玄天
ざわり、と進むごとにざわめきが湧き立つのを、白澤は内心苦笑しながら、閻魔伝の石造りの床を奥へと踏み込んだ。
まぁ、色々と止むを得ないことは分かっているから、咎め立てもしないし、馴染みの獄卒には手を上げて挨拶もする。
そんな風にして、ほどなく白澤は、御影石を多用した厳格な雰囲気に満ちる閻魔殿のほぼ中央、閻魔大王の御前へと辿り着いた。
時間帯が時間帯であるだけに、無数のしゃれこうべをあしらった大王の玉座の前には亡者はいない。開廷中は大概そこにいるはずの第一補佐官の姿もなく、幾人もの獄卒がそれなりに忙しそうに動いているばかりだ。
そこに踏み出せば、
「あれ、白澤君」
定時を過ぎたばかりで、やれやれという風情で肩を叩いていた閻魔大王が、来客を認めて目を丸くした。
それもそうだろう。最近では閻魔殿への届け物は、弟子の桃太郎の役目となっている。得意先を覚えさせ、また得意先にも彼を覚えてもらうため、弟子入りした時にそう計らったのだ。
ゆえに、白澤自身がここまで出向いてきたのは、本当に久しぶりのことだった。
おまけに今日は、更に追加の『久しぶり』がある。
「どうしたの? また珍しいというか、懐かしい格好をして」
「ええ」
小さく笑い、白澤は軽く袖を払う。すると、やわらかな絹を重ねた袖はひらりと美しく舞った。
「一応、正装はするべきかと思いましてね。堅苦しくするのもアレなので、冠とか仰々しい付属品は無しですが」
白澤が身につけているのは、大陸の伝統衣装である。本性の体毛と同じ輝くような白を基調として、翠緑や金銀の玉錦を袖や襟にあしらった大層美しい漢服は、白澤の僅かな身動きにも軽やかに翻りながら従う。
天帝や西王母の御前に出るときは、更に金銀宝玉をつけてきらきらしい装いになるのだが、今、そこまでやると壮麗を越して、ただの道化になってしまう。
ゆえに白澤は、三角巾のみ外した略装で閻魔大王の前に立っていた。
そして、閻魔大王を見上げ、にこりと一つ笑んでから拱手し、その場に跪拝(きはい)する。
「は、白澤君!?」
叩頭(たくとう)まではしない。だが、目上の相手に対する十分な礼を尽くした姿勢に閻魔大王の慌てる声が聞こえる。
心の内で、焦らせて申し訳ないと苦笑しつつも、白澤は顔を伏せたまま、閻魔殿を訪れた用件を述べた。
「閻魔大王閣下、閣下の第一補佐官にして名付け子、鬼神鬼灯を我が伴侶として賜りたく、神獣白澤、本日は罷(まか)り越しました」
よく透る澄み渡った声が、朗々と閻魔殿の広い空間に響き渡る。
途端、そこにある全てのものが石のように固まり、動きを止めたのを、まァそうなるよな、と白澤は顔を伏せたまま、小さく笑った。
「――えーと、白澤君」
「はい、何でしょう」
「とりあえず立ってくれる? そんな風に跪(ひざまず)かれちゃあ、話もできないよ」
さすがというべきか、最初に自分を取り戻したのは閻魔大王だった。
人の良い地獄の王をこれ以上困らせるつもりはなかったから、白澤は直ぐに膝を払って立ち上がる。
背後で誰かが走り出してゆく足音が複数聞こえたのは、鬼灯にでも報告に行ったのだろうか。
しかし、聞いたところで、あの鉄面皮は表情も変えるまい。せいぜいが、さっさと仕事に戻れと叱るくらいか。
そう思いながら大王を見上げれば、目が合った大王は困ったような顔で豊かな顎鬚をしごいた。
「ええと、用件は分かったよ。うん、鬼灯君から報告は聞いてたし」
「ああ、やっぱり言ってましたか」
白澤が魂の伴侶と定めた鬼神は、徹頭徹尾、男前な性格をしている。ゆえに、必ずや筋を通して上司であり後見人でもある閻魔大王に、自分たちの関係が変わったことを伝えているだろうと思ったのだ。案の定である。
「本来なら、僕の方が先に挨拶にこなければいけなかったんですけどね。どうもこういった風習には僕は疎いところがありまして。つい遅れてしまって申し訳ありません」
白澤が遅れた理由は至極単純だ。
ああそうだ、閻魔大王に挨拶に行かなければ、と思いついたのが昨日だった。ただそれだけのことである。
そもそも白澤は世界に唯一無二の存在であり、世界と共に生きるよう宿命づけられているのだから、子孫をなす必要は最初から無い。ゆえに、結婚だの恋愛だのを真面目に考えたことは、これまで一度もなかった。
