碧天

 いつもと変わりない桃源郷のうららかな春天の下。
 日課である仙桃の世話にいそしむ桃太郎が目にしたのは、全身から憤怒のオーラを立ち昇らせながらこちらへと向かってくる閻魔大王の第一補佐官の姿だった。
 不機嫌さも顕わに、いつもにも増して大股でずんずんと歩み寄ってこられては、気付かぬ振りもできない。
「馬鹿は居ますか?」
 闇色の瞳を一瞬、朱赤と錯覚するほどに目を怒らせてはいても、口調ばかりは丁寧なままなのが恐ろしい。
 地を這うような低音で尋ねられて、こくこくと木偶(でく)のようにうなずく以外、一体何ができただろうか。
 悪鬼そのものの容貌で極楽満月の店舗へと入ってゆく鬼神の後姿を見送りつつ、桃太郎は上司の五体満足を心ひそかに祈ったのだった。

*       *

「桃太郎さん」
 打って変わって涼やかな声で名を呼ばれたのは、鬼灯が極楽満月を訪れてから二十分余りも過ぎた頃合だった。
 桃源郷は常春であるだけに、下草の伸びも速い。草刈に精を出していた桃太郎は、汗をぬぐいつつ後ろを振り返った。
「もうお話は済んだんですか?」
「ええ、一応」
 その言葉は嘘ではないのだろう。声と同様、鬼灯の気配も表情もすっきりと収まっている。
 その割には派手な物音はしなかったけどな、と桃太郎は、この二十分ばかりを振り返る。
 鬼灯が店舗に入っていって直ぐに同僚の兎たちも追い出されてきたのには驚いたが、そもそもからして、それぞれ重い立場にある二人である。余人には聞かせられない事も多いのだろうと、桃太郎はそのまま桃林で作業を続けていた。
 途中、鬼灯の荒ぶる声が一言二言、聞こえたような気はするが、距離的にも内容が分かるほどの音量ではなかったから、二人の会話の内容は全く見当もつかない。
 ともかくも、こうして鬼灯が平静に戻ったということは、問題には何らかの解決がされたのだろうと桃太郎は思った。
「それで、白澤さんがお茶にしようというので、皆さんを呼びに来たんです」
「あ、そうですか。わざわざありがとうございます、って鬼灯さんもですか?」
「ええ。私は帰ると言ったんですがね。引き止められました」
 あの人と違って私は忙しいんですが、と鬼灯は素っ気なく答える。しかし、桃太郎は、またか、と不思議なものを見る心地で闇色の鬼神を見つめた。

 桃太郎の上司である白澤と、閻魔大王の第一補佐官の不仲は今更言うまでもない。
 嫌い合っているのはお互い様だが、どちらかというと、その色がより濃厚なのは鬼灯の方である。桃太郎が見たところ、白澤は積極的に嫌うというよりは、鬼灯が無体をするからこそ彼との対面を嫌がっている節がある。
 しかし、その割には二人は頻繁に顔を合わせているし、会えば毎度のように、余人には理解しがたい勝負を繰り広げている。
 不仲には違いない。けれど、能力を確かに認め合っているところもあり、お互いに言うほどは実は嫌い合っていないのではないかと言うのが、桃太郎の正直な感想だった。
 そして今も、鬼灯は難色を示しつつも、共に茶を喫することには同意している。
 何とも不思議な仲だと言うしかなかった。

 ともかくも、休憩に呼ばれているのならと桃太郎は鎌を置いて、首にかけていた手拭いで汗をぬぐう。
 その間に鬼灯は、薬草園のあちらこちらでで作業をしている兎たちにも順々に声をかけてゆく。
 身をかがめて兎たちに話しかける鬼灯の横顔は相変わらずの鉄面皮ではあるものの、声は心なしか優しく聞こえるようだった。
 ヒト型以外の動物たちに対しては優しい鬼灯のことは兎たちも好いているようで、顔を上げてふこふこと鼻を動かし、小さくうなずいては店舗に向かって跳ねてゆく。
