刺さったままの刺の数。
夢見る頃を過ぎても −第二章−
4.春霞
深山の庵の小さな庭は、現在、鮮黄色の連翹も薄紅色の花海棠も散り果てて、木の花は、膨らみつつある山吹の蕾が開くまでの一時の小憩の中にあった。
だが、幕間を埋めるように地表では、陽だまりには紫、薄紫、白、薄紅と色取り取りの菫が咲き乱れ、木陰には、淡黄緑の春蘭がひっそりと花を開いている。
見渡せば、どこにでも可憐な花が開いており、また虫や動物、鳥たちもにぎやかに活動していて、目を楽しませるものには事欠かなかった。
そして、太公望と楊ゼンは穏やかな陽差しに包まれて日がな一日、それらの花や鳥を愛で、書物に親しみ、碁に興じて、他愛ない会話を交わす。
時には、他愛ないやり取りがささやかな口論に発展して、臍を曲げることもあったが、大抵は半日もたたないうちに、どちらかが折れておしまいになる。
そんな生活は既に一月になろうとしており、二人は花の咲き乱れる小さな庵で、穏やかな日常を楽しんでいるように見えた。
───少なくとも、表面上はそう見えていた。
よく晴れた空が白くかすむ、春の午後。
楊ゼンと呂望は、庭の桃の木の下でそれぞれ書物を広げていた。
木陰とはいっても、広がったばかりの若葉は鮮やかな翠緑で、ほどよく要港を透かすためにかなり明るく、読書にはちょうど良い。
しかし、あまりにもうららかな陽気に眠気がさすのか、先程から呂望は楊ゼンの隣りで欠伸を繰り返していた。
そして、また。
何度目か分からない大きな欠伸をした呂望に、楊ゼンは小さく笑う。
「呂望、眠いのなら寝ればいいでしょう?」
「そうだのう……」
涙の滲んだ目尻をこすりながら、呂望はちらりと楊ゼンを見上げた。
それから何かを思案する風に小首をかしげていたが、ほどなく膝の上の書物を閉じて。
ころんと青年の膝を枕にして転がる。
「────」
「寝ろと言ったのは、おぬしだぞ」
楊ゼンの微かな驚きを感じ取ったのか、目を閉じたまま、妙にえらそうに呂望は言う。
「別に振り落としたりなんかしませんよ」
そんな彼に苦笑しながら、楊ゼンは指を伸ばして癖のない髪を軽く梳いてやり、そしてまた、書物に視線を戻して活字を追いはじめる。
が、
「───呂望」
三十行も読み進まないうちに、溜息まじりの声で楊ゼンは想い人の名を呼んだ。
「眠いのなら、大人しく寝たらどうなんです?」
呆れたような視線に、眠たげな瞳で見つめ返してくる呂望の右手の指には、楊ゼンの肩から流れ落ちた長い髪が一房、巻き取られている。
それを引っ張ってみたり、指に絡めてみたり解いてみたり、まるで子猫のように呂望は楊ゼンの髪にじゃれついているのだ。
まなざしで暗に咎める端から、またもや呂望は、つんと指に絡めた髪を引っ張る。
「痛いです」
苦情を言っても、眠気でぼんやりした瞳に悪戯な光を浮かべて、上目遣いに見上げてくるばかりで。
これはもう、好きにさせておくしかないかと諦め、再び楊ゼンが書物に目を向けた途端。
「呂望……」
またもや彼は、やや強く髪を引っ張った。
「眠くないんですか?」
「ものすごく眠いのう」
問いかければ、ぼんやりとした声が返る。だが、髪をもてあそぶ指の動きは止まらない。
実のところ、髪を引っ張られるといっても、別に痛いと言うほどのものではなかった。
だが、それでも気になって活字に集中できないのは変わらない。
眠たげな呂望を見つめ、大きく溜息をついた楊ゼンは、手を伸ばしてその細い首筋に軽く指先を触れた。
「いい加減にしないと、僕も悪戯しますよ?」
その妙な脅し言葉に。
呂望は軽く目を見開き、しばらく考える素振りをしてから、そっと指に絡めていた長い髪をほどいた。
「本当にあなたって人は……」
あからさまな態度に微苦笑し、首筋に触れていた指を離して、さらさらと零れ落ちる癖のない髪を優しく梳いてやると、呂望は気持ち良さそうに目を閉じる。
───髪をいじるのは、じゃれつく子猫と同様、構って欲しいというサインだということは、楊ゼンも分かっていた。
一見、我が強いように見えて、実はほとんど他人に要求をしない彼が時折、こうして控えめに示してくる甘えは、楊ゼンにとっては何よりも愛しく感じられる。
