星あかりに眠る

 白澤と付き合い始めて良かったと思うことは、実は幾つかある。
 そのうちの一つが、彼の所有するこの露天風呂に入り放題ということだ。
 閻魔殿にも極卒用の大浴場があり、鬼灯はいつもそこを利用しているから、広い風呂には慣れている。だが、星空を眺めながら入る風呂というのは、また別格だった。
 天然温泉を木製の塀で囲っただけの風呂は、贅沢なことに源泉掛け流しである。湯温も四十度を少し超える程度と、実に快適だった。
 地から湧き出す湯に含まれる細かな気泡がきらきらと光りながらたゆたい、湯船の一番端から溢れる湯はせせらぎへと導かれ、心地良い水音を立てている。
 ゆったりと肩まで浸かりながら縁の岩に後頭部を預け、星を見上げていた鬼灯は、やがて小さな溜息をついた。

「色々と台無しになるので、出歯亀はやめていただけるとありがたいんですが」

 そう声をかけると、近くにまで来ていた気配が頭の真上までやってくる。
「別に覗きのつもりはないんだけどね。お前が随分とのんびりしているから、湯当たりでもしてるんじゃないかと思ってさ」
「そこまで間抜けではないですよ。ここの湯はそれほど熱くありませんし」
「うん。熱すぎると、ゆっくり入っていられないからね。いい湯だろ」
「――ええ」
 一瞬、答えを躊躇ったが素直に認めると、途端に白澤は嬉しげな顔になった。
 そして、直ぐに調子に乗るのが、この神獣の欠点の一つである。
「僕も入ろうかな」
 案の定というべきか、浮き立った口調で言うのに鬼灯は呆れながらも、拒絶はしなかった。
「別に構いませんけど」
 既に齢数千年を数える身である。たかが風呂くらいで恥らうような羞恥心は持ち合わせていない。
 ゆえに承諾を告げると、白澤はすぐさまに東屋風の更衣場へと駆けて行き、あっという間に服を脱ぎ捨てて湯船へと入ってきた。
 水面を揺らして隣りへやってきた白澤へとまなざしを向け、おや、と鬼灯はまばたきする。
「耳飾り、外すんですね」
 彼のトレードマークともなっている赤い紐の耳飾りが無い。ふっくりした耳朶には、ただ小さな孔が開いているばかりである。
 赤い紐が彼の横顔にちらちらと揺れていないのは奇妙な感じがして、思わず鬼灯は見入った。
「ああ、風呂に入る時はね。濡れると嫌だし」
「……あれは意味のあるものなんですか?」
 ふと、以前から気になっていたことを尋ねると、白澤は笑う。
「あると言えばあるし、無いと言えば無いかな」
「どっちなんです」
「まあ、僕の一部だから。服やこの環(たまき)と一緒。昔っからくっついてるんだよね。吉兆の印だから」
 ぱしゃりと湯を跳ねて差し出された左手首には、珊瑚とも見える赤玉の環が白い肌に映えている。
「確かにあれは招運来福の花結びですが……」
「そう。だから僕にくっついてるの。外せちゃうけど」
 答え、白澤は笑みながら満点の夜空を仰いだ。
「その辺の仕組みは、僕も分かってるようで分かってないところがあるんだよ。人型になったら時代に合わせた服を着てるし、人型でも本性でも耳飾りはくっついてる。服が基本白いのは、僕の体毛が白いからなんだけど、でも、こうして脱げるし、着替えることもできるし。神様ならではの御都合主義なんだよなぁ」
「……神族には少なからず、そういうことがありますね」
「あるんだよ。だから、僕の衣装は全部意味があると言えばあるし、無いと言えば無い。そもそも、服にも耳飾りにも実体があるのかどうかさえ怪しい」
 言いながら、白澤は湯から出した自分の手を、つくづくと眺める。
 ぱしゃりと湯が跳ねる音を聞きながら鬼灯も、痩せぎすの青年の形をしているその手を見た。
「つまり、貴方の衣装は貴方の霊力で作られているということですか」
「そう。少なくとも、いつもの白い服や耳飾や環や靴はね。白衣は違うけど。でも、体毛と一緒で自覚の無い領域なんだよ。お前だって、自分の髪や爪が日々伸びているのを知覚できるかい? 目で見てはじめて、伸びていると気付くだろう?」
