酒宴もたけなわを過ぎて、所々で酔いつぶれている面々も居る大広間。
 その光景を微笑とともに眺め、そっと出てゆく背中に、楊ゼンは気付いていた。
 どうするか迷うことなく、少しだけ間を置いて自分もまた、さりげなく立ち上がる。
 そして、先に出て行った人と同じように肩越しにちらりと大広間を振り返り、静かに回廊へと姿を消した。








 春の夜の空気は、ひんやりと心地好く冷えている。
 その中をゆっくりと楊ゼンは歩む。
 そして長い回廊の半ばあたりまで来た所で、、おそらくこの辺りに、と確信を持って庭園へと視線を彷徨わせた。
 半月の淡い月光と、甘い春の花が香る庭園のその向こう。
 ふと風が揺れた、その先に。
「────」
 やはり、と楊ゼンは目元を笑ませる。
 だからといって、やや離れた回廊から呼びかけるような無粋な真似で静寂を乱すことはせず、階(きざはし)を下って庭園へと足を踏み入れた。
 相手の物思いを妨げないよう、けれど気配を隠すまではせずに、いつもと同じ歩調で近付く。
 と、半ばまで距離を詰めたところで彼が振り返った。
 ───淡い月光の中、盛りを過ぎてはらはらと散りゆく花の下。
 さほど驚いた顔もせずに、太公望は楊ゼンが近付くのを待つ。
 その正面に立ち、微笑を向けてから楊ゼンは一面に花をつけた古木を見上げた。
「──綺麗ですね」
「うむ。城内では一番の花だよ」
「ええ。だから、きっとここにいらっしゃると思いました」
 そう言い、太公望へと視線を戻す。
「お邪魔でしたか?」
「いいや」
 太公望もまた、微笑んでかぶりを振る。
「ここを立ち去る前にもう一度、見ておきたかったのだが、一人では勿体ないような気がしていたところだ」
「それなら良かった」
 静かに言葉を交わして、二人は花木を見上げた。

 堂々たる枝ぶりに、月光に白く光る薄紅の花。
 言葉も要らない程に美しい。

「……これで見納めなんですね」
「うむ」
 明日の朝、仙道たちは全員、朝歌を離れる。
 その後は客人として訪れることはあっても、ここに──地上に住まうことはもう無い。
 永訣ではない、けれど確かな別離が、この夜を過ぎれば待っているのだ。
 それほど地上や人間に愛着を持っていなかったはずの楊ゼンでさえ、言葉にならない一抹の寂しさを覚えるのである。
 ましてや、もとは人間の太公望ならば、その心中はいかばかりなものか。
 黙って月光に照らされた花を見上げたまま、楊ゼンは隣りにいる人の気持ちを思いやる。
 太公望もまた、何も言わない。
 ただ静かな表情で、散りゆく花を見つめているだけだ。
 けれど、わずかに細めるようにした目には、愛しさと寂しさが等分に入り混じり、揺らめいて映っているようで。
「────」
 無言のまま、そっと楊ゼンは自分の肩布を外し、太公望の上着を脱いだ細い肩を包むように着せかけた。
 と、今度こそ少しばかり驚いたように、太公望が振り返る。
「冷えてきましたから……」
 その瞳に、淡い微笑を滲ませて告げると、太公望は小さくまばたきして、それから同じように淡い笑みを見せた。
「……ありがとう、楊ゼン」
 確かめるようにそっと片手で肩布に触れるその仕草が、愛しいと楊ゼンは思う。
 けれど、口に出しては何も言わず、ただ肩を並べて、はらはらと薄紅の雪を舞い散らせる花を見つめた。







