Holyday








 世にも珍しいものを見た。





 大型連休初日。
 午後一時三十四分。
 某デパートのエレベーターホール前。
 落ち着いた色合いの洒落た空間に、小気味よい音が響きわたった。
「うぬぼれてんじゃないわよ!! あんたなんかこっちから願い下げだわ!!」
 何事かと深く考えもせずに振り返ってみれば、流行を押さえた服で決めた、ロングヘアのスレンダー美人が薄く涙のにじんだ目で男を睨み上げ、くるりと踵(きびす)を返してピンヒールのミュールの足音も高く、立ち去ってゆく。
 その場に残された男は微苦笑するような微妙な表情で女を見送り、そして小さく溜息をついた。
 公衆の面前で、女が男をひっぱたいて別れを告げる、というのは映画やドラマではありふれた光景だが、実写で見る機会は滅多にないだろう。
 しかも、どこかにTVカメラがあるのではないかときょろきょろ辺りを見回してしまうような、モデル並の美男美女の組み合わせともなれば、天文学的な確率になってもおかしくない。
 それどころか。
 片方が知人だなどということが、一体どの程度の確立で起こり得るのだろう?
 ───あ、やばい。
 目が、合った。
 振られ男はわずかに驚いたような表情をしてこちらを見つめ、それから笑みを浮かべる。
 左頬に薄赤く女の手形を残したまま、照れも何もなく、いつもと同じような甘い笑みを。
 ───げ。
 大型連休中のデパートは、人があふれかえっている。
 その中で、人々の注視を集めたまま、彼は歩み寄ってきた。
 思わずくるりと背を向けて逃げ出そうかと考えたが諦める。どうせ追いかけてくるに違いないのだから、平穏に立ち去った方がまだしも目立たない、かもしれない。
「奇遇ですね。お買い物ですか?」
「……見りゃ分かるだろう」
 平静を装ってはいるが、人々の好奇の視線が肌に痛い。
「不機嫌そうですね」
「誰のせいだ」
 睨みあげると、彼はくすりと笑った。
「場所、変えましょうか」
 そのまま、歩き出して。

 こうして太公望は、大型連休の第一日目を、腐れ縁の女たらしと過ごすことになったのだった。








「──で、どこへ向かっておるのだ」
 歩きながら問いかけた太公望の目の前に、はい、と差し出されたのは。
 公開されたばかりの映画の前売りチケットだった。
「この手形が消えるまででいいですから」
 付き合って下さい、と楊ゼンは甘く微笑む。
 だが、その左頬についた薄紅の痕は、既に言われなければ手形とは分からないほど白皙の肌に紛れている。
 見上げた太公望の不満げな表情を読み取って、楊ゼンは更に笑みを深くした。
「昼間の街で会うのも、たまにはいいでしょう? 映画を見終わったらティフィンのケーキを奢りますよ」
「………分かった」
 渋々ながらも太公望がうなずいたのは、別に美味くて高いケーキに釣られたというだけでもない。
 既に予定していた文房具その他の買物はすませて、あとは一人の部屋に帰るだけという状況だったこと、この幼馴染とはこの十日ほど、まともに顔を合わせていなかったことが微妙に働いたのである。
 そして、何よりもその映画は太公望自身、見たいと思っていたことが大きかった。
「良かった。これでチケットを無駄にしなくてすみます」
 承諾の返事に、楊ゼンが嬉しげな笑みを向ける。
 それは、相手が女性であれば有無を言わせずに射落とすような甘い笑みだったが、さすがに太公望はそんなものにたぶらかされない。
「別にわしなんぞ誘わずとも、いくらでも相手は見繕えるだろうが」
 いつもと変わらぬ素っ気ない声で応じるが、楊ゼンも負けてはいなかった。
「いえ、あなたに会わなかったら、今日、僕一人で見るつもりでしたから」
 響きのいい低い声で、あっさりと言い放つ。
「もう一枚は捨てて?」
「ええ」
「何故だ?」
「だって、他の女性と見るつもりだったチケットで次の相手を誘うわけには行かないじゃないですか。その点、あなたならそんなことは気にしないですみますし」
「そりゃそうだが……」
 その返答に太公望は眉を寄せる。
「それなら、映画を見てから修羅場に持ち込めばよかったのではないか?」
 そう問われて。
「そのつもりだったんですけどね」
 楊ゼンは微妙な表情を、甘やかな笑みににじませた。
「まあ、僕もまだ修行が足りないということですよ」
 何の修行だ、と太公望が突っ込む間もなく、
「ちょっと急ぎましょう。そろそろ前の上演が終わった頃です」
 腕時計を確かめた楊ゼンにうながされて。
 それきり二人はろくな会話も交わさずに、足早に映画館へと急いだ。






