」
「え。それは止めて! この体制はヤバいから!」
 押し倒されて組み敷かれている体勢は、つまるところマウントポジションだ。後頭部が寝台に接しているために避けることは勿論、衝撃を逃がすこともできない。
 硬い床や地面よりはマシだろうが、そういう問題ではなかった。
 もっとも、この状況で殴り合いに持ち込むほど鬼灯は野暮な男ではないらしく、深い溜息を一つついただけである。野暮は、むしろ自分の方だという自覚は白澤にもあった。
「繰り返しになりますが、流されていればそのうちに終わります」
「えー」
 答えになってない、と白澤は不満の声を上げる。知りたいのは、その流され方なのだ。
 もう少し具体的に言うなら、マグロになる方法か、マグロが駄目ならそれ以外の身の処し方である。
 しかし、鬼灯はこれ以上取り合う気はないらしい。再び首筋に顔を寄せてくる鬼神に諦めの溜息をつき、白澤は身体の力を抜いた。
(どうしてればいいんだろ)
 せめて手をどうするべきかだけでも分かればなあと思いつつ、中途半端に浮かせた両腕をしばし彷徨わせた挙句、他に置き場がないそれをそっと鬼灯の背と後頭部に回す。
 数秒の間、反応を窺ったが怒られなかったから、少なくとも間違いではなかったのだろう。
 やれやれと後頭部を撫でてやれば、硬質な艶のある髪がさらさらと手指に心地好かった。

 前回、初めて共に夜を過ごした際に、事の後、ポジションは交代制が良いと鬼灯に求められて快諾したのは白澤自身である。
 その時は、いかにも鬼灯らしいと面白く感じたし、応じたことに対する後悔もない。
 ただ、男に押し倒されることがこんな困惑を伴うものだとは想像していなかったのだ。
 男同士がどう身体を繋げるのか、手順は知っているし、先頃実践したばかりでもある。しかし、攻守が変わるだけでこうも勝手が違うとは思ってもみなかった。
 仰向けに押し倒される。その体勢で衣服を乱され、肌に触れられる。女性が相手ならば戸惑うことなど微塵もなく、笑って甘受できることが、この男相手だと上手くできない。
 決して嫌だというわけではないのだ。
 ただ。
(緊張してる、のかな。もしかして)
 まさか、と思わず自分の見識を疑うが、しかし、この困惑の正体が他に見当たらない。
(前回は普通にできたのに)
 あの時は抱く側だったから、いつもと同じように、ただ、鬼灯の矜持を傷付けないよう最大限の想いを込めて触れた。
 勿論、その最中には鬼灯の手指や口唇もこちらに触れた。それなりに経験を積んでいる男二人が戯れるのだから、決して一方的な行為ではなく、二人で快楽を追う、そんな表現が最も相応しかった。
(ああ、でもこいつも戸惑ってはいたっけ)
 寝台に横たわらせ、上から見下ろした時に、無表情の秀麗な面(おもて)に一瞬だけ困惑がよぎったのを思い出す。
 次いであちらこちらに触れた時も、娼妓に好き勝手させたことくらいあるだろうに、心地良さに溺れてよいのかどうか戸惑うような微妙な反応を返していた。
 あの時の鬼灯の困惑は、今そのまま、白澤の困惑だ。
(今から思うと、よくこいつがこんな真似を許したよな)
 本来の性向が異性愛であれば、屈辱と感じても止むを得ない体勢であり、行為である。
 だが、鬼灯は一言の文句も言わず、いざという段になった時にだけ「本当に入れるんですか」とかすれて小さな声で問うてきた。
 白澤が是と答えれば、また微かに戸惑った色を一瞬走らせたものの、目を伏せてうなずいた。
 思うに、おそらくその問いは、鬼灯が互いの覚悟を最後に確認し、納得するためのものだったのだろう。
 前戯までなら、まだ冗談と流すことができる。だが、本当に身体を繋いでしまったら後戻りはできない。
 自分達の交わりがただの戯れではなく、行為そのものが永い永い時を共に過ごすという始まりを意味していることくらい、どちらも最初から承知していた。
 その全てを飲み込んで、鬼灯はうなずいたのだ。
 それでいいと、全てを白澤に明け渡した。
 白澤もまた、そんな鬼灯に余すところなく全てを捧げた。
 そんな風にして、あの夜を境に鬼灯は白澤のものになり、白澤も鬼灯のものになったのだ。
 そして今夜。
 自分達は、更にもう一つ繋がりを深めようとしている。
 恐ろしいとは思わない。
 嫌だとも思わない。むしろ、それを望んでいる。
 けれど、身体は正直で、初めての行為に戸惑う心臓はとくとくと逸り、肌はいつも以上に過敏に震えている。
 そういえば、あの時の鬼灯の鼓動も彼らしくなく逸っていた、と思い出すと、白澤の口の端にふっと小さな笑みが浮かんだ。

