Midnight Escape
最初は、ただの見間違いだと思った。
雰囲気は似ても似つかない──ただ、背格好だけが似ているかと。
いい加減うっとうしい、真夜中でも引かないアスファルトの熱が、一瞬、幻を造って見せたのだと、そう思って。
通り過ぎた。
* *
(似ているような気はするんだけど。)
頬杖を突いたまま、楊ゼンは窓の下の校庭を眺める。
夏の窓際の席など、暑いばかりでロクなことはないと思っているが、こうして多少なりとも風景を眺め、退屈を紛らわせることができるのは、考えようによっては悪くない。
これが三階なら、三メートルばかり高い分、もう少し遠くまで見渡せて、もう少し気も紛れるのだろうが、いかんせん、いまだ二年生の身では二階の教室に甘んじるしかない。
それでも、見えるのは一棟と体育館だけ、という一年時の教室に比べれば、はるかにマシに違いなかった。
梅雨の合間の晴天は、どこまでも蒸し暑くて鬱陶しい。
まるで蒸篭(せいろ)蒸しにされているようだと思いながら、物理の授業をぼんやりと聞き流す。
期末試験直前の現在、本当なら生徒は授業に集中すべきであり、教師も集中していない生徒を咎めるべきなのだろうが、それが入学以来、学年首席を他者に譲ったことがない生徒であれば、彼が授業中に何をしていようと大抵の場合は、見て見ぬ振りをされる。
そんな教師の怠惰をよく知っている楊ゼンは、かなり堂々と授業中によそ見をしていた。
「──やっぱり、似てるかな」
誰にも聞こえない程度の声で、小さく一人ごちる。
先程から目で追っているのは、三年生の体育の授業風景だ。
進学校であるこの高校の授業はちょっと変わっていて、三年になると体育の授業内容は選択性になる。女子も男子も、バレーボール、バスケットボール、サッカー、ソフトテニス、卓球の中から前期後期に分けて、それぞれ好きな種目を選ぶのだ。
つまりは、週二時間の体育が受験勉強の息抜き的なレクリエーションの時間になるのだが、冬のマラソンがないのは喜ぶべきこととしても、この暑いのに水泳がないというのは、多少、悲しむべきことかもしれない。
いずれにせよ、梅雨の晴れ間の水蒸気に煙った空の下、本来なら受験で引きつっているはずの三年生が、ピチピチと無邪気に跳ね回っている。
その中で、ソフトテニスをやっている一団へと楊ゼンは視線を向けていた。
中には元テニス部だった者もいるのだろうが、なにせ、たとえばサッカー部が「俺たちは野球が得意だ」と豪語しているような、基本的に部活は楽しむべきものという風潮の強いこの学校には、上手いと言えるほどの選手はいないはずだ。
いかにもレクリエーションらしい、まるで温泉卓球のような雰囲気で、まともに続かないラリーに彼らは笑い転げている。
たとえテニスの腕前が並以下であろうと、一般入試を選ぶのであれば、受験には関係ない。まるでただの悪ガキのように見える彼らも、ひとたび模試を受ければ、全国でもトップクラスに名を連ねる優秀な生徒であるのが奇妙といえば奇妙な感じだった。
(僕も人のことは言えないけどね……)
心の中で呟きつつ、楊ゼンは気だるげな表情のまま、校庭の西側にあるテニスコートを見下ろす。
ソフトテニスをやっている男子生徒は十五人ほど。
それぞれが好きにパートナーを組んでラリーをやっているように見える。が、しばらく見ていると、実はそうではないことが分かる。
順番に三面あるコートを使いまわし、ついでにパートナーも交換してゆく。そんな流れがあるのだ。
そして、その中心にいるのは、いつでも一人の生徒だった。
平均身長にはやや足りないくらいに小柄だが、よく透る声をしていて、何を言っているかまでは聞き取れなくとも、二階の教室の窓際まで、何かを指示しているらしい高くもなく低くもない声や、はじけるような笑い声が届いてくる。