だが、鬼灯とめでたく両想いになり、つらつらと考えているうちに、そういえば人型の生き物は神族であれ、ヒトであれ、鬼であれ、伴侶をもらう時には相手方の親に挨拶に行くのではないか、と思い至ったのである。
それで思い立ったが吉日とばかり、今日こうしてやってきたのだった。
「いいよいいよ、鬼灯君だっていい歳だし、わしが保護者というわけでもないしね」
「そうは言われますけど、やっぱりあいつにとっては、大王様は親も同然の存在だと思いますよ」
閻魔大王と鬼灯。この二人のことは、もう何千年も前から見ていた。
ずば抜けて有能ではあっても極端に苛烈な性格の鬼灯にとって、大らかで楽天的な閻魔大王が実に得がたい上司であることは、最早言うまでもない。
そして、不遇な生い立ちを持った子鬼にとっても、名とも呼べない呼称に換えて『鬼灯』という美しい名前を授けてくれた懐の深い大人の存在が、どれほど彼を救い、その後の生の支えになったか。
普段の扱いは大層悪くとも、芯の所で鬼灯がどれほど大王を信頼し、かえがえないと思っているかは考えるまでもなかった。
「それで、大王様。鬼灯を僕にいただけますか?」
この大王から、大切な補佐官を奪おうというわけではない。ただ、彼に触れ、心を寄り添わせることを許して欲しいだけだ。
そのためだけに、今、白澤はこうして彼の前に――鬼灯の職場でもあり家でもある場所に、そして彼の家族とも呼ぶべき存在の前に立っている。
そのことを大王もまた、きちんと分かっているようだった。
「あげる、って言っちゃうと、鬼灯君に『私は物じゃありません』って怒られそうだけどねぇ。でも、君達二人で決めたことなんだろう? だったら、わしは反対したりしないよ」
大きな目玉を考え深げに動かしながら、大王は白澤に告げる。
「そりゃあ、わしもずっと、鬼灯君には可愛いお嫁さんを……と思ってたけど、鬼灯君もきっぱり、もう見合いや縁談を持ってこないで下さいって言ってたし、白澤君なら、あの子をうんと大事にして幸せにしてくれるだろうし」
吉兆の印だもんね、と笑顔になる大王に、白澤は小さく笑った。
「ええ。絶対に不幸にしたり悲しませたりなんかしません。あいつがどれくらいこの地獄で愛されてるかは、分かってるつもりですよ」
言いながら、周囲にちらりと視線を走らせる。
閻魔大王の法廷は定時で終了していても、地獄は二十四時間営業である。就業中の幾人もの獄卒たちが固唾を飲んで、大王と白澤のやりとりを注視している。
彼らは皆、鬼灯の部下であり、彼を慕い敬う者たちだ。
先週訪れた衆合地獄でもそうだったが、彼らは自分たちの上官を貶(おとしめ)めることも、傷付けることも、決して許さない。
そんな鬼たちに囲まれた、いわば敵地の真ん中で、彼らの大切な鬼灯を、彼らと同等以上に大切にすることを誓うために白澤はここに来たのである。
彼らのまなざしを受け止めて白澤は微笑み、大王を見上げた。
「あいつのことを誰よりも何よりも大切にします。それこそ、あいつが、もういい鬱陶しいってキレるくらいにね」
「うん、頼むよ、白澤君」
誠心誠意からの誓いを込めて口にすれば、大王は大きくうなずく。
これは約束だった。
単なる口約束ではない。日本地獄の霊王と大陸の古き神獣の言霊(ことだま)の交換である。裏切れば、呪詛返しにも似た跳ね返りが生じるし、また、言霊を交わした相手からの大いなる制裁も免(まぬが)れ得ない。
互いにそのことを重々承知しながら、それでも二人はにこやかに笑みを交わした。
「鬼灯君はああいう子だから、大変だと思うけど……」
「そういうあいつだから好きなんですよ」
さらりと告げれば、大王はどう返すべきか困ったように視線を彷徨わせ、周囲の極卒たちは、おおっとどよめく。当たり前のことを言っただけだが、白澤としても悪い気分ではなかった。
そして、一つ目の用件が首尾よく済んだところで、次の用件を、と切り出す。
「それで、大王様。一つお願いがあるんですが」
「お願い?」
「はい」
うなずき、白澤は続けた。
「鬼灯の体調管理をする役目を僕に任せてもらいたいんです。もう少し言うなら、それを口実に閻魔殿というか、あいつの執務室に立ち入る権限を僕にいただけませんか」
それは突然の思い付きではなく、少しから考えていたことだった。
鬼灯は東洋医学に関する造詣が深いくせに、自分の体調管理となると、仕事を優先しておろそかにしがちなところがある。