「鬼灯」

 吐息が乱れているのを自分でも感じながら、前回の自分と同等以上に丁寧に触れ続けている男の名を呼ぶ。
 上げた顔には、上から見下ろした時とはまた違う種類の凄艶さが滲んでいて、目が合った瞬間、白澤の身体の奥がぞくりと震えた。その感覚もまた、前回とは違う。
(面白いね。お前とならこんな風に色々なことが味わえるんだ)
 森羅万象に通じている己ではあるが、実践となると知らないことの方が遥かに多い。その中でも、この鬼神と創り上げるものはとりわけ別格だった。
 口接けをねだると、ゆっくりと下りてきた唇は焦らすように表面を唇だけで極軽く食んでくる。
 もっと深いものが欲しくて舌を伸ばし、なめらかな表面を舐めてやれば舌先を捕らえられ、甘く噛まれた。
 簡単には深くならないキスは、彼がこれまでに積んだ修練と生来の勘の良さから生じるものだろう。だが、白澤とて伊達に遊んできたわけではない。鋭い牙がある相手と巧みに口接ける術は心得ている。
 互いの反応を未だ計りながら交わすキスは、たとえようもなく甘く、心地良かった。

「何か、本当に勝手が違うなぁ」
「止めたいですか」
「いいや」
 小さく苦笑が込み上げるままに呟けば、冷静な声が返る。否、一見冷静に聞こえるだけで、実情はきっとそうではないのだろう。
 いつでも彼が冷静に見えるのは、半ば見る者の錯覚であることを白澤は知っている。
 頭の回転が速く、聡い上に異様に肝が座っているから余程のことでは動じないし、感情が表情に出ないから、実は恐ろしく短気であることもあまり知られてはいない。ただそれだけのことでしかない。
 その証拠に、
「お前が受け入れてくれたのに、僕が拒絶するわけないだろ」
 白澤が少し素直な言葉を使えば、何とも言えない感情がまた白い面を横切った。
 ほんの一瞬で掻き消えてしまう流れ星のような仄かな閃きであっても、神獣の眸はごまかせない。ましてや、この至近距離だ。
 驚き。喜び。切なさ。
 そして、深くきめ細やかな想い。
 鈍い者なら全く気付きもしないだろうそれが読み取れる自分であることが嬉しくて、白澤は笑う。
「やっぱり僕はお前にぴったりらしいよ、鬼灯」
「――私は、ぴったり合っていようがいまいが気にしませんが」
「えー。でも理解し合えずにすれ違っちゃうよりいいだろ。どうせ付き合うんならさ、喧嘩するにしても仲良くするにしても、きちんとお互いの感情や主義主張を理解した上で僕はやりたいよ」
「……まあ、それは道理ですね」
 理解し合えない間柄での諍いは決別や傷心しか生まないし、仲良くしても最後のところは満たされない。
 そんな相手と本気の恋をするつもりなど、白澤には毛頭無かった。
 更に言うならば、良い面から悪い面まで全て本気で付き合える相手だからこそ、この鬼神に惹かれたのだ。
 そんな彼にもっと触れたくて、鬼灯の背に回していた手を移動させ、はだけた胸元に手指を這わせる。温かくなめらかな肌を辿り、心臓の真上に手のひらを置けば、前回ほどではないにせよ幾らか鼓動は速くなっているのが感じられた。
「前回と真逆だな」
「何がです」
「色々なことが全部」
 愛撫と共に切々と想いを注ぐのも、それを受け止め、慣れぬ事に戸惑いながら愛おしく感じるのも。
 何もかも立場が逆転している。
 しかし、全てこの鬼神とだから味わえることだった。それだけは決して変わらない。
「お前が全部欲しいよ、鬼灯」
 鬼神鬼灯という存在の外側も内側も、何もかも。
 己の愛撫を受け止め声を殺して乱れる様も、この身を掻き抱いて熱情を迸らせる様も。
 全てが欲しい。
 そう想いを込めて告げると、言葉の代わりに静かな口接けが降ってくる。
 それは、触れたところから全て奪っていいですよと言われているのも同義で、白澤は遠慮なく鬼灯を抱き寄せ、その口唇を貪った。
 だが、熱くなめらかな感触を存分に堪能して唇を離すと、不意に、
「それだけでいいんですか」
 と温度の低い声に問われる。
 真意を求めてまなざしを上げれば、一見冷静に見える顔つきで鬼灯は白澤を見下ろしており。
「私なら、喰らうなら骨の髄まで喰らい尽くしますよ」
 こんな風に、と肩口に鋭く歯を立てられて、苦痛と紙一重の感覚に白澤の神経がちり…と灼ける。
 だが、それくらいで身をすくませるほど白澤も青くはなかった。
「喰らい尽くせるもんなら喰ってみろよ。この神獣白澤を、さ」
 吐息を乱したまま挑戦的に見上げ、笑めば、鬼灯のまなざしも微かな興を帯びる。
「いい覚悟です」
 そう言い、鬼灯は再び白澤を組み敷く。
 けれど、言葉と裏腹に触れる手指は優しいばかりで、その差異に小さく含み笑った白澤は、再び両の腕を彼の背にそっと回した。





