緋華

 がらり、と戸口が引き開けられる。
 白澤は煙管を手にしたまま、ゆらりとそちらへとまなざしを向けた。
 裏通りに面した造りではあるが、仕舞屋(しもたや)というほどではない。昼間はそれなりに光も当たる。
 今日最初の客人は、光の中で影となって見えていた。
 男だ。上背がある、と思う。肩幅は背丈に見合った程度。四肢は長く、隠れてはいても相応の逞しさを想像させる皺が長着に寄っている。
 その影法師が、ずい、と一歩、店内に踏み込んでくる。
 若いな、と思った。自分より一回り近く年下だろう。十代の終わり頃。そう踏んだ。
 客人は戸口を締める。そして、もとの薄明るさを取り戻した店内を一瞥してから、白澤に目を据えた。
「いらっしゃい」
 何が御入用かな?、と声をかける。
「おつかいかな? それとも、君はまだ若いけど持病でもあるかい?」
 店内の壁一面の棚には、所狭しと和漢薬の壺や箱が並べられている。白澤は、この界隈では腕利きと評判の薬師だった。
「いえ……」
 更に一歩踏み込んできた相手は、輪郭から予想した通りの若い男だった。かろうじて青年と呼べるかどうかの年頃。
 だが、若々しさを感じさせる顔つきでありながら、目に浮かぶ光にはひどく異質なものがあった。
 鋼。いや、黒曜? 紅玉?
 若いくせにやわらかさが微塵もない。表情も鋭く厳しく、可愛げというものは全く伺えない。たとえる象(しょう)は決して草木ではないだろう。
 印象を図りながら、白澤はゆるりと笑んだまま相手を値踏みする。すると、真っ直ぐに視線を合わせたまま、青年が口を開いた。
「単刀直入にお尋ねします。こちらに黒蝙(くろこうもり)という方がいらっしゃると聞いてきたのですが」
「ああ」
 なるほど、と納得する。
 身のこなしや血色を見た限りでは、この青年は健康極まりなかった。髪や爪も艶やかでしっかりとしており、病害にはとんと縁がなさそうな頑健さが窺える。誰かの使いでも務めない限り、医者になど用はないだろうと踏んだのは、間違いではなかったらしい。
「彼に用事かい」
「はい」
 しっかりと青年はうなずいた。
「仕事をお願いしたいのです」
「それは君が? それとも、誰かの使い?」
「私が、です」
 青年の答えはよどみがなかった。瞳に浮かぶ光ばかりか、声音までも硬質極まりない。
 玉鋼(たまはがね)、という言葉が白澤の内に思い浮かぶ。
 製錬を重ねられ、世界でも類まれな純度を得るに至った鋼。刀身の心髄。
 青年は、かろうじて鞘に収まっている刃のようだった。切れ味鋭く、わずかにかすっただけでも鮮血が噴き出す。
 是も否もなく、触れた者すべてに血ノ華を咲かせる美しくも危うい刃。
 面白い、と思った。
「いいよ、受けてあげる」
 答えると、切れ長の瞳が不審げにまばたいた。
「受ける、とは?」
「言葉通りの意味。君からの頼まれごとを引き受ける、ということ」
 端的に解説すると、青年の眉間に小さく皺が刻まれる。
「黒蝙氏に紹介していただけるということでしょうか」
「違う。僕が、請ける」
 短く区切った言葉に、青年は目をすがめて白澤を見た。
 鉱物のような眼の光が一層鋭く、きつくなる。
「それでは……貴方が黒蝙?」
「ああ、その名は表では呼ばないでくれないかな。僕は白澤で通ってる。見ての通り、漢方医だ」
「白澤……」
 通り名を告げれば、青年の眉が更に寄った。
 言うまでもなく白澤は大陸伝来の神獣の名だ。この国では魔よけとしてよく図案に描かれる。大仰な、とでも思っているのだろう。
 沈黙は十秒程。何事かを考え付いたかのように青年が顔を上げる。
 そして、問いかけた。
「気を悪くしないでほしいのですが……、貴方は支那に所縁(ゆかり)のある方ですか」