水蒸気にかすんだ、白っぽい青空の下で、彼は真夏の日差しのように光っている──。
「やっぱり違う、よな」
軽く眉をしかめて、遠目に見つめながら楊ゼンは再び小さく呟いた。
* *
夜の街は、何故か好きだった。
昼間はうっとうしいだけ、うるさいだけの都会が、夜になると途端に妖しく変貌する。
国籍さえも見失ったネオンと闇の洪水の中を、誰とつるむこともなく一人で泳ぐのは、どこか危うくて気分がいい。
一番騒がしい通りから一本外れ、どこかの雑居ビルに背をあずけて煙草に火をつけ、ひとつ息をつく。
───その時。
視界をかすめたものを、反射的に目で追う。
黒いシャツに、スリムジーンズ。
細身でやや小柄なシルエットは、どこか背筋が凛としていて、この不夜城のような夜の街に鮮やかに浮かび上がっている。
だからといって、周囲から浮いているわけではない。
あくまでも夜の匂いをまとわりつかせているその後姿は、きらびやかで下品なネオンよりも、ただ鮮やかなだけだ。
「────」
咄嗟に楊ゼンは、手にしていた煙草を足元に落とし、赤い火を踏み消して歩き出した。
ほんの三メートルほどの距離──しかし、ここでは見失うのには十分なほどの距離を開けて、けれど見失うことなど考えられない背中を追う。
片方は知らないまま追跡劇が続いたのは、たった五分ほど。
薄汚れた雑居ビルの地下に下りる階段へと、その姿は吸い込まれてゆく。
楊ゼンもまた、夜の影のような人間たちの間をすり抜け、その雑居ビルの前に立つ。
ざっと見たところ、入居している店舗は雀荘やランジェリーパブなど、この街には腐るほどにある下らないものばかりだ。
その中で、地下に入居している店はどれなのか、辺りの看板に視線を走らせて、楊ゼンは自分の直ぐ側にある立て看板に気付いた。
「BAR……窖ANAGRA?」
一体どういうネーミングセンスなのかと思いながら、黒い看板にくすんだ金色の古風な書体で書かれた店名を読み上げる。
そして、しばしの間、そこに立ち尽くして考えた。
「──入っていったのなら、いずれ出てくるだろうな」
たとえばここが何かの基地で、どこかに秘密の抜け穴でもない限り、入っていなかった人間が出てこなければ、それは犯罪が行われたことになる。
「とりあえず、待ってみるか」
今夜も予定が何かあるわけではないし、家で帰りを待っている家族もいない。
明後日から期末試験だったが、そんなものは楊ゼンの中では、ただの年中行事以下の意味しか持ってはいない。
つまり身を縛るものは何も……高校生が出歩いていたら補導される時間帯だという観念さえ楊ゼンの中にはないのだ。
それゆえに、出した結論もこれ以上ないというくらいに安易なものだった。
狭い通りの反対側、人ごみの向こうに問題のビルの入り口が見える位置で、楊ゼンは煙草を浪費しながら、声をかけてくる女たちを適当にあしらいつつ時間をつぶす。
女性は嫌いではなかったが、だからといって、こんな場所で手当たり次第に目に付いた男を食い散らかす女と遊びたいとはあまり思わない。
だから毎晩、夜の街で何をしているのかといえば、こうしてただ煙草に火をつけつつ、ヘドロのような泥水ときらきら光るガラス玉を無秩序にかき回したような風景を見ていることが殆どだ。
人目を引く外見のせいで、たまには因縁をつけられることもあるが、それに対しては、相手の風体を見て、ちょっと灸を据えてみたり、逆に何にも興味がないようにその場を離れたりして、適当にやり過ごしている。
意味もなく目的もない──。
そんな夜の街にたちこめる濃密な空虚を、楊ゼンは楽しんでいた。
そろそろ二時を回ったか、と楊ゼンは己の体内時計に首をかしげる。
時計も携帯電話も持たない主義だが、感覚で案外、時間というのは正確に測れるものだ。都会の空に星はないが、夜であってもそうそう大きく勘を外したことはない。