「そういうものですか」
「そういうもの。森羅万象に通ずる僕だけどね、自分を含めて神族のことは全て分かるわけじゃないんだよ。聞こえは悪いだろうけど、自分より格下の存在でなければ、手に取るようには視えないんだ」
「……それくらいでちょうどいいんじゃないんですか」
 何もかも分かるということは、きっと興醒めするものだろう。何かを新しく発見した時の高揚感とは永遠に無縁という感覚は、鬼灯には測りがたい。
 それでも猶、この世界に存在することを楽しんでいられる神獣の心のありようは、やはり人の子や鬼には理解しがたい部分があると思いながらも言えば、白澤は嬉しげに笑った。
「うん、ちょうどいいよ。それにさ、幾ら僕でも余程のことがない限り、心までは読めないから、それもちょうどいい」
 そう言い、白澤は手を伸ばして鬼灯の手を取った。
「人や鬼という生き物のことは分かるし、肉体の仕組みも分かってる。でも、今、お前が何を考えているのかは分からない。そんなもんだよ」
 白澤の手に軽く包まれた自分の手を鬼灯は見つめる。
 手の造りだけでいえば、鬼灯の手の方がしっかりしている。金棒を握る手は、どうしても皮膚が厚くなり、指も節が目立つ。
 それでも形はいい、と白澤は褒めるが、美醜観を持って手を見たことのない鬼灯には、そのあたりの感覚は良く分からない。
 むしろ、やたらと器用な白澤の細く長い指が、料理をしたり生薬の調合をしたりしている時の無駄のない動きの方が気になるというのが正直なところだった。
「今、お前は何を考えてる?」
「――特に何も」
「そう?」
 目を覗き込まれ、問われて答えれば、白澤は目じりの釣り上がった目を優しく細める。
「でも、それが本当なら悪いことじゃないな。お前はいつも色々なことを考えすぎだから。たまには脳味噌を休ませてやらなきゃ」
「忙しいのは仕事ですから、仕方がないことですよ」
「うん。お前がタフなのも知ってるけどね。でも、長時間覚醒し続けるのは脳にはやっぱり負担なんだよ。それくらい、お前だって分かってるだろ」
「それは、まあ」
「だからといって、ゆっくり休むなんて中々できないだろうけど、こうしてうちに来ている時くらいは、難しいことは何も考えないでいてくれると嬉しい。その方が、お前にとって、この付き合いの意味が増すだろうしね」
「別に私は、メリット・デメリットを考えて貴方のプロポーズを了承したわけじゃないですが」
「でも、メリットが多い方がいいだろ」
 その方が無理なく続く、と白澤はやわらかく笑む。
 その顔を見つめていれば、ふっと白澤は目に浮かぶ光の色を僅かに変え、顔を傾けて唇を寄せた。
 避けるだけの理由は無く、鬼灯は目を綴じてそれを受け止める。
 やわらかな唇は鬼灯の唇を軽く食み、それを合図のようにしてどちらからともなく舌を差し伸べ、絡ませる。どちらも手慣れた動きで互いをまさぐり合い、ゆっくりと離れた。
「……そろそろ上がろうか。幾ら何でものぼせる」
 白澤の手が、うっすらと汗の浮いた鬼灯の頬を撫でる。
 その手のひらには情と艶がそれと分かるほどに絡み付いてはいたが、白澤はそれを鬼灯に押し付けてくることはしなかった。
 優しく笑んだまま、すっと手を引いて彼は立ち上がる。
「僕は先に上がるから、お前も程々にして出ておいで。冷たいものを用意しておいてあげるから」
「……ええ」
 痩身が去ってゆくのを僅かに見送り、独りになった鬼灯は再び夜空を見上げた。
 桃源郷の夜は、いつでも満天の星が降るように輝いている。
 気候は常春であるのに、星と月はきちんとめぐって行く辺りが元は人の子の感覚からすると、どうにもおかしい。だが、それにももう慣れた。それくらいには見ている空である。
 ここでは小さな星までもひどく明るく光っているから、星座の形を結ぶのが難しい。
 半ば諦めの心地で、鬼灯は天頂にある小さな星の固まり――眩く光る昴を見つめた。

