雨のち晴れ=???
「あーあ、降ってきおったか」
自動ドアではないコンビニのドアを開けて一歩外に出て、その軒下で太公望は黒に近い紺に濡れて光るアスファルトと、灰色の空を眺める。
確かに今朝の天気予報では、夜には雨が降ると言っていた。
しかし、どうにか持ちそうな気がしたから、結局傘は持たずに家を出たのだ。
マンションも大学も駅はすぐ側だし、走ったところで大して濡れはしないと、タカをくくっていたのだが。
「ちょっとひどくないか、これは」
ほんの5分かそこら、否、雑誌コーナーで立ち止まったから10分ほどをコンビニで過ごしただけなのに、いざ買い物を済ませて店を出ようとしたら、夕立とまではいかないものの、それなりの強さで雨粒が落ちてきている。
軒下伝いに行けば、マンションまでどうにかならなくもないが、しかし道を一本横切る間は、どうしても濡れざるを得ない。
どうするかな、と太公望は雨を眺めながら考えた。
ちょっと雨に濡れたくらいで風邪を引くような季節ではまだないし、第一そんな虚弱体質でもない。
空全体が薄暗くて、どう見ても今夜一晩雨はやみそうにない感じだが、幸い、足元はスニーカーだし、今日は書店にも寄らなかったから濡れて困るような荷物もない。
濡れていくか、とそう心を決めた時。
「良かったら使って下さい」
不意に背後から声がかかった。
もしかしたら自分に言っているのかと、振り返ってみると、そこにはコンビニから出てきたらしい青年が、穏やかな表情でこちらを見ていた。
ちょっと珍しいほどの美形で、癖のない長い髪は首筋で軽く1つにまとめられている。
その形のいい手には、男物のシンプルな傘が握られていて。
「僕のマンションはすぐそこなんです。だから、良ければどうぞ」
そういう相手を、太公望は少し驚いた表情で、しばしの間、見上げる。
会話をするのは初めてだったが、初対面というのとは少し違う。
朝晩にこのコンビニに寄り道する時、時々店内で見かける相手だった。
常連客同士、たまたま同じ品物に手をのばしかけて、譲り合ったことも確か1度くらいあったはずだ。
とりあえず悪い印象はない。
会話も何もしたことはなく、時折見かけるだけの相手に好印象も悪印象も、あろうはずがない。
「いや、でも・・・・・」
「家に別の傘もありますから、返していただかなくてもいいですよ」
「そういうわけにはいかんだろう。借りたものは返す、が・・・・」
「とにかくどうぞ」
優しげな笑顔と共に、傘を押し付けられて。
太公望は、何となくそれを受け取る。
「それじゃあ、また。今度見かけたら声を掛けて下さい」
さわやかっぽくそう言って、青信号に変わったばかりの交差点を雨の中、足早に渡ってゆく背中を、太公望は傘を手にしたまま見送った。
そして。
「・・・・・あやつ、親切は親切らしいが・・・・・阿呆じゃないか? どう見ても、わしのマンションの方が近いぞ」
目を眇めて、遠ざかる背中を追いながら、呆れきった口調で呟く。
こちらの住居を知らないのであれば仕方がないといえるかもしれないが、しかし、この大通りを渡ると渡らないだけでも距離としてはかなり違う。
なにせ、太公望の住んでいるマンションは、このコンビニから徒歩2分。細い道を1本挟んだだけの隣りのブロックにあるのだ。
「初対面の相手をマンションの入り口まで送れとは言わんが、せめて方向を確かめるとか、傘が必要かどうか聞くとか、方法がありそうなものだがのう」
なんかマヌケな奴、と思いながらも、押し付けられた傘を開く。
そのやや重い感触や、しっかり張られた骨は、結構上等な品らしくて。
そういえば、いつもさりげなく金のかかっていそうな身なりをしていたな、と太公望は青年の印象を思い返す。
春頃に初めて見かけた時は、どうもコンビニには似合わない客だ、と思ったのだ。確か。
「ま、貸してもらった物はありがたく使わせてもらうとするかのう」
思いがけない出来事を、小さな呟きと笑いで完結させて、太公望は傘をさして軒下を出る。
途端、にぎやかだが耳障りではない雨の音が鼓膜を打った。
* *