「どうぞ」
「──うむ…」
 勧められて椅子を引き、腰を下ろすその肩のあたりが少し緊張している、と楊ゼンは微苦笑した。
 夜の庭園で散る花を惜しみながらしばらく立ち尽くしていた後、気温が下がってきたことに気付いた楊ゼンが室内に戻ろうと勧めるついでに、茶くらいしか出せないが、自分の部屋に来ないかと提案した時、太公望はわずかに逡巡する様子を見せてから、小さくうなずいたのだ。
 しかし、その後。
 もともと仕事以外で二人きりで居る時には、太公望はそれほど口数は多くない。が、庭園からここに来るまでの間は極端に無口になってしまって、今の短い応答まで一度も声を発しなかった。
 自分の前だけで見せてくれる思いがけない太公望の不器用さに、こっそり苦笑しながらも、楊ゼンは飾り棚から茶葉を卓上に降ろし、茶の支度をする。
 その合間にちらりと太公望の様子をうかがうと、わずかながらも好奇心をのぞかせた瞳で、室内の調度に目をやっている。
 部屋まで辿り着いてしまったことで、かえって緊張はほどけてきたらしいと思いながら、楊ゼンはゆったりとした仕草で茶杯を太公望の前に置いた。
「ありがとう」
 茶杯をのぞきこみ、ふわりと立ち上る甘い花の香りに目を細めてから、太公望は楊ゼンを見上げて短く礼を告げる。
 そして、小さな杯を取り上げ、そっと一口を含んだ。
「美味い」
 小さく呟いた表情が、やわらかく和む。
 それから、太公望は卓子の角を挟んで腰を下ろした楊ゼンに顔を向けた。
「……もしかして、これはわしのために用意してあったのか?」
 その瞳も表情も、いつもの太公望だと感じながら、楊ゼンは穏やかに笑む。
「気が付かれましたか」
「当然だろう。おぬしが好むのは、もっとすっきりした風味のものだ。こんな甘い香りの花茶を好むのは、おぬしの周囲ではわしくらいしか居らぬ」
「ええ」
 くすりと笑って、楊ゼンはうなずいた。
 そして自分の手元の茶杯に視線を落とす。
「これが手に入った時、あなたの所に届けようかと思ったんです。でも、僕の所に置いておくのもいいかもしれないという気がして、お持ちしませんでした」
「何故だ?」
「あなた好みのこれを置いておけば、あなたが来て下さるかもしれないと思ったんですよ」
 太公望に瞳を戻し、楊ゼンは微笑む。
「まじないのようなものです。願掛けの方が近いかもしれませんが」
 その返答に、太公望は軽く目を瞠って。
 それからまばたきし、小さく笑った。
「なんだ、それは」
「自分でも可笑しいとは思ったんですけど」
 くすくす、と二人の笑い声が夜の静寂に響く。
 そして、太公望は笑いを収めてから、ゆっくりと室内を見回した。
「……おぬしらしい部屋だな」
「ほんの二十日間足らずの仮住まいですが」
「それでも。おぬしの部屋だと思うよ」
 禁城で、楊ゼンに割り当てられた部屋は、太公望の部屋と同じ賓客用の客間が並ぶ一角にあった。
 部屋そのものは、最上級の太公望の部屋に比べると心持ち、格が落ちる。が、その分、調度品は落ち着いて重厚であり、それに禁城全体に通じる典雅さが加わって、何ともいえない雰囲気が醸し出されていた。
 その泰然とした気配が、楊ゼンには似合う、と太公望は言う。
「もっと早く訪れれば良かったかのう」
「そんなにお気に召しましたか?」
「うむ。わしが使っておる部屋より感じが良いよ」
「そうですか」
 たしかに最上級の賓客用客間は、権威や豪奢を好まない太公望には今ひとつ、似合わない。
 けれど、この部屋が楊ゼンに似合うと言い、自分の部屋よりも良いという言葉が、深読みをするまでもない意味を持っているということに、太公望自身が気づいていないことに楊ゼンは苦笑する。
「なんだ?」
「いいえ。あなたらしいなと思って」
「そうか?」
 今ひとつ、意味が把握できない表情で太公望は首をかしげる。
 そんな様子に、楊ゼンは苦労して笑いを噛み殺しながら、話題を他所の方向へと向けた。
「もう少し、いかがですか?」
「うむ。貰おうか」
 二杯目の茶について問うと、太公望はうなずく。
 楊ゼンは微笑んで立ち上がり、ゆっくりと二煎目の茶を入れた。
「やはり美味いのう」
「気に入っていただけて良かったですよ」
 楊ゼンもまた、元通りに腰を下ろして自分の茶杯を手に取る。
 だが、口をつけることはなく、やわらかなまなざしで、満足げな表情で茶を飲む太公望を見つめた。
 そして、太公望が茶杯を干したところで、そっと片手を上げ、太公望の髪に触れる。
 癖のない黒髪が、指先でさらりと揺れた。
「────」
 突然の触れ合いに、太公望はほとんど驚く様子は見せなかった。
 むしろ、部屋を訪れた当初の緊張が解けてしまっている今、どう反応したら良いものか戸惑うように楊ゼンを見つめ返す。
 かすかに揺れているような深い色の瞳に、楊ゼンは穏やかに笑んで。
 ゆっくりと太公望の髪を梳く。
 そして、その感触にくすぐったさを覚えたのか、太公望が小さく身じろぎをすると、微笑を深めてそっと唇を寄せ、こめかみに小さな口接けを落とした。
 そのまま、羽根が掠めるような優しい口接けを、額や目元に幾つも降らせ、最後に唇に軽く触れる。
 そうして、反応を待つように唇での愛撫を止めると、太公望が閉じていた目をゆっくりと開いた。
「……楊ゼン」
「お嫌なら、逃げて下さって良いですよ」
 間近で見上げてくる深い色の瞳は、わずかに困惑したように揺れている。
 だが、嫌悪や拒絶の色はどこにもない。
 それを確認して、楊ゼンは甘やかに瞳を笑ませて、もう一度、ゆっくりと口接けた。
 震えるほどではない、けれど、まだどこかに緊張を残しているやわらかな唇の感触を感じ、その温かさと甘さに酔う。
 薄く開かれた唇の隙間から、そっと舌を滑り込ませ、優しく愛撫すると腕に抱いた華奢な躰が過敏に震えた。
「師叔……」
 角度を変えながら何度も口接けて。
 甘く力を失い、崩れるように腕に預けられた体重を楊ゼンは優しく抱きしめた。