もとより頑丈であることもまずいのだろう。呪詛にも似た愚痴を零しながらも、月に何度も徹夜をして業務をこなしていることは、最早、地獄の関係者ならば誰でも知っている事実だった。
「薬膳や薬湯で、あいつの体調を整えてやることは僕には朝飯前ですし、最悪、睡眠薬でも何でも盛って眠らせてやることだってできます。あいつが怒ったところで、僕ならどうということもありませんしね」
キレた鬼灯が金棒を振り回そうが、殴る蹴るの暴行を与えようが、白澤は神獣である。その程度のダメージなら軽傷の部類で済んでしまう。それが分かっているからこそ、鬼灯もまた白澤相手には手加減をしないのだ。
甘えるのなら、もっと可愛い方法で甘えればよいのにと思わないでもないが、しかし、デレる鬼灯というのも想像しがたい。むしろ恐ろしい。
白澤にしてみれば、現状のままの鬼灯で十分に可愛いのだから、それ以外の何かを恋人に求めるつもりは毛頭なかった。
「鬼灯君の体調管理ねえ。確かに、してもらえればありがたいなぁ。あの通り、無茶をする子だから……」
「でしょう?」
「そうだねえ……」
顎鬚を撫でながら、しばらくの間考え込んでいた大王は、やがてこくりと大きくうなずいた。
「うん、わしからもお願いするよ、白澤君」
「OKですか?」
「うん。鬼灯君が知ったら怒るかもだけど、わしが判子をついた書類は、彼も簡単には破棄できないからね」
直ぐに書くからちょっと待ってて、と言われて、白澤は大王が筆を取るのを見守る。
そうして立っている間に、極卒の鬼の一人が恐る恐ると近付いてきた。巻子を両腕に抱えているところを見ると、資料管理の担当だろうか。
「あの……白澤様。本当に鬼灯様と御結婚なさるんですか……?」
「んー。するけど、事実婚ってやつかなぁ。お互い立場的に色々あるから、実際に籍を入れるのは難しいんだよね」
あの世にも一応、戸籍に相当する神族や鬼としての籍が各界にある。それらの界や種を越えての婚姻は禁止されているわけではないが、大層手続きが面倒くさく、また柵(しがらみ)も多いため、今のところ正式に入籍をする考えは白澤も持ってはいなかった。
ただ、その分、人ならぬ者達の世界においてはマーキングが大変有効であるため、白澤が『鬼灯は僕のもの』宣言をして力の痕跡を残しておけば、他者はまずもって手出しをしてくることはない。逆もまた然(しか)りで、鬼灯が『白澤さんは私のもの』という宣言をしている限りは、手出しをする者こそが責められる。
実力がものを言う世界であるだけに、力尽くで奪うことについては格別な咎めはないが(いずれの神話伝承においても略奪婚は付きものである)、半端にちょっかいを出した相手には、出された側がきつい報復をするのが常なのだ。
「まァ形式はともかくとして、あいつとは末永く幸せになるつもりだよ」
本心からそう告げれば、その極卒はぷるぷると全身を震わせて。
「ありがとうございます!!」
と大声で叫んだ。
「俺、鬼灯様には本当にお世話になってて……! あの方が幸せになって下さるんだったら、本当にこんな嬉しいことはないです!」
「俺もです! 白澤様、ありがとうございます!!」
俺も私もと、極卒たちがわらわらと白澤の周囲に集まってきて環を作る。
先週、衆合地獄でもこんな感じだったなぁと思いながら、白澤は笑顔で彼らの言葉を受け止めた。
寄ると触ると喧嘩をしていた二人の交際については誰もが驚いただろうに、こうして祝福を贈ってくれる。それは、取りも直さず、鬼灯がいかに人々に愛されているかという証でもある。
―――ホント、浮気なんかできるわけないよ。
今、笑顔で周りを囲んでいる鬼達が全員、眼(まなこ)を怒らせ、憤怒に身を震わせながら自分を責める光景を想像して、白澤は内心で首を横に振る。一人一人は気のいい鬼たちも、その役職はあの世の管理である。よってたかって亡者を責める要領で呵責されては、さすがの神獣もたまらない。
なのに、どうして鬼灯にはそれが分からないのか、つくづく謎だった。
「お二人は、どちらに住まわれるんですか?」
「あ、それは今まで通りだよ。それぞれ仕事もあるしねー。当分はお互いに行き来する予定」
「じゃあ、これまでと全然変わりませんねえ」
「うん、変わらない。これまでより行き来が増えるかなって程度じゃない?」
「それでいいんですか?」