土曜日の朝、何か腹の足しでもなるものを買おうかと、コンビニのドアを開ける。
そして、何気なく店内に視線をめぐらせた時、一人の客と目が合った。
理知的な瞳が、面白げに笑みをにじませてこちらを見つめている。
太公望もくすりと笑って、雑誌コーナーに近付いた。
「なんだか待ち伏せされておったようだのう」
「実際、その通りですよ。なんとなく、今朝は待っていれば会えるような気がして」
「ほう」
しれっと言う青年を、太公望は軽く笑いながら見つめる。
格好をつけていても、確かめもせずに自分より近い家の相手に傘を貸してしまう、おマヌケな奴なのだよなぁ、と心の中で思いながら。
こういうタイプは嫌いではないかもしれない。
ナンパの手口としてはベタでマヌケだが、しかし抜けているのが愛嬌でもあり、扱いやすいともいえる。
───時々、店内で目線が合うことの意味が分からないほど、太公望も阿呆ではなかった。
ただ、だからといって、こっちから声をかけるほど安くもないし、きっかけを作ってやるほど暇でもない。
けれど、嫌な感じはしていなかった。
それは間違いなく。
「一昨日、借りた傘だがな、部屋に置きっぱなしなのだ。今日はほれ、こんなに天気がいいしのう」
「別にいいですよ。あなたにあげます」
「そうか?」
何気なく会話をしながら、水面下ではこっそりと互いの出方を探っている。
その腹の探りあいが、不思議に楽しい。
どう来る気かな、と思った時。
青年が手にしていた雑誌を、ラックに戻した。
「こんな早くからコンビニに来ているということは、朝食はまだですよね?」
「ああ」
ああ、なんてベタベタなんだろうと思いつつも、なんとなく面白がっている自分がいて。
もしかしたら、自分は相当に趣味が悪いのかもしれない、と思いながら、太公望は目の前のマヌケな美形にうなずいてみせる。
すると、青年は心得たように笑みを見せた。
「近くにブランチの美味しい店があるんです。良かったらどうですか?」
「それを言うために、朝っぱらか待ち伏せしておったのか」
「ええ。せっかく一昨日、声をかけるきっかけが掴めたんですから、無駄にするわけにはいかないでしょう」
「ふぅん?」
「一度、お話してみたいなと思ってたんですよ」
「物好きだな」
くすくすと笑いながらも、太公望は悪い気はしない。
自分の外見が、時として人目を引くことは知っている。
だが、大抵のナンパ野郎(男女問わず)は、一言二言話しただけで、太公望の人を食った性格に引いてしまうのだ。
だが、目の前の相手は、むしろ会話をしたことで余計に興味を引かれているらしい。
マヌケな上に、物好きな奴なのだな、と勝手に結論付けて、太公望はうなずいた。
「良いよ。だが、おぬしが誘った以上、不味かったら遠慮なく怒らせてもらうからな」
「ええ。もちろんです」
青年も笑ってうなずいて。
結局2人とも、何も買わずにコンビニを出る。
先日の雨の夕方とは裏腹に、目の前の大通りのアスファルトは朝の光を反射して眩しいほどだった。
こっちですよ、と言う相手について歩き出しながら、ふと太公望は、まだ青年の名前も知らないことに気付く。
「のう、おぬしの名前は? まだ聞いてなかった」
「ああ、僕の名前は───」
ようぜん、という音と同時に、青年が己の手のひらに書いた字を見て、納得する。
「ふぅん。わしは・・・・」
「太公望さん、でしょう?」
「・・・・・何故、知っておる?」
「だって僕、あなたと同じゼミの後輩ですから」
「は・・ぁ?」
「院の博士課程に在籍してるあなたのことは、ずっと前から知ってましたよ」
創立以来の秀才で、外見もピカイチ、僕たちゼミ生の間では手の届かない高嶺の憧れの人として有名なんですよ、などと言われて。
太公望は開いた口がふさがらなくなる。
「だから、さっき言ったでしょう? 一度話してみたかったって。大学院と一般教室は離れていますから、学内じゃ滅多にあなたを見かけることもないですからね。今年の春に、この辺のマンションに引っ越してきて、あのコンビニで偶然あなたを見つけた時は、すごく嬉しかったんですよ」