泥水とガラス玉でできた万華鏡のような風景に、今更飽きるということはなかったが、しかしそれでも一箇所にじっとしていれば、少々の退屈はしてくる。
もう三十分ばかり待って出てこなかったらビルに入っていってみようか、それとも他の出入り口でもあって、そっちから出て行ったのかと考えながら、手にしていた煙草の灰を軽く落とした時。
ようやく、熱くよどんだ夜の空気が、そこで不意に小さな渦を作った。
───流れる。
───引き寄せられて、渦を巻いて。
───たゆたう。
階段を上がってきて、ふと息をつくように通りに視線を走らせて、歩き出す。
そのまなざしも、一瞬、耳元できらめいたピアスも、すべては夜のもの。
けれど。
「間違いない……」
呟きは、半ば呆然と零れ落ちて。
吸い寄せられるように、しかしその場に立ち尽くしたまま、黒いシャツの背中を見送る。
ネオンと人ごみの中にそれが消えるまで、火がついたままのタバコのことも忘れていた楊ゼンは、あやうく指を焦がしかけて我に返った。
「っと、危ないな」
慌てて指を緩め、アスファルトに落ちた煙草を靴底で踏みにじったその口元には、小さく笑みが浮かんでいた。
* *
「さて、と」
楊ゼン昨夜と同じ場所に立って、一つ溜息をついたのは、またもや昨夜と同じ迷いに囚われていたからだった。
いわく、
───本当に彼か?
と。
有名進学校とはいえ、一筋縄ではいかないふざけた性格の連中が多いことくらい、楊ゼンはよく知っている。なにしろ、自分自身が筆頭だ。
この濃密な不夜城で、同じ学校のやつを見つけたからといって別に驚くほど純情ではない。
けれど、あまりにも違いすぎるのだ。
たとえば、楊ゼン自身、学校にいる時とこうして夜の街に立っている時と、表情や雰囲気は、おそらく大差ないだろうと思う。級友が見れば、一目で分かるに違いない。
だが、ちょっと前にこの街で見つけた存在は、背格好や髪型だけ見れば、確かに学校内で見かける人間によく似ているのだが、雰囲気がまるで異なっている。
学校内で見かける彼が、眩しく輝く夏空だとしたら、この街で見かける彼は、まるっきり濃密できらびやかな都会の夜だ。
だから、初めてここで彼を見かけた時から、かれこれ一ヶ月あまりもの間、まさかと思いつつも確信は持てずにいたのだ。
そして昨夜、ようやくほぼ正面の位置から彼の顔立ちを確かめ、一瞬は、間違いなく同一人物だと思った。
しかし、今日の昼間、学校の廊下で彼とすれ違った時、また分からなくなってしまったのである。
白い開襟シャツを型通りに着こなした彼は、屈託のない明るい表情で友人としゃべりながら、通り過ぎてゆき、その耳にはピアスもなく。
同じ顔でも、まるっきり別人だった。
(実は双子だとか、他人の空似とか。)
午後の授業を目一杯使って、思いつく限りの可能性を考えてみたが、しかしこれぞというものは考え付かず、結局夜になってしまったのだ。
「ま、ここまで来たら直接確かめた方が早いな」
同一人物であれば、面白いと思うし、別人ならそれはそれで面白い。
あっさりと結論付けて、楊ゼンは薄汚れて狭いビルの階段を下りる。
酔っ払いなら間違いなく転げ落ちるのではないかと思えるような急な階段を下りていくと、最下段の狭い空間の目の前に一枚の黒いドアがあった。
ちょうど目の高さの小さなプレートには、看板と同じくすんだ金色での店の名前が刻まれている。
ビル自体がかなり縦に細長く、立地面積が少ないから、他に地下に店はない。
間違いないと、楊ゼンはそのドアをためらうことなく押し開けた。
「────」
一歩踏み込んだ途端、都会の夜の蒸し暑さに慣れた体がひんやりと涼しい空気に包まれる。
こんなボロビルなのに、随分いいエアコンを入れているものだと半分驚き半分呆れながら、奥に進むと、そこに開けたのは小さな空間だった。