 凛とした佇まいの常闇の鬼神と、彼の足もとを跳ねる白や茶色の兎たち。そんなメルヘンチックな光景に妙な感動を覚えていると、兎たちに声をかけ終わった鬼灯がこちらを振り返った。
 自分が店へ戻るのを待っていてくれるのだろう。こういう時、鬼灯は訪問先の家人を差し置いて、自分だけが先に行くような非礼はしないのである。
 慌てて桃太郎は、彼のもとへと行った。
「すみません、お待たせして」
「いえ、構いませんよ」
 無数にある地雷を踏まない限り、鬼灯の言動は穏やかなものである。
 鬼灯は、ゆるやかに吹き抜ける春風に癖のない黒髪を遊ばせつつ、仙桃園へとまなざしを向け、どこかしみじみとした口調で言った。
「それにしても桃太郎さんは勤勉ですね。斡旋した私が言うことではないですが、あの駄獣の下に居ながらよく……」
「あー、ははは」
 桃太郎は乾いた笑いを零す。
 何かというと怠惰に流れる享楽的な上司ではあるが、しかし、白澤は一方で弟子に知識を教授することを全く惜しまない。弟子の進度を図りつつ、常に絶妙なタイミングで新たな知識を授けてくれる白澤のことを、桃太郎は心から尊敬している。
 酒色にだらしのない面を見れば、どうにかならないかこのケダモノめと思わないでもないが、ここへ来てからの歳月に培われた根底の信頼が揺らぐことは、最早なかった。
「あの通り、色々としょうのない人ですけどね。俺は白澤様のことは尊敬してますし、この仕事も天職だと思ってますし」
「だからこそ、働くことは苦にならない、ですか」
 分かるような気はしますけれどね、と鬼灯は呟く。
 その響きに何とはなし微妙なものを感じた桃太郎は少し考え、なるほどと思い至った。
 考えてみれば、鬼灯の上司である閻魔大王ものんびりとした気質で、サボり魔の一面がある。
 そんな大王を鬼灯が四六時中、折檻しているのは周知の事実だ。しかし、閻魔大王に対する信頼もまた深いということは、彼の言動の端々から伝わってくる。
 大王の人格に一目置き、信頼しているからこそ無体の限りを尽くせる。実にひねてはいるが、そういう面が彼の内には少なからずあるように思われた。
(――あれ? 今、何かが引っ掛かったような……)
 不意に桃太郎は自分の思考につまづいて、小さく首をひねる。
 だが、その答えに辿り着くよりも早く、極楽満月の入口に到着してしまった桃太郎は、客人に戸を開けさせるわけにはいかないと、扉に手を伸ばす。
 そして鬼灯と共に入口を潜った時には、小さな思考のつまづきについては、すっかり忘れてしまっていた。
 しかし、
「あ、おかえりー」
 常と変らぬ、のんきな上司の声が桃太郎と鬼灯を出迎える。その時点で、桃太郎は再び、あれ?、と思う。
 隣りを伺い見れば、鬼灯もまた静かなままだ。無表情は変わらないが、いつものような険悪な顔ではない。用意された椅子におとなしく腰を下ろすのが、いっそ不気味なほどである。
 仲直り……という表現は当たらないだろう。この二人が仲良くしている場面など、これまで見たこともない。とすれば、休戦協定でも結んだのだろうかと桃太郎が訝(いぶか)った時。
 鬼灯が冷やかに呆れ果てた声を出した。
「何てものを持ち出してくるんですか、貴方」
「え、だって、折角じゃん」
「それ、明朝の青花でしょう。本物の」
「当ったり〜」
 青花というのは、日本でいう染付、つまりは呉須と呼ばれる藍色の染料で絵を描いた大陸の陶磁器のことである。
 現代では馴染みの薄い用語だろうが、大陸の明代、イコール日本の室町時代に生きていた桃太郎にとっては、取り立てて難解な語彙ではない。
 だが、その意味するところには仰天した。
「明朝って、青花って……! 今、何年だと思ってんですか!?」