 映画を見るのは久しぶりだった。
 基本的に映画も映画館の雰囲気も好きなのだが、なんやかやと忙しいのと、休日は部屋でごろごろしているのが好きなのとで、年に数回も見る機会はない。気になる作品があっても大抵の場合、TVでやるのを待つか、ビデオレンタルが始まるのを待つ、という感じなのである。
 それを他人の奢りで見られることになったのだから、偶然に感謝するべきかな、と思いつつ、太公望はそっと隣りの席の楊ゼンを伺い見る。
 ゆったりと腰を下ろした彼は穏やかな、けれどわずかに生真面目さを含んだ表情でスクリーンを見つめていて。
 それは、互いの部屋でTV映画やレンタルビデオを見ている時と同じ表情で、何故かそれが妙な感じだった。
 そして自分自身もスクリーンに視線を戻しつつ、そういえば二人で映画を見に来たことは高校時代に一度あったきりだな、と太公望は思い出す。
 確か、その時も楊ゼンが誘ったのだ。偶然、デートの予定がなくなったとか何とかで。
 ───何だ、まったくあの頃と変わっておらぬのか。
 己の記憶の馬鹿馬鹿しさに、スクリーンを見つめたまま、太公望は眉をしかめる。
 思い返してみれば、映画そのものの雰囲気も似ていた気がする。
 話題作ではあったけれど、派手なアクション物ではなく、むしろ切なさが後味にのこるシリアスで真摯な作品。
 感じやすい人間なら、クライマックスで涙を零してしまうような。
 男二人で見に来きても、それほどそぐわなくないかもしれない、そんな映画だった。
 今も、スクリーンの中の主人公は、己に課された使命と家族への愛情の狭間で苦渋の表情を浮かべている。
 その様子を見つめながら太公望は、楊ゼンはこのタイプの映画が好きなのだろうか、とふと考えた。
 普段、TVで見ている分には割合、二人とも無節操なのだ。
 洋画劇場でやっているものを、とりあえずつけてみる、という感じでアクション物だろうが何だろうが結構楽しく見ている。
 けれど、映画館でちゃんと見る映画は、過去も現在も同じタイプだ。
 ───こういう映画は、デートで見る分にも悪くはないだろうが……。
 たとえば。
 先刻、楊ゼンをひっぱたいて去っていった女性。
 彼女なら、むしろ隣りの映画館で上映されている、人気俳優主演のアクションありラブストーリーありの作品の方を見たがるのではないだろうか。
 外見だけで決めつけるのも失礼だが、流行の洒落た服に身を包んだ女性には、どうもそっちの方がしっくりくる気がする。
 ───ああ、でも後から「こういうのもたまには良いでしょう?」と、いい雰囲気に持ち込めるか。
 いかにも彼が言いそうだ、と頭の中でうなずいて、でもやっぱりそれだけではないな、と太公望は思う。
 女好きではあっても、楊ゼンは決して無条件で女性の好みに合わせたりはしない。むしろ、どんな時でも自分のポリシーは貫くタイプで、そういう意味では、女性に優しい振りをしているだけの似非(えせ)フェミニストと言ってもいい。
けれど、そういう一種の傲慢さを持っているからこそ、楊ゼンはただの美形で終わらないだけの存在感を放ち、それに惹かれて女性も寄ってくるのだし、こうして自分もつかず離れず、腐れ縁もどきの付き合いを続けているのである。
 プライドも主義主張もない人間と付き合ったところで、面白くも何ともない。それこそ少し頑固で意地っ張りなくらいが楽しいのだ。
 ───そう…だな。
 女たらしという難点があれど、楊ゼンは決して嫌なタイプの人間ではない。
 むしろ人間的な意味で頭がよく、優しい部類に入る青年だろう。
 確かに金持ちの放蕩息子的な一面はあるが、まったくの苦労知らずでもないし、いつでも冷静に自分を客観視している。同時に、他人の心理をもすばやく洞察し、相手に気付かれないようなさりげなさでフォローするのも上手い。
 ───傍にいても苦にならない相手なのは確かだな。
 そう考えて。
 不意に太公望は馬鹿らしくなる。
 せっかく見たかった映画を見ているのに、一体自分は何を考えているのか。
 いま隣りにいる男のことはいつでも考えられるのだし、また考える必要自体がない相手なのだ。
 ───集中せねば勿体ない。せっかくの奢りなのに。
 気を取り直して、太公望はスクリーンを見つめる。  物語はそろそろクライマックスへと向かい始めていて、字幕を追いながら英語の台詞に耳を傾けていれば、たちまちのうちによくできたストーリーの中へと引き込まれた。
 ……そうして、緊迫を高めつつあるスクリーンの映像に見入っていた太公望は、隣席の楊ゼンがちらりとまなざしを向け、己の真剣な表情を見つめて微笑したことにも気付かなかった。








