Crimson Scar
その瞬間。
全身の血液が、
氷点下で沸騰した気がした。
夕暮れ時のホテルのロビーは、どこか非日常的な浮遊感でざわめいている。
ゆったりとした一人掛けのソファーで、コーヒーを前に腕時計の時間を確かめた時。
ふと、何かが視界を──神経をかすめた気がした。
「───？」
その感覚を追って、何気なく顔を上げた瞬間。
───目に映ったのは、さらりと流れる艶やかな長い髪。
わずかに息を飲みながら、更に視線を上げると。
美しい光沢を持った布地に包まれた肩の上に、すっきりと優美な線を描く細い顎が見えて。
濡れたような艶を放つ、紅い唇に刻まれた微笑と。
シャンデリアの光を受けて、冬の星のように輝く美しい一対の瞳に。
まなざしが奪われる。
───その瞬間、全身の血液が逆流する音が聞こえた気がした。
「奇遇ね、こんな所で遇うなんて。察するところ、あなたもどなたかと待ち合わせかしら？」
「────」
言いながら、その相手は当たり前のようにテーブルの向かいに腰を下ろす。
見るものが見れば一目でオートクチュールと分かる洒落たドレススーツのスカートからのぞく、膝を組んだ脚は年齢を感じさせない美しいラインを描いていて、周囲の男たちのさりげない視線を奪った。
「不本意そうね？」
人々のまなざしを何とも思わない自然な仕草で細い煙草に火をつけてから、紅い唇が美しく微笑む。
「安心して頂戴、私も不本意よ。どこかのパーティー会場ならともかくも、こんな所で顔を合わせるとは思ってなかったわ」
「──何か、御用ですか」
ようやく出た声は、かすれはしなかった。が、自分でも驚くほど冷え切っていて、低い。
「まさか」
それに対して、相手はあっさりと切り返す。
「この私があなたに、一体何の用があると思って？ ただ珍しい相手を見かけたから声をかけた、それだけよ」
「だったら──」
「少しくらい、いいでしょう？ ここで出会ったのは不本意だけど、私にもあなたの顔を見るくらいの権利はあってよ」
そう言って微笑する相手を正面から見つめる。
豪華な布地の張られたチェアに深く腰掛け、足を組んだその姿は、この上なく傲然としていながら、あまりにも優美で。
まなざしを外すことさえできない。
「でも本当に良く育ったのね。座ったままじゃ正確なところは分からないけれど、一八五センチ近くあるかしら？」
「…………」
「それに、いい目をするようになったわ。まなざしだけで人を殺せそうな目ね」
「──僕はあなたに品定めをしてもらうために、ここにいるわけではありませんが」
だが、その言葉にも、相手はふふ、と微笑する。
「いいわね。きっとあなたに声をかけられて落ちない女の子はいないわ。……ああ、違うわね。あなたみたいな男は、自分からは絶対に声をかけないのよ。そのくせ、目で誘うんだわ」
あでやかな紅い唇が楽しげに言葉を刻む。
「あの人にそっくりよ。──それとも私に似ているのかしら？」
「────」
甘く響く驕慢な声を、どうにかして止めたい衝動に駆られる。
だが、呼びかけるべき言葉が浮かばない。
───そう。
目の前の、女王然とした存在を。
呼ぶ言葉が。
自分の中には無い。
ぎり、と拳を握り締めた時。
ふと、相手がまなざしをフロントの方に流した。
そして、そちらににこりとあでやかな笑みを向け、灰皿に煙草をもみ消す。
「待ち人が来たようよ。どうやら、あなたの方もね」
言いながら、超一流品のバッグを美しく爪の整えられた手に持ち、優雅に立ち上がる。
「じゃあね。どこかで見かけても声はかけないで頂戴。私があなたに声をかけるのも、これが最後よ」
甘く響く声を残して、ハイヒールを鳴らしながら立ち去ってゆく完璧な後ろ姿を見送るまいと、今夜の相手の姿を捜す。
と、偶然、今まで目の前にいた相手に艶を含んだ流し目を向けられて、戸惑った表情をしつつも会釈する己の待ち人を目の当たりにしてしまい、舌打ちしたい気分に駆られた。
だが、かろうじて待ち合わせ相手が正面にやってくるまでには、いつもの自分を取り繕うことに成功する。
「ごめんなさい、少し遅かったかしら？」
「いや、大して待ってないよ。美人とお近づきになれる程度かな」
「あら」
言葉遊びのような返答に、今夜の相手は綺麗にルージュを塗った唇で笑みを刻み、先ほどまで別人が腰を下ろしていた真向かいの一人掛けソファーに腰を下ろした。
「ひどい人ね……と言いたいところだけど、そんな手には引っかからないわよ」
「そんな手って……どんな？」
「だって今の女性（ひと）、あなたに良く似てたもの」
「……そんなに似てるかな」
「ええ。顔はなんとなくといった程度だけど、雰囲気がそっくりだからすぐに分かったわ。あなたにお姉さんがいらっしゃるなんて知らなかったけれど」
その言葉に。
たまらず吹き出していた。
「なぁに？」
訝（いぶか）しげに柳眉がひそめられるのが目に入ったが、それに応じる気力はもう無かった。
「──悪いけど、今夜の約束はキャンセルさせてくれるかな」
「え？」
「顔も見たくなかった相手と遇って、言葉まで交わしてしまったからね。気分が最悪なんだ。だから、ごめん」
かろうじて微笑を頬に張り付かせ、それ以上の醜態をさらす前に適度な柔らかさと固さを保ったソファーから立ち上がる。
「ちょ…っと、待ちなさいよ！」
追いすがる声が聞こえたが、振り向くこともせずに人々がまばらに行き交うロビーを抜けて。
そのまま逃げるようにホテルを後にした。
＊ ＊
いつのまにか、雨が降り出していた。