 もう何度も躰を重ねたのに、いまだに物慣れない様子でやわらかな肌がおののく。
 そんな太公望の反応を量りながら、楊ゼンはゆっくりと愛撫を深めていった。
 かすかに緊張はしていても、触れる指先や唇が押しのけられることはなく、感じる箇所をかすめるたびに、びくりと四肢が反応を示す。
 愛しさに目を細めながら、そっと胸元に唇を落とすと、太公望は小さく息を詰めた。
「…っ……あ…!」
 薄紅に染まった小さな尖りを軽く吸い上げ、舌先でつつくようにすると堪えきれない嬌声が零れる。
「もっと感じて……?」
 過度の快楽に太公望が怯えを感じないよう気をつけながら、反対側をも指先で優しく刺激する。
 小さく尖った形をなぞるように指を這わせ、軽く爪弾くと溢れる声が更に甘さを増した。
 そして胸元への愛撫はそのままに、のけぞって浮いた背筋と寝台の間に手を差し入れ、過敏な腰の窪みにゆっくりと触れれば、びくびくと痙攣を起こすように全身が慄え、すがる縁を求めた太公望の手が楊ゼンの肩を握り締める。
「師叔……」
 きつく眉根を寄せ、閉じた目尻にうっすらと涙を滲ませて快楽に耐える太公望の切なげな顔を見つめ、楊ゼンは細い首筋へと、また口接けを落とした。
 首から鎖骨のくぼみへとゆっくりと薄い肌に唇を這わせれば、それだけでも甘く溶け始めた躰は反応して慄える。
 未だ慣れない感覚におののきながらも、すべてを受け入れようとしてくれていることに愛しさが込み上げるが、しかし、過ぎた快楽を無理強いする気は楊ゼンはなかった。
 もとより感覚が過敏なのに加えて、身体を重ねる術を知ってからまだ日の浅い太公望にとっては、性の深淵に比べればごく浅い快楽でさえも衝撃になる。
 そもそも躰を繋げる事自体が、それなりの負担になるのである。できる限り……、ほんの僅かでも苦痛を感じさせたくない楊ゼンとしては、太公望の反応を無視して強引に行為を進めることなど論外だった。
 もちろん楊ゼン自身は、底無しの淵に溺れる快楽の味をも、己の身をもって知ってはいる。が、太公望との関係において、それを追求しようとは微塵も思わない。
 華奢な躰に──太公望という存在に求めているのは、そんなものではないのだ。