 慎重で細やかな愛撫の合間に、白澤さん、と低く艶のこもった声でひそやかに名を呼ばれる。
 閨では、案外に鬼灯は口数が少なかった。もともと女を抱く時にも寡黙であるのかもしれないし、相手が白澤だから言葉を選びかねて黙るのかもしれない。
 だが、言葉少なく呼ばれる自分の名が白澤は好きだった。
 低い声は、じんと鼓膜を通して染み入り、胸の奥底までを深く満たす。
 こんな風に名を呼ばれたことは、これまで何万年も生きてきて初めてだった。
 誰もが白澤の名を口にするが、込められているのは尊崇であり、敬愛であり、畏怖であり、時には嫌悪や憎悪であって、あくまでも『神獣』に対するものの領域を出ない。
 だが、鬼灯の声は違う。
 おそらくこの鬼神は、白澤が神獣であるかどうかさえ構わないのだ。
 たとえば白澤が神力を喪い、ただの獣か人になったとしても、白澤が白澤である限り、鬼灯はこの声で名を呼び続けてくれるだろう。
 そして、自分もまた。

「鬼灯」

 彼がこの世にいてもいなくても、こうして彼の名を呼び続けるだろう。
 初めて出会った時、彼は小さな子鬼だった。言われるまで忘れていたが、利発そうなのにやたらむっつりとして無表情な子鬼のことは淡く記憶している。
 そう、確か、顔立ちそのものは整っていたから、笑えば可愛いだろうにと思ったのだ。
 次に出会ったのは、青年鬼となった彼が遥々大陸まで法制度を学びに来た時。
 これもまたすっかり忘れていたが、ひどく楽しい酒であり会話であったという印象だけは鮮明に残っている。
 正式に出会ったのはその後、新しい第一補佐官だと閻魔大王に紹介された時だ。衆合地獄の居酒屋で居合わせた際、酔って上機嫌の閻魔大王が傍らにいた彼をこちらへと押しやった。
 白澤だと名乗ると、彼は興味深げなまなざしを向け、漢方や東洋医学についての問いを幾つか発した。
 だが、人の子として短くも厳しい生を受けた彼は、こちらの浮かれた性質が気に食わなかったのだろう。そこから後の不仲は今更思い返すまでもない。
 白澤自身は、それまで不浄なものや醜悪なものに眉をひそめることはあっても、何かを嫌ったことはなかった。
 もともと森羅万象と共に生きるようにできているのだ。我が身に等しい世界を憎む心は端から持っていない。
 だから、最初の内は鬼灯の攻撃も何とも思わなかったのだが、どれほど気の良い大人であっても性悪な子供の度重なる悪戯には、いずれうんざりするものである。白澤は彼の暴言に言い返すようになり、目には目をとばかりに反撃もするようになった。
 だが、鬼灯のことを真に嫌ったのかというと、決してそうではない。相手の物言いに腹が立つから言い返す、あくまでもその域を出なかった。
 それよりも、本心では愉快に思うことの方が多かったというのが正しい。
 誰もが尊崇し、畏怖する神獣白澤を駄獣と呼び、ろくでなしの扱いをする。そんな者は他にいなかったから、それだけでも興ずるには足りた。
 そして何よりも。
 鬼灯の目が、決して白澤のことを嫌悪してはいなかったのだ。
 白澤の放蕩に呆れ果て、考えなしの浪費を小馬鹿にしてはいても、そのまなざしに真の憎悪や敵意はなかった。
 気に食わないものは気に食わないとはっきり言い、けれど、評価すべきものはきちんと評価する。そんな天性の公明正大さを鬼灯は持っており、それは相手が神獣であってもきちんと発揮されていたのだ。
 なるほど、だから閻魔大王は一獄卒でしかなかった彼を補佐官として抜擢したのかと納得し、同時に彼という存在をもっと知りたいと思った。
 そして。
 知れば知るほど惹かれた。
 千年もの間いがみ合い続け、その挙句、ふとまなざしを伏せた彼の横顔に引き寄せられて唇を重ねてしまうほどに。

