※パン職人×大学生
Love at the core 01
「あれ、こんなところにパン屋あったんだ」
臨也がその店に気付いたのは、いつもは通らない横道にたまたま入った時だった。
臨也の通う大学は、都会ではままあることだが、一般教養と専攻学科のキャンパスが離れている。ゆえに、めでたく三回生に進級した臨也も、この春から昨年までとは異なる駅で上下車することになったのだが、新たなキャンパスのある町は、都内とはいえこれまでに全く縁のない、見知らぬ土地だった。
それを幸いとばかりに臨也は、天与の有り余る好奇心に任せ、時間に余裕がある時はできる限り毎回、異なる経路で駅と大学の間を往復するようになったのである。
そして今日もキャンパスを出た後、駅とは少し違う方向に歩き出した臨也は、随分な遠回りの末に、そろそろ帰るかと駅の方角に向かって角を曲がった。
その幾つめかに、その小さなパン屋はあったのだ。
「ちょうどいいから、今日の夜と明日の朝用に買っていこうかな」
足を止めて店全体を眺め、ガラス窓が綺麗に磨かれていること、少し古ぼけた看板がそれでもヨーロッパ調でセンスの良いこと、そして、窓を透かして覗いた店内のパンが、やたらと美味しそうに見えることを確認した臨也は、自分の第六感を信じてドアを引き開けた。
臨也の入店と同時に、カロン、とガラスの嵌め込まれた木製ドアの上部についていた小さなカウベルが、やわらかく懐かしい気のする音を立てる。
そして、
「いらっしゃいませー」
店内から聞こえてきた、愛想はないものの、意外なほど響きのいい低い美声に、臨也は、おや、とまばたきした。
何となくのイメージなのだが、パン屋とかケーキ屋とかでは、パートやアルバイトの女性がレジ番をしていることが多いように思う。男性店員というのは結構珍しいのではないかとカウンターに目を向けて、臨也はまた驚きに軽く目をみはった。
ええと、と男性店員の鮮やかな金髪に、思わず呆気に取られてしまう。
どう見ても店員の顔立ちは日本人だったから、この金髪は間違いなく脱色して染めているのだろう。居酒屋か、十歩譲ってカフェの給仕なら、こういう頭もありかもしれない。だが、ここはパン屋だ。
よくこんなのを雇ってるな、でも外見で差別するのは偏見か、でも客商売なら見た目の印象大事だろ、と臨也が自問していると、「あの……?」と男性店員があからさまに困惑した表情で、小さく首をかしげる。
あれ何その仕草可愛い、ゴールデンレトリバーが首かしげたみたい、と反射的に思い、そして臨也は、その店員が素晴らしく整った顔と長身の持ち主であることに、やっと気付いた。
年齢は、臨也とどっこいの二十歳前後というところだろう。優男と言い切るにはやや精悍さが勝る端整な顔立ちで、すらりと背が高く、モデルか俳優といっても通りそうな容姿だが、いかんせん、そういった職業とは表情がまるっきり合っていない。
これだけの顔がついていたら、もっと自意識過剰になるのが普通なのに、エプロン姿の彼は、臨也がどうして自分を見ているのか、まるで分からない、という顔できょとんとしているのである。
世の中には勿体無い人間もいるもんだねぇと、彼にしてみれば、とんだお節介だろうことを思いながら、臨也はにこりと微笑んで見せた。
臨也は別にモデルでも俳優でもないが、自分にどんな顔がついていて、それが世間的にどう評価されるかということは、十分に知っている。その顔に特上の笑顔を載せてやると、彼は更に困惑したような表情になりつつも、軽く会釈を返してきた。
なるほど、躾はいいらしい、と感心しながら臨也は、本来の目的であった店内のパンを物色し始める。
さほど広くない店内をぐるりと回ってみたが、食べてみなければ実際のところは分からないものの、籠に盛られたりトレイに並べられたりしているパンは、どれもこれも中々に美味しそうで。