「今のところはね。物足りなくなったら、また考えるよ」
「新婚旅行は?」
「行きたいけど、これも難しいかなぁ。僕はいいんだけど、あいつは中々仕事を休みたがらないから」
「繁忙期でなければ大丈夫っスよ! 俺達全員で何とか仕事回しますから!!」
「あ、その前に披露宴しましょうよ!!」
「それは鬼灯様が嫌がるんじゃないか?」
「あら、私達がお祝いしたいってお願いしたら、きっと聞いて下さると思うわ」
「案外、お祭好きなひとだからなぁ」
上司大好きな極卒たちは、頭を寄せ合い、ああでもない、こうでもないと披露宴の案及び、それを鬼灯に承認させる案を練り始める。
いつの間にか輪から外れて蚊帳の外になってしまった白澤が、微笑みながらそんな鬼達を眺めていると、閻魔大王が玉座から声をかけた。
「書けたよ、白澤君。今、下りてくから、ちょっと待ってて」
よっこいしょと立ち上がり、後ろにある階段を下りてきた大王は、はい、と奉書紙にしたためた依願状を白澤に渡した。
受け取って見れば、墨痕鮮やかな堂々たる運筆には大王の為人(ひととなり)が実に良く出ている。最後の署名に至るまで、実に見事な筆跡(て)だった。
「ありがとうございます。これがあれば、あいつも顔を見るなり僕を叩き出すことはしないでしょう」
「え、君たちまだ、そんなことしてるの?」
「その辺は相変わらずですよ」
両想いになったからといって、即、喧嘩をしなくなるほど鬼灯は丸い性格をしていない。白澤もまた、以前ほどではないにせよ、喧嘩を売ってくる相手が鬼灯であれば、それなりに買う主義である。
ゆえに、特に変わりませんよと告げれば、大王は露骨にしょげた顔をした。
「鬼灯君も結婚したら、多少はやわらかくなると思ったのになぁ」
「それはムリゲーってやつです、大王様」
懐に折り畳んだ書状をしまいながら、白澤は笑って大王を慰める。
そして、それでは、と辞去を告げた。
「せっかく一筆書いていただいたんですから、あいつの顔を見てから帰ります。あいつの執務室に行ってもいいですか?」
「うん、いいよいいよ」
「ありがとうございます」
諸々の感謝を込めて一礼し、白澤は法廷の脇にある鬼灯の執務室へ向かう。
法廷の中央では、相変わらず大勢の極卒たちが披露宴をどうするか、御祝いをどうするかと声高に相談している。その様を見やりながら、白澤は愛する鬼神のことを思って口元に心からの笑みを浮かべた。
* *
ドタバタと足音が聞こえてきたかと思いきや、息せき切って二人の鬼が室内に飛び込んでくる。
「何ですか、騒々しい」
もつれ合うようにして駆け込んできた鬼達を、鬼灯は愛用のボールペンを片手に執務席に座したまま、じろりと睨んだ。
「ほ、鬼灯、それどころじゃないって!」
「マジで来たよ、あのひと……!!」
「執務中は言葉遣いに気をつけて下さいと言っているでしょう。示しがつかなくなります」
「ンなこと言ってる場合じゃねえってば!」
気安い口を利く二人は、鬼灯の幼馴染みたちである。
茶髪直毛の烏頭、黒髪癖毛の蓬は、共に第一補佐官である鬼灯の補佐役を務めており、今でも良い友人たちだ。だが、関係に慣れすぎて時折、公私の区別がなくなるのが玉に瑕といえば瑕だった。
「で? あの馬鹿がどうしました?」
「だからー、今、大王様のとこに来てんの! でもって、お前を嫁さんに下さいって……!」
「馬鹿! 嫁とは言ってないだろ。伴侶って言ったんだ」
「意味は一緒だろー!?」
「大いに違います」
白澤との関係は、有体(ありてい)に言えば上下は定まっていない。性欲の強さの度合いから圧倒的に自分が抱かれる側に回ることが多いものの、原則的にはその時の気分で変わるため、正確にはどちらも嫁ではないし、嫁でもある。ゆえに、自分を一方的に嫁と決めつけられるのは、鬼灯としては大いに不本意だった。
適当すぎる烏頭にひとまずツッコミを入れておき、それから、成程と鬼灯は納得する。
先程から法廷の辺りが賑やかしいと思っていたが、どうやら馬鹿が馬鹿なことをやらかしている最中らしい。そして、鬼という種族は根本的に祭りが好きである。その後の騒ぎが思いやられるなと、うんざりとした気分で考えつつ、書類に目を通し、判を押していると、友人達が更に騒ぎ出した。
「お前、なんでそんな平静なの!? 白澤様のとこに行かなくていいわけー!?」