 ───誰よりも深い優しさを。
 ───少しでも何かを……善いものを感じてくれるように。

 ただ大切にしたくて、ただ愛したくて。
 躰を繋ぐのは快楽のためではなく、触れ合うことで想いを……一人ではないということを伝えたいから。
 それだけのために、世界で唯一人のいとおしい存在を求める。
 結果として互いの間に生まれるのが甘い感覚であれば、それはかけがえのない歓びではあるが、それよりも大切なことがあるのだと、今は心の底から信じられる。
 太公望と出会う以前にはそれなりの遍歴もあったが、しかし、こんな風に相手のことを想って抱き合ったことは、これまでにない。
 知らなかったのだ。
 肉欲ではなく想いで繋がることが、こんなにも愛しく、甘美なものだったとは。
 もっと早く知っていれば、また自分の生は違ったものになっていただろうと思う。
 けれど、二百年余の時間を経て太公望に出会い、惹かれ、いとおしい魂の器としての肉体を慈しむことを知った。
 知ることが、できた。
 ───それが幸福でなくて何だろう?
「我慢しないで……。僕はここにいますから」
 真摯な想いを込めて、深い快楽に惑って喘ぐ愛しい相手に何度でもささやく。
 これ以上ないほど満ち足りているのに……、あるいは満ち足りているからこそ、どれほど優しくしても足りない。
「太公望師叔……」
 何度も何度も名を呼んで。
 口接けて。
 尽きることのない想いと甘い熱の狭間に、ゆっくりと二人の躰が融け合ってゆく。
 そして新たに生まれる愛しさに、ひとつになったまま楊ゼンは静かに溺れた。