「えー。二〇一三年だよね、今?」
「暦年くらい覚えていて下さい。その頭は飾り物ですか」
「僕にとっては一年も一日も大差ないんだよ。ええと、明が滅びてから……ありゃ、まだ千年も経ってないじゃん」
「崇禎帝の自殺から数えるなら三六九年ですよ。大雑把にもほどがある」
 溜息交じりに鬼灯は言い、白澤の手元にある精緻な花卉文様の蓋碗を見やった。
 透けるように薄く、美しい光沢のある乳白色の地に、図案化された牡丹や菊花が明るい藍色の染料で華やかに描かれている。それは陶磁器に関する素養のない桃太郎の目にも第一級の品として映った。
「貴方が何を持っていても今更驚きませんが、なんで景徳鎮なんか引っ張り出してくるんですか」
「引っ張り出してきたわけじゃないよ。普段から上客用とか自分が楽しむ用に使ってる」
「これをですか」
「うん。これを手に入れた頃は、こんなのはそこら辺にごろごろあって、特に珍しいものでもなかったんだよ。これだけの良品は当時でも高価だったけどさ。うちの蔵には似たようなのが、まだいっぱいあるよ」
 景徳鎮、という地名は桃太郎も僅かに聞き知っていた。明代の最高級の陶磁器を生み出していた産地の名だ。
 日本でも陶器を最大の産地名を冠して瀬戸物と言うように、当時、最高級の大陸産の磁器は景徳鎮と呼ばれていたのだ。
 だが、そんな理解は何の助けにもなりはしない。むしろ、当時の権力者達がこれらの磁器にどれほど執着していたかを知る分、余計にぐらぐらとめまいがしてくるのを桃太郎は感じた。
「まあ、茶器は茶器なんですから死蔵しても無意味ですが……」
「そうそう。これの兄弟の絵皿なんか、かわいそうだよー? 重要文化財だか何だかで博物館に飾られちゃってるんだから。器は使ってなんぼなのにさ」
 言いながら、白澤は器用な手で蓋付きのその器にたっぷりと茶葉を入れ、湯を注ぐ。その手捌きは流れるようで、まるで美しい舞踏か何かを見ているかのようだった。
 程なく、蓋碗よりこの方が飲みやすいだろうからと、同柄の小さな茶杯に薄い色合いの茶が注がれる。
 湯気と共に立ち上る香りは花とも果実ともつかない、華やかで清々しい何とも佳いものだった。
 いただきます、と断ってから鬼灯は、茶杯を手に取る。淡い緑の水色を見つめ、一口をそっと啜ってから小さく首をかしげた。
「龍井ですか? 以前に出していただいたものより等級が上のようですが……」
「正解。獅峰の特級品だよ」
 白澤が笑うと、もとより吊り上った眦が更に上がる。それは上機嫌の猫にどこか似ていた。
 一方、鬼灯はといえば、呆れた表情を隠しもしない。
「貴方が、どれだけ道楽を尽くそうと知ったことではないですが、一体どれだけ浮かれる気ですか」
「だって嬉しいんだもん」
 にこにこと笑う白澤と、仏頂面とはいえ険悪ではない鬼灯。
 その有り得ない構図に、桃太郎は手元の茶を飲むことも忘れ、何が起きたのかと怯えながら二人を見つめる。
 この二人が真実の意味で嫌い合っていないことは、これまでの経緯で薄々感づいてはいた。しかし、この状況は何なのか。
 明日は常春の桃源郷に大雪でも降って、たわわに実った仙桃が全滅してしまうのではないか。
 そんな心配をし始めた時、青ざめて引きつった桃太郎の表情に気付いた白澤が、ああ、という顔になった。
「そっか。まだ言ってなかったね。あのね、桃タローくん」
 にっこり笑って白澤が告げた言葉は。

「僕と鬼灯、先日から付き合い始めたから」

 一瞬とはいえ、桃太郎の気を失わせるには十分だった。

 

「ど、ど、ど、どうしてそんなことに……!?」