 映画館を出て、徒歩で約十分。
 表通りに面してはいるのだが、ビジネスビルの一階にあるその喫茶店は、白を基調としたシンプルすぎるたたずまいのせいで、知る人ぞ知るという隠れた名店だった。
 海外の某一流ホテルをイメージしたという店内は天井が高く、洒落て落ち着いている。
 老若男女を問わず、大人がゆっくりと過ごせる雰囲気なこの店のケーキが太公望はお気に入りだった。
 少々小ぶりで値段もそれなりだが、すみずみまで気を使ってあって芸術品並に美味い。
 当然ながら、この店を太公望に教えてくれたのは、同じ金を払うなら美味いものに払いたい、不味いものに金を出すくらいなら食べない方がマシ、というポリシーを持つ、今現在、向かいの席でエスプレッソを飲んでいる女たらしである。
「本当にあなたは甘いものが好きですよね」
 上機嫌で季節の果物をふんだんに使ったムースを口に運んでいる太公望を見つめて、楊ゼンは微笑する。
「まあな。美味ければ何でも良いんだが」
「あなたの食べっぷりを見てると、そのケーキもパティシエも本望だろうなという気がしてきますよ」
「理想的な客だろう」
「ええ」
 その言葉は皮肉というより純粋に賛辞で、機嫌よく太公望はムースを平らげた。
 つるりと綺麗になった白いケーキ皿を見て、楊ゼンはダージリンティーのカップを持ち上げた太公望に笑みを向ける。
「どうせなら、もう一つ追加したらどうです? あなたは出不精だから、なかなかここまで来ないでしょう?」
「そうだのう」
 その魅力的な提案に、太公望は軽く首をかしげる。
 基本的に楊ゼンに奢られる時、太公望は余計な遠慮をしたりしない。彼が結構な資産家の息子だということもあるが、それ以上に小学校以来の腐れ縁が、そういう気遣いを無用のものにしていた。
「やっぱり季節の限定物だけではなくて、定番も食べたいのう。おぬしの言う通り、ここに来たのは久しぶりだし……」
 三ヶ月ぶりか?、と指折り数える太公望に笑って、楊ゼンは、ウェイトレスに合図を送った。
「ガトー・フロマージュを一つ、追加お願いします」
 それでいいでしょう?と問いかけるまなざしに、太公望はうなずく。
 そして、白いシャツブラウスに黒のスラックスという制服のウェイトレスが立ち去るのを見送って、
「おぬしと出かけると便利だのう」
 そう言い、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「映画もケーキも奢りで、しかも好みまで把握してる?」
「そうそう。女の視線を浴びるのはうっとうしいがな」
「それは僕の両親に文句を言って下さいよ。僕が整形したわけじゃないんですから」
「だが、活用しとるのはおぬし自身だろう?」
「活用……してることになるんですかね?」
「その顔がなかったら女の九割は寄って来ぬと思うぞ」
「それは確かに」
 言葉遊びのようなやりとりは、追加のケーキの登場で中断される。
「お待たせいたしました」
 新しく目の前に置かれたケーキ皿に、太公望は嬉しげな表情を浮かべた。