夏の終わりの雨は静かに渇いた街に降り注ぎ、音もなくあらゆるものを濡らしてゆく。
閑静な住宅街の通りは、ひそやかな雨音と遠いクラクションの音以外、ひっそりと静まり返っている。
その中で、楊ゼンはもうずいぶんと長い間、そこに佇んでいた。
いや、実際は大して長い時間ではなかったのかもしれない。けれど、降り止む気配もない雨に、既に長い髪も服も、雫が滴り落ちるほどに濡れそぼっていた。
「────」
しばらくうつむいていた顔を上げ、視線を上方に──目の前に建つマンションに向ける。
だが、わずかに逡巡するような色を瞳に浮かべた後、濡れて頬に張りつく長い髪を少し乱暴な仕草でかきあげ、そして楊ゼンはマンションに背を向けた。
その時。
「──楊ゼン？」
凛と雨夜に響く声が、わずかに驚愕をにじませて名前を呼んだ。
「あ……」
暗くてよく分からないが、おそらく紺色の傘を差したその人は、明らかにコンビニ帰りと分かる白いビニール袋を手に、こちらを見つめていた。
「──どうしたのだ？」
ゆっくりと歩み寄ってくる小柄な姿に、楊ゼンはすくんだように動けなくなる。
「………」
いつもの軽妙な挨拶も何もなく、ただ近付くのを呆然と待っているようなその様子に不審を覚えたのか、彼は楊ゼンの目の前に立つと、問いかけるように頭一つ高い相手を見上げた。
「────」
問いかける側にも答える側にも言葉はなく、ただ奇妙な短い沈黙が落ちる。
ぱらぱらと雨が傘を叩く軽い音だけが、二人の間に流れた。
「──随分、濡れておるのう」
やがて、独り言のようにぽつりと彼が口にした。
「とりあえず入れ。ついでに本屋にも寄っていたからな、戻るのが遅くなった」
約束があったわけではないから、留守をすまなかったとは言わない。
ただ、状況説明をするかのように淡々とそう言い、彼はマンションの玄関へとくるりと身体の向きを変えて歩き出そうとした。
「──いえ…」
だが、咄嗟に楊ゼンの口をついて出た言葉に、小さな背中が動きを止める。
「今日は帰ります。すみません、突然来てしまって……」
振り返った深い色の瞳に向かって、微笑になるかならないかの表情を向ける。そんな楊ゼンに対し、彼は露骨に眉をひそめた。
「おぬしが突然でなかったことなどなかろう。今更何を言っておる」
「それはそうですけど……」
「ぐだぐだ言っとらずに、さっさと来い。そんな濡れ鼠ではタクシーにも乗車拒否されるぞ」
「でも今夜は……」
「いいから！」
珍しくも少し苛立ったように、彼はきつい口調で楊ゼンの言葉をさえぎり、まっすぐに瞳を見上げた。
「わしが来いと言っておるのだ。たまには素直に人の言葉を聞け」
「……あなたにだけは言われたくないですよ」
溜息まじりの苦い声で答えて。
けれど、
「楊ゼン」
名を呼ぶ声にそれ以上逆らうことはできず、唇を噛んで楊ゼンは一回り以上小さな背中に従った。
濡れた肌は冷たく冷え切っている。
けれど。
その薄皮の一枚下では。
どくどくと血がたぎって激流のように逆巻いている。
この裏腹な感触を──決して好ましいとは言いがたい、何かが腹の底から突き上げてくるような感覚を、何と表現すればいいだろうか。
───あなたには分かりますか？
この毒々しい熱の意味が。
この感覚につけるべき名前が。
───優しい優しいあなたには。
手早くスニーカーを脱ぎ捨てて奥に消えた太公望は、すぐさまバスタオルを手に、マンションの玄関まで戻ってきた。
「一体、いつからあそこにおったのだ？ 今夜はどしゃぶりでもないのに……」
呆れたような口調で言いながら、伸び上がるようにして頭一つ背の高い楊ゼンにバスタオルをかぶせかける。
「とりあえず髪と服を乾かして……」
「………て」
「ん？」
うつむいた唇から零れた、くぐもった声が聞き取れなかった太公望は、怪訝そうに楊ゼンの顔を覗き込む。
と、わずかに明瞭になった声が、もう一度同じ言葉を繰り返した。
「どうして……」
「楊ゼン？」
「どうして、僕を部屋に入れたりなんかしたんです？」
「──楊…」
「勘のいいあなたなら気付いていたでしょう？ 何故、僕が帰ると言ったのか……」
「何を……」
何を言いたいのか、と言いかけた太公望の言葉が、顔を上げた楊ゼンの瞳に正面から射すくめられて止まる。
「気付かなかったとは言わせませんよ」
常にない鋭い光を帯びた瞳に。
太公望が思わず目をみはった瞬間。
天地が逆転した。
「……っ、た……！」
受身を取る間もなくまともにフローリングの床に背を打ち付けて、太公望は小さな呻き声を上げる。
脚を払われたということは分かっていたから、痛みをこらえて押し倒した相手を睨み上げ、文句を言おうとする。
が、
「───ん…っ！？」
言葉を発するよりも早く、乱暴に唇を唇に塞がれた。
強引に忍び入ってきた熱い舌が荒々しく口腔を犯し、執拗に舌を絡めとってむさぼる。一方的になされる口接けに、太公望は呼吸を奪われて苦しげに眉をひそめた。
抵抗しようにも、両手首を床に押さえつけられ、下肢にも青年の重みがのしかかっていては身動きさえままならない。
「……っ…ん…」
日頃、記憶しているよりもずっと激しく、いたわりのないキスに、だが慣れた躰はそれでも反応して、上顎を濡れた舌がかすめるたびにびくりと背筋が震え始める。
受け止めきれない感覚に、どちらのものともつかない透明な雫が口の端から伝い落ちてゆく。
「…は…っ……ぁ……」
