慎重で細やかな愛撫の合間に、白澤さん、と低く艶のこもった声でひそやかに名を呼ばれる。
 閨では、案外に鬼灯は口数が少なかった。
 もともと女を抱く時にも寡黙であるのかもしれないし、相手が白澤だから言葉を選びかねて黙るのかもしれない。
 だが、言葉少なく呼ばれる自分の名が白澤は好きだった。
 低い声は、じんと鼓膜を通して染み入り、胸の奥底までを深く満たす。
 こんな風に名を呼ばれたことは、これまで何万年も生きてきて初めてだった。
 誰もが白澤の名を口にするが、込められているのは尊崇であり、敬愛であり、畏怖であり、時には嫌悪や憎悪であって、あくまでも『神獣』に対するものの領域を出ない。
 だが、鬼灯の声は違う。
 おそらくこの鬼神は、白澤が神獣であるかどうかさえ構わないのだ。
 たとえば白澤が神力を喪い、ただの獣か人になったとしても、白澤が白澤である限り、鬼灯はこの声で名を呼び続けてくれるだろう。
 そして、自分もまた。

「鬼灯」

 彼がこの世にいてもいなくても、こうして彼の名を呼び続けるだろう。
 初めて出会った時、彼は小さな子鬼だった。
 言われるまで忘れていたが、利発そうなのにやたらむっつりとして無表情な子鬼のことは淡く記憶している。
 そう、確か、顔立ちそのものは整っていたから、笑えば可愛いだろうにと思ったのだ。
 次に出会ったのは、青年鬼となった彼が遥々大陸まで法制度を学びに来た時。
 これもまたすっかり忘れていたが、ひどく楽しい酒であり会話であったという印象だけは鮮明に残っている。
 正式に出会ったのはその後、新しい第一補佐官だと閻魔大王に紹介された時だ。
 衆合地獄の居酒屋で居合わせた際、酔って上機嫌の閻魔大王が傍らにいた彼をこちらへと押しやった。
 白澤だと名乗ると、彼は興味深げなまなざしを向け、漢方や東洋医学についての問いを幾つか発した。
 だが、人の子として短くも厳しい生を受けた彼は、こちらの浮かれた性質が気に食わなかったのだろう。そこから後の不仲は今更思い返すまでもない。
 白澤自身は、それまで不浄なものや醜悪なものに眉をひそめることはあっても、何かを嫌ったことはなかった。
 もともと森羅万象と共に生きるようにできているのだ。我が身に等しい世界を憎む心は端から持っていない。
 だから、最初の内は鬼灯の攻撃も何とも思わなかったのだが、どれほど気の良い大人であっても性悪な子供の度重なる悪戯には、いずれうんざりするものである。
 白澤は彼の暴言に言い返すようになり、目には目をとばかりに反撃もするようになった。
 だが、鬼灯のことを真に嫌ったのかというと、決してそうではない。
 相手の物言いに腹が立つから言い返す、あくまでもその域を出なかった。
 それよりも、本心では愉快に思うことの方が多かったというのが正しい。
 誰もが尊崇し、畏怖する神獣白澤を駄獣と呼び、ろくでなしの扱いをする。そんな者は他にいなかったから、それだけでも興ずるには足りた。
 そして何よりも。
 鬼灯の目が、決して白澤のことを嫌悪してはいなかったのだ。
 白澤の放蕩に呆れ果て、考えなしの浪費を小馬鹿にしてはいても、そのまなざしに真の憎悪や敵意はなかった。
 気に食わないものは気に食わないとはっきり言い、けれど、評価すべきものはきちんと評価する。
 そんな天性の公明正大さを鬼灯は持っており、それは相手が神獣であってもきちんと発揮されていたのだ。
 なるほど、だから閻魔大王は一獄卒でしかなかった彼を補佐官として抜擢したのかと納得し、同時に彼という存在をもっと知りたいと思った。
 そして。
 知れば知るほど惹かれた。
 千年もの間いがみ合い続け、その挙句、ふとまなざしを伏せた彼の横顔に引き寄せられて唇を重ねてしまうほどに。

 あの時、鬼灯が拒まないことを自分は確信していたと思う。
 抱えていたものは、ずっと同じだったのだ。
 彼も自分も、互いをけなし合いながら、心の奥底ではそれを快いと感じ続けていた。
 そうでなければ、どうして千年も喧嘩を続けられるだろう。
 真実、嫌悪し憎んでいるのであれば、とうに相手を無いものとして距離を隔てている。
 それぞれの持って生まれた性情からすれば、心底憎い相手に対し、どうにかして負かしてやろうと心を砕くことなど決して有り得ないのだ。

 顔を合わせる度に罵り合い、拳を交わすのも楽しかった。
 けれど、千年もそれを続けて、もういいだろうと思ったのだ。
 もっと違う形で、この男のことを知りたい。
 この手で触れ、これまで知り得なかったことを全て知りたい。
 そう思ったから、白澤は一歩を踏み出した。
 それを鬼灯も拒まなかった。
 予想していた結果ではある。
 あったけれど。
 このまま夜まで一緒にいないかと告げたのに対し、そうですね、と鬼灯が静かに返した時に湧き上がった想いは、この先も未来永劫、忘れられそうになかった。

