RAINY CITY  07

「シズちゃんの『特別』なんか要らないよ。俺は絶対に『普通』になんてならない。これまでも、これからも変わらない。今まで通りだよ。俺と君が、この街にいる限り、永久に」
「……そーかよ」
 鋭い鳶色の目が、忌々しげに細められる。
「じゃあ、この話はここまでだな」
「そうして」
 吐き捨てるように言い、そこで臨也は、存在を忘れたままになっていた梅干粥に気付いた。そして、気付いたことに後悔する。
 二人の間で、それはいつのまにか湯気を立てることもなく、冷たくなりかけている。
 ───シズちゃんが、買ってきてくれたお粥。
 具合の悪い臨也を案じて、仕事帰りにコンビニにでも寄ってきてくれたのだろう。いや、そもそも今日は仕事に行ったのかどうか。
 妙なところで、お人好しの彼のことだ。熱を出して寝込んでいる天敵のために、仕事を休んだという可能性さえゼロではない。というよりも、昼頃まで熱にうなされていたと知っているということは、可能性はほぼ100%だ。
 畳の上など見ずにそのまま顔を背けて、布団をかぶって寝てしまえば良かった、と臨也が内心で歯噛みした時、静雄も粥の存在に気付いて、後ろ髪を掻き揚げた。
「……冷めちまったな」
 それは何気ない呟きだっただろう。二人の間に漂う気まずさを持て余していたにせよ、単に事実を認定しただけで、臨也を責める言葉ではなかった。
 けれど。
「──食べるよ」
 溜息をつくように、臨也は言葉を押し出す。
「あ?」
「シズちゃんが、なけなしの金をはたいて、この俺のために買ってきてくれたわけだし? 考えてみれば、君に何かを奢ってもらうのって、これが初めてじゃない?」
「───…」
「何?」
 胡乱(うろん)げなまなざしでこちらを見つめる静雄に気付き、問い返すと、静雄は溜息をついた。
「妙な気を遣うんじゃねえよ。気色悪ィ」
「残念でした。気なんか遣ってないよ。熱が下がって、おなかが空いただけ。昨日の昼以来、何にも食べてないんだからさ。あ、お茶も入れてよ、水分補給しないと。本当はポカリが一番いいんだけど、どうせ無いでしょ」
「うぜぇ」
 溜息と共に吐き捨てて、静雄が立ち上がる。その拍子に、彼の手が畳の上の器を攫っていったことに気づいて、臨也は慌てた。
「シズちゃん、お粥!」
「温め直してやる。黙って待ってろ」
 背中越しに言われて、思わず口をつぐんでしまう。
 別にいいのに、とぼそぼそと呟いたものの、おそらく静雄には聞こえていないだろう。
 キッチンでは、電子レンジのドアを開け閉めする音に続いて、ポットのお湯を注ぐ音、そして、冷蔵庫を開閉する音が続く。
 それらに耳を傾けるでもなく傾けながら、臨也は布団の横に転がっていた携帯電話を取り上げて、手の中で弄んだ。
 そして三分後、静雄が戻ってきて。
「……なんで全部出てくるの」
 布団の横に並べられた、ほこほこと湯気を立てる梅干粥の器、日本茶の入った湯のみ、ポカリスエットのペットボトルとコップに、臨也はまばたきする。
「手前が欲しいっつったんだろ」
「……だからって、全部出てくると思うわけないよ。なんで、全部出てくるの」
「あーもー、マジで手前はうぜぇな! 黙って食って飲んで寝ちまえ!!」
 静雄の片手が伸びて乱暴に髪をかき回され、そしてもう一方の手が、粥の器を突きつける。ぐいと差し出されたそれを、臨也は他に成す術もなく受け取った。
 電子レンジで温め直された器は、温かいというよりも熱い。布団の上に置いて、添えられていた大き目のスプーンで粥をすくい、火傷しないように気をつけながら口に運ぶと、米の甘さと程よく訊いた塩味が、じんわりと舌の上で広がった。
 あー全身に染みる、と思ったものの、口には出さない。
 静雄も臨也が食べ始めたことで満足したのか、臨也の方を見ることはなく自分用の茶を啜っている。その様子を横目で眺めながら、臨也は梅干まで粥を完食した。
「全部食えたな」
「そうだね。まだ体はだるいけど、熱っぽさは抜けたし。ついでに、シャワーも借りたいんだけど。何か体中がベタベタして気持ち悪い」
「それは止めとけ。二晩くらい風呂に入らなくったって死にゃしねえ」
「嫌だなぁ、俺は文明人なんだよ」
「ぶり返したらどうすんだ。今夜は我慢して、新宿に帰ってからにしろ」
「ちぇっ、融通利かないね、シズちゃん」
「手前に聞かせる融通なんざ、あるかよ」
「じゃあせめて、顔を洗わせて。歯も磨きたいけど、予備の歯ブラシとかある?」
「……買い置きのストックは、ある」
「じゃあ、それちょうだい」
 言いながら、臨也は布団から立ち上がった。一瞬ふらついたが、どうにか立て直す。全身に力が入らない感じはするが、とりあえず顔を洗って歯を磨くくらいは大丈夫そうだった。
 そして、狭い洗面所で顔を洗って歯を磨き、手洗いをも借りて、少しだけさっぱりした気分で布団に戻る。
「そういえばさぁ、俺がこの布団使ってて、シズちゃんはどうしてるの?」
「それは元々客用の奴だ。俺のは押入れの中」
「ああ、そうなんだ」
 道理で煙草の匂いしかしない、と納得する。
 毎日使っているものなら、静雄の匂いがするはずなのに、と少しだけ不思議だったのだ。
 つまらない、と思いながら臨也は、布団の中にもぐりこむ。
「明日の朝、俺、帰るからさ。俺の服、出しといてよ」
「ああ、今日は天気良かったから、ちゃんと乾いてるぜ」
「そう」
 ありがとう、と本当は言うべきだったのだろう。
 でも、声にはしないまま、臨也はくるりと壁側を向いて目を閉じる。そんな臨也に対して、静雄も何も要求はしなかった。
 それからしばらくの間、静雄が布団を引いたり、歯を磨いたりして、寝支度を整えている気配が続いていたが、やがて、「消すぞ」と声がかかると共に、明かりが消された。
 そして、静雄も布団の中に入り、横になる気配に、背を向けたまま臨也は手を握り締める。
 ───シズちゃん。
 静雄にとっての、『普通』と『特別』。
 昨夜からのことは、きっと『特別』に分類されることなのだろう。一般人なら当たり前の、体調を崩した知人の世話を焼くということすら、彼にとっては『普通』ではない。
 そしてまた、友人と呼べる人間が殆ど居ない臨也にとっても、誰かの看護を受けるというのは『普通』ではなかった。
 けれど。
 ───それでも俺は、『普通』なんて嫌だ。
 心の中で小さく呟いて、臨也は静雄の気配を感じながら、ゆらゆらと眠りの淵に沈んでいった。

End.

身内に、「臨也って本当に面倒くさいですね」と言わしめた本作。
うちの臨也は、シズちゃん相手にデレるのが大の苦手です。

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