長い長いキスから解放されてあえぐ太公望の様子を意に介する様子もなく、楊ゼンは濡れた唇を細い首筋に押し当て、シャツの襟からのぞく鎖骨の窪みから肩へと紅い痕を刻んでゆく。
「楊ゼン……！？」
普段の彼ならありえない性急さ──あるいは乱暴さに、太公望は乱れた呼吸のまま、いぶかしむように名前を呼んだ。
背に感じるのは、冷たく固いフローリングの床の感触。
いまだにきつく掴まれ、押さえつけられたままの右手首が痛い。
濡れたままの楊ゼンの長い髪が、肌の上を絶え間なくかすめてゆく感覚に思わず背筋が震える。
───なのに、肌に押し当てられる唇だけがひどく熱くて。
「楊ゼン…っ」
何度目か分からない名前を口にした次の瞬間。
「───！！」
もどかしげに動いていた手が、焦れたように一気にシャツの前を開いた。
衝撃で飛び散ったいくつかのボタンが床の上で跳ねる小さな音を、太公望は呆然と聞く。
が、それもわずかな間だけで、すぐに胸元を這い回る冷えた手の感触に意識を奪われた。
「──っ…！」
常にない異様な状況に緊張しているのか、早くも薄紅に染まった小さな尖りに口接けられた途端、びくりと背中が大きく跳ねる。
そのまま胸元を舌と歯で愛撫しつつ、冷えた手は肉付きの薄い脇腹へと這い下りてゆき、いささか乱暴にベルトのバックルを外す。
「あ…待て……！」
性急な求めに慌てて静止しようとした太公望の手をかいくぐって、楊ゼンの手が下肢に触れた。
「……っん…！」
いきなり絡みついてきた長い指の冷たい感触に、太公望は声にならない喘ぎを零す。
慣れた硬い感触の指先が、覚えのない荒い動きで過敏な箇所を責め立てる。
その激しさに精神も躰もついてゆけず、ただ愛撫に反応してこぼれる甘い嬌声と濡れた音だけが静まり返った部屋にいやらしく響いた。
「──ぁ……楊ゼン…っ」
施される愛戯に感じやすい躰をびくびくと震わせながらも、太公望は快楽から逃れようとするかのように身をよじり、甘く引きつった声で制止を求めるように青年の名を呼ぶ。
だが、胸元の堅くしこった小さな尖りを甘噛みしつつ舌先で転がされ、長い指に快楽の中心を執拗にもてあそばれて、急速に華奢な躰は追い上げられてゆく。
「──っ、あ…！！」
大きくのけぞった躰が短い緊張の後、がくりと床に崩れ落ちて。
切なげに眉を寄せてあえぎながら躰を震わせる太公望を見下ろして、楊ゼンも一つ息をついた。
そして、よどみのない動きで半端な状態になっていたスラックスを脱がせて、綺麗なラインを描く細い脚を蛍光灯の下にさらけ出す。
「楊…ゼン……？」
その動きにわずかに正気が戻ったのか、呼吸が収まりきらないまま、それでも快楽に潤んだ瞳を開いて、太公望はかすれた声で名前を呼ぶ。
だが、ストイックな雰囲気をもったブルーグレーのシャツのみを白い肌にまとわりつかせ、しどけなく四肢を床に投げ出したその姿は、男の欲望を煽るだけのものでしかなくて。
再び、楊ゼンはすべやかな肌に唇を落としてゆく。
むさぼるような、それでいてどこかすがりつくような青年の愛撫に、太公望は小さく眉をひそめたものの、目を閉じてその感覚を受け止めた。
「……っ…ん…」
肌の上を唇が這うたび、指が動くたびに抑えた嬌声が零れてゆく。
一度昇りつめさせられて過敏になった肌を性急に嬲られるのはかなり辛く、太公望は切なげにあえぎながら、華奢な躰を絶え間なくおののかせた。
やがて、作為を持ってほっそりとした脚を撫でていた手が、するりと奥まった箇所へ滑り込む。
「───ぁ…！」
そのまま、ほとんど前触れなく侵入してきた固い指に、くぐもった悲鳴が上がる。
そこは伝い落ちたもので既に甘く濡れ、また楊ゼンの指にも充分に蜜を絡められていたが、それでも狭い箇所をこじあけるようにされれば、痛みがないはずがない。
だが、気遣いも何もなく動く指に、思わず太公望は、己に覆い被さっている楊ゼンの肩にきつく爪を立てる。
それでも無体は止まず、容赦なく指が増やされるのを唇を噛んで耐えた。
「…っ……ぁ…んっ…」
しかし、いつもとは勝手が違うとはいえ、互いによく知った相手である。
そのうちに過敏な内部は苦痛の中にも快楽を見い出し始め、そして楊ゼンの指もまた、柔襞に快楽を導き出し始める。
悲痛な響きを帯びていた声が甘さをにじませるようになり、華奢な躰が余計なこわばりを解いたところで楊ゼンはゆっくりと指を抜いた。
「……ぁ……楊…」
己を苛むものが消失したことに気付いて、太公望は濡れた瞳をうっすらと開く。
だが、安堵の息をつく間もなく脚に手をかけられて、深い色合いの瞳に驚愕とも怯えともつかない色が走る。
「待て……、まだ……！」
早すぎる、と制止する声を無視して、楊ゼンはほっそりとした膝を抱え込むようにして秘処に熱く昂ぶった己を押し当てる。
そして。
「───…」
「え……？」
低くささやかれた声に、一瞬、太公望の気が抵抗から逸れる。
その隙をのがさず、楊ゼンは一息に華奢な躰を貫いた。
「…ぁ…く……」
多少、前戯を施されて慣らされたとはいえ、躰を繋ぐにはまだ充分とはいいがたかった柔襞を熱く逞しいものに犯されて、おののく唇からあえぎと共に苦痛を訴える声が切れ切れに零れ落ちる。
深く突き上げられるたびに、のけぞった細い首が弱々しくかぶりを振り、涙が小さな音を立てて床に散る。
その白い肌をむさぼるように至る所に口接け、華奢な躰を犯しながら、楊ゼンは狂おしい光を浮かべた瞳で苦痛に忍び泣く太公望を見つめた。
「望……」
意識しているのか、無意識なのか。
