Promised Night 2








 久しぶりに大学構内で単独行動をしていると、やたらと顔見知りに会うような気がする。
 それがただの気のせいなのか、普段は自分が知り合いに気づかずに見過ごしているのか、はたまた相手の方が気を回して声をかけてこないのか、答えを頭の片隅で考えながら、太公望は夕方の学食で知り合いを見かけ、そちらに歩み寄る。
 いつもなら遠目に発見しても、声をかけることなく通り過ぎることの少なくない相手なのだが、今日に限って自分から近づいたのは、向こうもいつもとは様子が違って見えたからだった。
 物思いに沈んでいるような風情で、紙コップのコーヒーをゆっくりと小さく揺らしている相手のテーブルの横にさりげなく立つ。
 と、すぐに彼女は顔を上げて、驚いたように目をみはった。
「太公望さん」
「久しぶりだのう」
 大きな瞳を見つめて、小さく微笑むと、彼女の方も小さな笑みを浮かべた。
「そうですね。──今日はお一人ですか?」
「おぬしも?」
「ええ……」
 曖昧な微笑と共にうなずいて、少女は向かい側の席を示す。
「良かったら座って下さい」
「いいのか?」
「ええ。今日は誰も来ませんから」
「そうか。では遠慮なく」
 太公望がスツールに腰を下ろすと、改めて少女は笑みを向けてきた。
「でも、本当に久しぶりですね。同じ大学内にいるのに……」
「経済学部と法学部は、それほど離れてもおらぬのにな。一応、わしも毎日大学には来ておるし、図書館にも良く行っておるのに……」
「私の時間割は、かなり詰まってますから。太公望さんは、教室棟の方には週に一度しかいらっしゃらないでしょう?」
「講義は火曜日の一限目だけだからのう」
「教室は三号館でしょう? 私はその時間と次の時間は一号館で講義を受けてますから、それじゃ会えませんよ」
「そうだな」
 苦笑して、太公望はうなずいた。
 ──目の前の少女は、名を呂邑姜といい、太公望にとっては父方の遠縁に当たる。
 まだ十六歳だが飛び級を繰り返して、現在は崑崙大学法学部の三回生に在籍しており、そこでも飛び抜けて成績優秀な学生で、十八歳になったら司法試験に現役合格間違いなしと教授陣にも太鼓判を押されている。
 小柄な外見や年齢に見合わず、非常にしっかりした少女だった。
「今日は、姫発はどうしたのだ?」
「太公望さんこそ、あの人はどうなさったんですか?」
 さりげなく気になっていたことに水を向けると、同じようにさりげなく返される。
 が、そこは年の功というべきか、妹のような年下の少女相手に太公望は、表情を変えることもなく微笑して応じた。
「今日はちょっとな」
「私の方も、ちょっと、です」
「ふむ」
 細い肩をすくめるようにした少女に、
「だが……先ほどのおぬしは、ちょっと、というようには見えなかったがのう」
 しかし、うなずきつつも軽く首をかしげ、いつもと変わらぬ口調で太公望は続ける。
 ───邑姜は精神的に大人びている分、内面に何か思うところがあっても、それを面(おもて)に出すことは滅多にない。
 だからこそ、先程彼女が学食内にいることに気付いた折、いつもとは異なる物思いに沈んでいる様子が太公望の目を引いたのだ。
 その寂しげな横顔がなければ、また恋人と待ち合わせでもしているのだろうと微笑ましく思って、いつものように声をかけることなく通り過ぎただろう。
 とはいえ、太公望は彼女が望まないのであれば、これ以上追求する気はなかった。
 やはり血の繋がりか、邑姜は少しだけ事故で死んだ妹と雰囲気が似ており、そのためもあって太公望は彼女のことをそれとなく気にかけているのだが、だからといって余計な差し出口をしたことはない。
 時々遠目に見かけて、元気そうならそれでいいと思うだけである。
 だが、邑姜は取り立てて神経質な反応をすることもなく、くすりと笑みを浮かべて太公望を見つめ返した。
「太公望さんだって、ちょっとという感じには見えませんよ」
「……かもしれぬな」
「あら、珍しいですね。そんな素直に認められるなんて」
「たまにはのう」
 軽い口調で答えた太公望に、邑姜は小さく笑って、もてあそんでいた紙コップのコーヒーをテーブルに置いた。
 そのまま言葉を選ぶように、短い沈黙を挟み。