           *          *





 穏やかな事後の空気を壊さないよう、そっと髪を優しく梳く。
 と、太公望は小さく身じろぎして、楊ゼンを見上げた。
 満月を過ぎたばかりの月がふんだんに光をそそぐ中で、深い色の瞳に自分が映っているのを見とめて、楊ゼンはやわらかな微笑を滲ませる。
 柔らかな褥に包まれて、夜着越しに触れ合っている部分が、たとえようもないほどに温かく、心地好い。
 こみ上げる幸福感と愛しさのままに、わずかに上半身を起こし、こめかみに唇で触れる。
 その感覚がくすっぐったいのか、太公望は一瞬、肩をすくめるように軽く目を閉じた。
「師叔……」
 そしてまた、瞳を覗き込んで視線を合わせると、見慣れた、どうすればいいのかと少し困惑するような色が、それでも逃げることなく見つめ返してくれる。
 それだけのことがひどく愛しくて、楊ゼンはもう一度、こんどは額に口接けを落とした。
「楊ゼン」
 しつこい、と言いたいのだろうか。だが、明確に拒絶することは躊躇う曖昧で小さな声が、楊ゼンを呼ぶ。
「すみません」
 どういう状況下であれ、太公望が名を呼んでくれることそのものが喜びに繋がる。そんな自分に淡い苦笑を覚えながらも、楊ゼンは少しだけ彼から離れた。
「ねえ師叔」
 そうして、また指先で太公望の前髪を軽く梳きながら、穏やかな声で呼びかける。
 酒宴が遅くまで続いたせいもあって、夜はもう随分更けていたが、しかしまだ眠気には遠かった。
 別に決戦が間近に迫っているからというわけではなく、ただ、共にある時間がひどく大切に思えて、過ぎてゆく一秒一秒さえもいとおしくて、惜しまずにはいられないのだ。
 だからといって、際限なく喋り続けるような関係でもない。互いの温もりを……存在を感じながら寄り添っているだけでも十分に満ちてくるものがある。
 が、今夜は伝えておきたいことがあったから、楊ゼンは静かに言葉を紡ぎだす。
「一昨日、僕に言って下さったことを覚えていらっしゃいますか? 僕が禁鞭と六魂幡を探しに行こうとした時に……」
「ああ……」
 太公望は思い出すようにまばたきをし、それから少しだけ不思議そうに楊ゼンを見上げた。
「あれがどうかしたか?」
「どうかした、というわけではないのですが……」
「──もう人間界に仙道は必要ないから、皆で戻ろうと言ったのは覚えておるが……他に何か言ったかのう?」
 本気で分からないらしい。
 軽く首をかしげるようにした太公望に、楊ゼンはやわらかに笑む。
「そんな風にまるっきり当たり前ことのように言って下さると、尚更に嬉しいですね」
「嬉しい?」
「ええ」
 楊ゼンの言う意味を把握しきれず、太公望は大きな瞳をまばたかせる。
 そんな太公望を見つめて、楊ゼンは微笑んだまま、静かに言葉を続けた。
「初めてでしたから。あなたが御自分一人で先行せずに、共に行こうと言って下さったのは……」
 さらさらと指の間から逃げてゆく、やわらかな髪の感覚が心地好く愛しい。
 それだけでなく、今ここにあるすべての感覚に、楊ゼンは甘く静かに澄んだ酩酊を覚えていた。
「初めて、だったか?」
「ええ」
 少し驚いたように見上げてくる太公望に、微笑みを返す。
「初めてです。あなたはいつもいつも御自分が前に出て、強敵の眼前から僕たちを遠ざけてばかりでしたから」
 それがどれほど焦れったく、もどかしかったか、と長年の思いを暗に滲ませると、太公望は困ったような色を見上げる瞳に浮かべた。
 だが、どんな表情をしていても、深い色の瞳は凛としたきらめきを失うことはなく。
「別に責めているわけではありません。確かにもどかしい思いはしてましたけれど、あなたがそうせずにはいられなかったということも、僕は分かっているつもりですから」
 月の光に透けた色合いに見惚れながらも、楊ゼンはそっと太公望の髪を梳き上げて告げる。
 自分の思いが違いなく伝わるようにと願いながら、一語一語を紡ぐ。
「だからこそ、嬉しいんですよ。今、あなたが共に戦う相手として、当たり前のように僕たちの存在を認めて下さっていることが……」
 深い想いの込められた声に、楊ゼンから目を逸らすことなく聞いていた太公望は、少しだけ困ったように瞳をまばたかせた。
「──そんな大層なことではないと思うがのう」
 楊ゼンの言葉が理解できていないわけではない。が、軽い困惑を滲ませた声で呟き、答える言葉を探すようにゆっくりと周囲へ視線を向ける。
 重厚でありながら典雅さをも匂わせる調度品の数々の上を、太公望の視線が静かに滑ってゆき、最後に高い天井に向けられて止まった。
「だが……そうだのう」
 物思う声が、夜の静寂にひそやかに響く。
「確かにわしは、おぬしの言うようにずっと頑なであったように思う。もう何も失くしたくないと……、仲間を喪って身を切られるような思いをするのは嫌だと、ずっと思ってきた。それは今も変わっておらぬ。が……」
 言葉を切った太公望の手が、ゆっくりと真上に持ち上げられた。
 夜着の袖からのぞく素の手は、形は良いものの、どこか少女めいていて細く、力強いと評するには到底足りない。
「わしが本当に守れるものは少ない。命という意味では、もしかしたら一つもないのかもしれないとも思うようになったのだ」
「師叔……」
「自分を責めておるわけではないよ、楊ゼン。いや、まるっきり責めておらぬわけでもないが……」
 思わず名を呼んだ楊ゼンに、太公望はかすかに苦笑するような表情を向ける。
 そして、改めて自分の手を見つめた。
「もちろん、この手ですべてを守りたい。だが、人々の気持ちを受け止めることが……、おぬしたち全員が一人一人持っておる、何かを守りたいと思う心を守ることが、軍師のわしの役目かもしれないと思うようになったのだよ」
 ゆっくりと細い両手が握り締められる。
 何か確かなものを掴むように。
「わし一人でできることは、たかが知れておる。そのことがようやく、本当の意味で分かってきたのだ。皆が、それをわしに教えてくれた」
 言いながら、太公望はまなざしを横に向けて楊ゼンを見つめた。
「普賢、道徳、武成王、聞仲、天化、わしの出会った全ての人々……その中にはおぬしも居る。楊ゼン」
「師叔……」
 思わぬ言葉に軽く目をみはった楊ゼンに、太公望は小さく微笑む。
「ずっと私怨に……醜い感情に凝り固まっていたから、気付くまでに随分長い時間がかかった。わしが至らなかったばかりに封神されてしまった者も多い。──だから、もう間違えぬよ」
 痛みを胸の奥深くに抱きしめ、それでもなお凛と前を見据えて、太公望は告げる。
 静かな力強さを込めて。
「わしは一人ではないし、万能でもない。だからこそ皆と共に戦い、皆と共に新しい世界を創る」
 その言葉を。
 楊ゼンは声もなく聞いた。
「師叔」
 呼びかける声が震える。
 ───ずっとずっと伝えたかったのは。
「楊ゼン?」
「いいえ……師叔がそんな風に言って下さるなんて……」
 言いかけた言葉さえも、その先を見失って途切れた。
 想いを言いあらわす術を探して、いつになく困惑した瞳をかすかに彷徨わせる楊ゼンに、太公望は不思議そうに目を見開き、そして微苦笑を浮かべる。
「おぬしがそんなに困惑するとは……。わしの責任だのう」
「いいえ、そんなことはありませんよ。ただ、」
 嬉しいんです、とささやいた声が、夜の大気に低く響く。