 ―――白澤が今、手を出してこなかったのは何故か。

 彼はモラル云々を問題にするような性格ではないし、鬼灯も別段、ストイックな性格ではない。状況さえ選んでもらえれば、求められれば応じる程度の情欲は持ち合わせている。
 今なら、おそらくは拒まなかった。夜の狭間に二人きり、屋外ではあっても覗き見る者は誰もいない。
 口接けを受け入れたように、その先を求められても拒絶する気にはならなかったはずだ。
 こちらの身体を慮(おもんばか)ったということもあるだろう。今夜は既に一度、鬼灯が白澤を受け入れる形で情を交わしている。
 だが、それでへたるような脆弱さはどちらにもない。
 となれば、見えてくる答えは一つだった。
「こんな風に静かに過ごすことなど無かったものな……」
 鬼灯が極楽満月で夜を過ごすのは、桃太郎が不在の夜と決まっている。
 二人きりの穏やかで静かな夜。ゆったりと温泉で肩を並べ、僅かに触れ合いながら、他愛のない会話を交わす。
 ただそれだけのやわらかな時間を白澤は愛おしみ、それを壊すことを厭ったのではないか。
 何しろ、寄ると触ると喧嘩をしていた自分たちである。穏やかな会話ということ自体、まず滅多にあることではなかった。
 今でも鬼灯は白澤相手にくだらない悪戯を度々仕掛けるし、嫌みの応酬のような口喧嘩は四六時中起こる。けれど、それらは決してこれまでと同じではない。
 喧嘩をしている最中の自分たちの間にあるものを、暗黙の了解、と呼ぶのは薄ら寒い。だが、これまでもうっすらと淡くあったそれが、より明瞭に、意識的になったことは間違いないのだ。
 敢えてそれを言葉にするのなら、相手を心から嫌っているのではない、本気で傷付けるつもりはない、そんなような意味合いになるだろうか。
「改めて考えると面映ゆいな」
 どうもこういうリリックな思考には向かない、と鬼灯は小さく首をかしげ、両手で湯を救ってぱしゃりと顔に浮かんだ汗を流した。  そして、そろそろ出るかと立ち上がる。
 東屋の形をした脱衣所へ行き、全身を拭いてから用意してある浴衣を羽織った。
 別にいいというのにわざわざ浴衣を用意したのは、当然ながら白澤である。男の服を見立てて何が楽しいのか、嬉々として地獄デパートに赴き、それぞれ異なる柄の反物で五着も仕立ててきた時は本気で呆れた。
 だが、藍染に流水が描かれ金魚が遊ぶ柄のこの浴衣を、実はひどく気に入っていることは、あのケダモノにはとうにバレているだろう。
 海老茶に鬼灯柄も悪くないし、紫がかった濃灰に見える本草藍紫に鉄線の花唐草も悪くない。黒鼠に風神雷神柄もたまには着るし、シンプルな藍の縞も時折袖を通す。
 つまるところ、白澤のセンスは別に悪くはない。少なくとも鬼灯のツボは突いているという話だった。
 身なりを整えて母屋に戻ると、小さな明かりだけをつけた店内で白澤が鬼灯を迎えた。
「いいお湯でした」
「うん」
 浴衣姿の鬼灯を見つめて、白澤は満足げに目を細める。
 似合っていると思っているからなのか、自分が贈ったものを身に着けていることを喜んでいるからなのかは分からない。あるいは、その双方なのか。
「今度は白っぽいのもいいかもしれないな。お前には深い色が映えるから、ついそういう色ばかり選んじゃったけど」
「白、ですか」
「そう。それの色違いでもいいかもね。白地に藍と紅で流水と金魚。あとは……伊藤若冲の水墨画みたいな大模様でも、お前は何なく着こなしそうだ」
 楽しげに言葉を紡ぐ白澤に鬼灯は肩をすくめる。
 無駄遣いだとは思うが、彼の金である。好きに使えばよい。仕立てられた浴衣は気に入れば着るし、そうでなければ袖を通す回数が少なくなる。それだけのことだった。
「それより、お水をいただけませんか」