滅多に呼ぶことのない名を呼ばれて、太公望はあえぎながらも涙のにじんだ瞳を開く。
───先程、楊ゼンが口にし、そして一瞬太公望に抵抗を忘れさせたのもこの名前だった。
これまでに名を呼ばれたことがないわけではない。
だが、一つ違いとはいえ年下ということで遠慮があるのか、楊ゼンが太公望の名を呼び捨てることは滅多になかった。
いつでも敬語を使い、適当な呼び名を考案することもない彼が、太公望の名を呼ぶのはこうした行為の最中に限られていて、それさえも稀なことでしかない。
しかも、大抵は、理性も何もかも失くして行為に没頭している最中のことであって、名前を呼ばれたという記憶は朧気にしか残っていなかったのである。
だからこそ、今夜呼ばれた時は、驚いて思わず抵抗を忘れたのだ。
「望…っ…」
何度も何度も、滅多に呼ばれない名前が低く繰り返される。
そのどこか切ない苦しげな響きに、太公望は眉をひそめて自分を抱いている青年を見上げる。
───今夜の彼が普通でないことは、マンションの前でたたずむ姿を見つけた時から気付いていた。
決して己を崩さない彼に、何が起きたのかなど知らない。
ただ、このまま帰してはいけないと直感で思った。
だからといって、こんな風に床の上で犯されるというのは想像外のことではあったけれど、しかし、引き止めたことを悔やむ気は、この期に及んでも不思議に起きなかった。
「楊…ぜん……っ」
何度も普段は口にしない名を呼ぶ今の彼に、こちらの声は届いていない。
分かっていても……分かっているからこそ、何度でも名を呼ぶ。
自分を見ていない相手に抱かれるのが苦痛だからではなく、彼にこんな抱き方をさせるのがどうしても嫌だったから。
何度でも、繰り返し。
その名前を。
「──楊ゼン…っ！」
いたわりのない行為に、抑え切れない苦痛の声がわななく唇から零れ落ちる。
そして、一際深く躰を熱い楔に穿たれて、かすれた声で悲鳴のように呼んだ名前に。
ふと、動きが止まった。
「───ぁ…」
吐息のような、ひそやかな声はどちらのものだったのか。
苦痛に眉をひそめたまま、ゆっくりと太公望は泣き濡れた瞳を開く。と、まっすぐにこちらを見下ろしている青年の瞳とまなざしが合った。
「楊…ゼン……」
彼の瞳が自分を捕らえていること、そして、らしくもなくひどく動揺した光を浮かべていることに、思わずかすかな微苦笑が口元ににじむ。
「────」
何と言えばいいのか、言葉も見つからないらしい相手に、萎えた腕に力を込めて持ち上げ、ゆっくりとその広い背中を抱きしめる。
「──やめなくて、いいから……」
彼のシャツは、まだ雨に濡れたままじっとりと湿っていたが、そんなことは何の気にもならなかった。
「もっと……ゆっくり……」
乱れた呼吸のまま、途切れ途切れにそれだけを告げ、少しだけ腕の力を緩めて、まだ呆然とした色を隠せない青年の唇に唇を重ねる。
ついばむように数度軽く口接け、そして誘いかけるように舌先で唇や歯列をくすぐり、舌先を触れ合わせる。
しばらくやわらかな口接けを続けるうちに、ゆっくりと相手の舌が応えてきて。
この夜初めての煽り煽られる深いキスに、二人して溺れる。
そして。
いつもと同じ──否、いつもよりも遥かに優しく抱きしめてくる腕に。
いつしか太公望も感じていた苦痛を忘れ、果てがないとも思えるような快楽の淵に二人は墮ちていった。
＊ ＊
「………っ…」
躰の中から異物が引き抜かれる感覚に、太公望は眉をひそめてうっすらと目を開ける。
涙に濡れたままの瞳は、まだ悦楽の余韻を残してぼんやりと霞んでいた。
大きな手がそっと前髪を優しく撫でるようにかき上げると、何度かまばたきを繰り返し、ようやく深い色の瞳が焦点を結ぶ。
「大丈夫ですか……？」
いつもの決まり文句とは違う、ひどく心配げな低い声に、ゆらりと視線がさまよって見下ろしている青年の瞳を捕えた。
「……ひどい顔をしとるのう」
苦笑のにじんだその声も、ひどくかすれていて頼りなく、楊ゼンは気遣わしげに眉をひそめた。
「───どうして……」
「ん？」
「どうして抵抗しなかったんです……？」
自責の念に満ちた、内心の苦渋を思わせる声に、太公望はやはり微苦笑する。
「どうしてと言われても……」
「あなたなら抵抗できたはずです。なのに、どうして……」
「おぬし相手に抵抗しても仕方なかろう」
あっさりした答えに、楊ゼンは意表を衝かれたように絶句した。
そんな彼を放っておいて、太公望はゆっくりと床の上から躰を起こす。
「無理をするのは……！」
慌てたように彼が制止するのも構わず、腕に力を込める。
ベッド以外の場所で長時間苛まれた躰は、それだけの動きにもひどい苦痛を訴えたが、それでも差し出された腕を借りて、どうにか起き上がることができた。
そして、その姿勢で一息つくと、今度は、半端に腕に引っかかっていたシャツを羽織り直して立ち上がろうとする。
「ちょっ…と、いい加減にして下さい！ 動かないで……」
「そんなに騒ぐな。確かに疲れはしたが、動けないほどのことではないよ」
そう言いながらも、太公望はゆっくりと壁にすがって立ち上がり、楊ゼンを振り返った。
「わしは先にシャワーを浴びてくるから、その間にここを片付けておけよ」
血の気を失い、青ざめて見えるその顔を、楊ゼンはひどく気遣わしげな表情で見つめた。
「本当に大丈夫なんですか……？」
「うむ。まぁ三十分たっても出てこなかったら、様子を見にきてくれ」
「───…」
普段と同じ調子で笑った太公望に、楊ゼンの方もそれ以上しつこく何かを言うことはできず。