「そうだよ。でも、よく気付いたね」
「言葉を聞いただけでは分かりません。ただ、何となく違う感じがしました。表情や仕草や……」
「一応、日本人なんだけどな。ま、生まれはこっちでも育ちは満州で、終戦まで向こうにいたしね。支那の習慣は、確かにまだ色々と身に沁みついてるよ」
 生まれ育ちは中々消せないね。そう言うと、青年の口元がかすかに引き締まった。
 その様に、ふぅんと思う。
 青年の身のこなしそのものは、決して品の悪いものではない。口の利き方もだが、きちんと躾けられた筋がちらちらと見え隠れする。
 着物自体は質素な木綿物であり、顔つき一つをとっても良家の子息という感じはしないから、おそらくは幼少時から商家にでも奉公に出ていたのだろう。
 そして一通りの行儀作法を身に着けた辺りで、何らかの事情により道を踏み外したのに違いない。
 戦後の荒廃からやっと立ち直りつつある今も、社会はどことなく荒れたままだ。薬師の白澤ではなく、彫師の黒蝙を訪ねてここまで来るということは、つまり、そういうことだった。
「で? どんなのを彫りたいの」
 煙管の最後の一吸いを吸い終えて問いかければ、切れ長の目が再び驚いたようにまばたく。
 まさか一度の訪問で請けてもらえるとは想像もしていなかったのだろう。予想していた段取りは、幾度かの駆け引きめいた断りの末に、やっと黒蝙に取り次いでもらえる。その辺りか。
 なにしろ江戸の昔ならまだしも、明治維新から太平洋戦争の終戦直後まで刺青は非合法の技となっていたのである。やっと禁令が廃止されて数年が経ったものの、未だに刺青や彫師を見る世間の目は厳しい。
 また、彫りには高い技術を必要とすることもあって、刺青は決して安価なものではなかった。その中でも黒蝙は、とりわけ高額な報酬を必要とする当代一の彫師として名を知られている。
 精緻な技に比例して受ける仕事の件数が極端に少ないことをも、この青年は聞き知っているのだろう。年に一件か二件。それが黒蝙のこなす仕事の量だ。
 それを一見の若造が、あっさりと受けてもらえたのである。腑に落ちないのは当然のことだろう。
 まなざしを流しながら、白澤は手にしていた煙管を煙草盆にぶつけ、かつんと灰を落とす。
「わざわざうちに来たんだ。評判は聞いてるんだろ」
「……ええ」
「だったら問題ない。ちょうど二月前に一つ仕上げて休んでたところだ。そろそろ次の仕事を受けようかと思ってた。そこに君が来たんだ。渡りに船だろ?」
 白澤の笑みに青年はつられない。険しい表情のまま、じっとこちらを見つめている。
 この若さで花繍を背負おうというのだ。相応の事情を抱えているのは当然であり、強い猜疑心を抱えているのも、また当然だろう。
 青年の愛嬌のない顔つきに白澤が覚えたのは、苛立ちよりも面白さだった。
「知ってるだろうけど、僕は予約は取らない。こういうものは縁なんだよ。そろそろ仕事をしようかなという時に君が来たんなら、次は君の順番だということさ」
「……そういうものですか」
「そういうもの。僕は仕事に追われるのが嫌なんだ。食べてくだけなら、この薬局だけで十分だからね」
 決して大繁盛ではないが、日々食うには困らない程度の売上は立っている。そんな白澤にとって、彫りの仕事は道楽のようなものだった。
 もっとも、倶利伽羅紋々を入れようなどという輩(やから)が相手の仕事である。合法であっても命がけの道楽には違いなかったが。
「さあ、もう少しこっちへ来て、着物、脱いでみて。上半身だけでいい」
 告げると、わずかに躊躇うような警戒するようなそぶりを見せた後、青年はゆっくりと白澤の眼前までやってきた。
 そして、潔く諸肌を脱ぎ捨てて上半身をさらけ出す。
 普段からよく体を動かしているのだろう。若者らしく引き締まり、均整の取れた綺麗な肉体だった。