「ああ、うん」
 湯上がりだから体が水分を欲している。そう求めれば、白澤は常温にまで冷ました花茶のグラスを鬼灯に差し出した。
「……氷水でいいんですけど」
「ダーメ。湯上がりにそんな冷たいもの、僕が許すわけないだろ」
「私は人じゃないんですけど」
 冷たいものをよしとしない漢方の基本は、鬼灯とて熟知している。だが、鬼の肉体はそんな脆弱なものではない。
 分かっているはずなのに冷水は出してくれないこの男が時々鬱陶しいと思いながら、鬼灯はグラスを手に取り、桂花の香りを移した凍丁烏龍茶を一息に飲み干した。
 気温が二十度を超えるほどだから、茶の温度も二十度弱というところだろう。冷えてはいないが、ぬるいというほどでもない。甘い香りの茶は、やわらかく喉を滑り落ちてゆく。
 もう一杯、とグラスを差し出せば、白澤は小さく笑んで無言のまま、ガラス製の水差しを手にとってグラスを透き通った瑪瑙色の茶で満たした。
 二杯目をゆっくりと干すと、気持ちも身体も何となく落ち着きを取り戻す。
 それを見透かしているかのように、白澤は「座りなよ」と木製の丸椅子を指した。
 そういえば、何か冷たいものを用意しておくとか言っていたか。意図を理解して、鬼灯は大人しく腰を下ろす。
 目の前の男は色々と欠点のある駄獣だが、料理の腕はかなり良い。伝統的な薬膳は勿論のこと、中華の八大菜系、台菜はおろか精進料理や日本で発達した普茶料理まで極めているし、時には欧風料理を作ったりもする。
 要は、美味くて体に良い料理であれば、すべて彼の守備範囲であるらしい。
 その腕前を、鬼灯が極楽満月に泊まる時は、惜しみなく披露してくれるのだ。こればかりは鬼灯も、純粋にありがたいことと受け止めていた。
「はい。これだけは冷やしておいてやったから感謝しろよ?」
 白澤が冷蔵庫から取り出して置いたのは、ガラスの器に入ったシロップに沈められた透明な角切りゼリーだった。上に赤いクコの実が散らされていて、ほのかにレモンの香りがする。
「愛玉子ですか?」
「そう」
 ひだ飾りが縁についたレトロガラスのボウルに、四角く切られた淡い琥珀色のゼリーがいっぱい盛られている。
 カウンター上の電球の明かりを受けて、それは淡く美しい金色に輝いて鬼灯の目には映った。
「お前、こういうの好きだろ」
「……ええ」
 衆合地獄にある甘味処で、よく餡蜜や白玉団子を食べていることなどとっくに承知しているのだろう。
 甘党の鬼灯にとっては餡子が最強だが、タピオカや杏仁豆腐、マンゴープリンも当然好物の内に入る。当然、この愛玉子も例外ではなかった。
 添えられた銀の匙で一つ掬いあげ、そっと口に運ぶと、冷たくつるりとした食感と共にふわりとレモンの爽やかな香りが広がる。
「――美味しいです」
「良かった」
 鬼灯の感想を聞いて白澤は笑い、自分もまた匙を手に取る。そして、自分用の器から一つを掬って口に運んだ。
 そのまま二人は何となく無言のまま、愛玉子を食べる。
 既に日付が変わった深夜、カウンター上の照明のみを点けた漢方薬局の店内で、図体のでかい男二人が向かい合って黙々と甘味を食している。
 傍からこの光景を見た時、微笑ましいと映るか、それとも異様と映るか。
 まァどちらでも構わないか、といつもの無頓着さで切り捨てて、鬼灯は冷たいゼリーをつるりと平らげた。
「御馳走様でした」
「お粗末様でした」
 ガラスの器に銀の匙を置いて一言を添えれば、白澤もやわらかく言葉を返す。
 鬼灯はわずかに首をかしげ、白澤を見つめた。
 すると、視線に気づいた白澤も、何?、とまなざしで応じる。
 その黒曜石のように静かに光る瞳に、鬼灯はここ最近、引っかかっていたことを唇に上らせた。