わずかにふらつきながらも、案外しっかりした足取りでバスルームに消える細い後ろ姿を、ただ見送るしかなかった。
シャワーのコックをひねった、次の瞬間。
太公望は崩折れるように、降り注ぐ熱い湯の下に座り込む。
「───あの馬鹿が……」
そのままバスタブに寄りかかるようにして、苦痛を隠し切れない乱れた浅い呼吸を繰り返しながら目を閉じる。
床の上で犯されて、激しい苦痛と疲労を訴える躰を強引に動かしたために、吐き気さえ覚えていた。
───本当は、抵抗した方が良かったのだろう。
自分のためにも、楊ゼンのためにも。
けれど。
「抵抗なんかできるか……！」
シャワーに打たれるままになりながら、太公望はかすれた声で毒づく。
「自分がどんな顔をしていたか、鏡を見てから言え……」
楊ゼンとは長い付き合いになるが、彼には子供の頃から妙に冷めたところがあって、プライドが高く、無礼な輩(やから)や気に入らない相手には容赦しないものの、心底、感情的になったりすることは滅多になかった。
おそらく一番近い位置にいて、時には愚痴めいたことを聞かされている自分でさえ、彼がその徹底した自制をを崩したところは見たことがないと言っても過言ではない。
その楊ゼンが。
今夜は、一目見て分かるほどに自分を失っていた。
何があったのかなど知らないし、彼が言わない限りは聞くつもりもない。
だが、明らかに普段とは様子を異にしている相手をそのまま帰せるほど、淡白にはなれなかった。
強引だろうが何だろうが、あの時は、引き止めなければいけないと思ったのだ。
もし立場が逆転して、自分があんな様子を見せたのであれば、楊ゼンもまた、絶対に一人の部屋に帰らせようとはしなかっただろう。
自分たちの間に、無条件に相手を甘やかすような、そんな甘い感情は存在しない。
けれど、世間でいう同情や愛情とは何かが異なる、本人たちにも言葉にできない一種の繋がりが自分たちの間にはいつのまにか存在していて、それは時折、こんな形で姿を現し、曖昧にゆらめくのだ。
「──っ…」
わずかに身じろぎしただけで、全身が鈍い痛みを訴える。
「──考えてみれば、こういうのは初めてか」
快楽を楽しむ言葉も何もなく、一方的に進められた行為。
いつもなら、こちらが哀願するようになるまで焦らし、快楽を高め、長引かせようとするのに。
躰を繋ぐために必要な、ごく最低限の愛戯以外は、求めるばかりで何も与えようとしなかった。
「あやつにもこんな抱き方ができたとはな……」
シャワーの水音にかき消されそうな呟きを零す太公望の口元に、苦笑めいた表情が浮かぶ。
遊び人なりに妙な美学を持っている彼のことだ。自分相手だけにではなく、誰を相手にもこんなやり方で一方的に押し倒したことはなかっただろう。
今頃、さぞ落ち込んでいるのだろうな、と思うと、それだけで苦笑が込み上げてくる。
「ダアホが……」
呟いた声は、水音にまぎれて誰の耳にも届かなかった。
「あ……」
パジャマの上だけを羽織り、ゆっくりとした足取りでバスルームから出てきた太公望に、ソファーに腰を下ろしていた楊ゼンは慌てて立ち上がり、歩み寄る。
「大丈夫ですか？」
「平気だと言ったら嘘になるが、大したことはないよ」
「でも顔色が……」
「おぬしだってひどいぞ。さっさと熱いシャワーを浴びて温まってこい」
それでも渋るような表情をした楊ゼンを押しのけて、太公望は多少ふらつきながらもソファーまで歩き、やや緩慢な動作で腰を下ろす。
その後を追った楊ゼンは、沈鬱な表情で、まだしっとりと濡れたままの黒髪に 手を触れた。
「──すみません」
「別に、おぬしが謝るようなことではない」
そっと髪を梳くように動く手を払いのけることもしないまま、太公望は深い色の瞳で楊ゼンを見上げた。
「許せないと思うのなら、最初からもっと抵抗していた。抵抗しなかったのはわしの方なのだから、おぬしがそんな罪悪感を感じる必要はないよ」
「──だからといって、こんな……」
淡々と答える声に、楊ゼンは苦い表情で唇を噛む。
だが、太公望はそれ以上何をも言わせず、自分の髪に触れている楊ゼンの手をさりげない仕草で引き離した。
「とにかくシャワーを浴びてこい。服は乾燥機に放り込んでおけよ。その程度なら、シャワーを浴びる間に渇く」
あまりにも常と変わらないその言葉に、楊ゼンは諦めたように小さく溜息をついて、分かりましたとうなずいた。
バスルームへと立ち去る後ろ姿を少しだけ見送ってから、太公望はソファーの肘掛を枕代わりにして目を閉じる。
「ダアホ……」
小さく呟いた声と、バスルームのドアが閉まる音が、同時に物の少ない室内に響いた。
＊ ＊
かたり、と耳に届いた小さな音に、ふと意識が浮上した。
「すみません、起こしてしまいましたか？」
「いや、少しうとうとしていただけだから……」
うたた寝した後に特有のぼんやりした感覚の中で、目をしばたたかせながら太公望は答える。
と、温かな手のひらが頬に触れてきて、その心地好さにまたもや気だるい眠りに引き込まれそうになる。
「──まだ顔色が悪いですね」
「寝起きだからではないのか？」
「そんなわけないでしょう。……もう、いい加減にして下さいよ」
ほとほと呆れたような、しかしわずかに内心の苦渋をにじませた声で楊ゼンは応じ、そしてぼんやりと目を閉じている太公望をソファーから抱き上げた。
「な……」
「ベッドに運ぶだけですから、大人しくしていて下さい」