穏やかな陽光の下、目を閉じている呂望はまったくの無防備で、どこか幼く見えて可愛らしい。
けれど。
その無防備さが自分への信頼だと分かるのが嬉しい反面。
ふと、心に差してくる影があるのも事実だった。
結局、自信がないのだ。
自分に対する呂望の想いを疑う気などまったくないが、けれど、こうして安らいだ様子を見せていても、彼の心はきっと泣きやんではいない。
過去の自分なら、その涙を止められただろうと思うほど、楊ゼンは自惚れてはいない。
だが、慟哭の意味を──理由を理解することくらいはできただろうと思うと、ひどく苦い気分になる。
呂望を傷付けるくらいなら、記憶など戻らなくてもいいと思う一方で、過去の自分の影を気にしている弱さ愚かさが、ひどく厭わしくて。
けれど、記憶を取り戻すことを、呂望がどう考えているのか。
それが分からないから、不安を拭う手立てもない。
───もし、問うたらどうなるのか。
無防備に目を閉じ、頭を預けている呂望を見つめたまま、楊ゼンは考える。
微笑むのか、それとも傷ついた瞳を見せるのか。
どんな嘘を口にするのか。
うららかな春の日差しの下で、好奇心とは到底言いがたい、断崖の際に立たされたような危うさを伴った衝動が沸き起こる。
この穏やかな愛しい一時を、微塵に砕いてしまいかねないと分かっているのに。
こんな、抑えかねるほどの強さで。
「……呂望」
「んー?」
名を呼んだ声は、不思議なくらいいつもと変わらなかった。
半分眠りかけていたのか、間延びした返事をする呂望のやわらかな髪を指で梳きながら、楊ゼンは自分の口が他人事のような淡々とした調子で、言葉を紡ぐのを聞いた。
「僕の記憶が戻ったら、あなたはどうします?」
何気ない問いに。
ぱちりと呂望は目を開いた。
まだ眠気を残して、どことなくぼんやりと見上げてくる瞳が、木漏れ日を受け止めて深い色に揺らめく。
その色を見つめながら、
「記憶が戻っても、あなたは僕を好きでいてくれますか?」
重ねて問いかけると。
呂望は言葉の意味を正確に把握しようとするかのように、二、三度まばたきして。
───やわらかく微笑した。
それから、ゆっくり体を起こして楊ゼンを見上げ、手を伸ばして長い髪を掴み、引き寄せる。
「呂──…」
名を呼びかけた声は、触れるだけの口接けに遮られた。
「大丈夫だよ」
やわらかな感触を残して離れた呂望は、とん、と楊ゼンの胸に額をぶつける。
かすかな……本当に微かな、咲き初めの花に似たほのかに甘い呂望の香りが、ふわりと楊ゼンの鼻をくすぐった。
「おぬしが記憶を失っても……、何十年経っても変わらなかったのに、今更変われるわけがないだろう?」
よく透る呂望の優しい声が、耳を打つ。
「本当に?」
「絶対に。記憶があろうと無かろうと、おぬしはおぬしだ」
言葉を交わしながら、楊ゼンは華奢な背中に腕を回して呂望を抱き寄せる。
「──じゃあ、もしこのまま記憶が戻らなくても……?」
答えは無かった。
が、その代わりに、細い腕が優しい強さで抱きしめ返してくれる。
その温もりと重み。
それだけは、絶対に嘘をつかない。
たった一つ、信じられるもの。
……本当は、記憶を取り戻してもいいのか、と訊きたかった。
けれど、やはり口には出せない。
───僕には、あなたしかいないんです。
祈るような想いは、言葉にならないまま。
今はただ。
腕の中の温かな存在を失いたくなかった。
「───…」
不意に眠りからさめた太公望は、ぼんやりとまばたきをした。
薄闇の中でゆっくりと視線を動かし、南向きの窓を見つめる。が、そこには月はなく、今日は何日だったかと考え、上弦の半月は真夜中前に沈んでしまうことを太公望は思い出した。
改めて星宿の形を眺めれば、今が真夜中過ぎであることが知れる。
しばらく夜空を見つめ、そしてゆっくりと視線を下ろす。
そこ──太公望の真横には。
静かに眠る青年の横顔があった。
普段は他者の気配に過敏な彼なのに、今はよほど深く寝入っているのか、目覚める様子はない。