あまり高くない天井に、下手したら外よりも暗い、カウンターを中心にした控えめな照明。
都会のど真ん中の地下室だというのに、息苦しさも嫌な匂いもない冷えた空気。
カウンターとテーブルを合わせて、二十人も入れば満席の狭い店内。
流れているのは、ノスタルジックなオールディズ。
「確かに窖ANAGURAだな・・・・・」
誰にも聞こえない程度の声で呟きながらも、楊ゼンは目ざとくカウンター内にいる人物を発見していた。
迷うことなく、カウンターの右から二つ目の席へと向かう。
「いらっしゃいませ」
高いスツールに腰掛けた楊ゼンに、彼はごく淡い、この店にふさわしい控えめかつ冷静な微笑を見せた。
「何になさいますか」
「バーボン。ダブルで」
「承知いたしました」
そのままカウンターに片腕を乗せて、楊ゼンはゴブレットに濃琥珀色のアルコールを注ぐ彼を見つめる。
プレスの効いた白いドレスシャツに、よく見れば同色の織模様(ジャカード)が洒落た、黒に近い濃いセピアのシルクらしいベスト。
前髪は半分上げて、サイドの髪も軽く後ろに流し、カウンターの真上にある照明に控えめに光るのは、金色のイヤーカフス。
「どうぞ」
音を立てることなく置かれたゴブレットを手に取り、一口その味わいを楽しむ。
それから、楊ゼンは改めて目の前の相手を見つめた。
「──それはピアスではなくて、カフスですか」
「そうですよ」
突然の問いに惑うこともなく、彼は微笑する。
昼間の彼とはまるで違う、正反対の静かでいて底の知れない微笑に、楊ゼンは無性に嬉しさを感じる。
ここにいるのは、間違いなく自分と同じ穴のムジナだった。
口元に笑みをにじませた時、カウンターの奥へと続くドアが開き、初めて見る相手が顔を出す。
「新しいお客様かい?」
「ああ。だが、わし一人で十分だから」
「そう? じゃ奥にいるよ。どうぞごゆっくり」
最後の一言は楊ゼンに向けて、その青年は笑みを見せ、再びドアの向こうに引っ込む。
その穏やかそうに見えて得体の知れない笑顔や雰囲気が、どこか目の前の相手に似ているような気がして、楊ゼンは素直に問いかけた。
「ご兄弟ですか?」
「いいえ。赤の他人ですよ」
「そうですか。似ていらっしゃるように見えたんですが」
楊ゼンの言葉に、相手は洗ったグラスを拭きながら、小さく笑う。
とりあえず、気分は悪くしていないようだ、とその表情を見ながら楊ゼンは考えた。
こうして店内に入ってきた以上、後をつけたことは彼も分かっているはずである。
もちろん、これまで言葉をかわしたことがないとはいえ、彼が廊下で時々すれ違うこの顔を記憶していないとも思えない。
けれど、だからといって表情を変えることもなく、彼は淡々と客として遇してくれる。
下手に騒がれて、他の客に現役の高校生という素性がバレるのは避けたいという気持ちもあるのだろうが、しかし、強い拒否や嫌悪が見えないのは、楊ゼンには嬉しかった。
「初めてここには来たんですけど……いい感じの店ですね」
「ありがとうございます。すべてマスターの道楽が嵩じたものなんですが」
「マスターというと、さっきの方ですか?」
「ええ。この店のオーナーも兼ねてる人間です」
「では、あなたは……」
「ただの雇われバーテンですよ」
目の前の彼の、静かな微笑は揺らがない。
マスターとはどういう知り合いなのかとか、生徒会長をも務める三年の学年首席が、期末試験の真っ最中に何故こんなところで雇われバーテンをしているのかとか、気になることはいくらでもあったが、けれど、楊ゼンはまともに言葉を交わせたことだけで満足する。
おそらく他の学校関係者の誰もが知らない、夜の彼がここにいる。
それだけで十分だった。
ブルーノートばかりをセレクトしたオールディズの名曲を低く聞きながら、バーボンをもう一杯頼み、それを干して。