 あの時、鬼灯が拒まないことを自分は確信していたと思う。
 抱えていたものは、ずっと同じだったのだ。
 彼も自分も、互いをけなし合いながら、心の奥底ではそれを快いと感じ続けていた。
 そうでなければ、どうして千年も喧嘩を続けられるだろう。
 真実、嫌悪し憎んでいるのであれば、とうに相手を無いものとして距離を隔てている。
 それぞれの持って生まれた性情からすれば、心底憎い相手に対し、どうにかして負かしてやろうと心を砕くことなど決して有り得ないのだ。

 顔を合わせる度に罵り合い、拳を交わすのも楽しかった。
 けれど、千年もそれを続けて、もういいだろうと思ったのだ。
 もっと違う形で、この男のことを知りたい。
 この手で触れ、これまで知り得なかったことを全て知りたい。
 そう思ったから、白澤は一歩を踏み出した。
 それを鬼灯も拒まなかった。
 予想していた結果ではある。
 あったけれど。
 このまま夜まで一緒にいないかと告げたのに対し、そうですね、と鬼灯が静かに返した時に湧き上がった想いは、この先も未来永劫、忘れられそうになかった。

「何を考えてるんです?」
 不意に問われて、白澤は目を開く。
 真っ直ぐに見下ろしてくる漆黒の瞳に、ふっと笑んで手を上げ、その頬を撫でた。
「こういう時に、お前以外のことを考えるほど不実じゃないよ」
「どうだか」
「本当だよ」
 口で何と言おうと、鬼灯のまなざしはこちらの言葉を疑っていない。
 そのことが可笑しくて白澤は更に笑む。
 すると、鬼灯は小さく舌打ちした。
「随分と余裕じゃないですか」
「そうでもないって」
 過去に想いを馳せていた間にも、肌は散々に嬲られている。既に崖っぷちまで追い詰められているのは自明で、それを無理に隠そうとは思わなかったから、鬼灯にも分かっているはずだ。
 ただ、偏屈なこの鬼神は、組み敷いた相手が笑うのが少しだけ気に食わないのだろう。
 もう少し正確に言うのなら、白澤が相手だからだ。
 拒絶されたいわけではないだろうに、白澤が彼の稚気に満ちた言動を許容する様子を見せると、しかめっ面をして返す。そんなところはいつまで経っても変わらない。
 きっと、これからも変わらないのだろう。
 だが、それで良かった。
「――っ…」
 言葉を返そうと口を開きかけた途端、深い部分をまさぐられる。
「お、まえ、不意打ち……」
「貴方が余裕そうな顔をしてるからでしょう」
「だから、そんな……こと、ない、って」
「そんな口も利けないようにしてあげますよ」
「――馬鹿…っ」
「もう黙れ」
 そんなずるい言葉と共に深く口接けられる。
 だが、そう言いながらも鬼灯の唇はひどく甘く、優しかった。
 目を閉じて長いキスを受け止め、そしてまた、白澤は鬼灯を見上げる。
「黙らないよ」
 乱れた呼吸もそのままに告げれば、鬼灯の眉がわずかに吊り上がった。
 そんな鬼灯に白澤は、ふわりと微笑む。
「だって僕は、お前の名前を呼びたい」
「――馬鹿ですか」
「何とでも」
 見下ろしてくる冷めた瞳の奥には、単なる呆れのみではない熱が仄かに覗く。
 それだけでもう十分だった。
「だから、お前も僕の名前を呼んでよ。もっと何度でも」
「――同じ台詞を女毎に言っていたんなら殺しますよ」
 溜息交じりに告げ、鬼灯が再び唇を重ねてくる。
 言ってないよ、と小さく返し、白澤はその唇に応えた。