突然の動きに驚いて目を開けた太公望に有無を言わせぬ口調で言い、さっさと楊ゼンは奥のベッドルームへと華奢な躰を運ぶ。
いつもの太公望なら、多少の抵抗をするなり、憎まれ口を叩くなりしていただろう。だが、さすがに今夜はそんな気力もなく、小さく息をついてから言われた通りに躰の力を抜いて、力強い腕に己をゆだねた。
抱かれた胸から伝わってくるボディーシャンプーの香りと、かすかな彼自身の肌の香りが、いつもの彼であることを教えてくれるようで、先ほどまでの雨の匂いとは違うそれに安堵するように太公望は目を閉じる。
そして数秒も数えないうちに、身体をベッドの上にそっと横たえられた。
「少し待っていて下さい」
うたた寝していた間にほとんど乾いた髪をさらりと撫でて、楊ゼンはもう一度リビングの方へと出てゆく。
その気配を追いながら、太公望は肌に感じるやわらかな羽毛布団に頬を埋めた。
身体はまだひどくだるく、鈍い痛みを訴えていたが、それでも一眠りする前に感じていた吐き気や眩暈はおさまっている。
一晩ぐっすり眠れば、かなり楽になるだろうと思いながら、明日、何か出かけなければいけないような用事が合っただろうかと、頭の中でスケジュール帳をめくった。
「────」
特にこれといった予定は思い当たらず、ほっと息をついた時。
小さな音と共に寝室のドアが開き、楊ゼンが戻ってくる。
「夕飯もまだでしょう？ 飲まず食わずじゃ身体に悪いですから……」
「わしはそんなヤワじゃないぞ」
「具合の悪い人は黙ってて下さい」
言いながら楊ゼンは、太公望の背を優しい動きで抱き起こし、やわらかな枕をクッション代わりにして楽な姿勢を作ってやる。
そして、湯気を立ち上らせるマグカップを細い手に持たせた。
ふわりと立ちのぼるホットココアの甘い香りに、太公望はまばたきして楊ゼンを見上げる。
「おぬしの分は？」
「いえ、僕は甘いものは……」
「砂糖を控えめにすれば良いだろうが。おぬしの分も入れてこい」
「でも……」
「いいから。ちゃんと甘く感じる程度に砂糖を入れてこねば、話も言い訳も聞いてやらぬぞ」
「──分かりましたよ」
その言葉が痛いところを突いたのか、渋々といった様子ながらも楊ゼンは、もう一度ベッドルームを出てゆく。
キッチンから届く小さな物音を聞きながら、太公望はマグカップの中身にそっと口をつけた。
舌を焼くような熱いココアは充分に甘く、優しい味で、身体の奥にわだかまる鈍い痛みも疲れも、ゆっくりと溶けてゆくような感覚にほっと息をつく。
「──ココアは甘くなければ意味がないではないか……」
好みは人様々だから一概には言えないが、ハーブティーなどを除けば一般に鎮静作用が一番強い飲み物は、砂糖を入れたミルクココアなのである。
カカオと糖分、牛乳に含まれるカルシウムなどが、昂ぶった精神を鎮め、疲労を回復するのに役立つらしい。
楊ゼンがそこまで知っていてココアを入れたのかどうかは知らないが、太公望は、この甘く優しい飲み物を自分一人で楽しむ気はなかった。
そうしてマグカップの熱さを手のひらで心地好く感じているうちに、楊ゼンが自分もマグカップを手に戻ってくる。
彼がベッドの縁に腰を下ろすのを待って、太公望はマグカップを持った形のいいの手を自分の方に引き寄せた。
中身がコーヒーでないことを確かめてから、熱い液体を一口すすって顔をしかめる。
「苦い！」
「充分甘いじゃないですか。あなたの味覚と僕の味覚を一緒にしないで下さい」
憮然とした表情で答える楊ゼンを太公望はちらりと見やったが、さすがにもう一度砂糖を入れてこいとは言わず、大人しく相手のマグカップから手を離した。
それ以上追求する様子は見せず、自分のカップを口元に運ぶ太公望に小さく溜息をつくと、楊ゼンもまた入れたばかりのココアに口をつける。
……しばらくの間、張り詰めているわけでもないが、かといってくつろいでいるわけでもない、けれど居心地が悪いわけでもない曖昧な静けさが二人の間を流れる。
マグカップをゆっくりと傾けながら、二人はただ互いの気配を聞くように──あるいは相手が存在していないかのように沈黙していた。
やがて。
マグカップの中身が半分ほどに減ったところで、楊ゼンがぽつりと口を開く。
「自分では何でもないと思っていたことが、傷として残っているというのは良くあることなんですかね」
わずかに自嘲をにじませた、淡々とした声に太公望は顔を上げて、年下の青年の端整な横顔を見つめる。
別段、悄然と気落ちしている様子はなかったが、普段は余裕を感じさせる笑みに隠れている彼の本当の表情が、そこにはあらわになっていた。
「──トラウマの一つや二つは誰にでもあるだろうし、それに気付いてないことも珍しくはないだろうよ。心の傷というのは、忘れた頃に思いもよらぬ形で出てくるものだ」
「そう、なんでしょうね」
溜息をついて、楊ゼンはまなざしをやや上げる。が、太公望の方には振り返らない。
しかし、それをどうこう言うことはなく、太公望は黙って彼の言葉を待った。
「あまりにも似ていて……」
独り言のように呟き、楊ゼンはくしゃりと前髪をかき上げた。
「──あなたは御両親のどちら似だとか、言われたことがありますか？」
「……どっちかというと、母親似と言われるかのう。妹の方が、目元なんかが父に似ているよ」
唐突な問いかけに、静かに太公望は答える。
「性格は？」
「性格は……父親似かのう。まぁ、両親のどちらも一度言い出したら聞かない頑固なところはあったが。だから夫婦喧嘩をすると大変だったよ。一度喧嘩すると、一週間くらい口を利かぬのは当たり前だった」