 ───独りでないことに気付いて欲しかった。
 ───大切に……幸せになって欲しいと願う存在が傍にあることに。
 いつか、気付いてくれたらと。
 そう願って。
 ずっと、傍にあり続けた。
 勿論、最近の太公望からは頑なさが失せ、本当の意味での信頼を預けられているという実感も増してきてはいた。
 けれど。
 感じるのと、言葉で言われるのとでは天と地ほどの開きがあって。

「あなたはもう、一人ではないんですね」
「……最初から一人ではなかったよ。それに長い間、気付かなかっただけだ。皆もまた、わしと同じように大切なものを守りたいと思っているということに……」
「ええ、そうです」
 ともすれば震えそうになる声を抑えて、楊ゼンは太公望の頬に手を伸ばす。
 そっと触れた肌は、やさしい温もりを指先に伝えてきて。
「皆、あなたのことを思っているんです。この僕も……」
「うむ……」
 少しだけはにかみを含んだ表情で、太公望は自分に触れている楊ゼンの手に、細い手を添える。
「のう、楊ゼン。わしはまだ……分からぬのだ。いや、本当は分かっておるのかもしれぬが……まだ……」
「師叔」
 太公望が何を言いたいのかを悟って、楊ゼンは名を呼ぶ。

 ───楊ゼンが太公望に想いを告げたのは、それ程前のことではない。
 あの壮絶な仙界大戦が終わり、地上に戻ってきて間もない頃になってようやく、長年の想いを太公望に告白することができた。
 それまで口にできなかったのは、ひとえに長い間隠し通してきた出自の問題に原因がある。
 妖怪という己の本性を知られることを恐れていたのと同時に、楊ゼンは、もしも想いが通じた場合、太公望に正体を明かしたいけれど明かせないという二律背反に自分が苦しむことになることを分かっていた。
 そしてそれ以上に、本性を偽っているという引け目が、想いの深さにもかかわらず、楊ゼンに口を閉ざさせ、良き片腕としての立場を貫かせたのだ。
 だが、それらの枷も、仙界大戦の折に正体を明かしたことで外れた。
 しかし困ったことに、楊ゼンにとっては長年の想いではあっても、色恋沙汰に疎い太公望にとっては青天の霹靂でしかなかったのである。
 突然の告白にひどく驚き戸惑い、そんな太公望に楊ゼンも困惑する日がしばらく続いて。
 ようやく太公望が出した答えは、『好きかどうかは分からないが、嫌ではない』というものだった。
 想われることも、傍にあることも……触れることにも、太公望は戸惑い、受け止めることに躊躇いつつも拒絶を見せなかった。
 想いを告げてしばらく後、楊ゼンが最初に太公望に触れたのは、改めて間近で見つめた時、あまりにも太公望の在りようが哀しかったからだ。
 手の届かない場所で消えていった生命ばかりを思い、自分の傷を癒すことは拒絶して己を責め続けていた太公望が、あまりにも辛くて、哀しくて。
 少しでも救いたくて──痛みを分かち合いたくて、肌に触れた。
 太公望が楊ゼンの想いをどれほど理解したかは分からない。が、それでも慣れない感覚に戸惑い、困惑しながらも楊ゼンの全てを受け入れたのである。
 そのことだけでも、楊ゼンにとっては十分だった。
 楊ゼンはよく知っていたのだ。
 太公望の本性は、ひどく生真面目で潔癖であるが故に、どんな淡いものであっても想いが存在していなければ、身体を重ねることなどできるはずがないということを。
 だから、敢えて太公望に返答は求めなかった。
 いつか彼自身の心に気付いてくれればいいと、そう思ったのである。
 そうして、軍師とその片腕として、時には恋人めいた近い距離で日々を過ごすうちに、太公望も思うところがあったのだろう。
 すべてを自分一人で背負い込もうとする頑なさが少しずつ薄れてゆき、一個人としての楊ゼンに対し、真からの信頼を預けてくれるようになって。