香ばしい匂いをいっぱいに感じながら、楽しく迷った後、臨也は背後を振り返った。
「すみません」
「──あ、はい」
「どれか、お勧めのってありますか?」
そう尋ねれば、ああ、と彼はレジ横のスイングドアを開けて、カウンターのこちら側へと出てくる。そして、臨也の隣りに立った。
案の定というべきか、並ぶと臨也の目線は彼の顎の辺りまでしかない。身長185cmくらいか、と感心しながら横目で観察する。すると、彼は考え考え、干し葡萄入りの丸いブールを指差した。
「そのブールとか、すげぇふかふかで美味いと思いますけど……どんなのがお好みですか」
ふかふか、って何だよ可愛いだろ、と思いながらも、臨也は答える。
「んー、甘いのは好きだけど、甘過ぎないのがいいかな。惣菜パンはあんまり食べない。ドライフルーツとかナッツとか入ってるのは好きだね。あと食事パンも一種類、欲しいかな」
「そうですか」
なるほど、と納得した風情で、青年はまた小首をかしげる。その可愛い仕草、どうにかならないかなぁと思いつつ、真剣に考えているらしい青年に、臨也は自分でも思いがけないほどの好感を持った。
好奇心旺盛なあまり、何か一つに深く入れ込むことのない臨也は、恋愛、という意味では、あまり強い興味を他人に対して抱くことがない。ただ、これまで恋人を作ったことはないものの、好ましいと思う相手は女性も男性もあったから、何となく自分は両刀ではないかと思っていた。
そして、その滅多に動くことのないアンテナが、今、ピピピと目の前の男に反応しているのだ。
「じゃあ、このレーズン入りのブールと、そっちのピスタチオとチーズが入ったのと……、あ、チーズは平気ですか?」
「うん。好きだよ」
「そっすか」
臨也がうなずくと、ほっと安心したように、こちらを見下ろした青年が小さく微笑む。
客商売の癖にどちらかというと愛想がなく、ほぼ無表情ばかりだった端整な顔立ちに浮かんだ、はにかむようなその笑みは。
───臨也の、鋼鉄ワイヤー並みの剛毛が生えていると自他共に認める心臓を、まともにぶち抜いた。
決して心臓に持病などないのに、どくん、と鼓動が鳴って、胸の奥がきゅうっと切なくなる。
なんだコレ……!?と臨也が慌てるうちにも、青年は商品棚に向き直り、幾つかのパンを示した。
「食事パンは何も入ってないのがいいのなら、そっちのライ麦パンか、バゲットもうちの自慢なんでハーフサイズか……。あ、そっちのデニッシュも美味いですよ。さくさくで。上に載ってるコンポートも全種類、自家製です」
「あー、じゃあその辺もらう……今日の夜と明日の朝の分、適当に載っけて」
自分でパンを取ったら、うっかり取り落としてしまいそうな気がして、臨也は青年にトレイを押し付ける。
すると青年は素直にそれを受取って、手際よくパンを載せた。
「ライ麦パンとバゲットは、どっちがいいっすか?」
「……君のお勧めの方で」
「──じゃあ、バゲットのハーフにしときますね」
そう言いながら、ビニール袋に包まれたハーフサイズを取り上げる青年の手をちらりと見て、半秒後、臨也は見たことを後悔した。
そのすらりとした体型に似合う、指の長いしっかりした手を彼はしていた。形のいい爪は、食品の製造小売業らしく短くぎりぎりまで摘んである。清潔で、器用そうで、よく働きそうな、綺麗な手で。
何故か、その手に触れてみたい、と思ってしまった自分に、臨也はひどくうろたえる。
人間は好きだが、あくまでも有り余る好奇心を宥める観察対象としてであって、積極的に触れたいだなどと、これまで一度も思ったことはない。
なのに、彼の手はひどく気になる。
触れたらどんな感触なのか、自分の手より温かいのか冷たいのか、触れて確かめてみたい気がするのだ。
だが、そんな自分に戸惑い、赤面するよりも早く、青年がトレイを臨也に差し向けた。
NEXT >>
<< BACK