・前作の続きで桃太郎視点。
・白鬼よりの白鬼白です。
碧天
いつもと変わりない桃源郷のうららかな春天の下。
日課である仙桃の世話にいそしむ桃太郎が目にしたのは、全身から憤怒のオーラを立ち昇らせながらこちらへと向かってくる閻魔大王の第一補佐官の姿だった。
不機嫌さも顕わに、いつもにも増して大股でずんずんと歩み寄ってこられては、気付かぬ振りもできない。
「馬鹿は居ますか?」
闇色の瞳を一瞬、朱赤と錯覚するほどに目を怒らせてはいても、口調ばかりは丁寧なままなのが恐ろしい。
地を這うような低音で尋ねられて、こくこくと木偶(でく)のようにうなずく以外、一体何ができただろうか。
悪鬼そのものの容貌で極楽満月の店舗へと入ってゆく鬼神の後姿を見送りつつ、桃太郎は上司の五体満足を心ひそかに祈ったのだった。
* *
「桃太郎さん」
打って変わって涼やかな声で名を呼ばれたのは、鬼灯が極楽満月を訪れてから二十分余りも過ぎた頃合だった。
桃源郷は常春であるだけに、下草の伸びも速い。草刈に精を出していた桃太郎は、汗をぬぐいつつ後ろを振り返った。
「もうお話は済んだんですか?」
「ええ、一応」
その言葉は嘘ではないのだろう。声と同様、鬼灯の気配も表情もすっきりと収まっている。
その割には派手な物音はしなかったけどな、と桃太郎は、この二十分ばかりを振り返る。
鬼灯が店舗に入っていって直ぐに同僚の兎たちも追い出されてきたのには驚いたが、そもそもからして、それぞれ重い立場にある二人だ。
余人には聞かせられない事も多いのだろうと、桃太郎はそのまま桃林で作業を続けていた。
途中、鬼灯の荒ぶる声が一言二言、聞こえたような気はするが、距離的にも内容が分かるほどの音量ではなかったから、二人の会話の内容は全く見当もつかない。
ともかくも、こうして鬼灯が平静に戻ったということは、問題には何らかの解決がされたのだろうと桃太郎は思った。
「それで、白澤さんがお茶にしようというので、皆さんを呼びに来たんです」
「あ、そうですか。わざわざありがとうございます、って鬼灯さんもですか?」
「ええ。私は帰ると言ったんですがね。引き止められました」
あの人と違って私は忙しいんですが、と鬼灯は素っ気なく答える。しかし、桃太郎は、またか、と不思議なものを見る心地で闇色の鬼神を見つめた。
桃太郎の上司である白澤と、閻魔大王の第一補佐官の不仲は今更言うまでもない。
嫌い合っているのはお互い様だが、どちらかというと、その色がより濃厚なのは鬼灯の方である。
桃太郎が見たところ、白澤は積極的に嫌うというよりは、鬼灯が無体をするからこそ彼との対面を嫌がっている節がある。
しかし、その割には二人は頻繁に顔を合わせているし、会えば毎度のように、余人には理解しがたい勝負を繰り広げている。
不仲には違いない。けれど、能力を確かに認め合っているところもあり、お互いに言うほどは実は嫌い合っていないのではないかと言うのが、桃太郎の正直な感想だった。
そして今も、鬼灯は難色を示しつつも、共に茶を喫することには同意している。
何とも不思議な仲だと言うしかなかった。
ともかくも、休憩に呼ばれているのならと桃太郎は鎌を置いて、首にかけていた手拭いで汗をぬぐう。
その間に鬼灯は、薬草園のあちらこちらでで作業をしている兎たちにも順々に声をかけてゆく。
身をかがめて兎たちに話しかける鬼灯の横顔は相変わらずの鉄面皮ではあるものの、声は心なしか優しく聞こえるようだった。
ヒト型以外の動物たちに対しては優しい鬼灯のことは兎たちも好いているようで、顔を上げてふこふこと鼻を動かし、小さくうなずいては店舗に向かって跳ねてゆく。