 円形のチーズケーキは、それこそ材料の八割がチーズという感じで、濃厚でありながらレモンの後味が絶妙に美味い。チーズケーキといったらこれしかない!というくらい、このガトー・フロマージュに太公望は心底惚れ込んでいるのだ。
 そんな珍しくも純粋に感情をあらわにした太公望に、楊ゼンは思わず笑みを零す。
「何だ?」
「いえ……。そのケーキを目の前にした時のあなたって、到底僕より年上には思えないなと……」
「悪かったのう」
「いえ、いいですよ。可愛げがあって」
「男に可愛げがあってたまるか」
 ふん、と太公望はチーズケーキを口に運ぶ。
 途端に、仏頂面が幸せそうにほころんだ。
 その露骨な変化にたまりかねて楊ゼンは小さく笑い声を立てる。
「うるさいのう」
「すみません」
 謝罪しながらも、くすくす笑いは止まらない。
 そんな楊ゼンに不機嫌なまなざしを向ける太公望だが、やはりケーキを口に運べば自然に表情がほころぶ。
 しかし、あくまでもそれは一瞬のことで、喉元を通り過ぎれば、もとの仏頂面になって楊ゼンを睨みつけつつ、ケーキにフォークを突き刺すのである。
 その結果は当然ながら、仏頂面→笑顔→仏頂面→笑顔→仏頂面……。
 ケーキがある限り半永久的に続く、分かりやす過ぎるその繰返しに、楊ゼンは声を殺したまま笑い続けた。
「っとに、おぬしというやつはむかつく男だのう。おぬしが追加しろと言ったくせに……」
「すみま…せん」
 謝罪の言葉さえも笑いに途切れる。
 最後の一口を飲み下して、太公望は楊ゼンを睨みつけた。
「おぬしのせいで、せっかくのケーキを充分に味わえなかったではないか」
 ボリュームこそ控えているものの、充分に険悪な声で年下の色男の無礼を咎める。
 だが、彼の癇癪(かんしゃく)に慣れっこの楊ゼンは、そんな程度のことには動じない。甘く微笑みかけながら、怒りを静めるのに効果的な台詞を紡ぎ出す。
「だから、すみませんって言ってるでしょう? じっくり味わいたいのなら、もう一つ追加して下さっても僕は構いませんよ。さすがにそれは気が引けるのなら、いっそのこと買って帰りますか?」
「………わしを糖尿病にする気か?」
「でも好きでしょう? この機会を逃したら、またしばらく食べられませんよ?」
「……………それも奢りだな?」
「もちろん」
「………分かった。ガトー・フロマージュとタルト・オ・ポムとガトー・クラシックで勘弁してやる」
「はいはい。僕より金持ちのくせに、全部奢らせようとするあなたの根性が大好きですよ」
「ケチでなければ金は溜まらんわ」
「一生豪勢に遊び暮らしたって使い切れないでしょうが、あなたの家の場合は」
「阿呆。あれはわしが稼いだ金ではないのだぞ。好きにしろと言われたって、使う気になぞなれるものか」
「……あなたって本当に貧乏性なところがありますよねぇ」
 揶揄するように笑った楊ゼンに、まだ仏頂面を崩さないまま、太公望はカップに残っていたダージリンティーを飲み干した。
 そして、カップをソーサーに戻し、満足げに一つ息をついた彼を見て、楊ゼンは自分のセカンドバッグを手にとる。
「じゃ、満足したところでそろそろ出ましょうか」
「うむ」
 今度は機嫌よく、太公望もうなずいて立ち上がった。