「私が行ってどうするんです。騒ぎが大きくなるだけでしょうが」
「そりゃそうかもだけどさぁ。でも、せっかく白澤様が挨拶に来て下さったんだし……」
「あのひとが勝手にやってることですよ。知りません」
「お前、それは幾ら何でも冷たくねえ!?」
「何度でも言いますけど、私は忙しいんです。この書類の山を今日中に片付けてしまいたいんですよ。貴方がたこそ、仕事はどうしたんです?」
「あ、いや、それは……」
じろりと睨んでやれば、蓬はややひるんだ顔をするが、烏頭はその程度のことではへこたれない。返って熱心に言いつのり始める。
「後からきちんとやるっての! それより、お前だ! 白澤様が誠意見せてくれてるんだから、お前も見せろ!」
「私に何をしろと言うんですか」
「何でもできるだろ!? 三つ指突いて、不束者ですが末永くよろしくお願い致しますって挨拶するとか、大王様に花嫁の手紙を朗読するとか!」
「一遍死んできなさい」
一体何をとち狂っているのか、錯乱でもしたのか。とりあえず手近にあった消しゴムを手のひらに載せ、弾き飛ばす。すると、うまい具合に消しゴムは、びしりと鋭い音を立てて烏頭の額に直撃した。
「うぐぉっ!?」
「わわっ!?」
のけぞって尻餅をつく烏頭と、慌ててそれを助け起こそうとする蓬を眺めながら、やれやれと鬼灯は溜息をつく。
白澤が碌でもないことを思いついて実行してくれたおかげで、全くもって仕事が進まない。
どうしてくれようかと思いつつ、判をぺたんぺたんと押していれば、復活した二人が再び執務卓に詰め寄ってきた。
「あのなぁ、鬼灯。お前の性格は知ってるよ? 知ってるけどなぁ、たまには白澤様に優しくしてやっても罰は当たらねぇと思うんだよ」
「私なりに大事にはしてますけど」
「お前なりにじゃダメなの! 世間一般並みでないと!」
「そうは言われましても、ひとには向き不向きというものがあるんですよ」
「だから、努力しろって言ってんの!」
白熱する烏頭を、まあまあ、と蓬が押さえる。
「お前も落ち着けって。お前は落ち着きすぎだけどな、鬼灯」
「私が浮き足立っていたら地獄はどうなるんです」
「うん、だから、お前はそれでいいと思うんだけどさ。でも……」
口ごもった蓬に、鬼灯は首をかしげた。
「でも、何です?」
「いや……。本当にお前、結婚すんだなって思ってさ……」
「ああ、それなんですけど、」
鬼灯が言いかけたその時。
「鬼灯ー。取り込み中?」
「わっ、白澤様!!」
執務中はドアを開け放ったままの出入り口から、噂の主である白澤がひょっこりと現れた。
その姿を一目見て、鬼灯は眉をしかめる。
よりによって正装してくるとは、また派手なことをしでかしてくれたものだ。ただでさえこの男は目立つというのに、華やかな漢服を身に纏って異国のあの世を訪れるなど、見世物になりに来たとしか思えない。しかも、有無を言わさずに鬼灯を巻き添えにしてである。
まったく困った神獣様だったが、来てしまったものは仕方がない。あと、個人的に確認したいこともあったから、都合がよいと言えなくもないだろうと鬼灯は僅か十秒ほどで割り切った。
「来客中? 忙しいなら出直すけど?」
「いえ、ちょうどいいところに来てくれました。今、この二人が私に、貴方が大王に挨拶に来ていると報告をしてくれたんですが……」
指先でくるりと二人を示し、鬼灯は執務席に座したまま、常と変わらぬ闇色の瞳で白澤を見据えて、告げた。
「私、貴方にプロポーズをされた覚えなんかないんですけど」
一瞬、しんとした沈黙が鬼灯の執務室に落ちる。それを打ち破ったのは、案の定と言うべきか、神獣ののんきな声だった。
「あれ、そうだっけ?」
「結婚云々は一言も聞いてません」
「言ってなかった?」
「全く、これっぽっちも」
きっぱりと鬼灯は否定する。
浮気をするしないだのは散々に聞いたが、結婚というのは実のところ、初耳である。
申し込まれた覚えもなければ、承諾した覚えもない。なのに、大王に挨拶に行くとは何事だという思いを込めて目の前の神獣を見つめていれば、衝撃を脱したらしい二人の幼馴染たちが騒ぎ出した。
「ちょ、ちょっと白澤様!」
「順番違うんじゃないですか? 普通は本人の了承をもらってから、相手の親でしょう!?」
「いや、僕だってそのつもりだったけど……、そうかー。言ってなかったかぁ」
「はい」
