Day and Night 2








 2. evning





「楊ゼン、鍋が沸騰したら味見」
「はいはい」
「味付けは一発で決めないと、何度も味見をしているうちに、味が分からなくなっているからな。早いところ勘を掴め。おぬしは口が肥えておるし、『美味い味』がどんなものかは分かるだろう?」
「そりゃ一応は……」

 並んでキッチンに立つのにも、もう随分と慣れた。
 とりあえず今日の楊ゼンの買い物の成果には合格点が与えられて、今は二人で夕食の準備の最中である。
 家族を亡くした後、伯父の家に引き取られていたという太公望は、家事も積極的に手伝っていたらしく、料理の腕前も相当なものだった。
 プロというレベルには程遠いにせよ、主婦としては十分すぎる手際のよさと味付け、盛り付けを披露してくれた時には、楊ゼンはかなり驚き、感心したものである。
 一方、楊ゼンはといえば、そこそこ裕福な家のお坊ちゃんだけあって、これまでコーヒーを入れる程度の事以外は、ほとんどしたことが無い。
 両親が海外赴任で不在の今も、食事は外食が殆ど、それ以外の家事は、週に二度来る家政婦任せだ。
 結果、太公望の家に転がり込んだその日から、太公望による料理教室が日々、開講されることになった。

 伝授されるのは、料理ばかりではない。
 掃除から洗濯からアイロン掛けから、現在、楊ゼンは徹底的に家事を仕込まれている最中である。
 『働かざるもの食うべからず。家事をしないのなら出て行け』という太公望の脅し文句と勢いに流されてのことだが、これまでにやったことがない分、始めてみると、それなりに新鮮で面白い。
 加えて太公望は教え上手で、努力した上での失敗は咎めないし、手際よく課題をこなせば褒め言葉も笑顔も惜しまない。
 上手く相手の手管に載せられているような気がしつつも、そんなこんなで、ついつい楊ゼンも家事習得に励むこととなり、その腕前や要領も日々上達しつつあった。

「……少し甘味が足りない、かな?」
「ふむ。……そうだな、こういう時は何を加える?」
 甘味を足す調味料は数多くある。
 当たり前の上白糖、あっさりめのグラニュー糖、こくのある三温糖、蜂蜜、味醂、日本酒、洋風の煮込みなら野菜ジュース、果汁……。
 このキッチンに揃っているものだけでも、数えればキリがない。
 しかし、今夜は和食で、しかも楊ゼンの前にある鍋の中身は典型的な惣菜、ヒジキの煮物だ。
「味醂を、ほんの少し」
「正解」
 楊ゼンの回答に、太公望が笑む。
 その瞳のきらめきに見惚れながらも、楊ゼンは調味料の入った瓶を手に取った。
 妙な所でこだわる太公望が常備しているのは、老舗メーカーの特上品(三年熟成)であり、それは味醂ばかりに限らない。そして、ここは日本料理屋かと言いたくなるような品揃えの調味料の風味は、見事なまでに値段に比例していた。
「うむ、いいのう」
「醤油や味醂なんかの発酵調味料は、煮立てると刻々と味が丸くなって変わっていくから控えめに、でしょう?」
「その通り」
 弟子の飲み込みがいいのが気分良いのだろう。
 太公望は機嫌よく、楊ゼンが今日、買ってきたばかりのアジを焼き網の上で引っくり返し、茄子の揚げ浸しを見栄えよく皿に盛り付ける。
 その横顔をこっそり見つめてから、楊ゼンは鍋の中身を手際よく返して、コンロの火を止めた。




 この家での生活にも、もう随分慣れた。
 最初の頃は勿論、色々と戸惑いはあった。
 楊ゼンの両親は健在だが、昔からひどく忙しい人たちで、揃って家のダイニングで食事をした記憶など、子供の頃から年に数えるほどしかない。
 それどこか、「おはよう」だの「いってきます」だのの挨拶さえも、家族相手にはロクに言う機会もなかったくらいなのである。
 にもかかわらず、いきなり他人と家族同然に一つ屋根の下で暮らし始めたのだ。困惑しなければ嘘に違いない。
 ただ、楊ゼンにとっては非常にありがたいことに、太公望の家は二人で暮らすには十分過ぎるほどに広かったし、家主である太公望自身も、同居人──それが恋人であっても──に対し、あれやこれや口出しするような人間ではなかった。
 マンションに荷物を取りに帰って戻ってきた途端、家事をしろと言われたのには面食らったが、考えてみれば、この家には家政婦などいないのだから自分たちだけでどうにかするのが当たり前だ。
 それに、恋人に指図され、教えてもらいながら一緒にキッチンに立ったりアイロンかけをしたりするのは、中身がおさんどんでも、不思議なくらいに楽しかったりするのである。