「姿勢良いんだね。骨も殆ど歪んでない」
 着物に隠れていた首から下も血色よく艶があり、病害の影はどこにも見て取れない。最初に感じた通り、栄養状態はまずまず良いようだった。
 肌はきめが細かく、極上の磁器のようになめらかで白い。目立つほくろや痣もなく、刺青を施したら実に鮮やかに映えること違いなかった。
「背中も見せて」
 指示すると、かすかに眉をしかめつつも素直に従う。
 背面も前面と同じく、傷跡一つない美しい肌だった。
 この艶やかな白い肌に針を打ち込み、墨や紅を刺したら。想像しただけで彫師の血が沸き立つようだった。
「これなら何でも映えるね。花、獅子、龍、鳳凰、不動明王、観音菩薩、天女……何がいい?」
「恐ろしげな絵なら何でも」
「――そりゃあまた、大雑把な注文だ」
 大金を積んで時間をかけ、玉の肌に傷を付けようとしているのに、こんな投げやりな注文があるだろうか。
 浮き立つ心に水を差されたような心地になり、白澤は眉をしかめる。
 だが同時に、この若さでは、思い入れのある図案がないのも仕方がないかもしれないとも思った。
 白澤の見立てが正しければ、青年はこれまでさほど悪い暮らし向きであったようには見えない。それにもかかわらず、恐ろしげな図案の刺青を背に負おうとしているのだ。
 それなりの覚悟があってのことであろうし、一方で、図案が思いつかないのも、これまで刺青になど縁がなかったのだと考えれば納得できた。
「恐ろしげねえ……。普通に考えると、獣か悪鬼か不動明王かというところだけど……」
「仏は要りません」
「明王は仏じゃないよ」
「知ってます」
 答えは素っ気ない。だが、そこには明確な意志が込められているのを白澤は感じ取った。
 ともかく神仏に属するものは嫌だということだろう。となれば、一般には恐れられ忌まれるものが相応しいということになる。
「獣、悪鬼、幽霊。どれがいい」
「どれでも」
「……あのさぁ、もう少し協力的になりなよ。一生背負うんだよ? 一旦彫ったら、まず滅多なことでは消せないんだよ?」
 刺青の墨は肌の奥深くにまで達するため、皮膚を肉が見えるほどまではがしでもしない限り、消すことは難しい。将来、医学が発達すればまた別の方法が発案されるかもしれないが、今の技術では正真正銘、一生ものなのだ。
 少しは真剣に向き合えと諭すと、しばらくの沈黙の後、短い答えが返った。
「――では、鬼を」
「鬼か」
 ふむ、と頬杖をついて目の前の背中を眺めながら白澤は考える。
 百鬼夜行を思い描き、少し違うなと却下する。この青年に青味がかった図案は似合わない。墨絵はと思ったが、それも少しばかり違う。
「赤……炎か」
「はい?」
「燃え盛る焔(ほむら)……、うん、映えるな。いっそ地獄絵は、どう?」
 呟きに反応して肩越しに振り返った青年に、提示する。
 すると、案外に長い睫毛を揺らめかせて青年はまばたいた。
「……いいですね」
「よし、じゃあまた明日にでもおいで。図案を作っておいてあげる」
 もう着てもいいよ、と言うと、青年は無駄のない動作で着物を直す。その手の動きはやはり綺麗で、良く躾けの行き届いたものと白澤の目には映った。
「お代はどうすればいいですか」
「彫り始める日に半金をもらうよ。仕上がりの日に残り半分。途中で君が根を上げても、先もらいの分は返さない。残金が用意できない場合には、仕上げてあげない。そこで終わりだ」
「分かりました。それで結構です」
 それでは、と青年は会釈する。
 行きかける背に、白澤はふと思いついて声をかけた。
「あ、そうだ。一応聞いておくよ。君の名は?」
 そう問うと、青年はほんのわずかな間ではあったが動きを止め、躊躇したような短い沈黙の後。