「何を考えてるんです?」
 不意に問われて、白澤は目を開く。
 真っ直ぐに見下ろしてくる漆黒の瞳に、ふっと笑んで手を上げ、その頬を撫でた。
「こういう時に、お前以外のことを考えるほど不実じゃないよ」
「どうだか」
「本当だよ」
 口で何と言おうと、鬼灯のまなざしはこちらの言葉を疑っていない。
 そのことが可笑しくて白澤は更に笑む。
 すると、鬼灯は小さく舌打ちした。
「随分と余裕じゃないですか」
「そうでもないって」
 過去に想いを馳せていた間にも、肌は散々に嬲られている。既に崖っぷちまで追い詰められているのは自明で、それを無理に隠そうとは思わなかったから、鬼灯にも分かっているはずだ。
 ただ、偏屈なこの鬼神は、組み敷いた相手が笑うのが少しだけ気に食わないのだろう。
 もう少し正確に言うのなら、白澤が相手だからだ。
 拒絶されたいわけではないだろうに、白澤が彼の稚気に満ちた言動を許容する様子を見せると、しかめっ面をして返す。そんなところはいつまで経っても変わらない。
 きっと、これからも変わらないのだろう。
 だが、それで良かった。
「――っ…」
 言葉を返そうと口を開きかけた途端、深い部分をまさぐられる。
「お、まえ、不意打ち……」
「貴方が余裕そうな顔をしてるからでしょう」
「だから、そんな……こと、ない、って」
「そんな口も利けないようにしてあげますよ」
「――馬鹿…っ」
「もう黙れ」
 そんなずるい言葉と共に深く口接けられる。
 だが、そう言いながらも鬼灯の唇はひどく甘く、優しかった。
 目を閉じて長いキスを受け止め、そしてまた、白澤は鬼灯を見上げる。
「黙らないよ」
 乱れた呼吸もそのままに告げれば、鬼灯の眉がわずかに吊り上がった。
 そんな鬼灯に白澤は、ふわりと微笑む。
「だって僕は、お前の名前を呼びたい」
「――馬鹿ですか」
「何とでも」
 見下ろしてくる冷めた瞳の奥には、単なる呆れのみではない熱が仄かに覗く。
 それだけでもう十分だった。
「だから、お前も僕の名前を呼んでよ。もっと何度でも」
「――同じ台詞を女毎に言っていたんなら殺しますよ」
 溜息交じりに告げ、鬼灯が再び唇を重ねてくる。
 言ってないよ、と小さく返し、白澤はその唇に応えた。
 そして、閨で『殺す』などと言われたのは初めてのことだと、頭の片隅でぼんやり考える。
 これまで関係した女性たちは皆、白澤の遊び方をよく心得ていて、本気らしい睦言は駆け引きですら口にしなかった。
 軽やかな戯言になら白澤は幾らでも応じたが、真心を求めるような言葉は、いなすばかりで酒に流してしまうと誰もが弁(わきま)えていたのだ。
 せいぜいが、二人きりの時くらい私だけを見て、と愛らしく、あるいは婀娜っぽくねだられたくらいだろうか。
 そんな女性たちのことは皆、ひどく可愛いと思ったし、そういう薄っぺらい付き合い方も、そういう付き合い方しかしない自分も白澤は好きだった。
 それで物足りないだなどと一度も感じたことはない。
 けれど。
 骨の髄まで求め、求められて。
 繰り返し名を呼ぶ声と、肌を辿り最奥を暴く手指の優しさと。
 この夜を形作る全てに身を任せて溺れているうちに、ふと目の奥が熱くなる。
 幾日か前もそうだった。
 鬼灯が全てを了承して小さくうなずいた時、同じように目の眩むような感覚を覚えた。
 それを何と呼ぶのか、白澤は知っている。
 この永い永い時間の中で、初めて知った――幸福、という感覚。
 たとえようもなく甘く狂おしい想い。
 これを知るためにこの世に出現し、永い永い時を超えてきたのだと錯覚するほどに目の前の男が愛しかった。




「白澤さん」

 やがて、常の余裕が失せた声で鬼灯が名を呼ぶ。
 その声に目を開け、白澤は笑んだ。
「いいよ。……おいで」
 この男がこんな狂おしい光を目に浮かべるところは初めて見た。
 この鬼神にとっては、この自分はそれだけの価値がある存在なのか。
 そう思うと、何かがひたひたと心の内に満ちてくる。
 白澤とて無論、余裕は無い。だが、胸の奥底から涸れることのない泉のように湧き上がる純粋な想いの方が遥かに比重で勝(まさ)った。

「鬼灯」

 逞しく引き締まった背を抱き寄せ、その肌の温もりと匂いを感じながら、この鬼がいつか居なくなったら、自分は心底嘆くのだろうと白澤は思う。
 永い永い時を経て落ち着いて見送ることができる心境になっていれば良いが、そうでなかったら、おそらく白澤を知る誰もが驚き呆れるくらいに悲しみ、慟哭するだろう。
 いつかその日が来ても、愛したことを後悔もしないし忘れもしないと告げたのは掛け値なしの真実だが、だからといって喪失の悲しみが薄れるわけではない。
 狂うほどに泣いて、哭いて。
 だが、それも愛すればこそだと白澤には分かっていた。
 愛さなかったら涙も無い。涙が無い代わりに愛もない。
 それならば、愛することを諦めるより、愛して泣く方がいい。
 そして、涙が涸れたらまた微笑んで、愛しい思い出を大切に抱き締める方がいい。
 だから、この先何があろうと決して後悔はしない。
 そう自分の心を確かめながら目を閉じ、口接けを受け止める。




「お前が好きだよ。鬼灯。

 誰よりも、好きだよ」




 満点の星が天上で静かに瞬く、美しい夜だった。
 長年秘めていた想いがしみじみと伝わってくるその美しい一時に満たされ、そして、満たし返して。
 神獣と鬼神は幾日か前と同じように寄り添い合い、互いの温もりを感じながら甘い眠りに意識をそっと手放した。

End.

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