 一人の生活に不満を感じたことはなかったが、好きになった人と二人で暮らす楽しさは、一人の気楽さを補って余りある。
 その日あった他愛ない出来事を、食事の後片付けをしながら語り合ったり、一緒にテレビを見ながら、あれこれコメントを言い合ったり、平凡に過ぎるような日常ではあるけれど、どれもこれも一人きりでは味わえない温かさが隣り合っていて。
 そんな日々の中で時々起こる、ささやかな口喧嘩でさえも、楊ゼンにとっては日常生活の必需品に思えるのだ。
 廊下の長さに戸惑ったり、これまでは左側にあった洗面所のタオルかけが右側だったり、ささやかな違和感は数え上げればきりがない。
 でも、すべてが太公望の生活の一部であると思えば、奇妙にくすぐったく、日々それらに慣れていく自分が楊ゼンは面白かった。




「じゃ、行ってくる」
「ええ。気が向いたら、僕も後で行きますけど」
「うむ」
 学校から帰ってきて、二人で夕食の準備と片付けをしていれば、あっという間に時間は過ぎて、太公望の出勤時刻となる。
 深夜のアルバイト先は、オーナーの道楽の賜物でしかない小さなバーで、営業時間も結構いい加減なものだから、太公望が家を出る時間も結構適当だった。
 無断欠勤こそしないものの、出勤時の時計の針には前後三十分以上の誤差が毎日ある。
 学校には絶対に遅刻しようとしないくせに、アルバイトに関しては素に近い気まぐれを発揮する太公望が、楊ゼンとしてはひどく面白かった。

 薄い耳朶に、シンプルな金のイヤーカフスを着けた太公望は、バーテンの制服に着替えていなくとも既に夜の匂いを漂わせている。
 昼間の制服姿の時とも、一緒に夕食を作っていた時のラフさとも異なる瞳の色に楊ゼンは目を細めて、その腰に腕を回して引き寄せる。
 と、太公望は抗うことなく楊ゼンの肩に片手を置いて、キスに応えた。
「浮気、しないで下さいよ」
「んー。それはどうかのう」
 唇を離しながらささやいたさりげない楊ゼンの言葉に、太公望は思わせぶりに首をかしげる。
 無論、それを楊ゼンが受け流すはずはなくて。
「あれ。僕よりいい男がいるとでも?」
 片方の眉を吊り上げて見せる。
 すると、太公望は艶めかした光を瞳に浮かべて、いたずらに笑んだ。
「ちょっとな。昨夜、隣りのビルの前で会った男が、なかなかの美形だった」
「へえ。……で、名前は?」
「知りたいか?」
「もちろん」
 ゆっくりと唇を離した後、互いの背に腕を回したまま玄関先で交わす言葉は、互いに笑み交じりで甘く響く。
「恋敵のことは、きちんとチェックしておかないと」
 耳にきらめくイヤーカフスを指先でもてあそびながらの楊ゼンの言葉に、太公望は、ふふと笑った。
 それから、まるで内緒話をするかのように、恋人の耳元にそっとささやきこむ。
「トラ、だよ」
「……今度は猫ですか」
「うむ。茶トラの美形だ」
「なかなか手強そうですね、それは」
「手強いぞ。ふわふわの毛皮の分、あっちの方が有利だろうな」
「困りましたね。付け耳でもしてみましょうか?」
「猫耳より犬耳の方が、おぬしには似合うと思うが」
「狼でどうです?」
「わしがか弱い赤頭巾ちゃんだと思ったら、大間違いだぞ?」
「分かってますよ。僕もマヌケな狼じゃないですから」
「そうか?」
「ええ。今夜、あなたが帰ってきたら証明してあげます」
「それは……楽しみだ、と言うべきかのう」
「ええ」
 言葉遊びのような戯言に、どちらともなく小さく笑み、そしてもう一度軽いキスをして、太公望は楊ゼンから離れた。
「いってくる」
「いってらっしゃい」
 見送る楊ゼンの言葉を背に受けて、太公望は出てゆく。
 ドアが閉まるまで足音が遠ざかるのを聞いて、楊ゼンは、さて、と息をついた。

 太公望が出かけても、やることは色々ある。
 これまでは、太公望がバイトに出かける前に洗濯機をセットし、帰宅してから干していた洗濯も、今は楊ゼンの仕事だ。
 洗濯機が動いている間に、取り込んだ洗濯物を畳み、シャツとハンカチにアイロンをかけているだけで、気がついたら時間が過ぎている。
「……あの人が僕に家事を仕込むのって、半分以上は自分が楽したいからなんだろうな」
 半月以上、一緒に暮らしているのだ。彼の性格も魂胆も、もう見え透いている。
 けれど、それが不快でないという辺り、かなり自分は恋人に参っているのだろうと楊ゼンは思う。
「ま、仕方ないな。実際に楽しいんだし」
 諦めというには、零れた言葉はひどく楽しげで。
 そんな自分に楊ゼンは苦笑した。















ものすごいバカップルですね・・・・。
もはやノーコメント。





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