「……大したことじゃないと思えば、大したことじゃないんでしょうけど」
 そんな前置きをして口を開いた。
「近頃、彼がまた講義をサボってるみたいなんです」
「姫発が?」
「ええ。ゼミが違いますから、人に聞いただけなんですけど……。このところ、妙に忙しいみたいで会えないことも多かったから、もしかしたら大学そのものに来てないんじゃないかとは思ってたんです。ただ、私も忙しいものですから、なかなか直接確認が取れなくて……」
「当たりだったのか」
「……ええ、多分。結局、会えてませんから、あの人から答えを聞いたわけじゃないんですけれど、十二月に入ってから休みがちで、先週はどの講義にも出席していないみたいです」
 溜息まじりにうなずいた邑姜に、太公望もやや渋い顔になる。
 崑崙大学は確かにのほほんとした学風が持ち味だが、だからといって単位習得まで甘いわけではない。仮にも国内最高峰の象牙の塔である以上、むしろ相当に厳しい。
 一度や二度ならともかく、度々講義を休んだりしていたら、まずどんな科目でも間違いなく単位は落とすと見てよかった。
 中でも、とりわけ少人数制のゼミは、教授によってはレポートや試験の点数のみではなく、出席や遅刻そのものも、やる気の有無を測る要素として成績に加味される場合がある。
「本当にサボっておるのなら、確かにまずいな」
「でしょう? 去年、単位を幾つも落としたのに懲りて、今年はずっと真面目に出席してたはずなのに……」
「それがいきなり、か?」
 困惑に表情を曇らせた邑姜を見つめて、太公望も首をかしげた。
「何か理由があるのかのう?」
「分かりません。近頃は本当にメールか携帯でちょっと話すくらいで……。でも、たとえ理由があったとしても、この試験前の時期に休んでいいわけがないんです」
「そうだのう」
 そもそもが、現在十六歳の邑姜の飛び級と、現在二十二歳の姫発の落第が重なって、今年同学年になった二人である。
 いくらなんでも、六歳年下の邑姜が姫発を追い抜いてしまっては、具合が悪いだろうな、と太公望は思う。
 それに、邑姜はもとから生真面目で潔癖なところのある少女だ。
 人から聞いた話だが、姫発との交際も、たまたま大学図書館の書架の前で二人がぶつかり、なりゆきでレポート用の資料を探すのを邑姜が手伝った折に、姫発が何気なく「今回は友達のレポートを写せないから面倒だ」と零したのを、邑姜が辛辣に批判したのが、一番最初の出会いだったらしい。
 結果的に紆余曲折を経て、現在は仲の良いカップルとなっているものの、そんな彼女が恋人の不真面目に怒り、また心配をするのは、当然といえば当然である。
「まぁ、とにかく姫発を捕まえて話を聞くのが一番ではないか? 本当に講義をサボっておるのか、本当なら何か理由があるのか。はっきりさせねば怒りようもあるまい」
「そうですね」
 第三者的な太公望の意見に、邑姜は溜息ともどもうなずいて。
 そして顔を上げ、太公望を見た。
「つい相談に乗っていただいてしまいましたけど、太公望さんの方はどうなさったんですか?」
 大きな瞳にまっすぐ見つめられて、太公望は内心の居心地の悪さに微苦笑を浮かべる。
「……まぁのう。色々あるのだよ」
 楊ゼンとの交際は、それ以前からの楊ゼンのアプローチが人目を気にしないものであったこともあり、付き合い始めたと同時に、学内では大抵の者に知られてしまっている。
 が、さすがに、プロポーズされたのを断ったせいで楊ゼンと冷戦状態です、とは言えず、曖昧にごまかすと、邑姜は小さく首をかしげた。
「色々、ですか」
「そう。……人間、一度何かを失くすと臆病になるものだな、とかな」
 溜息をつくような微笑みを浮かべて口にした太公望に、邑姜は大きな瞳をまばたかせる。
 そんな彼女を見つめて、太公望は、大したことではないのだが、と笑って見せた。
「一度大切なものを失うと、また失うのではないかと考えて、理由もなく不安になる。それに年を取ると、子供の頃には気付きもしなかった世間のからくりのあれこれが見えてくるからのう。社会的立場とか、本当ならどうでも良いものを考慮に入れないわけにはいかなくなってくる」
「……確かに、社会の中で生きてゆくためには、どうしても多少の保身は考えなければいけませんもんね」