端正な寝顔を見つめ、太公望は気配を殺しながらそっと起き上がり、そのまま寝台の上に座り込んだ。
ほのかな星明りの中、彼はまるで天上の細工師が精魂込めて造り上げた貴神像のように見える。
完璧に整った顔立ちは、到底人の持てるものではなく、並の妖怪仙人と比べても桁違いに秀麗だった。
その顔を、夜着に包まれた肩を力なく落としたまま、太公望は見つめ続ける。
やがて、そっと左手を伸ばして、褥に流れている青い月の光を紡いだような長い髪を一房、掬い上げた。
そして、それを口元に引き寄せ。
「──おぬしの記憶は……いつ戻るのだ……?」
ひっそりとささやく。
だが、答えが返るはずもなくて。
太公望は瞳を伏せ、再び元のように髪を丁寧に置き。
そして、そうっと音を立てないように寝台から降りた。
身動きするのに体に違和感をまったく感じないわけではなかったが、特に痛みはない。
再びこういう関係になって以来、楊ゼンが手加減してくれなかったのは一度きりで、あの夜以外はいつでも壊れ物を扱うように優しく触れてくる。
それだけで、彼がどれほど大切に思っていてくれるのかが伝わってきて、胸が苦しくなるくらいに。
軽く唇を噛んで振り返り、楊ゼンが目覚めないのを確かめて、太公望は部屋を後にする。
庵の玄関を出ると、よく晴れた夜空一面に星がまたたいていて、辺りはほのかに薄明るかった。
風はほんのかすかで、まだ虫の声もなく、遠く聞こえる夜行性の鳥や獣の鳴声だけが耳に届く音だった。
星明りに照らされた庭へと太公望はゆっくり進み、とうに花は終わり、大きく若葉を広げた木蘭の樹に歩み寄る。
手を上げ、少しざらついた木肌に触れて。
その手の甲に額を押し当てるようにうつむいた。
「──楊ゼン…」
夜の庭にかすれた声が落ちてゆく。
「いつまで……」
───仮初(かりそめ)の夢のはずだった。
いずれ記憶は戻るだろうと思ったから。
どう考えても、彼が真実を思い出さないとは思えなかったから、タイムリミット付きなら丁度良いだろうと。
短ければ数日、長くても数ヶ月。
最初からそう思って始めたことだった。
なのに。
一月。
たった一月で、目覚めれば消えるはずのうたかたの夢に、こんなにまでも囚われてしまうなんて。
自分の心を甘く見過ぎていた。
これほど、自分が弱くて未練がましいなどとは思わなかったのだ。
「こんな事……しなければ良かった……!」
顔を上げれば、すぐ傍に楊ゼンがいる。
甘やかに笑いかけ、髪を撫でて抱きしめてくれる。
自分が捨てた遠い日々と同じ、優しい日常。
それがもう、当たり前になってしまっている。
一人になることを選んで、二十年も過ごしてきたはずなのに。
一体、どんな風に日々を暮らしていたのか、もう思い出すことができない。
一人きりの時間など最初からなかったように、彼の存在に馴染んで、いつでも無意識に彼の気配を追いかけて。
彼という存在を、一秒でも離れてはいられないほどに求めてしまっている。
「どうして……っ」
これは一時の夢。
目覚めれば覚める夢だと分かっているはずなのに。
心が止まらない。
楊ゼンの匂いも。
温もりも。
何もかも忘れたつもりだったのに。
触れた途端に、すべて思い出してしまった。
「楊ゼン……!」
───後悔すると、最初から分かっていた。
嘘を重ねて夢を造り上げたところで、苦しいばかりだろうと。
分かっていたのに、何故こんなに辛いのか。
「──楊ゼン…」
これまでに何千回、何万回も呼んだ、彼の名前。
口にするたびに泣きたいほどに胸が痛くて、けれど呼ばずにはいられないから。
「早く……思い出してくれ……!」
これ以上、自分の心を抑えられなくなる前に。
馬鹿なことを望んでしまう前に。
所詮、これははかない春の夜の夢なのだから。
早く目覚めさせて。
「楊ゼン…っ」
口にするたびに心に突き刺さる、甘く、死んでしまいそうに痛い刺。
でも、他にすがれるものが何もないから。
静かな夜の中、太公望は何度も繰り返し、その名前を呼び続ける。
けれど、苦しさも痛みも大きくなりこそはすれ、決して消えることはなかった。
ほんのわずかな夜風に乗って耳に届く、かすかな自分の名前に。