凛とした佇まいの常闇の鬼神と、彼の足もとを跳ねる白や茶色の兎たち。
そんなメルヘンチックな光景に妙な感動を覚えていると、兎たちに声をかけ終わった鬼灯がこちらを振り返った。
自分が店へ戻るのを待っていてくれるのだろう。
こういう時、鬼灯は訪問先の家人を差し置いて、自分だけが先に行くような非礼はしないのである。
慌てて桃太郎は、彼のもとへと行った。
「すみません、お待たせして」
「いえ、構いませんよ」
無数にある地雷を踏まない限り、鬼灯の言動は穏やかなものである。
鬼灯は、ゆるやかに吹き抜ける春風に癖のない黒髪を遊ばせつつ、仙桃園へとまなざしを向け、どこかしみじみとした口調で言った。
「それにしても桃太郎さんは勤勉ですね。斡旋した私が言うことではないですが、あの駄獣の下に居ながらよく……」
「あー、ははは」
桃太郎は乾いた笑いを零す。
何かというと怠惰に流れる享楽的な上司ではあるが、しかし、白澤は一方で弟子に知識を教授することを全く惜しまない。
弟子の進度を図りつつ、常に絶妙なタイミングで新たな知識を授けてくれる白澤のことを、桃太郎は心から尊敬している。
酒色にだらしのない面を見れば、どうにかならないかこのケダモノめと思わないでもないが、ここへ来てからの歳月に培われた根底の信頼が揺らぐことは、最早なかった。
「あの通り、色々としょうのない人ですけどね。俺は白澤様のことは尊敬してますし、この仕事も天職だと思ってますし」
「だからこそ、働くことは苦にならない、ですか」
分かるような気はしますけれどね、と鬼灯は呟く。
その響きに何とはなし微妙なものを感じた桃太郎は少し考え、なるほどと思い至った。
考えてみれば、鬼灯の上司である閻魔大王ものんびりとした気質で、サボり魔の一面がある。
そんな大王を鬼灯が四六時中、折檻しているのは周知の事実だ。しかし、閻魔大王に対する信頼もまた深いということは、彼の言動の端々から伝わってくる。
大王の人格に一目置き、信頼しているからこそ無体の限りを尽くせる。実にひねてはいるが、そういう面が彼の内には少なからずあるように思われた。
(――あれ? 今、何かが引っ掛かったような……)
不意に桃太郎は自分の思考につまづいて、小さく首をひねる。
だが、その答えに辿り着くよりも早く、極楽満月の入口に到着してしまった桃太郎は、客人に戸を開けさせるわけにはいかないと、扉に手を伸ばす。
そして鬼灯と共に入口を潜った時には、小さな思考のつまづきについては、すっかり忘れてしまっていた。
しかし、
「あ、おかえりー」
常と変らぬ、のんきな上司の声が桃太郎と鬼灯を出迎える。その時点で、桃太郎は再び、あれ?、と思う。
隣りを伺い見れば、鬼灯もまた静かなままだ。
無表情は変わらないが、いつものような険悪な顔ではない。用意された椅子におとなしく腰を下ろすのが、いっそ不気味なほどである。
仲直り……という表現は当たらないだろう。この二人が仲良くしている場面など、これまで見たこともない。とすれば、休戦協定でも結んだのだろうかと桃太郎が訝(いぶか)った時。
鬼灯が冷やかに呆れ果てた声を出した。
「何てものを持ち出してくるんですか、貴方」
「え、だって、折角じゃん」
「それ、明朝の青花でしょう。本物の」
「当ったり〜」
青花というのは、日本でいう染付、つまりは呉須と呼ばれる藍色の染料で絵を描いた大陸の陶磁器のことである。
現代では馴染みの薄い用語だろうが、大陸の明代、イコール日本の室町時代に生きていた桃太郎にとっては、取り立てて難解な語彙ではない。
だが、その意味するところには仰天した。
「明朝って、青花って……! 今、何年だと思ってんですか!?」