 そして先日、今夜のような一時を過ごした際に、「あと少しだけ」と楊ゼンに猶予を求めたのだ。
 だがその時は、何をとは明言せず、楊ゼンもまた問わなかった。
 けれど。

 太公望の深い色の瞳が、まっすぐに楊ゼンを見上げる。
 必死と形容する一歩手前の真摯さで、しかし、楊ゼンが受け止めてくれることへの信頼を秘めた視線は、静かに澄んでいて。
「答えはもう少しだけ待ってくれるか? 全てが終わる頃にはきっと答えが出る。だから、それまでは……」
「はい」
 言い募ろうとする太公望を遮るように、楊ゼンはうなずく。
 そして、深い温もりをたたえた瞳で太公望を見つめ返した。
「いくらでも待ちますから……。急がないで下さい。あなたはあなたの成すべき事をして、それが終わってから考えて下さればいいんです。それまで僕は、顔も見たくないくらいに嫌われない限り、あなたの傍に居ますから」
 その言葉に、太公望はまばたきして、ふと小さく笑った。
「前にも、おぬしはそう言ったな」
「ええ。何度でもお約束しますよ」
 楊ゼンもまた、微笑して答える。
「今は答えたいとおっしゃって下さる、その気持ちだけで十分です」
 そっと指先で太公望の額に零れかかった髪を梳き上げ、あらわになったこめかみに口接けを落とす。
 その甘やかな仕草に、太公望は少しだけ逡巡するようにまばたきをした後、抗うことなく目を閉じて、優しく引き寄せられるままに楊ゼンの胸に頭を預けた。
「すまぬ……」
「謝られるようなことではありませんよ。あなたはもう、僕に十分すぎるほどのものを与えて下さっているんですから」
「わしが?」
「ええ」
 不思議そうに目を開けて見上げた太公望に、楊ゼンはやわらかな笑みを向ける。
「心を預け合う信頼も、誰かを愛したいという想いも……。師叔がいなければ、未だに僕の中では実体を伴わない只の概念でしかなかったでしょうから。あなたはあなたのまま、居て下されば、僕はそれでいいんです」
「……おぬしが感じて居ることは尊重したいし、頭から否定する気もないが、わしの方に何かを与えた実感がない以上、それでは割に合わぬよ」
「いいですよ、別に」
「わしが嫌だ」
 憮然というよりはむしろ少し拗ねたような、太公望の声が答える。
 いつも彼からすれば極珍しい、だが最近二人でいる時には珍しくもなくなった響きに、楊ゼンは太公望の顔を覗き込んだ。
 その楊ゼンの瞳を見上げて、太公望は続ける。
「わしとて、別に無理に答えを出そうとしているわけではないよ。おぬしは真剣に言ってくれておるのに、強引に答えを探し出すのは失礼なことだということくらい、色恋沙汰に疎いわしにも分かる。
 ……ただ、何か分かりそうな気がしておるのだ。ずっともやもやしていたものが形になって、手に掴めそうな……。分かるかのう?」
「ええ。分かります」
 ───もう少しで何かが形になりそうな。
 目の前の霧が晴れて、その先にある風景が見えそうな。
 知らず胸の鼓動が速まるような、ひどくもどかしい感覚。
 太公望の中に生まれたその感覚が、自分に向けられているということがひどく嬉しく感じられて、楊ゼンがうなずくと、太公望は安堵したように小さく笑んだ。
「だから、もう少し待っていてくれと言っておるのだ。もう少し時間が経てば、きっと分かる。だから……」
「ええ」
 もう一度同じ答えを返して、楊ゼンも微笑む。
 そして、そっと引き寄せた太公望の手の甲に、口接けを落とした。
「あなたがどんな答えを出して下さるのか……。あなたの傍で、のんびり待っていますよ」
「……うむ」
 太公望も、本当に心から安らいだような、やわらかな笑みを滲ませて、楊ゼンの胸にことんと頭を寄せて寄り添う。
 そんな太公望を、甘やかな満ち足りた表情で優しく抱きしめて。
 楊ゼンも静かに目を閉じた。


