「浴衣にせよ、愛玉子にせよ、受け取っておいて言うものではありませんけど、どうして貴方はこんなに私を甘やかそうとするんです?」

「そんなこと」
 鬼灯の問いかけに、白澤はおかしそうに笑う。
「お前に、ここで過ごす時間をもっと好きになって欲しいからに決まってるだろ」
「それにしても甘やかしすぎです」
「僕は出し惜しみしない性分なんだ」
 何だってしてあげたいよ、と言われて、鬼灯は眉をしかめる。
 確かにこの男は以前、バーゲンシーズンになると気に入りの女性をデパートにエスコートして好き放題に買い物をさせる趣味を持っていた。
 あまり感心できない趣味ではあったが、彼の性格からすると、お大尽遊びというよりは、単純に相手が喜ぶ顔を見るのが好きでやっていたことなのだろう。
 しかし、鬼灯はやれることは自分でやるし、欲しいものも自分で手に入れる性分である。
「物には限度というものがあります」
「だから、お前が受け取れるギリギリにセーブしてるだろ? ここ最近に僕が用意して、お前が要らないって断ったもの、あるか?」
 言われて、最近もらったもの、と鬼灯は思い返す。
 浴衣にデザート、夜食に朝食、お前用にと用意された上質の箸と湯呑、茶碗。入浴や洗面の時に使う金魚柄の手拭いタオルとバスタオル。
 確かにどれもこれも実用的で、要らないと押し返せたようなものは何一つない。
「な? 僕だって考えてるんだよ」
 眉間の皺を深くした鬼灯に笑って、白澤は、癖になる、とその皺を伸ばすように指先で撫でた。