「・・・・・やっぱりマヌケな阿呆だったか」
「誰のことです、それ」
「おぬしだ、おぬし!!」
予想はしていたものの、こんな阿呆のナンパに引っかかってしまったかと思うと、太公望は自分が情けなくなる。
が、それでも嫌だとか帰りたいとか思っていないあたりが、自分も悪趣味だと思わざるを得ない。
わしも阿呆かな、と溜息をつきつつ、気を取り直して後輩を名乗った青年を見上げた。
「そういうことなら、おぬしの素性が分かった以上、遠慮はせぬからな。思い切りたかってやるから、覚悟せいよ」
「いいですよ」
笑いながら青年は応じて、言葉を続ける。
「憧れの先輩とこうして話ができて、今かなり浮かれてますから。今なら何でも奢りますよ」
「物好きめ」
「かもしれませんね。あなたが噂に聞いていた以上の性格をしてるらしいことが、こんなに嬉しいんですから」
「阿呆かい」
悪びれない返答に呆れつつも、嫌な気はしないのが、どうにも困る。
時々コンビニで見かけるだけで(向こうはこちらの素性を知っていたらしいが)、これまで話したこともない相手で。
しかも、相当にマヌケで物好きらしいのに。
こういうタイプは、相手にしたらタチが悪いのだと分かっているのに。
嫌だと思うどころか。
この会話を。
この相手を。
不思議に面白がって、楽しんでいる自分がいる。
「ったく、マヌケなのはこっちも一緒か」
「何です?」
「こっちの話だ」
舌打ちをするように毒づいて。
結局、太公望は自分にも相手にも諦める。
一旦、坂道を転がりだしてしまったら、もう簡単には止まらないのだ。
雪だるまも、人の心も。
どこまでも加速して、大きくなってゆく。
「しかし・・・・コンビニがスタート地点というのも、ちょっとお手軽過ぎやせぬか」
「そんなの、その後の努力次第でしょう? お手軽になるかどうかなんて」
少なくとも僕はお手軽にする気なんかありません、と断言する笑顔が、やはり
阿呆だとは思いつつも嫌な気はしなくて。
太公望は肩をすくめた。
「その覚悟は立派だが・・・・わしはそう簡単ではないからな?」
「ええ。もう十分分かってますよ」
「本当かのう?」
「伊達に半年以上も片想いしてませんから」
あまりにもさらりと言われた告白に、咄嗟に答える言葉も見つからない。
どうにかならんのか、と隣りを歩く相手のタチの悪さに溜息をつきながらも、そんなところが面白くていいかもと思っている自分の趣味の悪さが、正直嫌になる。
でも。
たまには、こんなスタートもありでいいかもしれない、と思う。
誰が何と言おうと、楽しいものは楽しいのだから。
「ま、とりあえずは飯だな」
「何です、その結論は」
「言葉通りだよ。今から食べる朝飯次第で、付き合ってやるだけの価値がおぬしにあるかどうか判断するのだ」
「・・・・・・・・・」
やっぱり手に負えない人かも、と小さく呟かれた言葉に、太公望は笑う。
「いいですよ、ハズレだなんて絶対に言わせませんから」
「お、自身ありげだのう」
「でなきゃ、あなたに声なんかかけません」
肩をすくめるようにして言い返す、その横顔を見上げて。
心の中で何かが動き出している予感に、一瞬、まなざしを伏せた。
「そこまで言うのなら、期待させてもらうからな?」
「ええ。いくらでもして下さい」
歩きながら視線を合わせて、互いに一筋縄ではいかない笑みを見せる。
きっとこの先、この相手と長い時間を過ごすことになるのだろうと思いながら。
さわやかな朝の風が、通りを吹き抜けてゆく。
並んで歩きながら、心をかすめてゆくほのかな予感に2人は目を細めた。
end.
企画から移動その2。ついでに一部修正しました。
理不尽なラブコメは、やっぱり楽しいですね。それとも女王様&ハチ公の組み合わせが楽しいのか。
久しく企画もやってませんけど、誰か付き合ってくれないかな〜?
それよりも連載物を先に書けって? いやいや、それは言わないお約束……。
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