楊ゼンは立ち上がる。
「美味しかったですよ。また来ます」
「ありがとうございます。お待ちしてますよ」
彼の微笑は最後まで変わらない。
相変わらず、濃密な夜の気配を漂わせていて。
そして、この夜から楊ゼンは、この知る人ぞ知るバーの常連になった。
* *
学校の彼は、相変わらずだった。
別人かと思うほど明朗快活な優等生ぶりで、たまに楊ゼンと廊下ですれ違っても視線さえ合わせない。
先日発表された期末試験の順位も、後続を余裕で引き離して、全科目満点に近い成績で首席だったらしいし(それは楊ゼンも同じだが)、近頃は夏休み明けに行われる学校祭の準備のために、いつでも忙しそうに、けれど楽しそうに大勢の生徒たちに取り巻かれている。
そのどこにも、きらびやかで濃密な夜の匂いなどない。
随分な違いだな、と楊ゼンはその後姿を見て、溜息をつく。
たとえば、同じく学年首席であっても、楊ゼンが夜の街でふらふらしているという噂が立った場合、おそらく大抵の生徒が噂を真実と思うだろうが、彼の場合なら、そもそも噂自体が流れないに違いない。
あまりにも似合わなさすぎるからだ。
そんな見るからに健全で人望のある彼が、何故、毎晩あんな所にいるのか。
夜のカウンター越しにぽつりぽつりと会話も交わすようになっているのだが、それについては、未だに聞けずにいた。
「楊ゼン」
ボロビルの階段を下りようと近付いたところで、不意に横合いから声がかかる。
見れば、そこに彼がいた。
いつもと同じバーテンの制服で、薄汚れた壁に寄りかかり煙草を手にしたその姿は、やはり蒸すような夜の熱気の中で、鮮やかに浮かび上がっている。
まるで、夜の只中に煌めく羽根を広げた蝶のような目を惹きつける輝きに、楊ゼンは思わず見惚れながらも彼に歩み寄った。
「どうしたんです」
「休憩中だ。どうせ、今夜もわし目当てで来ておるのだろう。それなら少し付き合ってゆけ」
悪戯めいた笑みを見せながらそう言い、彼は煙草を一口吸う。
「──煙草も吸うんですか」
「うむ。何でもやるぞ。酒でも煙草でも」
「はあ」
悪びれない返答に少々呆れながらも、楊ゼンも自分の煙草を取り出し、火をつける。
「そういえば、初めてですね」
「何が」
「僕の名前を呼んでくれたのが」
「──ああ、そうだな」
「その喋り方も」
「そりゃな。店の中は店の中、外は外だ」
当たり前と言いたげな口調に、楊ゼンはしかし、まだ少しだけ戸惑う。
これまでの夜の彼とは違う、また別の彼が今、目の前にいる。
カウンターの向こうの底の知れない静かな笑みではなく、学校での彼ともまた少し違う、ふてぶてしささえ感じさせるような、油断のならない笑みを含んだ瞳。
まるで、夜の街をしなやかにすりぬける獣のようだと思った。
「でも、意外だなぁ」
「何がだ」
「どうして僕を遠ざけようとしないんです? 同じ学校の人間ですよ?」
その問いに、彼はふん、と鼻を鳴らした。
「おぬしこそ、だ。自分から近付いておきながら、今更何を言う」
「それはそうですけど」
つまりこれは、信用されているというか、同じ穴のムジナだと彼も感じていてくれるのだろうかと思いながら、楊ゼンは頭一つ近く低い相手を見つめる。
「でも、疲れないんですか。バイトは毎晩でしょう?」
「授業中に眠くなったら、保健室に行くだけだよ」
「──そういえば、あなたって時々、体育の授業を休んでますよね」
「何だ、見ておったのか」
悪びれもせずに、彼は楊ゼンを見返す。
「何故か、体があまり丈夫ではないことになっておってな。その気になれば、保健室のベッドで半日くらい寝ていられる」
「……信じられない」
にっと笑った彼に、楊ゼンは思わず溜息をついた。
「学年首席の生徒会長の正体が、これですか」
「おぬしは見かけ通りだがのう」