「そう。いい年した大人が無邪気かつ無防備に行動していれば、必ずといって良いほど落とし穴に落ちる。本人に悪気はなくとも、それは結局、自分や周囲の人々に迷惑をかけることになってしまうからのう」
「だから、臆病になる、と?」
「うむ」
 実のところ、太公望はこの妹のような少女に愚痴を聞かせるつもりはなかった。
 だが、彼女の話を聞き出しておきながら、何も言わずに立ち去るのもアンフェアに思えたし、それに、いい加減、誰かに鬱屈した思いを聞いて欲しくなっていた部分もないわけではなかったのだ。
 その店、聡明で勘が良いが、余計はことは言わない邑姜は、年下の少女ではあっても、「王様の耳はロバの耳」と叫んでも大丈夫な相手であり、曖昧な愚痴を口にすることも許してくれる。
 そんな彼女の女性ならではの大人の部分に、少しだけ太公望は甘える気になった。
「──結局、大人になるということは、社会や人の心の仕組みが分かるということであって、それは手に負えない厄介事が増えることと同義なのかもしれませんね」
「そうだのう……」
 考えながらの邑姜の言葉に、太公望は微苦笑まじりに嘆息する。
「逆に、一筋縄ではゆかぬ厄介事を解決できる能力を持つことが、大人には求められるのだろうが、な」
「難しいですよね」
「うむ。思う通りに物事を運べたら、誰も苦労はせぬよ」
 珍しく小さい溜息をつく少女に苦笑しながら、これくらいにしておこう、と太公望は考える。
 これ以上話が深みに進んでいくと、今の自分には答えの出せない……答えようのない問題の根幹に突き当たってしまいかねない。
 それはまだ、避けたかった。
「さて、つい話し込んでしまったのう」
 そろそろ行くよ、とさりげなく告げて、太公望は立ち上がる。
 そして今日の会話の最後に一つだけ、以前から彼女に言いたかったことを唇に昇らせた。
「のう、邑姜」
「はい?」
「いい年した大人が愚痴った後で言っても説得力がないが……、おぬしは、わしよりもずっと年下だ。今からそう急いで大人になろうとせずとも良いよ。時間に任せていれば、あっという間に年は取る。心まで跳び級する必要などない」
「───…」
「おぬしは、その年齢で十分過ぎるほどに頑張っているし、本当の意味で頭も良い。だが、不安な時は不安になればいいし、泣きたい時には思い切り泣けばいい。そうしたところで、誰もまだ、おぬしを咎めたりはせぬから。──なんて、説経する柄でもないがな」
 こんなことを口にしたのは、先程学食に足を踏み入れて、最初に邑姜を見かけた時、本当に彼女が心細げで──どこか泣き出しそうな目をしていたからだった。
 賢い少女は、もしかしたら泣きたくても泣けないのではないか。
 気安く愚痴を言える相手もいないのではないか。
 それはただの直感であり、思い込みかもしれない。
 だが、そう感じたからこそ、太公望は今日、いつもならかけない声をかけたのだ。
 しかし、やはり自分の柄ではないかと、まっすぐな瞳を向けてくる少女に悪戯めいた笑みを向けて、太公望は軽く片手を上げる。
「ではな」
 そして、学食の出入り口に向かって歩き出した太公望の背中に、
「太公望さん!」
 慌ててスツールから立ち上がった邑姜が、澄んだ声を投げかけた。
「ありがとうございました!」
 その声に、もう一度振り返って手を振り、太公望は学食を出る。
 そのままロビーを抜けて外に出ると、既に日は沈み、気の早い星が冬の夜空に瞬き始めている。
「本当に日が落ちるのが早くなったのう」
 冬至はいつだったかと、コートのポケットに手を突っ込んだまま、しばらくの間、まだわずかに明るさの残る空を見上げて。
「……大人になるのは厄介事と道連れ、か。邑姜もうまいことを言う」
 微苦笑まじりの小さな溜息をついてから、太公望は教授棟を目指して歩き出した。














 背後を通り過ぎた気配に、思わずはっとして顔を上げる。
「───…」
 遠ざかってゆく後姿が見慣れたものではないことに安堵半分の吐息をついて、太公望は手にしていたペンを机の上に置いた。