「お前のことが大事だから、お前を困らせるようなことはしないようにしてるんだよ」

 恥ずかしげもなくそんな睦言を紡ぎながら、白澤の温かな指先が鬼灯の目元をなぞり、頬をそっと撫でる。
 じっと目を覗き込まれ、鬼灯はまばたきした後、自分から目を伏せて白澤に口接けた。
 一度軽く合わせてから、もう一度深く重ねる。すると、頬に触れていた白澤の手が首筋に移動して、軽く引き寄せられ角度を固定される。
 だが、その仕草すら息苦しくならないようにと配慮された、ひどく優しいものだった。
 もっとも、その代わりにとでも言うべきか、絡み合う舌は随分と悪戯に動く。
 知り尽くしているだろう口腔の仕組みを確かめるかのように執拗に触れ、鬼灯がわずかでも反応を示した箇所には何度でも舌先を這わせてくる。それを厭って逃げかければ、やわらかく舌先を甘噛みされ、逃走を阻まれた。
 鬼灯も別段、不器用な性質ではないが、経験値では勝負にもならない。角度を変えて何度も繰り返されるキスの心地良さにいつしか抗うのを止め、無心に愛撫を受け止め始める。
 そうして溺れてしまえば、最後には甘く蕩けるような歓びだけが残るのが常だった。
 追い、追われ、随分と長く戯れてから二人はゆっくりと唇を離す。
 互いの目を至近距離で覗き込み、鬼灯は白澤の瞳の奥に仄かな炎が灯っているのを見る。
 だが、白澤は穏やかに鬼灯を見つめたまま数度まばたきし、その炎を静かな熾火(おきび)へと変えた。
 どうして、と鬼灯が思うと、その色を読んだのだろう。白澤は鬼の角を避けてこつんと額を合わせた。
「今夜はさ、このままゆっくりとお前と過ごしたい。やらしいことは大好きだけどね。優しいだけの夜もいいんじゃないかってさ」
 そういうのは嫌いか?、と問われても上手い答えが見つけられない。
 イエスかノーかで言うのなら、嫌ではない。だが、付き合い始めてから常に甘いシロップのような優しさを注がれ続けている鬼灯にしてみれば、何を今更寝ぼけたことを、という気分が強い。
 しかし、今ここで自分から迫るほど肉体での触れ合いを求めているのかというと、それはそれで違うという気もする。
 ―――自分たちにはおよそ似合わない、静かで優しいだけの夜。
 寄り添い合い、温もりを感じて、ただそれだけの。
 けれど、それはそれでいい、という思いが静かに鬼灯の中に湧き起こる。
 これまでも長かったが、これからももっと長い。ならば、たまにはそんな過ごし方も良いのではないか、と。
「私たちには全然似合いませんね」
「うん、似合わない。だから、やってみたい」
「ええ」
 分かります、と答えて鬼灯は右手を上げ、目の前の神獣の髪をさらりと梳く。
 互いに、誰かと夜を過ごしたことは数え切れないほどにある。
 だが、相手への想いを抱いて寄り添い合うだけの夜が果たしてあったか。鬼灯の答えは否であり、おそらくは白澤もそうだった。
「ベッドに行く?」
「そうですね」
 ただ優しい夜を、と誘われて立ち上がる。
 二人は場所を寝室へと変えて、広い、といってもガタイのいい男二人ならぎりぎりサイズの寝台に上がった。
 そして、鬼灯が枕をぽふぽふと膨らませていると、不意にふわりとあたたかなものが覆い被さってくる。
 え、と振り返れば、真っ白なふわふわが目の前にあった。
「どうせなら徹底的にやろうと思ってさ。出血大サービス」
 楽しげに笑う白澤は人型のままだが、その背後からかさばるもふもふが広がっている。
 思わず鬼灯は手を伸ばし、そのもふもふにそっと触れた。
「やわらかい……」
「お前、こういうの好きだろ」
「……ええ」
 鬣(たてがみ)ならば少し前に騎乗した際に触れたが、こうして尾に触れるのは初めてのことだった。
 目にしたことは、それこそ数え切れないほどにある。頻度としては年に一度か二度という程度だったが、知り合ってからは五千年を超える月日が経っているのだ。
 生まれて初めて白澤を――神獣を目にした時の衝撃は、今でも忘れられない。
 幼かったあの日、友人が連れてきた、すらりと背の高い若い男の姿が一瞬にして巨大な白い獣に変じた。
 純白の大きな体、純金色の九つの瞳、象牙色の角、五色の雲のような虹色に輝く豊かな尾と鬣(たてがみ)、つやつやとした銅(あかがね)のような蹄(ひづめ)。
 見た瞬間、それまで生きてきた中で最も美しい生き物だと思った。
 物怖じしない性分の自分が、触れたくても手を伸ばすことを躊躇ってしまったほど、その姿は神々しくて。
 心の奥底に、その美しさは憧憬と共に深く深く刻み込まれた。
「……まぁ、中身はこんなんでしたけど」
「ん?」
「いえ、貴方の本性を初めて見た時のことを思い出しまして」
「ああ。お前がまだ小さかった頃?」
「はい」
 うなずき、鬼灯は、やわらかな毛をそっと手のひらで包み込むように撫でる。