新しい煙草に火をつけながら、彼は笑う。
「あれはな、ゲームだよ。明朗快活な優等生をやるのも面白い。美味いカクテルを作る得体の知れない雇われバーテンをやるのも同じだ」
「ゲーム、ですか」
「そうだ。周囲を騙しているつもりはない。わし自身が、色々な自分をやることを面白がっておるのだよ。どの太公望も全部、わしであって本物だ」
「……自分の人生を楽しんでいるだけ?」
「そう。標準制服を着こなすのも嫌いではないし、洒落たバーテンの格好も嫌いではない。一つの自分だけしか持たないのは、つまらんよ」
笑った彼に、自分はどうだろうかと楊ゼンは考える。
「じゃあ、僕はつまらない奴ですか」
「かもな」
ふふ、と煙草片手に彼は笑う。
「成績は良くても、いかにもふてぶてしくて遊び人に見えて、やっぱり夜はこんな場所にいる」
「……」
「だが、この街で夜の間中、ずっと一人でいることも、自分を保ち続けることも、そう簡単にできることではないと、わしは思うがのう」
ふてくされかけた自分に続けてかけられた言葉に、楊ゼンは思わずまばたきをした。
「……それは、誉め言葉だと思っていいんですか?」
「さあ?」
笑いながら、彼は煙草をアスファルトに落として、革靴の爪先で軽く踏み消す。
「そろそろ休憩は終わりだ。おぬしも酒を飲みに来たのだろう?」
火の消えた吸殻を拾い上げてから入り口から回れと指で階段を示し、自分はさっさとビルの通用口へと歩いてゆく。
「……勝手な人だな」
呟きつつも、口元に小さく笑みが浮かんでくるのを楊ゼンは止めることができなかった。
「楊ゼン君はカクテルは飲まないのかい?」
すっかり顔なじみになったマスターが、笑顔で問いかけてくるのに楊ゼンは小さく首をかしげた。
道楽でこの店を経営しているらしい彼は、年の頃は多く見積もっても、せいぜい三十歳半ばというところだろう。
優しげに整った顔立ちで、屈託のない口調と合わせて一見かなり能天気そうに見えるが、有名進学校の生徒会長をアルバイトに雇い、同じく有名進学校の学年首席を常連客として平然としているあたり、相当得体の知れない人物のようだった。
「そうですね。あまり飲んだ経験はありませんね」
「勿体ない。酒はストレート以外でも色々な楽しみ方もあるんだよ。バーボンをベースにしたカクテルも多いし。一度試してみたら?」
言いながら、マスターは傍らのバーテンに手振りで指示する。
こちらの言い分を聞かないその態度に微苦笑しつつも、彼はうなずいて、ウイスキーのボトルと幾種類家の材料を手元に寄せ、ミキシンググラスに手際よく注いでゆく。
ほんの二、三分で楊ゼンの手元に出されたのは、琥珀色の液体を注ぎ、底に赤いマラスキーノ・チェリーを沈めたカクテルグラスだった。
「これは?」
「ブルックリン。とりあえず、飲んでみなよ。この子の作るカクテルは美味しいから」
勘が良いんだよねぇと笑う声を聞きながら、言われるままに華奢なクリスタルのグラスを口元に運ぶ。
と、芳醇なウィスキーの香りと、おそらくドライ・ベルモットのほのかな香りが抜けてゆき、後に心地好い苦味が残る。
「へえ……」
「ね、いけるだろう?」
マスターの笑顔が理解できるくらいに、確かにそのカクテルは美味だった。
「名前の通りに、ニューヨークのブルックリン、つまり下町をイメージしたカクテルでね。この店の雰囲気に合ってると思わないかい」
マスターが薀蓄を傾ける店内は、既に閉店時間も近付いて他の客はいない。
それを良しとしたらしく、マスターは楊ゼンに、苦いのは平気なんだよねと確認した後、彼に次はあれを出してみたら、と勧める。
うなずいた彼が、バーボンとドライ・ベルモット、カンパリを同量ずつ、手早くシェーカーでシェイクし、新しいグラスに注いで楊ゼンの前に置いた。