こっくりと鬼灯がうなずくと、それは失敗だった、と白澤は首をひねった。
「それじゃあ……」
「お前が生きてる間中、うんと大切にして、お前のためにうんと美味しい御飯を作り続けて、お前の幸せのためなら何でもしてあげるから、僕と結婚して下さい」
鬼灯の友人二人が見守る中。
白澤はまっすぐに鬼灯を見つめ、告げる。
鬼灯もまた、視線を逸らさずにそれを聞き、それからわずかに首を傾けた。
「陳腐で何のひねりもない台詞ですね。あと前置きが多い」
「じゃあ、僕と結婚して下さい」
「どこまでシンプルにする気ですかと言いたいところですが……、まァいいでしょう。ぐだぐだと言われるより、そっちの方が私好みです」
「OK?」
「ええ」
ただし、と鬼灯は続けた。
「先日から言っているように、浮気については貴方を信用する気はありませんから。せいぜい頑張って貞節を証明して下さい」
「えー、まだそれを言う?」
「ちょ、ちょっと待て、鬼灯! お前、そんなこと疑ってんのかよ!?」
白澤が嫌そうな顔をすると同時に、烏頭と蓬が驚きもあらわに鬼灯に詰め寄る。
「鬼灯、白澤様が本気だってのは俺達だって分かるよ。でなきゃ、どうして先日は衆合地獄で交際宣言して、今日は大王様に御挨拶に来るんだよ?」
「浮気なんかしたら、俺ら極卒が黙ってないって分かってて、白澤様は、お前を幸せにするって誓ってくれてるんだぞ!」
必死の形相で言いつのる烏頭を見つめ、蓬を見つめてから、鬼灯は、にこにこと笑っている白澤へとまなざしを戻した。
「貴方、意外に人望があるんですねぇ」
「普段の行いがいいからね」
「嘘つきの舌は引っこ抜きますよ」
「「鬼灯!!」」
ユニゾンで名前を呼ばれ、鬼灯は肩をすくめる。
「まるで私が悪者みたいですね」
「悪いんだよ今回は!」
「白澤様は十分誠意を見せてくれただろ! お前も一つくらい、誠意のかけらでも見せてみろ!」
「失礼な。私はいつでも誠実ですよ」
うるさい友人達に顔をしかめて、鬼灯は溜息をついた。
「白澤さん。貴方はどうなんです。当事者のくせに、さっきから完全に見物客と化して……これからはモブ澤と呼びますよ」
「止めろ、面白すぎるだろ」
苦笑して、白澤は鬼灯を見つめる。
その瞳は常と変わらず明るい光をたたえ、表情もやわらかだった。
「この件に関しては、僕は言うべきことはもう言ってあるからね。あとは、お前次第。信じて欲しいとは思ってるけど、信じることを強制するのは無理だし」
その言葉を聞いた友人たちは、再び鬼灯に向き直る。そして、懇々と言い聞かせ始めた。
「あのな、鬼灯。マジで簡単じゃないぞ、お前みたいなのを結婚相手に選ぶってのはさ。お前の性格もそんなんだし、極卒は全員小姑だし。舅の大王様が良い方だっていう以外、いいことなんか一つもない。俺だったらお前みたいなのは、たとえ女でも絶対に嫌だ。お前に比べたらティラノサウルスの方が遥かに可愛い」
「だったらティラノサウルスと結婚しなさいよ」
「そういうこと言ってんじゃねぇよ!」
「まあまあ。落ち着けよ、烏頭」
まだ独身の烏頭を鋭く睨んでやれば、烏頭はキイィッと騒いて、蓬が押さえる。それはもう何千年も繰り返してきた遣り取りであり、光景だった。
「鬼灯、烏頭と俺が言いたいのはさ。たまには分かりやすい形で白澤様を大事にしても、罰(ばち)は当たらないだろうっていうことだよ。多分……」
蓬は、ちらりと白澤の方にまなざしを向けてから、鬼灯にまなざしを戻す。
「多分、白澤様は『お前なりに』っていうのを分かっていらっしゃるんだろうと思うよ。でなきゃ、お前みたいなのと付き合おうとは思わないだろうし。でも、気持ちを相手に素直に伝えて、お前が失うものはあるのか?」
実直な幼馴染みにじっと見つめられて。
眉間に浅く皺を刻んでいた鬼灯は、やがて、溜息を一つついた。
やんちゃと考え無しを絵に描いたような烏頭に比べて、蓬は常に慎重で真面目に物事を捕らえる性格だ。まったく正反対なのに仲が良いのは、互いにない部分を上手く補い合うことができているからだろう。
加えて、二人の最大の共通点として、性根がいずれも真っ直ぐで、他人を無闇に傷つけたり中傷したりすることがないことが挙げられる。
この二人に、鬼と化して黄泉に来たばかりの頃の幼い自分がどれほど救われたか。
そのことを鬼灯は一分一秒たりとも忘れたことはなかった。