「鬼灯、と。そうお呼び下さい」

 静かに答えた。
「鬼灯ね、了解。良い名だ。似合ってるよ」
「それでは失礼します。明日もまた、これくらいの時間に来ます」
「うん、待ってるよ」
 ひらひらと右手を閃かせる白澤に見送られて、鬼灯と名乗った青年は薬局を出てゆく。
 そして元通りの静けさを取り戻した店内で、さて、と白澤は呟いた。
「鬼灯。鬼灯ねえ……」
 しばし考えた後、紙を広げて一気に細筆を走らせる。
 輪郭を取り、彩色をして。




「さあ、これでどうだ」
 翌日、約束通りに店を訪れた青年の前に広げたのは。

 ――禍々しい針山を光背のように背負い、燃え立つ炎を蛇のように身にまとわりつかせた憤怒の形相の悪鬼神。
 その周辺を彩る苦悶する魂魄のような緋色の鬼灯、血色の彼岸花。

「――――」
 美しくも恐ろしい、凄絶な図案に軽く目を瞠ったまま見入っている青年の横顔に、白澤は満足を覚える。
「どう?」
「――これで、お願いします」
「承知」
 図案に魅入られたように視線を向けたまま、鬼灯と名乗った青年は答える。
 それを聞いて、ニィ、と白澤は笑った。
「実際の絵は、肩から腰の下にまでかかる。横は脇腹のギリギリまで。肌を落ち着かせながら間隔を空けて彫るから、半年くらいかかるけど、通える?」
「大丈夫です」
「あと、傷を付けるわけだから慣れるまでは熱が出たりすることもある。普通に手当てしていれば、そんなことにはならないけどね。ともかく、綺麗な絵が欲しいなら、こちらの指示には従って欲しい」
「はい」
 静かにうなずくのを見届けて、白澤は笑む。
「よし、じゃあ契約完了。いいね?」
「はい」
 青年は再びうなずき、懐に手をやる。取り出した封筒には相応の厚みがあった。
 白澤は黙ってそれを受け取り、手で重さを量る。対価は告げていなかったが、相場のわきまえくらいはあったのだろう。前金としては十分な額だった。
 封筒をそのまま手文庫にしまい、さて、と青年を省みる。
「どうする? 君の体調は良さそうだし、早速今日から取り掛かるかい?」
「お願いします」
 相変わらず青年の答えにはよどみがない。
 ならば、と白澤は立ち上がった。
「こっちへ来て。奥でやるから」
 店の戸口に臨時休業の札を下げ、施錠してから奥の部屋へと進む。
 寝台と、整理されて並べられた道具類、染料。
 それだけしかない室内を見回してから、青年は目で白澤にどうするべきかと問うた。
「とりあえず着物脱いで。下帯も全部」
 尻にまで掛かる図案である以上、どうしても素っ裸にはなってもらわねばならない。淡々と白澤は指示を出した。
「台に上がってうつぶせになって。筋彫りにかかる時間は……この図案なら三時間。どうしても耐えられないようなら途中で切り上げてあげるから、安心するといい」
 その白澤の言葉に青年はちらりと視線を投げただけで、黙って帯に手をかけた。
 躊躇う様子もなく平帯をするすると解き、脱ぎ落した着物を傍らに用意してあった乱れ箱に軽く畳んで納める。下帯も同様だった。
 そして寝台に上がり、うつぶせに身体を横たえる。
 一連の無駄のない動きに、どれほどの苦痛であろうとこの青年は声一つ立てないのではないかと思いつつ、白澤は消毒済みの器具を再度消毒し、鬼灯の背にもアルコールを塗布した。
 冷たいその刺激にもかすかな反応を示しただけで、脈や呼吸は落ち着いたままである。
 これならば存分に彫れそうだと、白澤は用意してあった線のみの下絵を肌の上に乗せた。
「濡らすよ」
 一言断ってから、手桶に用意した水を和紙に含ませてゆく。そうしてしばらく置いてから、そっと下絵をはがすと染料が肌の上に移っていた。
 筋彫り用に束ねた針を手にし、すうっと肌に左手を滑らせれば、見た目以上にすべやかな感触が指先に伝わる。
 どこにも弛みもない。間違いなく極上の素材だった。
「始めるよ」
 針の先をよく磨った墨に浸し、最初の一突きを刺し込む。
 その衝撃にも、青年の肌はすべてを覚悟しているかのように、慄きすらしなかった。