 冬休み前の図書館は、休み明けの後期試験に備えてそれなりに込み合っている。が、卒論の提出も終わり、講義中の時間帯である今は、ぽつぽつ空席が目立つ程度の混み具合で、太公望も本来なら六人が座れる机に論文用の資料を広げ、席を独り占めしている。
 しかし、そうやって体勢を整えている割には、手元の作業の進みは鈍かった。
「……嫌な感じだのう」
 自分にしか聞こえない小さな声で呟き、太公望は指先で消しゴムを転がす。
 ──近頃は、いつもこんな調子だった。
 とにかく他人の気配が気になって、目の前のことに集中できない。神経のどこか一部が常に周囲を意識し、張り詰めているようで、落ち着かないことこの上ないのである。
 そして。
 それ以上に嫌なのは、その原因が分かり切っていることだった。
 何を自分が気にしているのかなどと、自問する必要もないくらいに分かっているからこそ、余計にやりきれない気分になる。
「わしらしくもない」
 消しゴムをつつきながら、溜息をついた時。
「そうだよね。らしくないよね」
 突然、背後から声をかけられて、太公望は驚愕にびくりと飛び上がった。
「普賢!」
 思わず声を上げて名を呼んでしまい、慌てて口を押さえる。が、幸い、近くに人はおらず、迷惑げにこちらに視線を向ける者もいない。
 ほっと息をついて、太公望は改めて席のすぐ後ろに立つ幼馴染を、椅子に座ったまま上半身をひねるようにして見上げた。
「何の用だ?」
「うん、ちょっとね。望ちゃんと話がしたくなって」
「……話?」
 にこにこと笑みを浮かべている普賢に、太公望は眉をしかめる。
 優しげな顔立ちでにこやかに笑っているからといって、決して安心してはならないのが、この幼馴染の性格である。むしろ、天使のように微笑んでいる時ほど、注意が必要といっても過言ではない。しかも、今は太公望地震、後ろめたい部分があるときている。
 だが、言い逃れの聞くような相手ではないし──それ以前に、今日の普賢の笑みからは決して逃げることを許さない雰囲気が、ちらちらと垣間見えることに太公望は気付いていた。
「……わしは忙しい、といっても聞かぬだろうな?」
「もちろん」
 即座に返された答えに溜息をついて。
 渋々、太公望は立ち上がった。






 講義中の時間帯である今は、図書館入り口横にある、ロビーを兼ねた新聞雑誌コーナーにも人気はほとんどない。
 空いている一人がけのソファーにそれぞれ腰を下ろしたところで、太公望はそれとなく幼馴染の表情をうかがった。
 ちらりと見た程度では、普賢の表情には取り立てて不機嫌な様子も怒っている様子も見えない。
 しかし、飲み会の誘いでもないのに、わざわざ理学部の研究室から遠く離れた図書館までやってきたということは、おそらくあの件を知って、何か一言告げたくなったのだろう、と太公望はあまりしたくない推測をする。
 正直なところ、何も聞きたくはなかったが、かといって自他共に認める親友である彼相手に、頑なに突っぱねることもができるほどの理由も見つけられず、諦めまじりに両手を組んで、太公望は深くソファーに体を預けた。
「──で? 話とは何だ?」
「それはこっちの台詞だよ、望ちゃん」
 促したはずが逆に切り返されて、太公望は普賢の顔を見直す。
 が、普賢の方も軽く肩をすくめて、組んだ膝の上で頬杖をつき、太公望を見やった。
「この十日間ばかり、君と楊ゼンが一緒にいるところを誰も見てないらしいね。喧嘩したのか、はたまた別れたのか、暇な連中はその話題で持ちきりで、うるさいったらありゃしない」
「───…」
「最初はただの噂かと思ってたんだけどね。君も彼も忙しい人だから、実は皆が思っているほど一緒にいるわけじゃないって、僕は知ってるし。でも十日ともなるとね」
 さすがに放ってはおけないということらしい。
「…………」
 余計なお世話だ、と太公望は言い返したかった。
 今度ばかりは非が自分にあると自覚しているからこそだが、今は誰の言葉も心に重く伸し掛かってくるようで、何も聞きたくない。
 だが、それらの声を受け止めるのも、気にかけてくれる人々に対する義務と責任かと諦めながら、黙って幼馴染の声を聴く。
「何があったのかは大体分かるから、聞かないけどさ。望ちゃん、本当にそれでいいの?」
 珍しくも、微塵も笑みの混じらない瞳にまっすぐに見つめられて。