「貴方は時々、とてつもなく口が上手いですね、蓬さん」
「そんなことは――」
「ありますよ。烏頭さんもね」
「ん? 俺ぇ?」
「ええ。貴方には口は上手いとは言いませんけど、貴方の言葉には昔から妙な熱意が感じられて、ついうなずきたくなるんです。おかげで何度、大人たちにこっぴどく叱られたことか」
「他人(ひと)のせいにすんな! 俺の提案に乗り気になるのは、お前も一緒だっただろ!」
「分かってますよ。だから縁を切ることもなく、今でも貴方と友達をやってるんです」
そう言い切り、烏頭が言い返す言葉に詰まって黙ったところで鬼灯は白澤へとまなざしを向けた。
「白澤さん」
「何?」
こちらの言うつもりであることなど承知しているのだろう。白澤の顔は憎たらしいほどに、いつも通りの穏やかな表情だった。
「もし貴方が私を裏切ったら、誰が何と言おうと衆合地獄の最奥に叩き落して、この手で未来永劫、骨の髄まで微塵に切り刻み続けますけど、その覚悟はありますか」
「覚悟も何も、最初から僕はそのつもりだけど?」
「いいでしょう」
肩をすくめて答える白澤に、鬼灯はうなずく。
「貴方を信じます」
「うん。信じていいよ」
途端、執務室内に歓喜の声が響き渡った。
「よっしゃああああ!!」
「良かったですねえ、白澤様!!」
「うん、二人ともありがとう」
石造りで天井の高い室内は、実に音がよく反響する。三人の声高に騒ぐ声を聞きながら、鬼灯は憮然と肩をすくめる。
何とも不本意な展開だったが、蓬の言う通り、失うものなど一つもない。むしろ、得たものの方が多いだろう。白澤の笑顔然り、友人たちの歓喜と祝福然り。
分かっていたことではあるが、素直になりたくないことも鬼には多々あるのだ。
なのに、こちらの意図と全く違う方向に自体を運んでくれたこの二人には後々、ささやかに報復してやろうと考えながら、声を上げる。
「さあさあ、二人ともいい加減、仕事に戻って下さい。徹夜したいんですか?」
「あ、それは嫌だ!」
「あー。ちょっとのつもりが結構時間経っちゃったな。残業決定かな」
壁の時計を見上げ、二人は口々に呟き、それから白澤に向き直った。
「それじゃあ俺たち、これで失礼します。こいつは本当に捻じ曲がってて、変なことばっかりしでかす奴ですけど、でも、すげぇいい奴ですから。大事にしてやって下さい、お願いします!」
「本当に俺たちの大事な友達で、地獄にとってもかけがえのない奴です。白澤様なら幸せにしてやってくれると、俺たちは信じてますから、どうぞよろしくお願いします」
「うん。任せてくれていいよ」
きっぱりと白澤は笑顔でうなずく。
それを受けて、烏頭も蓬もぱっと顔を明るくする。そして、鬼灯を振り返った。
「良かったな、鬼灯」
「たまには素直にならなきゃ駄目だぜ。これで分かっただろ?」
「分かりましたってば。さあ、とっとと戻って下さい」
「おう。じゃあな」
「あ、金剛骨処から嘆願書が上がってきてたから、内容の確認してから後で届けるな」
「はい、お願いします」
ばたばたと来た時と同じように、二人は執務室を出て行く。
その足音を聞きながら、鬼灯は近寄ってきた白澤を無言で見上げた。
白澤も何も言わず、鬼灯をしばらくの間見つめ、それから微笑んだ。
「お前は本当に愛されてるね。さっきの友達にも、大王様にも、部下たちにも」
「らしいですね」
知りませんでした、と言うと、白澤の笑顔が苦笑に変わる。
「お前は鈍すぎ。皆、あんなにあからさまなのに」
「そうなんですか?」
「うん」
うなずき、執務卓を回りこんで隣りに立った白澤は、手を差し伸べて鬼灯の頬に触れる。
そして顔を寄せ、角を避けてこつんと額を合わせた。
「ありがとう。信じてくれて」
「言うつもりなんて無かったんですよ。上手く乗せられました」
「あの子達は、お前の幼馴染みだよね? 二人とも、顔に見覚えがある」
「ええ。昔、貴方に現世に連れて行ってもらった時に一緒にいました」
「うん。覚えてる」
「それはいいですが、仕事中です」
ここまで、と鬼灯は白澤を押しやる。鬼灯の立場を重々承知している白澤は、抗うことなく素直に離れた。
「で、何をしに来たんです? 今日の用事は大王相手でしょう?」
「一つ目はね。二つ目は、これ」
白澤は、漢服の懐から折り畳んだ書状を差し出す。
それを受け取り、開いて素早く一読した鬼灯は、きつく眉間に皺を寄せた。