 予想通り、青年は一言たりとも苦痛の声を上げはしなかった。
 無論、痛みを感じていないはずはなく、その証拠に、とりわけ痛覚の鋭い肩甲骨付近や臀部に針を突く時には、汗に濡れた肌の下で筋肉が強張っていた。
 それでも身じろぎ一つせずに耐えたのは、どんな想いがあってのことだったのか。
 初めての筋彫りでこれほど耐えた例は、他に知らない。
 それでも全ての主線を突き終え、冷たい水で絞った手拭いを渡してやると、彼はどこか安堵した表情で顔と首筋を拭った。
「見てごらん」
 三面鏡の前に招き、合わせ鏡にして背を見せてやる。
 鮮やかに浮かび上がる墨線のみの悪鬼神。まとわりつくような火炎と彼岸花と鬼灯の実。
 まだ線の周辺全体が赤くなっており、見るからに痛々しいが、今だけのことだ。この若さだから直ぐに傷など塞がってしまう。
 青年はわずかに目を瞠って見入った後、ありがとうございます、と静かに言った。
「うん、君も良く耐えたね。身動き一つしないから彫りやすかったよ」
「そうですか」
 もう着物を着ていいよ、と告げると、青年は乱れ箱のもとへ行って着付け始める。身支度が整うのを待ってから、白澤は今後の療養について説明した。
「とりあえず、今日から一週間は風呂は我慢して。汗を流したいときは、手のひらを使ってそっと水で撫でる感じで、頭から湯を浴びたりするのは禁止。
 何日か経つと今度は猛烈に痒くなってくるけど、それも触ったら駄目。とにかく、この軟膏を塗って乾燥させないことが大事。もし具合が悪くなったら、すぐにうちに来るか、連絡を寄越すんだよ」
 言いながら、白色ワセリンの詰まった容器を差し出す。青年は表情を変えず、受け取った。
「そうだね、次は二週間後かな。色を入れるけど、筋彫りに比べたら痛みは毛のようなものだから、安心して来て」
「分かりました」
 彼がうなずくのを見届けてから、連れ立って施術室を出る。そして、もう一度頭を丁寧に下げて青年は店を出て行った。
 右手を上げてその姿を見送った後、やれやれ、と白澤は疲れ果てた溜息をつく。
 彫りの仕事は全身全霊を懸けなければできない。肩も背中もがちがちに張り、鈍い痛みを訴えていた。
「あー、湯治にでも行きたいなぁ」
 ぐるぐると首や肩を回しながら、今しがた出ていったばかりの青年のことを思う。
 尋常な胆力の持ち主ではなかったが、さて、一体どんな境遇に身を置いているのか。
 気にならないと言えば嘘になるが、一切顧客の事情については聞かないのが彫師としてのわきまえだ。
「次は二週間後、か」
 おそらく彼は律儀に来るだろう。
 そうしたら飛び切りの色と技で、あの白い肌を染め上げてやれる。
 主絵の周囲を彩る額彫りは、やはり墨のぼかしで仕上げるのが似合いかとあれこれ考えながら、片づけをするべく白澤は奥へと戻った。

*             *

「君は、どこで僕の名前を聞いた?」
 白澤がそう尋ねたのは、五度目の施術が済んだ後だった。
 冬の初めの肌寒い日だったが、一仕事終えた後は冷たい水が何よりも美味い。青年の分も湯呑に汲んで渡してやれば、短く礼を言って彼は受け取った。
「――天華楼の妲己さんに」
「妲己ちゃんか」
 なるほど、と白澤は笑う。
 この町のちょうど反対側に位置する花柳街。そこの一番の売れっ妓である妲己は、背にあでやかな茶吉尼天と牡丹花を背負った絶世の美女だ。無論、黒蝙こと白澤の作である。
「妲己さんの茶吉尼天は有名ですから、彫師のことを聞いたら貴方の名前が出ました」
「うん、あれは会心の出来だったよ」
 とびきりの美女の魅惑的な肢体、輝くような肌に、彼女自身の面影を持つ美しい茶吉尼天を浮かび上がらせるのは実にやりごたえのある仕事だった。
 そして今、同じくらいに会心の作に上がりそうな仕事がある。
 ちらりとまなざしを向けると、鬼灯は落ち着いた表情で冷たい水を含んでいた。
 筋彫りにさえ無言で耐えた彼が、はるかに痛みの軽いぼかし彫りに耐えられないわけがない。今日は寝台に伏したまま、うたた寝さえしていたようだった。
「貴方は……どうして彫りの仕事を?」
 ぽつりと低い声が問いかける。
 それは、彫りを開始して以来初めての彼からの能動的な発言だった。
「んー。もともとは家系だよ。母方の曾祖父が彫師をやってたんだ」
 何故、彼が問おうと思ったのかは知れない。単なる気まぐれだろうか。
 だが、隠すほどのことでもなかったから、白澤は端的に答えた。
「明治になって禁止されてからは潜って仕事を続けていたらしい。腕は良かったそうだよ。きっかけはそれ。後はなりゆきかな」
「なりゆきで、それだけの技を身に着けられるものですか?」
「らしいよ」
 ゆるりと笑う。
 半分本当で、半分嘘だった。
 彫り物に縁のある家系であったのは本当だが、元はといえば、まだ満州に居た頃に知り合った相手が彫師だったことが、彫師・黒蝙誕生の直接のきっかけである。
 白澤の両親と同様、一旗揚げようと日本から渡ってきた彫師は、少年だった白澤が興味を示すと手慰みに技を教えてくれた。
 足かけ五年ほどの間に白澤は彼の持つ技術の全てを習得し、漢方医としての学を修めながら、隠れて彫りの仕事をするようになったのだ。
 大陸でも日満漢を問わず刺青は法で禁じられていたが、和彫りの持つ美しさや迫力ゆえに入れたがる者は後を絶たなかった。白澤は身に着けた彫りの技によって様々な相手と縁を結び、終戦前後の混乱期をどうにか潜り抜けて引揚げ船に乗ることができたのである。
 いわば、白澤の彫りの技術は死の瀬戸際、命ぎりぎりの状況下で磨いた技であり、白澤が日本へ帰るための命綱だった。
 だから、今の白澤は自分の作品を称賛されても、特に何とも思うことはない。人ひとりの命の対価に値するものを自分は作り出しているのだ。ただそれだけの事実を指摘されて、今更高揚するはずもない。
 笑んで必要以上は語らない白澤に、胡乱げなまなざしは向けたものの、鬼灯は重ねて問うことはしなかった。
 なにしろ彼自身、何一つ語らないのだ。否、彼ばかりでなく終戦を挟んでここ十年程のことを進んで語りたがる者など、そうそういるものではない。
 戦地にいた者たちは言うまでもなく、銃後の者たちまでも誰もが疲弊し、苦難に喘ぎ、時には悪事に手を染めた。そうしなければ生きられなかった。
 だから今は、誰のことも咎められないし、咎められたくもないと殆どの者が等しく思っている。
 彼も自分も、そのうちの一人というだけのことだった。
「ひとまず、ぼかしまでは完成したから、今度から額彫りに入るよ。墨のぼかしでいいかい?」
「お任せします」
「うん」
 背に修羅を負いつつある、未だ年若い青年。
 彼の内に何があるのか、白澤が知るのはそれからまだ何年も先のことだった。