「これはね、オールド・パル。本当はカナディアンウィスキーで作るんだけど、バーボンでも悪くない。カンパリの苦味が利いて、辛党にはたまらないよ」
言いながら、マスター自身は他のカクテルをシェイクし、淡いオレンジの液体を注いだグラスを彼の方に押しやる。
「それは?」
「エンジェル・フェイスのオリジナル版。本当ならドライ・ジンをベースにするんだが……」
微苦笑を滲ませて答えたのは、彼の方だった。
「この子はウォッカの方が好きだって言うからね。ついでに、アプリコットブランデーも少し多めにしてあるんだ」
「へえ」
「味見してみるか?」
「いいんですか?」
「ああ」
こちらにグラスを置いた、彼の指の綺麗さに一瞬目を奪われながらも、楊ゼンはグラスを傾ける。
「どうだ?」
「甘いのは甘いんですけど……ウォッカのせいか、しつこくはないですね。フルーツの香りが効いていて……。アプリコットと、アップル、かな」
「ご名答。カルバドスだ」
彼は笑って、グラスを取り返し一口で半分ほどを飲み干す。
そして、マスターの方に向かって、片目をつぶって見せた。
「今度はカルバドスの代わりにグランマニエ少々でどうだ」
「はいはい、アプリコットとオレンジの組み合わせだね。考えておくよ」
うなずいたマスターに満足したのか、手にしたグラスを最後まで傾けてから、彼は楊ゼンの方に悪戯っぽい視線を向ける。
「気をつけぬと、おぬしも新しいカクテルの実験台にされるぞ」
「そうなんですか?」
「何言ってるんだい。そもそも君が甘いのしか飲みたがらないのが悪いんだよ。辛口のカクテル創っても、まともな評価をしてくれないじゃないか。甘くないとか苦いとか……そういうカクテルを創ってるんだから、当たり前なのにさ」
気分を害した様子もなく、まだ十分に若いマスターは肩をすくめてそう言い、楊ゼンに向かって笑いかけた。
「そういうわけだから、協力してくれると嬉しいんだけどね。もちろん、その分のお代はタダだから」
「僕の実年齢はご存知だと思いますけど、いいんですか?」
「全然構わないよ。君、お酒には強そうだし、舌も肥えていそうだしね。それだけで十分」
本当にそれで良いのかと思いつつも、楊ゼンはうなずく。
「じゃあ、いいですよ」
「ありがとう、助かるよ」
嬉しそうに笑って、マスターは彼の方を振り向く。
「今夜ほど、君を雇って良かったと思ったことはないよ、太公望。おかげでこんな良い鯛が釣れた」
「わしはエビかい」
二人の軽口に苦笑しながらも、楊ゼンは手元の自分のグラスを干す。
これまでまともにカクテルを口にしたことはなかったが、確かに美味だった。
美味い酒と、目の前にいる人との時間を共有できるというのなら、確かにこれ以上のことはない、と思う。
「じゃあ、いつでも構わないから、実験台になってもいい時は遅めにおいでよ。他の客が帰ってから、いくらでも飲ませてあげるから」
「アルコール依存症にされぬ程度に頑張るのだな、楊ゼン」
そう言って笑う人の悪戯っぽい光を浮かべた瞳が、一瞬、引き込まれそうなほどに綺麗で。
もしかしたら、うまい具合に酔わされたのかと考えながらも、楊ゼンは笑ってうなずいた。
そして結局、看板まで居座り、今、まだ暗いままの夜の街を彼と並んで歩いている。
バーテンの制服は脱ぎ捨て、きっちりと整えていた髪も軽く崩して、黒のシャツとスリムジーンズに身を包んだ彼の耳元には、まだ金色のカフスだけがネオンを反射して煌めいていた。
「──一つだけ、聞き忘れていたんですけど」
「うん?」
「どうして、あんな所でバイトをしてるんですか?」
「ああ」
うなずきながら、彼は足を止めて、道端の自動販売機で烏龍茶を二本買う。そして、一本を楊ゼンに投げた。
突然のことに驚きはしたものの、立て続けにアルコールを口にして、少々のどが渇いていたのは事実だったから、ありがたく礼を言って受け取る。