 この美しい獣の中身が救いようのない女たらしだと最初から分かっていたのは、今から振り返れば、決して悪いことではなかったように思う。
 でなければ、幼かった自分が次に彼に会うまでに、どんな幻想を育ててしまっていたか知れたものではないからだ。
 最初の出会いから随分と歳月が過ぎて、閻魔大王の第一補佐官として正式な面識を得たときも、こちらを思い出す様子もないまま酒に酔い痴れている白澤を見て、ああ、相変わらずなのかと思うだけで済んだ。それは、後々のことを思えば、少なからぬ僥倖(ぎょうこう)だっただろう。
 酒場でのだらしのない姿に呆れはしたものの、幻滅には至らなかった。
 したたかに酔っていても、最近具合が少し良くないのだと酒席で訴える女性に適切な診察を下す様を見て、博学と医療の知識に曇りはないことに驚き感心し、気のいいところは何千年経っても変わらないのだなと少しだけ安心した。
 それらの小さなプラスの感情が、結果的に今に至る道筋を導いたことは疑う余地がない。
 そんな風に記憶を反芻する鬼灯の内心を知ってか知らずか、白澤は機嫌よく笑う。
「小さいお前は本当に可愛かったなぁ。にこりともしないでさ。でっかい目で僕を睨みつけてた」
「睨んでいたわけではありません」
「うん。単に目付きが悪かっただけだよな。僕の方がうんと背が高かったし、見上げる目が三白眼になっても仕方がない。でも、あの時は、何でこの子はこんなに睨んでくるんだろうと思ったんだよ」
 そして、白澤は手を伸ばして、鬼灯の頬を包み込むように両手のひらで触れる。
「まさか、あの小さな子鬼とこんな恋に落ちるとはね。思いもよらなかった」
「私だってそうですよ」
 美しい獣に心底憧れた。触れたいと思った。
 だが、それは憧憬に過ぎなかったのだ。美しいものにも優しいものにも触れることができないまま、小さな命を理不尽に失った子供の淡い夢でしかなかった。
 やがて長じてからは、かつては憧れでしかなかった美しい獣と知識でも体力でもそこそこ互角にやり合えることが楽しくて、それがそのまま習い性になった。
 だから、いつから恋だったのかと問われても定かには分からない。
 そんな、二つ目の生と共にずっとあった、命にも等しい想いだった。
「鬼灯」
 いとおしむように名を呼びながら、白澤の温かな指先がそっと目尻をなぞる。
 そして、近づいてくる唇に鬼灯は目を閉じた。
 優しい夜を、という約束の通り、ただ温もりを分かち合うだけの口接けは、ひどく甘く快い。もう一度、と自分の方から離れてゆく唇を追い、重ね合わせれば、白澤もまた優しくそれに応じた。
「そろそろ寝ようか」
 唇を離して鬼灯の目を覗き込み、白澤は微笑む。
 ええ、とうなずき、鬼灯は彼の尾を抱え込んだまま寝台に横になる。
 そしてまた、彼の尾をふわふわと撫でていれば、同じように寝台に横になった白澤は、面白げに鬼灯を見つめた。
「そんなに気に入った?」
「はい」
 長く渦巻くやわらかな毛はどんな獣の体毛とも異なっている。見た目と感触が一番近いのは、極上の絹糸だろう。美しい艶を持ち、しなやかで、ふわりと温かい。
 どれほど撫でても飽きない最高の手触りだった。
「そりゃあ良かった」
 白澤は笑い、お返しとばかりに鬼灯の髪を撫でる。
 そして、窓越しに届く仄かな星明かりにも艶々と光る黒髪を長い指に絡めながら、お前の髪、と言った。
「長かった頃に一度、触ってみたかったな。短くてもこんなに綺麗で触り心地がいいんだから、長かったら、きっともっと気持ち良かったと思うんだよ」
「伸ばしませんよ」
「ケチ」
「ケチで結構」
 つんと、鬼灯はそっぽを向く。
 鬱陶しいのは嫌いなのだ。長年切りたくて仕方がないのを無理矢理我慢していたのに、どうして今更伸ばせるものか。いくら彼の頼みとて、そんな面倒くさい願いは聞けない。
 そう思い、突っぱねれば、白澤は小さく苦笑した。
「まァいいよ。少し惜しいとは思うけどね、今のままのお前でいい」
「そういうことにしておいて下さい」
 応じながら、また髪を撫でてくる白澤の手の心地良さに鬼灯は目を閉じる。
 温かく優しく触れてくる指は、ひどく穏やかな眠気を誘う。
 ふわふわの尾を抱え込んだまま、やがてうとうととし始めた鬼灯の頭を白澤は一層優しく撫で、甘やかに低く囁いた。

「僕の全部はお前のものだよ。ずっと傍にいるから、安心してゆっくりおやすみ、鬼灯」

 その言葉に、心のどこかを縛っていた最後の糸がふわりとほどけたかのように肩の力が抜けて。
 そしてそのまま、優しい白銀色に輝くやわらかな眠りの海へと、鬼灯は安らかに沈んだ。

End.

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