 衝撃が強すぎて、かえってのんびり気絶していられないということは往々にしてある。桃太郎の今の状態もそれだった。
 付き合う、という言葉の意味を問い直す気にはなれなかった。今の白澤と鬼灯の様子を見れば、その意味するところが一つしかないことは明白である。
 だが、何故そんなことになったのかは、まったく理解ができない。
「どうしてと言われても、ねえ?」
「私に振らないで下さい。それよりも、そろそろ時間です」
「え、もう?」
「お茶には付き合って差し上げたでしょう。さあ、地獄の玄関まで送って下さる約束ですよ」
「分かってるよ」
 もう、と渋い顔をしながら、白澤はカウンターを回り込んでくる。
「大陸のお茶は最低、三煎目まで楽しまないともったいないのに」
「一煎目は香り、二煎目は香りと甘さ、三煎目は甘さでしょう。知ってますが、時間がないと言っているのに、獅峰みたいな極上品を出す貴方が悪いんです」
「そりゃそうだけどさぁ」
 言い合いながら二人は、外へと出てゆく。
 そして、見送りのためについて出た桃太郎の目の前で、白澤は本性の巨大な獣の姿に変じた。
 体毛は陽光を浴びて美しい白銀色にきらめき、長く渦巻く豊かな鬣(たてがみ)や尾は揺れるたびに小さな虹をはじく。
 九つある瞳は澄んだ純金色で四方を睥睨し、堂々たる逞しい四肢は溢れ出さんばかりの力を漲らせて大地を踏みしめる。
 いつ見ても惚れ惚れとするような美しい異形の獣は、大地に身を屈めてその背に鬼神を乗せた。
「それでは、桃太郎さん。これで失礼します」
「あ、いえ、何のお構いもせず……」
 間抜けな常套句を口にする桃太郎に、少しだけ思案するような顔をしてから鬼灯はもう一度、彼の名を呼んだ。
「桃太郎さん」
「はい?」
「一つだけ言っておきますが、これが浮気をしても放っておいて下さって構いませんよ。私に報告する必要もありません。公認の上ですから」
 は?、と思わず桃太郎が聞き返しかけた時、白澤が大きな声で叫ぶ。
「浮気なんかしないって言ってるだろ!!」
「それが証明できるのは、私の今際(いまわ)の際ですよ。さあ、さっさと飛んで下さい。一時間で戻ると言ったのに遅れては、皆に示しがつきません」
「分かったから蹴るな!」
 どすどすと容赦なく踵で胴体を蹴られて、白澤は前方へと顔を向ける。そして、鬼灯に一言、しっかり掴まってろよと声をかけて、僅かに力を四肢に溜めてから宙へと軽やかに飛び立った。
 そのまま地獄の正門の方角へ素晴らしい速さで、鬼神を乗せた神獣は青く澄み渡った天を駆けてゆく。
 神々しいまでに白く輝くその姿を呆然と桃太郎は見送り。
 店の前に出てきていた同僚の兎たちと顔を見合わせ、一体何がどうなってるんだ……と直ぐには答えの帰らない問いをぽつりと零したのだった。




 白澤が極楽満月に戻ってきたのは、それから十分も経たない頃だった。
 徒歩でなら二十分程もかかる距離であっても、本性ならばほんの一、二分で行けるのだと以前に聞いたことがあったから、桃太郎は驚きはしない。
 むしろ、問い詰めたいような問い詰めるのが恐ろしいような気分で、人型に戻り、店内に入ってくる上司を出迎えた。
「ただいまー」
「おかえりなさい……」
「? 何、辛気臭い顔して」
 上機嫌で戻ってきた白澤は、弟子の顔を見て不思議そうな表情を浮かべる。
 そして、ひょこひょことカウンター内に戻り、再び鉄瓶で湯を沸かし始めた。
「とりあえず、お茶の続きしようよ。座って、座って」
 慣れた手つきで固形燃料に火を付け、鉄瓶を据え直してから、蓋碗の中の茶葉を銀製の長い箸で具合良くほぐす。程なく湯が沸くと、いつもと同じ雅やかな所作で湯を注ぎ、碗の蓋を閉めた。