 黄昏が近付いた街は、人があふれている。
 雑踏の中を、二人は駅に向かってゆっくりとした歩調で歩いた。
 蒼みを増した空の下、目に映る世界もほのかに蒼く、黄昏色に染まっている。
 その風景は、どことなく水底の風景にも似ていて、魚のように二人は人ごみをすり抜けてゆく。
「──彼女はね…」
 歩きながら、ふと楊ゼンは独り言のように口を開いた。
 その代名詞が誰を指しているのか、すぐに気付いて、太公望は隣りを見上げる。
 楊ゼンはまっすぐに前を見つめたまま、続けた。
「本気になっちゃったんですよ、僕に」
「……遊びのはずだったのに?」
「ええ」
 楊ゼンはうなずく。
「ちょっと引き際を読み違えてしまって」
「……付き合い始めてから、どれくらいだ?」
「二週間ちょっとです」
「おぬしにしては長いな」
「ええ。……先週までは良かったんですよ。だから、その時点で退いておけば、傷つけずにすんだんですけど……」
 わずかに自嘲を込めた声で、楊ゼンは続けた。
「今朝、待ち合わせで彼女を一目見た瞬間、まずいと思ったんです」
「だから、映画を見る前に?」
「ええ。アクション映画やサスペンス映画ならともかく、あの内容だとまずいでしょう?」
「……そうだな。あのエンディングの後、別れを告げるのは酷かもしれん」
 ぎりぎりの所で己の使命を選んだ男は、死線を越えてぼろぼろになりながらも、最後は愛する妻のもとへ帰ってきた。
 男の選択を悲しみ、苦しみ続けながらも、愛し、信じ続けていてくれた女の元へ。
 女性の心理はいまいち分からないが、そんな映画に感動した後、本気になってしまった相手に別れを告げられるのは、きっと辛い。かなり気丈な女性でも、泣かずにはいられないのではないだろうか。
「それは分かったが……、しかし、何故あんな場所で?」
 見たばかりの映画を反芻しながら、太公望は気になっていたことを問いかける。
 別れのシーンは、休日の真昼間。高級デパートの一階エレベーターホール前。
 駅のコンコースほどではないにせよ、人目が多い場所だった。
 そんな場所を何故、彼が別れを告げるのに選んだのか分からない。
 だが、
「ああいう場所だからいいんですよ」
 楊ゼンは穏やかにそう返した。
「外見に自信がある人間は、必然的に人目を気にしますから。彼女、格好よかったでしょう?」
 言われて、太公望は昼過ぎに見た風景を思い返す。
 ───楊ゼンの頬を勢いよく平手打ちし、睨み上げた自分と同年代の女性。
 うっすらと涙のにじんだ瞳はきらきらと輝いていて、ハイヒールを鳴らして立ち去る後ろ姿は映画女優のように美しく、人々の目を奪った。
 居合わせた観客は、彼女の後ろ姿が見えなくなるまで見つめ、それからようやく残された男を振り返ったのだ。
 かすかな非難と疑問の色を込めて。
「……なるほどな。人目があれば取り乱すことはできぬ、か」
「相手にもよりけりですけどね。二人きりの場所で、優しく別れを告げた方がいい女性もいますから。ただ、彼女の場合は、あれが一番いいと思ったんです。別れ際に無様に取り乱すのって、後から振り返ると、ものすごく恥ずかしくて悔しいものですから」
「そうだな」
 うなずいて、太公望は納得する。
 これが、楊ゼンなりの相手に対する思いやりなのだろう、と。
 遊びだったはずがうっかり本気にさせてしまった女性に対する、せめてもの。
「でも、僕が引き際を間違えなければ、最初から傷つけずにすんだわけですし……。本当に、ちょっと今回はまずかったと思ってますよ」
「──たわけ」
「はい……って、それ、どこにかかってます?」
 呆れ返ったような太公望の口調に引っかかったのか、楊ゼンは隣りを歩く相手へと視線を向けた。
 それに対し、太公望は口調と同じく呆れ返った視線を向ける。
「おぬしの台詞全部」