 何と答えるべきかしばらく迷った後、太公望は何も言えないまま、まなざしを逸らして床に落とした。
 そんな太公望を見やって、普賢は溜息をつく。
「──僕と望ちゃんは長い付き合いだけど」
 頬杖をついたまま、普賢もまた視線を外して、人気(ひとけ)の少ない貸し出しカウンターの方へと目を向ける。
「この一年間、望ちゃんは僕が見たことのない表情をたくさんしてたよ。怒った顔とか笑った顔とか、全部、初めて見る表情ばっかりだったけど、すごくいい感じだった。全然、無理してなくて」
 高くも低くもない声は、図書館内ということもあり、決して大きくはない。
 だが、くっきりと良く透った。
「それなのに、その『いい感じ』を手放しちゃってもいいの?」
「────」
「もう二度と手に入らないかもしれないのに。ずっと守ってきた殻を破るのが怖いからって、せっかく掴まえたものを捨ててもいいの?」
 幼馴染の落ち着いたトーンの声が、まっすぐに太公望の心を貫き通す。
 だが、その明朗さに対し、太公望は否とも応とも答えられず、床の上に視線を這わせた。
 ちらりとそれを見やって、普賢はまた小さく溜息をつく。
「どんな結論を出そうと、それは望ちゃんのものだけど」
 昼下がりの図書館のロビーは、ほとんど絶え間なく学生が行き交う。
 だが、場所柄ざわめきらしいざわめきもなく、明確な音として聞き取れるのは、普賢の声だけだった。
「ここまで来て今更後ろ向きになるのは、何か違うと思うよ。そんなくらいなら、最初から感情に流されるべきじゃなかったんじゃないかな」
 口調は決して厳しくはない。
 むしろ、最後の決断は太公望自身にゆだねるやわらかさがあるのに、太公望は顔を上げて普賢を見ることはできないまま、黙ってその言葉を聞く。
「余計な差し出口だとは思うけど、楊ゼンのことが本当に好きなら、よく考えた方がいいと思うよ。誰かが側を通ったり、携帯がなったりするたびに神経を尖らせてるなんて、望ちゃんらしくないもん。可愛いとは思うけどさ、やっぱりちょっと苛々しちゃうよ」
 それだけを言い終えて。
 さて、と普賢は座り心地のいいソファーから立ち上がる。
「普賢?」
「こう見えても僕は忙しいんだよ。悪いけど、今は君の愚痴に付き合ってあげる暇はないの。さっさと研究室に帰って、卒論見ないと」
 新進気鋭の物理学者として世界的に名を知られている崑崙大学理学部助教授は、にっこりと天使のように笑って、太公望に右手を振る。
「じゃあね、望ちゃん。いつまでもそんな顔してちゃ駄目だよ」
「あ……」
 待て、と呼び止める間もなく、さっさと普賢はロビーを横切り、図書館玄関へと出て行ってしまう。
 ソファーから立ち上がることもできないまま、自分とほとんど変わらないくらいに小柄な後姿を見送って。
 数度まばたきを繰り返した後、太公望はスローモーションのようにゆっくりとソファーに身を沈めた。
「……お節介め」
 そして、決して面と向かっては言えなかった一言を、ポツリと呟く。
「どうせ、らしくないよ」
 ───本当に普賢の言う通りだった。
 誰かが側を通るたび……否、誰かが近づいてくるのではないかと、四六時中、気になって仕方がないだなんて。
 笑い話にもできないほど、自分らしくないと思う。
「────」
 ……決して、待っているわけではない。
 むしろ、会いたくないのだ。
 顔を合わせたくないからこそ、こんなにもぴりぴりしている。
 けれど、心の一番奥の奥までさらえば、それだけではないのも確かで。
「……だからといって、今更何を……?」
 あの朝から、もう十日にもなる。
 その間、一度も顔を合わせていない。電話もメールもない。
 まだ卒業試験が残っているとはいえ、もうすべての講義を受講し終えた彼がキャンパス内に足を踏み入れる必要はほとんどなく、だから、太公望が寄り道もせずに大学の研究室と自宅のマンションを往復していれば、顔を会わせることなど余程の偶然以外にはありえない。
 会う努力をすることを放棄してしまえば、呆れるほどに自分たちの接点などなかった。
 交際を始める以前に、よく学食や図書館で顔を合わせたのは、彼が自分を探していたからだ。二年前の春に知り合うまでは、あんなに目立つ容姿をした青年であるにもかかわらず、太公望は彼に見覚えはなかったし、彼もまた、名物講師である太公望の顔を知らなかった。