「おぬしは何故、この街に来る?」
「何故って……」
尋ねたはずが尋ね返され、楊ゼンは質問したのはこちらなのにと思いながらも、適切な言葉を探す。
「まぁ……この街が好きだからでしょうね。夜の空気の中をふらふらしているのが、何かいいんですよ」
「わしも一緒だよ」
「あなたも?」
「うむ」
立ち止まったまま缶の烏龍茶を片手に、彼は真夜中と夜明けのちょうど中間で、ややまばらになった人通りを眺める。
「で、たまたまあの店でバイトの口があったから、やっている。それだけの話だ」
「……へえ」
もう少し……たとえば、どこであの得体の知れないマスターと知り合ったのかとか、聞いてみたいことはあったが、けれど楊ゼンはそこで質問を打ち切る。
通りを眺めている彼の表情は確かに楽しげな笑みを含んでいて、行き交う車のヘッドライトやネオンの光を映した瞳は、まるでこの夜の街のように煌めいていて。
ただ、綺麗だった。
たとえ、すべてが嘘で作り事であっても構わないと思えるほどに。
「でも、いいんですか。こんな風に毎晩、出歩いたりして」
「一人暮らしだからな」
「あなたも?」
「何だ、おぬしもか」
言いながらも、大して驚いている風はない。
それも当たり前といえば当たり前で、有名進学校の生徒が夜な夜な明け方近くまで遊び歩いていて、普通は文句を言われないはずがないのである。
言われないとしたら、家族間に余程の事情があるか、一人暮らしかに決まっていた。
「うちは、両親が海外赴任しているので……僕だけ残ったんですよ」
「わしには家族が居らんからな」
「え?」
「昔、事故で両親が死んで、親戚のところに引き取られておったのだが、高校入学を期に一人立ちしてみたのだ。といっても、親の遺産と生命保険と慰謝料があるから、経済的には別に困らっとらん。バイトは殆ど趣味だよ」
ごくあっさりと彼は、己の境遇を口にする。
おそらく、これらは彼の中では既に過去の事実として、決着がついているのだろう。
たとえそうでなくとも、今現在、自分が彼の必要としない同情や気遣いをするのは、かえって彼のプライドを傷付けるだけだろうと判断して、楊ゼンもまた、彼を真似てあっさりとうなずく。
「そうだったんですか」
「うむ」
そして、また一口烏龍茶を飲んで、通りを眺める彼の横顔は、やはり綺麗だった。
濃密できらびやかな夜の街で。
これ以上はないというほどに、鮮やかに浮かび上がる。
しなやかで、捕らえどころのない。
彼という存在。
自分の中の感情を確かめて、一瞬、目を伏せた後。
上げた顔には、ほのかな微笑がにじむ。
「──先輩」
「ん?」
「僕は、あなたが好きになりました」
並んで通りを眺めたままでの突然の告白に、一瞬目を丸くして、けれど次の瞬間、彼はくすりと笑う。
「そうか」
ただそれだけを答えて。
楊ゼンもまた、それ以上の答えを求めることなく、二人並んで夜の街を見送る。
途切れることのないネオンのハレーションと群れた人々のざわめきだけが、しばらくの間、二人を包み込むようにゆるやかに熱帯夜を流れていた。
end.
というわけで、久々の書下ろし。
これは、ちょっと前に某チャットで、「学校では優等生なんだけど、実は・・・・・・っていう師叔って良いよね」という話題で盛り上がった時に、私の中でできたネタです。このために、わざわざカクテルの本まで買ってきました(笑)
本当は師叔は瓶底眼鏡で、夜はコンタクト愛用という設定だったのですが、うまくはまらずに、それだけはボツ。
なんというか、呂望と太公望と伏羲の三役を同時に出してみた感じですが、いかがでしたでしょうか。
近頃の私には珍しく、この話はこれで完結です。
キスも何もなく、これから始まるという感じですけど、このラストシーンが書きたかっただけなので、御了承下さいね(^^)
BACK >>