「全部?」
「うむ」
 うなずいて、太公望は続けた。
「そもそもあの女性も、おぬしがまともに恋愛できる相手でないと分かっていて、遊びのつもりで声をかけたのだろう? ならば、おぬしに責任などあるまい。別に特別、彼女によくしてやったわけではないのだろう?」
「そりゃ、そういう期待させるような真似はしませんが……」
「ならば、火遊びの責任は、おぬしと彼女は同等だ。おぬしは彼女の性格を考えて、最後のシーンを演出してやった、それでもう充分だろう。己の行状を改める気がないのなら、これ以上無駄なことを考えるな」
 あっさりした太公望の言葉に、楊ゼンは微苦笑する。
「……それは分かってますよ」
 そして、黄昏の色合いが濃くなった街へとまなざしを戻す。
「でも、僕のミスはミスですから。先週、会った時に終わりにしておけば、彼女は泣かなくてもすんだんです。だから……」
「後味が悪いのは分かるが、それくらいにしておけ」
 溜息混じりに言いながら、太公望も前方の人ごみへと視線を向けた。
「おぬしがああいう別れ方を選ぶくらいプライドの高い女性だったのなら、そういう気遣いは返って彼女を侮辱する。おぬしなんぞに本気になってしまって、一番悔しいのは彼女だと思うぞ」
「──そうですね」
 微苦笑まじりの声で、楊ゼンはうなずく。
 そして、
「やっぱりいいな、あなたと話してると」
 一つ息をついてから、いつもの調子に戻って、そう言った。
「おぬしが余計な事を考えすぎるのだ。いらんところばかり、完璧主義で……」
「あなただってそうでしょう。普段はいい加減そうに見えて、やたらとプライドが高かったりするし、そのくせ本当にいい加減だったり……」
「おぬしに言われたくないわ」
「そっちこそ」
 憮然と返す太公望に、楊ゼンはくすくす笑う。
「──でも本当に今日、あなたと偶然会えて良かったですよ。でなければ、浮上するまであなたに会いに行けませんでしたから」
「───おぬし…」
 訝(いぶか)しげ、というより相手の魂胆を悟った目つきで、太公望はじとっと楊ゼンを見上げる。
 そんな予想を裏切ることなく、楊ゼンは艶やかな笑みを太公望に向けた。
「慰めて下さいよ。柄にもなく、ちょっと落ち込んでるんです」
「───…」
「今夜、僕の部屋に来てくれたら美味しいコーヒーを煎れてあげますよ」
 夜明けのコーヒーですけど、と続けられて。
 太公望は呆れきったまなざしで楊ゼンを見つめ、そして溜息をついた。
「ったく……おぬしは懲りるということを知らぬのか?」
 もし今日、昼間に偶然会うことがなくとも、付き合っていた相手と別れた今夜、彼がマンションへ押しかけてきただろうことは考えるまでもなかった。
 結果が同じなら、少しでも自分に得なように対応する方がまだマシだろう、と太公望は自分を納得させる。
「──晩飯と明日の分の食事」
「はい」
 即物的な代償の要求に、楊ゼンは笑顔でうなずいた。
「それ位いくらでも奢りますから、今夜は期待させて下さいね」
「たわけ。わしがおぬしに付き合ってやるんだぞ」
「慰めてくれるんじゃないんですか?」
「おぬしの不始末に付き合わされるわしの身になってみろ」
「……確かにそれもそうですね。じゃあ、僕がサービスしますよ」
「いらん」
 何を言おうと一言の元に切り捨てる太公望に、楊ゼンは小さく笑う。
 そして、右手に提げたケーキの箱入り紙袋をちらりと見下ろした。
「このまま食事に行きたいところですけど……ケーキがありますから、一旦、僕の部屋に帰りましょうか」
「──そうだな」
「夕飯はどこにします? まだ早いですから、多少なら遠出も出来ますけど」
「美味い純米大吟醸の飲めるとこ」
「となると……」
 頭の中で店をリストアップしている楊ゼンをちらりと見上げて。
 太公望は再び、前方に視線を戻す。