*             *

「はい、完成」
 告げて、合わせ鏡の前に立たせる。
 紅蓮から墨色に、その先は肌色に溶け込む額彫りに囲まれた悪鬼神は、憤怒の形相で右手に青竜刀を、左手に血の滴る生首を持っている。
 その肌にまとわりつく炎、後背を飾る針山、足元から咲き乱れる彼岸花、寄る辺なく転がる朱い鬼灯の実。
 鏡に映し出されているのは、凄艶の一言に尽きる極彩色だった。
 鬼灯は無言のまま、つくづくとその絵面に見入っている。
 それから、ゆるりとまなざしを白澤に向けた。
 二人の背丈は白澤の方が少しばかり高いだけである。視線は、ほぼ真っ直ぐにぶつかり合った。
「ありがとうございました。貴方に依頼して良かった」
「それは良かった。僕もいい仕事ができて楽しかったよ」
「そうですか」
 いつもと同じく無表情でうなずき、鬼灯は乱れ箱に近づいて着物に袖を通し、帯を締める。
 そして、改めて白澤に向き直った。
「半年間、お世話になりました」
「うん。万が一、色が褪せたり傷がついたりするようなことがあったら、またおいで。すぐに直してあげるから」
「はい」
 こくりとうなずいて、それでは、と鬼灯は辞意を告げる。
 白澤も引き止める理由はなく、表の店まで送った。
「失礼します」
 一番最初の時と同じく端正な所作で一礼し、青年は踵を返して出てゆく。
 その際に見えた横顔、そして見送った背中は。
 
 ――白澤がこれまで見た中で一番、硬質なものだった。

 何もかも拒絶し、跳ね返す、無慈悲な色。
 何一つ恐れるものなどないという、強いまなざし。
 全身にみなぎる黒い業火のような気迫。
 ああ、と白澤は思う。
 青年は今、修羅になったのだ。
 背に負う羅刹と同じものになった。その行く手に待つものは、神か鬼か。
 分からなかった。
 分からなかったが、負けるまい、と思った。
 彼は、負けない。
 決して斃れない。
 そしていつかまた、自分はあの青年に出会う気がした。
 彫師と客として、あるいは、全く違う形で。
 きっともう一度、どこかで巡り会う。
 その時、果たして彼は悪鬼神の顔をしているのか、人の子の顔をしているのか。
「楽しみだね、鬼灯」
 目を細めて、ただ一つだけ教えられた通り名を呟き。
 白澤は静かに奥へと戻った。





 ――闇市の仕切りを巡ってひどく荒れていたこの地域が、とある顔役の下で再び落ち着きを取り戻したと白澤が聞いたのは、それから数年後のことだった。
 その顔役に最も忠実な若頭の背には、見る者の目を釘付けにする紅蓮の羅刹が棲んでいるという噂も。
 全ての噂と同様、さやかに白澤の耳を撫で、通り過ぎた。

End.

彫師の白澤さんと刺青鬼灯様に萌えた結果です。
時代物は書いていて楽しいです(*´∀`*)

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