楊ゼンは目を伏せて、気配を殺したまま庵の奥へと引き返す。
先程、呂望が目覚めたことにはすぐに気付いた。
狸寝入りをするつもりはなかったが、傍に感じる呂望の気配があまりにも張り詰めていたから、目を開けることができなかった。
いつ記憶が戻るのかと問いかけ、寝台を出て行った彼を追ったのも、少し間を置いてからのこと。
「──見るべきじゃなかったな……」
呂望の部屋の寝台に戻りながら呟いた声は、ひどく苦い。
二十日ほど前、自分によく似合うと言った木蘭の木の下で。
泣いているのかと思うほど苦しげに、呂望は何かを嘆いていた。
繰り返し、自分の名を呼びながら。
その小さな後姿があまりにも辛そうで、とても声をかけることなどできなかった。
それに、もし声をかけたとしても、呂望は決して本心を明かさないと分かっていた。
誰も見ていないはずの場所で、あんな風に何かを悲しんでいるのであれば尚更に、その理由を言いはしない。
分かりたくなくても、そんな彼の性格をもう分かってしまっている。
──いっそのこと、もっと心が子供なら良かったのかもしれない。
そうしたら、感情に任せて訊くことができただろう。
何故、そんなに嘆いているのかと。
自分が記憶を取り戻さないことが、そんなにもあなたを苦しめているのか、と。
「あんな風に嘆くくらいなら、僕を責めてくれたらいいのに……」
理不尽な言い分でも八つ当たりでも。
どうしてさっさと記憶を取り戻さないのだと、なじってくれればいいのだ。
けれど。
あれは、自分が見ていないと信じているからこその彼の素顔。
それが分かるから。
思いを口にして、彼を傷付けることはできない。
「呂望……」
彼が何を考えているのかは知らない。
何故、これほどの嘆きを心の裡に秘めていながら、過去に関する一切に口をつぐんでいるのか分からない。
だが、彼が苦しんでいる原因が自分の記憶の喪失にあることだけは間違いないから。
───思い出さなければならない。
過去にどんな事情が隠されていようと、それを取り戻さなければならない。
そして、すべてのピースを繋ぎ合わせた上で、もう一度最初から始める。
記憶を取り戻すことを彼が望んでいるのかいないのかは未だに分からないが、彼をこれ以上傷付けないためには、おそらくそれしか方法がない。
そう思い、寝台に横になって目を閉じた時。
ひそやかな気配が戻ってきた。
「──呂望?」
そっと名前を呼ぶと、部屋の入り口で少し驚いたように彼は立ち止まる。
「──すまぬ。起こしたか」
「いえ……。どうしたんです?」
寝台に歩み寄ってきた小さな姿に寝具を持ち上げてやれば、素直に入ってきた。
「ちょっと目が覚めて寝付けなかったのでな。庭で星を見ていた」
「こんな薄着で……。春とはいっても夜は冷えるんですから」
冷たくなった夜着の肩を抱き寄せ、毛布でくるめば、呂望は温もりを求めてすり寄ってくる。
「あったかいのう」
「まったく……」
冷たい呂望の身体を抱きしめながら、楊ゼンは胸の痛みを気取られぬよう一番底まで押し込める。
腕の中の呂望も、きっとそうしているのだろうと思いながら。
冷えきっている小さな手を、そっと自分の手で包み込む。
───確かに想い合っているはずなのに、どうして呂望も自分もこんなに辛いのか。
やりきれない思いに、楊ゼンは目を閉じた。
....To be continued
というわけで、何だかとても久しぶりな気のする続きです。
短いのにえらく時間がかかったのは、前半のほのぼのシーンがどうにもこうにも読み返したくなかったからです。二人の世界〜♪な雰囲気は勿論、初版当時もこの手のシーンが苦手だったために文章もひどくて、手直しにかなり時間を食いました。長々とお待たせしてしまってすみません。
第2章はあと2回で終わります。どんどん緊迫した雰囲気になってきてますが、まぁ断崖絶壁からは突き落とされるものだと思って、見てやって下されば幸いです。m(_ _)m
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