 だから。
 彼の言い分も分からないではないのだ。
 同じ市内に住み、同じキャンパスに通っていてさえ、交際を続けるにはそれなりの努力が必要なのに、これが太平洋を挟んだ距離に離れてしまえばどうなるかなど、恐竜の脳ミソ程度の想像力も要らない。
 ましてや、一般市民とは言いがたい肩書きに収まってしまったら、週末ごとにデートするようなごく普通の恋愛など、夢のまた夢に決まっている。
 けれど。
 そうと分かっていても、彼の提案は簡単にうなずけるようなものではなかった。
「考えたこともなかったしな」
 結婚など、と呟いて。
 否、それは違うだろう、と太公望は少し考え直す。
 普通、二十歳を過ぎて恋人ができれば、どんなに朧気ではあっても結婚を意識せざるを得ない。それは自分も例外ではなかったと、太公望は苦い思いで思い返す。
「だが……」
 あえて自分は考えないようにしてきたのだ。
 付き合い始めたばかりの頃、もしかしたら一生、一緒にいることも可能なのではないかと、気の迷いのように想像をしたことはある。
 けれど、想像ついでに二人でいる将来をシミュレーションした時、即座に無理だと思った。
 いくら法律的に認められているとはいえ、地位ある者の同性結婚はどうしてもスキャンダル的に扱われるし、太平洋のあちらとこちらで、それぞれの仕事を忙しくこなしていては、家族らしいことは何もできない。
 結婚したところで、関係を維持しようとしたら無理を重ねるしかなく、結果的にリスクが大きくなりすぎる。
 そう考えが至った時から、彼が万が一結婚を持ち出したとしても応じるわけにはいかない、と心に決めて。
 この一年、極力、先のことは考えないようにしてきた。
 そして。
 間違いなく彼も、自分の逃避に気付いていただろうと思う。
「……気付いたからこそ、余計に不安になったかのう」
 稀に見る鋭い頭脳の持ち主であるとはいえ、彼は自分より三歳も年下の、まだ成人して間もない青年だ。
 初めて本気になった相手に──彼の言葉を信じるとするならだが──将来に関して曖昧な態度を取られたら、不安や焦燥を感じても仕方がない。
 それが、あの性急で唐突な求婚の言葉になったというのなら、分かる気もするのだ。
「───…」
 そう考えて、何か他人事のようだのう、と太公望はソファーに埋まったまま、天井を見上げる。
 図書館の建物そのものは創立当時のものだが、数年前に内壁や天井のクロスは張り替えられたため、それほどくすんではいない。
 白い天井は、蛍光灯の光をやわらかく跳ね返していて、その明るさに太公望は小さく目を細めた。
 ───予測通りの展開になっているせいか、自分でも不思議に思うほど、悲嘆に暮れてはいなかった。
 多少、神経が尖ってしまっているものの、それでも夜、全く眠れないというほどではないし、多少食欲は落ちていても、きちんと三度の食事もしている。
 辛さがないわけではないのだが、どことなく感情が他人事のように遠くて、耐えられないというようなレベルではないのである。
「……嫌いになったわけではない、のだがな」
 決して別れたいわけではない。
 本当は、一緒にいられたらいいと思う。
 けれど、もう限界だと何かが訴えてくるのだ。
 ───家族にはなれない、家族など要らない、と。
 これまで見て見ぬ振りをして、曖昧にごまかしてきた何かが心の中で蠢き、形を現し始めている。
「……すまぬ」
 だが、自分が卑怯で強情な人間であることなど最初から分かっていただろう、と都合のいい言い訳を心の中でして。
 太公望は軽く目を閉じる。
 途端、空調の聞いた空気に乾燥した瞳が、ひどく染みて。
 少しだけ、泣きたくなった。






to be conthinued...










後ろ向き絶好調。
今更ながらに、よくもこんな作品を書いたなぁと思います。今の私なら、絶対に思いつきもしないはず。若かったんですね、あの頃は。
というわけで、回れ右して猛ダッシュ。まだまだ続きます〜。





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