「えー。二〇一三年だよね、今?」
「暦年くらい覚えていて下さい。その頭は飾り物ですか」
「僕にとっては一年も一日も大差ないんだよ。ええと、明が滅びてから……ありゃ、まだ千年も経ってないじゃん」
「崇禎帝の自殺から数えるなら三六九年ですよ。大雑把にもほどがある」
溜息交じりに鬼灯は言い、白澤の手元にある精緻な花卉文様の蓋碗を見やった。
透けるように薄く、美しい光沢のある乳白色の地に、図案化された牡丹や菊花が明るい藍色の染料で華やかに描かれている。
それは陶磁器に関する素養のない桃太郎の目にも、第一級の品として映った。
「貴方が何を持っていても今更驚きませんが、なんで景徳鎮なんか引っ張り出してくるんですか」
「引っ張り出してきたわけじゃないよ。普段から上客用とか自分が楽しむ用に使ってる」
「これをですか」
「うん。これを手に入れた頃は、こんなのはそこら辺にごろごろあって、特に珍しいものでもなかったんだよ。これだけの良品は当時でも高価だったけどさ。うちの蔵には似たようなのが、まだいっぱいあるよ」
景徳鎮、という地名は桃太郎も僅かに聞き知っていた。明代の最高級の陶磁器を生み出していた産地の名だ。
日本でも陶器を最大の産地名を冠して瀬戸物と言うように、当時、最高級の大陸産の磁器は景徳鎮と呼ばれていたのだ。
だが、そんな理解は何の助けにもなりはしない。
むしろ、当時の権力者達がこれらの磁器にどれほど執着していたかを知る分、余計にぐらぐらとめまいがしてくるのを桃太郎は感じた。
「まあ、茶器は茶器なんですから死蔵しても無意味ですが……」
「そうそう。これの兄弟の絵皿なんか、かわいそうだよー? 重要文化財だか何だかで博物館に飾られちゃってるんだから。器は使ってなんぼなのにさ」
言いながら、白澤は器用な手で蓋付きのその器にたっぷりと茶葉を入れ、湯を注ぐ。
その手捌きは流れるようで、まるで美しい舞踏か何かを見ているかのようだった。
程なく、蓋碗よりこの方が飲みやすいだろうからと、同柄の小さな茶杯に薄い色合いの茶が注がれる。
湯気と共に立ち上る香りは花とも果実ともつかない、華やかで清々しい何とも佳いものだった。
いただきます、と断ってから鬼灯は、茶杯を手に取る。
淡い緑の水色を見つめ、一口をそっと啜ってから小さく首をかしげた。
「龍井ですか? 以前に出していただいたものより等級が上のようですが……」
「正解。獅峰の特級品だよ」
白澤が笑うと、もとより吊り上った眦が更に上がる。それは上機嫌の猫にどこか似ていた。
一方、鬼灯はといえば、呆れた表情を隠しもしない。
「貴方が、どれだけ道楽を尽くそうと知ったことではないですが、一体どれだけ浮かれる気ですか」
「だって嬉しいんだもん」
にこにこと笑う白澤と、仏頂面とはいえ険悪ではない鬼灯。
その有り得ない構図に、桃太郎は手元の茶を飲むことも忘れ、何が起きたのかと怯えながら二人を見つめる。
この二人が真実の意味で嫌い合っていないことは、これまでの経緯で薄々感づいてはいた。
しかし、この状況は何なのか。
明日は常春の桃源郷に大雪でも降って、たわわに実った仙桃が全滅してしまうのではないか。
そんな心配をし始めた時、青ざめて引きつった桃太郎の表情に気付いた白澤が、ああ、という顔になった。
「そっか。まだ言ってなかったね。あのね、桃タローくん」
にっこり笑って白澤が告げた言葉は。
「僕と鬼灯、先日から付き合い始めたから」
一瞬とはいえ、桃太郎の気を失わせるには十分だった。
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