 やがて小さな茶杯に注がれた茶は、一煎目よりは色が浅いものの香りは相変わらず豊かで、桃太郎は思わず息を深く吸い込んでしまう。
 そんな桃太郎を見て白澤は小さく笑み、飲んで、と勧めた。
 言われるままに一口含めば、鬼灯が言っていた通り一煎目よりも甘さの膨らみを増した茶が、心地よく喉を滑り降りてゆく。
 そして深く残る余韻に、ほうと息をつけば、白澤は一層微笑みを深くした。
「いいでしょ。上等の茶にはね、色々な効用があるんだよ。一番は心をほぐしてくれること」
「はあ」
 それは今、分かった。
 普段でも美味しい茶を喫すれば、気持ちが落ち着く。だが、この茶はまた格別だった。
「大陸には銘茶が色々あるけれど、これはそのうちの一銘柄、龍井の特級品。ここまで上物になると、手に入れるのもなかなか難しい」
「……それを鬼灯さんに出してあげたんですか」
「そりゃあ好きな子にはね。出し惜しみなんかしないよ」
 何だって一番いいものをあげるんだ、と楽しげに言う白澤に、しかし、桃太郎は複雑だった。
 つい先日まで顔を突き合わせるたびに派手な喧嘩を繰り広げていたのに、その相手を好きな子などと言われても困るのである。
 そんな桃太郎の表情を見て取ったのだろう。
「さて、気分がほぐれたところで何でも聞くといいよ」
 笑みを浮かべた白澤は、青花の茶杯片手にそう促した。
「そうは言われても……。第一、勝手に答えたら鬼灯さんは怒るんじゃないですか?」
「いや、怒らないと思うよ。話す内容の度合いにもよるだろうけど、基本的にあいつはオープンな奴だから、自分も隠したりはしないんじゃないかな。多分、閻魔大王様にも話は通すだろうし」
「……何なんですか、その男らしさは……」
「だから、筋の通らないことは基本、しないんだよ。暴力については理不尽極まりないけどもさ」
「はあ」
 曖昧にうなずきながらも、桃太郎は、それが事実ならば閻魔大王様も気の毒に、と考える。
 あまり詳しいことは知らないが、地獄が今の形になって間もない頃から、鬼灯は閻魔大王の補佐官を務めているらしい。上司と部下としての親密さは、傍から見ていても充分に分かる。
 その最も信頼する部下が、よりによって神獣、それもこれまで散々に喧嘩をしてきた相手(♂)と付き合い始めたというカミングアウトである。
 驚き過ぎて、ぎっくり腰でも起こさなければいいが、と桃太郎は思わず真剣に大王の身を案じた。
「それにしても、一体いつからお好きだったんです? 全然そんな感じがしませんでしたけど」
「ん? あいつを本気で嫌いだったことなんか一度もないよ」
 溜息交じりに問えば、きょとんとして返される。
「はあ?」
「あー、あの理不尽な暴力はどうにかしてくれと思ってたけどね。あいつが僕に向けてくるのは、その他大勢に対するような『理由のある乱暴狼藉』じゃないことは分かってたし。ムカつきはしたけど、あいつ自身を嫌いだったわけじゃないよ」
 何だか大層難解な日本語を並べられる。瞬時にはその意味するところを理解しがたく、桃太郎は顔をしかめた。
「……何か、理由のない暴力だからオッケーだったっていう風に聞こえるんスけど」
「その通りだよ。考えてもみなよ。あいつが、向こうは特に何もしていないのに問答無用の暴力を振るう相手って誰がいる?」
「いる、って言われても……」
 俺はあの人のことをそんなに詳しいわけじゃありませんし、と言いながらも、桃太郎は考える。
 鬼灯が暴力を振るう場面はよく目にするが、その大半は白澤に対するものだ。それから閻魔大王のことも、常に容赦なくしばき倒している。
 後は、かつての自分のように、誤ったことをした者に対する鉄拳制裁くらいしか思い浮かばない。
(――あれ?)