 そして、閨で『殺す』などと言われたのは初めてのことだと、頭の片隅でぼんやり考える。
 これまで関係した女性たちは皆、白澤の遊び方をよく心得ていて、本気らしい睦言は駆け引きですら口にしなかった。軽やかな戯言になら白澤は幾らでも応じたが、真心を求めるような言葉は、いなすばかりで酒に流してしまうと誰もが弁(わきま)えていたのだ。
 せいぜいが、二人きりの時くらい私だけを見て、と愛らしく、あるいは婀娜っぽくねだられたくらいだろうか。
 そんな女性たちのことは皆、ひどく可愛いと思ったし、そういう薄っぺらい付き合い方も、そういう付き合い方しかしない自分も白澤は好きだった。
 それで物足りないだなどと一度も感じたことはない。
 けれど。
 骨の髄まで求め、求められて。
 繰り返し名を呼ぶ声と、肌を辿り最奥を暴く手指の優しさと。
 この夜を形作る全てに身を任せて溺れているうちに、ふと目の奥が熱くなる。
 幾日か前もそうだった。
 鬼灯が全てを了承して小さくうなずいた時、同じように目の眩むような感覚を覚えた。
 それを何と呼ぶのか、白澤は知っている。
 この永い永い時間の中で、初めて知った――幸福、という感覚。
 たとえようもなく甘く狂おしい想い。
 これを知るためにこの世に出現し、永い永い時を超えてきたのだと錯覚するほどに目の前の男が愛しかった。




「白澤さん」

 やがて、常の余裕が失せた声で鬼灯が名を呼ぶ。
 その声に目を開け、白澤は笑んだ。
「いいよ。……おいで」
 この男がこんな狂おしい光を目に浮かべるところは初めて見た。
 この鬼神にとっては、この自分はそれだけの価値がある存在なのか。
 そう思うと、何かがひたひたと心の内に満ちてくる。
 白澤とて無論、余裕は無い。だが、胸の奥底から涸れることのない泉のように湧き上がる純粋な想いの方が遥かに比重で勝(まさ)った。

「鬼灯」

 逞しく引き締まった背を抱き寄せ、その肌の温もりと匂いを感じながら、この鬼がいつか居なくなったら、自分は心底嘆くのだろうと白澤は思う。
 永い永い時を経て落ち着いて見送ることができる心境になっていれば良いが、そうでなかったら、おそらく白澤を知る誰もが驚き呆れるくらいに悲しみ、慟哭するだろう。
 いつかその日が来ても、愛したことを後悔もしないし忘れもしないと告げたのは掛け値なしの真実だが、だからといって喪失の悲しみが薄れるわけではない。
 狂うほどに泣いて、哭いて。
 だが、それも愛すればこそだと白澤には分かっていた。
 愛さなかったら涙も無い。涙が無い代わりに愛もない。
 それならば、愛することを諦めるより、愛して泣く方がいい。
 そして、涙が涸れたらまた微笑んで、愛しい思い出を大切に抱き締める方がいい。
 だから、この先何があろうと決して後悔はしない。
 そう自分の心を確かめながら目を閉じ、口接けを受け止める。




「お前が好きだよ。鬼灯。

 誰よりも、好きだよ」




 満点の星が天上で静かに瞬く、美しい夜だった。
 長年秘めていた想いがしみじみと伝わってくるその美しい一時に満たされ、そして、満たし返して。
 神獣と鬼神は幾日か前と同じように寄り添い合い、互いの温もりを感じながら甘い眠りに意識をそっと手放した。

End.

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