「───っ!」
 はっと楊ゼンは目を見開く。
 覚醒したばかりの視界に映ったのは、既に見慣れた天井。
 わずかに視線を動かせば、横になっていた長椅子の背が見える。
「……夢か……」
 呟いた声はひどく重く、かすれかけていた。
 のろのろとした動きで起き上がり、乱れかかる前髪をかき上げて。
 そのまま、その手で額を覆う。
「ひどい……夢だ」
 深くうつむいたまま。
「どうして今、こんな……」
 力ない呟きが零れ落ちてゆく。

 ───太公望が消滅してから、既に二年の月日が過ぎていた。
 あの後、生存しているという情報は掴んだものの、それ以降は一向に彼の存在も足取りもつかめない。
 楊ゼン自らが何度地上に降りても、ありとあらゆる手段を駆使しても、髪一筋ほどの気配も捉えることができないでいる。

 どこに居るのか。
 今、何をして、何を思っているのか。

 時が経てば経つほどに、焦燥にも似た想いはつのってゆく。
 遠くなった日々の面影ばかりが鮮やかに、寝ても覚めても脳裏にちらついて。
 けれど、姿を見ることも声を聞くことも、未だに叶わないのだ。

「太公望師叔……」
 誰よりも愛しかった人。
 誰よりも愛しい人。
 その真実を知っても、どれほど離れても想いは変わらない。
 変われない。
 求めるのは……傍に居て欲しいと思うのは、唯一人きり。
 大切なものが他にないわけではないが、あの人以外は何も要らないのだ。
「師叔……」
 あの時、太公望は待っていて欲しいと言った。
 自分は待っていると答えた。
 そして、答えはまだ貰っていない。
 あと少しだけと言った時間は、まだ細く伸びながら遠くまで続いている。
 どこまで続いているのか、分かるのは、おそらく世界にたった一人だけだ。
「太公望師叔」
 もう一度、名前を呼んで。
 楊ゼンは額を覆っていた手を下ろし、顔を上げる。
 執務室の窓の向こうの空は、今日も目が痛くなるほどに青く晴れ渡っている。
 緑の惑星を模した美しい丘は、緩やかに起伏しながら地平線をも越えて続いていて。
「──必ず、見つけ出してみせる」
 上空をかすめ飛ぶ、鳥の軌跡を見つめながら、楊ゼンは呟いた。
「どれほど時間がかかろうと、必ず……」
 そうして。
 もう一度出会うのだと。
 誓いにも祈りにも似たその言葉は、聞く者もなく教主執務室の硬質な床に零れ落ちて、静かに散った───。











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