「あなたのその意固地なところは、御両親譲りですか」
寝室の壁に視線を向けたまま、楊ゼンがくすりと笑う。
「──僕は、母親似なんですよ」
低い声を紡ぐ横顔を、太公望は無言のまま見つめた。
「顔もそうですが、それ以上に中身が……。嫌になるくらい、似てるんです」
「…………」
「だからといって、それをどうこう思っているわけじゃないんですよ。僕は僕だし、母は母だし、一人の相手と長く付き合えない性癖もどうしようもないことなんです。──ただ……」
何か思いを噛みしめるかのように、楊ゼンは言葉を切った。
だが、それは長い時間ではなく、短い沈黙をはさんで再び口を開く。
「──僕は、母を母親と感じたことがないんです。他人というのとは違いますが、でも、感覚としては赤の他人に一番近い。抱きしめられた記憶はありませんし、撫でられたことだって一度くらいしか……。
でも似ているからこそ、気持ちも理解できますし、家を出て行く母を見送った時も何とも思わなかった。あの人のしたことを恨みに思ったことなど一度もなかったはずなのに……」
淡々とした声が、深い苦さを帯びる。
「今日……、十五年前と何一つ変わっていない母を目にして、心底厭（いと）わしいと……二度と顔も見たくなかったのにと、そう思ったんです」
母親に捨てられて傷つかない子供がいるはずがない、という言葉を太公望は口にしなかった。
そんなことは楊ゼンも苦い思いと共に重々噛みしめているのだろうし、第一、彼は何一つ言葉を……慰めを求めてはいない。
だから、ただ黙って彼の言葉を受け止める。
「──でも、こんなことは何の言い訳にもならない。たとえどんなに動揺したとしても……」
そこまで言って、ようやく楊ゼンは太公望を振り返る。
まっすぐに二人の視線が交錯する。どちらも目を逸らしはしなかった。
「わしには、おぬしの気持ちは分からぬが……」
先に沈黙を破ったのは、太公望の凛と響く声だった。
「おぬしがわしを傷つける気がなかったことは分かっておる。だから、わしの方は別に良いよ。
度々やられたらかなわんが、一生に一度くらい、何もかも滅茶苦茶にしたくなる時や、誰でも良いからすがりつきたくなる時があってもおかしくない」
「───…」
その言葉を黙って聞き終えた楊ゼンは、わずかに眉をしかめて溜息をついた。
「あなたは僕に甘すぎますよ」
「そんなつもりはないよ。わしだって、自暴自棄になっておぬしをナイフで刺すことが絶対に有り得ないとは言い切れぬし……。自分を完全にコントロールできるほど、人間は有能ではないだろう？ だから、気にせずとも良い。まぁ、これが初めてだったなら、また言うことは違っただろうが」
「……その場合は、やっぱり責任をとって結婚しなければいけないんでしょうかね？」
「おぬしみたいなロクデナシの亭主なんぞ、たとえわしが女でも絶対にお断りだ」
「あれ、結婚したら案外いい夫になるかもしれませんよ」
「隕石が頭を直撃するくらいの確立でか？」
「そんな見くびったものじゃないですよ。あなたと結婚できるなら、もう少し素行を改める努力をします。ああ、でもあなたは崑崙グループの跡取だし、僕は金鰲の跡取ですからね。やっぱりこの場合は、平成版ロミオとジュリエットになってしまうかな」
「なるはずなかろう。わしが万が一女だったとしても、おぬし如きに一目惚れすると思っておるのか？」
どうせ惚れるなら、もっとまともな男に惚れるわい、と容赦のない太公望の物言いに、楊ゼンは苦笑する。
「まったく……」
そして、ようやくいつもよりも少しだけほろ苦い笑みを浮かべ、太公望を見つめた。
「あなたは僕に謝らせてもくれないんですね」
「既に一度謝ったではないか。第一、謝ったところで何か変わるのか？」
「あなたに申し訳ないことをしたと思う僕の気持ちは、どうすればいいんです？」
逆に問い返されて、太公望は肩をすくめる。
「それは、おぬしがどうにかすることだろうが。わしは知らぬ」
その言葉に、楊ゼンは小さく笑った。
「本当にあなたという人は、優しいのか厳しいのか……」
「甘いと言ったり厳しいと言ったり、いい加減な奴だのう」
「だってその通りでしょう」
言いながら、楊ゼンは片手を伸ばして太公望の髪に触れた。
長い指が、何かを確かめるかのようにゆっくりと髪を梳く。
そうしてしばらく無言のまま、癖のないやわらかな髪に触れてから、何気ない声で楊ゼンは言った。
「──明日からしばらく、女性と付き合うのはやめますよ」
「ほう」
太公望はまばたきして、楊ゼンを見上げる。
「──で？ 罪滅ぼしにしばらくの間、わしに尽くすとか言うのではないだろうな？ そんなうっとうしいことをしたら、今度こそ縁を切るぞ？」
その言葉に、楊ゼンは小さく笑みを浮かべた。
「言いませんよ。でも、謹慎中も会いに来るのは許してもらえますか？ 何もしないと約束しますから」
「……それはおぬしの勝手だが、わしはおぬしの新しい相手だと思われるのは御免だからな、外では必要以上に声をかけるなよ」
「そんなに嫌ですか？」
「当たり前だろう。妙な噂が立って、至る所で嫉妬と好奇の視線にさらされるのを想像するとぞっとする」
「色気がないですね。恥ずかしいから嫌だと言えば可愛いのに……」
「阿呆。男が恥じらうのを見て、おぬしは楽しいのか？」
「あなたなら楽しいですよ。なにせ、女性が僕に見せる恥じらいは、ほぼ百パーセント演技ですからね」