 好きかと聞かれれば嫌いではないと答えるしかない相手だが、けれど、突き放そうという気にはなれない。
 甘えているように見せかけて、実はそうではないことを知っているから。
 求めたくとも欲しいと叫べない──あるいは、何かを欲しいと叫ぶ方法を彼も自分も知らないことを知っているから。
 赤の他人よりもほんの少し近い距離のまま、立ち止まって迷うことも、これ以上近付くこともしない。

 おそらく自分たちは背中合わせで、同じ空を見ているのだろう。
 その空虚に透き通った青さを。
 流れる雲の白さを。
 自分たちの背に翼はなく、この地上から飛び立つ術はないことを、ぼんやりと考えながら見上げている。
 すぐ傍──指をほんの少し伸ばせば届く距離に、同じように空を見ている相手がいることを知りながら、決してそちらにはまなざしを向けずに。
 その感覚は、きっと言葉にはできない。
 言葉にしても、伝わらない。
 砂漠の夜のような、ただ『そこにいる』という寂寥に満ちた、しんと響く思いは。
 自分たちにしか、分からない。

「ちょっと遠くなりますけど、『酔人』はどうです? あそこの大吟醸、気に入ってたでしょう?」
「どこでも構わぬよ。どうせ金を出すのはおぬしだし」
「じゃ、決まりですね」
 うなずき合い、二人は駅へと雑踏の中を歩く。
 いつのまにか黄昏は深くなり、輝き出した街の灯りの向こう、細い月が蒼い空に白く浮かんでいた。






end.









「Only you」が好評をいただいたので、調子こいて書きました(^^ゞ
この二人、メチャクチャ書きやすくて好きなんですvv
今回は太公望視点で、“本物の女たらし”な楊ゼンを目指してみたのですが……いかがでしょうか? なんだか、ただのへっぽこになってしまったような気がしないでもないんですが・・・(ーー;)
やっぱり女を泣かせたら本物ではないと思うんですよ。いい思い出、というか、女にとって抱かれたことが勲章になるような男でないと。女を振り回し、傷つけて泣かせる女たらしは、ただの最低男だと思います
手厳しいことを言っている望ちゃんも、多分、その辺は分かってるんでしょうね^^
でも前回は18禁だったのに、今回はH無し。現在、5月新刊の18禁原稿書いてる最中なので、サイト小説まで情熱が回りませんでした(^^ゞ 本当はオマケで書く気でいたんですけど……。また機会があったら、ということですみません。m(_ _)m

本当に書いていて楽しかったので、また気が向いたら(というかネタを思いついたら)この二人を書きます。もし「こういうのが見たい」というのがあったら、リク下さいね。といっても、「二人が本当の恋人になる」ってのはムリですよ。そういう二人じゃないんで(笑)







BACK >>