 そこまで考えて、桃太郎は先刻、休憩を呼びに来た鬼灯と会話をした時の引っかかりを思い出す。
 そう、あの時は確か、こう思ったのだ。
 ―――大王の人格に一目置き、信頼しているからこそ無体の限りを尽くせる。
 一目置き、信頼しているからこそ。
 その部分をもう一度繰り返して、桃太郎は白澤を見る。
 すると、白澤は片頬杖をつき、笑顔でこちらを見つめていた。
「分かった?」
「分かった……気はしますけど」
「うん。昔っからね、あいつは僕に甘えてるだけなんだよ。まァ、僕の浮ついたところが嫌いだから、ぶん殴るのをためらわないって面はあったと思うけど」
 本当に可愛いよねー、と惚気られて、何だそれは、と思う。
 なんと暴力的で難解なツンデレなのか。いや、この場合はツン=デレであって、デレはデレでないのか。
 これを可愛い、好きだとなどと言える男は、世界広しといえども、この神獣だけだろう。心が広いにしても限度があり過ぎる。
 なるほど、このひとは偉大なるアホなのかもしれないと改めて納得しながら、桃太郎は少しばかり冷めた茶を啜った。
 小さな茶杯が空になると、白澤はとろ火にかけたままだった鉄瓶の湯を蓋碗に注ぎ、三煎目を淹れてくれる。
 茶葉の香りと味が失せるまで、こうして何度も湯を注ぐのだということは彼から教えられて知っていたが、茶杯の香りはまだまだ濃い。特級品というだけあって、随分と力のある茶葉のようだった。
 うららかな昼下がり、人型の師弟は揃って香り高い茶を喫し、兎たちは銘々に毛づくろいして心地よい日差しを浴びている。
 何とものどかではあったが、桃太郎の心情は複雑だった。
「でもまあ、めでたく両想いだっていうんでしたら、おめでとうございますと言うべきなんですよね?」
「うん、謝々」
 ありがと、と白澤は笑う。
 それから、あ、と何かに気付いた顔になった。
「あのさ、あいつが最後に言ってたこと、気にしなくていいからね! 僕、浮気なんかしないから!」
 現にこの二週間、女の子をお持ち帰りしてないだろ?、と言われて、そういえばと桃太郎は最近を振り返る。
 衆合地獄に飲みに行くのは相変わらずだが、むせかえるほどの白粉や女物の香水の香りをまとって帰ってくることは、確かに無くなった。女性を連れ帰ってくることもだ。
 だが、付き合い始めたばかりの今はともかくも、その品行方正がどこまで続くものだろうか。信じられないものを見る思いで桃太郎は白澤を見やる。
 そのまなざしに込められたものを読み取ったのだろう。顔をしかめて、白澤は手にしていた茶杯をカウンターに置いた。
「あのねえ、桃タローくん。ちょっと考えてみてよ。あいつが、鬼灯が僕に浮気されて、それを黙って耐えてる様子、想像できる?」
「できません」
 考える努力もせずに、桃太郎は反射的に首を横に振る。
 鬼灯は浮気は公認だと言ったが、その言葉もまた、白澤の浮気をしない宣言と同じくらい白々しい台詞だった。鬼灯ならば、いつもと同じく金棒を振り回して白澤をど突き倒す光景の方がしっくりくるのである。
 あるいは、怒り狂った挙句に別離を宣言して、白澤を完全無視するか。
 ともかく、黙って耐えるという言葉ほど鬼灯に似合わないものもない。
 すると、白澤は意を得たりとばかりにうなずいた。
「だろ。似合わないんだよ、そんなこと。あいつにそんな似合わない真似、させちゃいけないんだよ」
 そう言い、溜息をついて、白澤は伸ばした指先で小さな茶杯をつつく。
 物思うところがあるのか、その横顔はいつになく物憂げだった。
「あいつはさ、割り切るつもりなんだよ。浮気禁止っていう我慢を僕にさせるより、無理しないで自分が割り切っていく方が結果的に長続きすると思ってる。
 実際、僕が浮気したら、あいつは理詰めで考えて本当に割り切ってしまうんだろうよ。怒らないと言った以上、あいつは本当に呆れるだけで怒らない。でも僕は、そんな真似をさせたくないんだよ」
 腹を立てるべきところを、交際を長持ちさせるためなら仕方がないと理屈で割り切る。そんなのはいけない、と白澤は言う。
 それもまた、道理に合わない『無理』をしているのだから、と。