不埒な台詞に、太公望は呆れかえった表情を浮かべる。
「それは当たり前だろうが。本気で恥じらうような女性が、おぬしを遊び相手に指名するはずがなかろう」
「まぁ、その通りですけど」
端的に真実を衝く太公望の言葉を、楊ゼンもまたあっさりと肯定する。
「そういうタイプはお断りさせてもらってますからね。本気になられても責任取れませんから。僕を見栄えのするアクセサリーか、性能のいいバイブ程度に思っていてくれる女性じゃないと」
「………最低かつ露骨な表現だが、的確だな」
「でしょう？」
そして楊ゼンは、さらさらと零れる太公望の髪からゆっくりと指を離し、視線をめぐらせて宙の一点にまなざしを据えた。
「……だから、」
ふいによく透る声が、戯言めいた響きから飾り気のない素の響きに変わる。
それを、太公望は表情を変えることなく受け止めた。
「あの人よりは少しマシかなと思ったりするんですよ。僕は女性に愛情を求めたりはしませんが、あの人は、男に賞賛と愛情と金と権力と……持てるすべてを捧げることを求めますから。
そう言ったところで、やってることは大差ないんですけどね。結局、誰も愛してないんですから……。馬鹿ですよね、僕も……」
ゆっくりと紡がれた声に、溜息をつくように太公望は瞳を伏せる。
「おぬしが最低のロクデナシなのは、大昔から分かりきったことだろうが」
「────」
そう言う太公望を、楊ゼンはやわらかな光を浮かべた瞳で振り返る。
「だが、おぬしはおぬしだろう？ ならば、おぬしが思う通りに生きれば良い。二十歳を過ぎたら、人生は自分で作るものだ。自分の責任は自分でとるしかない。違うか？」
「──どうして、あなたはそうなんでしょうね……」
きっぱりと言い切った言葉に、ゆっくりと、低い声が呟くように紡ぎ出される。
「言うことは厳しいのに、信じられないくらい優しいんですよね、あなたという人は……」
「誉めても何も出んぞ」
「出ませんけど、でも抱きしめさせてくれるでしょう？」
その言葉と共に楊ゼンの腕が伸びて、華奢な身体をやわらかく抱きしめる。
太公望も、優しい腕に抗うことなく目を閉じた。
「ボランティアは、わしの趣味じゃないぞ」
「知ってますよ。あなたがまともに動けるようになるまで、責任とお礼を兼ねてちゃんと介護してあげます」
「………わしを在宅介護の老人扱いする気か？」
「ええ。食事は何でも好きなものを作ってあげますから。気がすむまで僕をこき使って下さい」
ふん、と腕に抱かれたまま太公望は鼻を鳴らす。
「その台詞、絶対に忘れるなよ」
「忘れませんって」
笑みを含んだ声で答えながら、一瞬、ほんの少しだけ抱く力を強くしてから楊ゼンは腕を緩める。
そして、やわらかな頬にそっと口接けた。
「今夜はもう眠って下さい。──本当にすみませんでした」
「───…」
身体がだるいのは相変わらずだったから、促されるまま太公望はベッドに横になり、楊ゼンを見上げる。
「──で、おぬしは？」
「あなた次第ですね。帰れとおっしゃるなら、今すぐ帰ります」
「……おぬしも大概、いい性格をしておるのう」
溜息をついて、太公望はもそもそと動き、ベッドにスペースを作った。
「ソファーじゃなくていいんですか？」
「おぬしがそっちの方が好きだというのなら止めぬぞ」
その言葉に楊ゼンは小さく笑い、
「洗い物を済ませてきますから、少し待っていて下さい」
ベッドサイドに置いてあった二つのマグカップを手に取って立ち上がる。
そして出て行った寝室のドアの隙間から漏れてくる、水音と食器の触れ合う音を、太公望は枕に顔を半分埋めたまま聞いた。
数分が過ぎ、やわらかな布団の感触に太公望がうとうととしかけたところで、ふっとリビングの明かりが消える。
続いて寝室のドアが閉まり、照明のスイッチを押す音と共に室内は薄闇に包まれて。
一人分増えた重みにベッドが軋む。
そっと髪を撫でられる感触が心地好くて、夢うつつに太公望は小さく息をついた。
「──今夜は、あなたに甘えてばかりですね……」
ささやかれた声に何か言い返そうと思ったが、もう襲いくる睡魔を押しのけることはできなくて。
そのまま急速に、太公望は眠りの淵に落ちていった。
end.
というわけで、Only youシリーズ（いつのまに？）の第４弾でした。
これは、前の「Rainy Blue」でいただいた感想の中にあった、今度は楊ゼンの過去が見たい、というお言葉に触発されてできた話です。（根が単純なので、乗せられやすい・・・）
私は基本的に強●物は一切書かないか、書いても未遂止まりの人なのですが、この話だけは例外的にネタが浮かんでしまったので、書いてみました。
なんというか、このシリーズの楊ゼンと太公望だと、強●は取り立てて問題にならない感じがするんですよね〜。事の前と後とで、二人の距離感が変わらないというか。まぁ、何を言っても二人には迷惑な話でしょうけど(^^ゞ
でも、こういうシリアスになり過ぎない心理劇は、書いていてすごく楽しいです(^_^)
一体いつまでどこまで続くのか分からないこのシリーズですが、ネタが思いつく限りは書きたいなぁと思ってます。
オフセ化の希望が一番多いのも、このシリーズですしねー・・・。
（オフセ化は現在悩み中。してもいいんですが、しかし一体、ぎゅうぎゅう詰めの配本スケジュールのどこに突っ込めばいいのか・・・(ｰ_ｰ;)）
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