「何なんです、これは」
「大王様に書いてもらったんだよ。僕がここに来るための口実」
「要りません」
「要るよ」
執務卓に片手をついて、白澤は鬼灯の目を覗き込む。
「体調管理をしてくれる奴がいたら、多少は楽だろ。僕なら滋養たっぷりの薬膳でも、疲労回復の薬湯でも、何でも作ってやれる。常備薬じゃなくて、お前の体質に合わせてきめ細かく調整した奴をね」
「そんなものがなくったって……」
「僕が、お前のために何かしたいんだよ」
鬼灯の反論を白澤は優しく遮った。
「それで、もう一つお前に提案。お前はもう少し、部下に仕事を割り振った方がいい。今の体制だとお前に業務が集中しすぎて、お前に何かあったら全てが麻痺してしまう。そんな事態は、お前も不本意だろ」
「……否定はしませんが」
「うん。だったら、もう少し部下を育てて、お前自身は余裕を持つようにした方がいい。そして、もう少しゆとりができたら、閻魔殿に住み込みはやめて、うちで一緒に暮らそう。桃源郷から地獄まで、通えない距離じゃないだろ」
「それが目的ですか」
鬼灯は白い目で睨んだが、白澤は悪びれない。むしろ、楽しそうに笑った。
「前向きでいいだろ。お前がゆとりを持って仕事をこなしたところで、誰も不幸になんかならない。僕だって嬉しい。一石二鳥だよ」
非の打ち所のない論だと笑うのには、反射的に腹が立つものの、言っていることは正論である。確かに、誰も不幸にならない。むしろ、良いこと尽くめだろう。
「私としては、貴方の提案というだけでムカついて素直に受け入れがたいんですが」
「お前ねぇ」
「でも、前向きに考えます。貴方の提案は、正論は正論なので」
そう告げれば、白澤は目を丸くし、それから破願した。
「ありがと、鬼灯」
今日は嬉しいことばっかりだ、と呟いて、白澤は鬼灯の頬をそっと撫でる。
「本当に一生大切にする。絶対に裏切ったりなんかしないから」
「分かってますよ」
小さく溜息混じりに鬼灯はうなずいた。
本当は最初から分かっていたのだ。
白澤が、自分が望むのと同じように永遠を望んでいてくれたことも、誓いが真実であることも。
ただ、あれやこれやと先回りして考える癖と、この男相手にはあまり素直になりたくない心理とで、予防線を張って信じないふりをしてみた。それだけのことなのだ。
「でも、本当に裏切ったら切り刻みますから」
「うん、いいよ」
うなずき、白澤は鬼灯に素早く口接ける。唇に温もりを感じるだけのキスを、鬼灯も目を閉じて受け止めた。
そして、白澤はもう一度、鬼灯の頬を撫でてから離れる。
「じゃあ、僕は帰るよ。仕事にケリがついたら、また電話して」
「ええ」
笑って、ひらひらと袖を振り、執務室を出て行く白澤を見送って。
「白澤さん」
彼が完全に出てゆく前に、呼び止める。
「ん?」
「一つだけ言っておきます」
「私を幸せにするのは貴方かもしれませんが、貴方を幸せするのは私です。これだけは絶対に譲りませんから」
そう告げれば。
白澤は目をまんまるにした後、本当に嬉しげに笑み崩れた。
「勿論だよ。三界広しと言えども、それはお前にしかできない。お前に世界一幸せにして欲しいよ」
「当然です」
「うん。愛してるよ、鬼灯。お前だけだ」
「知ってます」
応じれば、うん、とうなずいて、白澤は僅かに名残惜しげな顔をしつつも、笑顔でもう一度袖を振る。
これ以上、ここに留まっていても、鬼灯の終業時刻が遅くなるばかりだと承知しているからだろう。
「じゃあ今度来る時は、美味しいものを持ってくるから」
「はい」
じゃあね、と白澤は廊下へと出て行く。その後姿をじっと見つめてから、鬼灯はゆっくりと卓上の書類に視線を戻した。
結婚は勿論のこと、誰かと共に生きることなど考えたことも無かった。心の中には随分と前から、あの能天気な神獣が住み着いていた上に、彼とこんな関係になる予定もなかったのだ。
未来永劫、自分たちは天敵のままで行くのだと、心のどこかで信じていたように思う。
けれど。
「悪くないですよ、これも」
ただ、甘過ぎて脳が溶けてしまいそうですが、と呟いて。
鬼灯は、披露宴のプランをまとめた極卒たちが大挙して執務室へ押し寄せてくるまでの短い時間、書類仕事に没頭した。
End.
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