「第一さぁ、好きな子に『浮気は仕方のないものと認めますから、好きなだけして下さい』って言われて、わーい、ありがとう!、って浮気できると思う? したら、その時点で男失格だろ」
「それはそうですけど」
 桃太郎が同意すると、白澤は、男のくせにあいつはそういうとこ分かってないんだよねぇ、とぼやいた。
「自分は浮気するって発想がないから、浮気する男の気持ちも理解できないのかもしれないけどね。ホント、朴念仁なんだよ」
 白澤の長い指の先で、傾けられた白磁の茶杯がくるりくるりと右に左に半回転する。
「それにさ、なんであいつが気付かないのかと思うけど、そもそも、衆合地獄には僕と遊んでくれる女の子はもういないんだよ。僕の付き合ってる相手は鬼灯なんだから」
 白澤の言う意味が、桃太郎には即座には理解できなかった。
 鬼灯が獄卒や亡者たちに恐れられているという意味なのかと思えば、そうではないと白澤が訂正する。
「茄子くんと唐瓜くんとか、お香ちゃんを見れば分かるだろ。あいつは、ものすごーく慕われてんの。閻魔大王様は別格として、地獄で一番敬愛されてる鬼神なんだよ」
 そう語る白澤の声は、いつもにも増して澄み渡っていた。
 静かに、けれど確かに、唯一無二のかけがえのない存在について、澄み切った水が大地を豊かに潤してゆくかのように言葉を紡ぎ出す。
「あいつは誰よりも厳しいけど、誰よりも地獄のことを思ってるし、誰よりも閻魔大王様や部下たちのことを思ってる。時々変なことをしでかすけれど、何か事が起きた時、体を張って地獄と閻魔大王様を守り通すのは鬼神鬼灯だと、誰もが知っている。そして、あいつもその信頼を決して裏切らない。
 だから、獄卒たちは皆、あいつのこと大好きなんだよ。あいつが日本地獄の至宝だということを皆、肌で感じてるんだ。
 そんなあいつを自分のものにしておきながら、浮気なんて許されると思うかい? 浮気がバレた瞬間に、僕は獄卒総出で袋叩きだよ。何百回、八つ裂きにされても文句は言えないね」
 そして、白澤は桃太郎を見やり、何とも言えない笑顔で笑った。
「それにさ、僕が嫌なんだよ。僕が浮気をしたせいで、あいつが部下達に憐れまれるなんてさ。『浮気なんかされて、お気の毒な鬼灯様』なんて誰にも言わせないよ。言わせるなら、『あの好色者が一度も浮気をしないだなんて、さすがは鬼灯様』、だろ」
 軽い口調だった。
 いつもと同じ軽やかさであるにもかかわらず、それはひどく真っ直ぐに桃太郎の胸に響き、白澤が本気であることを何よりも明瞭に桃太郎に伝えてきて。
「カッコいいですね、白澤様」
 思わずそう口に出して言えば、白澤は、そう?、と微笑む。
「あいつもそう思ってくれるといいんだけどねえ」
 なかなか分かってくれない、と言いながらも白澤の様子は穏やかで、百年先か千年先か、いずれは通じるだろうと構えているのが桃太郎にはよく分かった。
 のんきなことではあるが、それくらいの気の長さがなければ、あの苛烈な気性の主とは付き合ってゆけないのだろう。
 そう納得する一方で、ああ、この人たちはこれから今までにも増して幸せになるのだなと、不意に落ちてきた感慨をすとんと桃太郎は胸に呑み込んだ。
 この二人のことだから、甘ったるい蜜月などというものは色々な意味で難しいというか、おそらくは有り得ないだろうが、これからも派手に喧嘩しつつ、いがみ合いつつ、彼らなりに仲睦まじくやっていくのに違いない。
 それは全くもって今までと殆ど変らない、ただ、少しだけ豊さを増した日常の風景だった。
「良かったですね、白澤様」
 自然に湧き上がった心からの祝辞を口にすれば、白澤はうなずく。
「うん。でも、これからだからね。先は長いよ」
 桃タローくんにも世話かけると思うけど、よろしくね、と言いながら、白澤は四煎目の茶を、それぞれの茶杯に注ぐ。
 そして、愛しい存在を思うようにやわらかなまなざしを窓の外に向けたのを、桃太郎は、大切な人の為に淹れられた甘く清々しい豊かな茶の香りに包まれながら、晴れ渡った心地で静かに見守った。

End.

<< BACK