Spring Moon 3
「あーあ、一目散ってやつか〜」
「本当にな。あの太公望が変われば変わるもんだ」
「あんなに楊ゼンが何を言おうと聞こえないふりしてたのにな」
朧月と街灯に照らし出された桜の木の下。
独り身の崑崙大学教授たちは円陣に酒席を組みなおして、しみじみと互いの紙コップにビールを注ぎあっていた。
ちなみに、一番酒に弱い玉鼎は既に酔いつぶれて、先程からビニールシートの端の方で行儀よく眠っている。
「でもまぁ、うまくいって良かったよな」
「うんうん」
「なんというか、安定したな、二人とも」
「そうそう。楊ゼンもああいう育ちだから元々大人びたとこがあったけど、この数ヶ月で、またがらっと変わったよ」
「泰然とした雰囲気が、外見だけのポーズだけじゃなくなったな」
「太公望も」
「ああ。……でも、あいつはなぁ」
「あの子は臆病だからね〜」
教授たちの声に、ふと溜息が混じる。
「……これからどうするつもりなのかな、望ちゃん」
「さあなぁ……」
「楊ゼンは今年で院を卒業だろ。当然、合衆国に帰るよな」
「金鰲グループの次期総帥様だからな。帰らないですむわけがない」
「もともと、無理言って院に残ったんだろ、確か」
「そうだよ。太公望追っかけるためにさ」
ふと一座に沈黙が降りる。
しばしの間、黙々と教授たちは互いの紙コップにビールを注ぎ、スルメを噛みつつ、少しぬるくなった酒を飲み干す。
「でもよ」
それを破ったのは、黄竜だった。
酔いを感じさせる、いつもの張りを失った声が春の夜風に流れる。
「オレは、あの二人にはあのままでいてもらいてぇよ」
「ああ」
「同感」
「なんていうかさ、見ていてほっとするんだよね、あの二人」
「なんか、お互いすごく大事にしてるのが見てて良く分かるんだよな」
「太公望もあれ、何考えてるのか本当のところ分かんねぇけど、楊ゼンと付き合いだしてから落ち着いてるのは確かだろ」
「何だか悩んでるのは相変わらずなんだけどね。望ちゃんって余計なこと考えすぎるから」
「もう少し馬鹿になればいいのにな」
「幸せになるのが下手なんだよねぇ」
それぞれに溜息をついて。
「うまくいくといいんだけどな……」
しみじみと酒宴は朧月に照らされた花の下で続けられた。
* *
「どこまで歩かせる気なのだ?」
「あと少しですよ」
不機嫌がありありとにじんだ声に、涼やかな美声が答える。
おそらくもう、駅から10分近く歩いている。
もともとプライベートでは気が長いとは言いがたい太公望の忍耐は、早くも限界に近かった。
「楊……!」
2メートルほど先を歩く相手の名前を呼びかけた時。
「ここです」
楊ゼンが足を止めて振り返った。
無造作に背に流した長い髪が、動きに合わせてさらりと揺れる。
そのしなやかな動きに、うっかり太公望は一瞬見とれた。
「師叔?」
名を呼ばれて我に返り、慌てて視線を前方に向ける。
が、すぐに気の強そうな眉が八の字になった。
「────楊ゼン」
「はい」
「何なのだ、一体」
尋ねる声が地を這うように低くなる。
「一体どういうつもりなのだ、こんな場所に連れてきて!」
二人の目の前にあるのは、うっそうと茂った木々と、今は黒々とした影でしかない木立ちに囲まれた鳥居。
だが、崑崙市内には名前の知れた神社など一つもない。
つまり、これはどこぞの氏神を祀った小さな社(やしろ)なのに違いなかった。
何故こんな正月でもない春の夜に、こんな場所へ来なければならないのか。
もとからの不機嫌もあって激昂しかけた太公望だが、しかし、楊ゼンは甘く微笑しただけで、その手をさしのべる。
「いいものをお見せすると言ったでしょう。嘘じゃありませんよ。こっちに来て下さい」
「────」
正直なところ、素直に従うのは面白くなかった。
けれど。
月明かりでも分かるほどに優しく微笑む瞳に背を向け、捨てて帰ることはやはりできなくて。
「…………」
ゆっくりと太公望は、不機嫌な表情は崩さないまま、足を踏み出した。
だが、楊ゼンは恋人の不機嫌など意に介さない様子で、すぐ隣りにまで近付いた肩をごく自然に抱き寄せ、境内の奥の方を指し示す。
「見えるでしょう?」
「……あ…」
右手の奥の方。
暗く茂った木々の間に、白っぽく光るものが見える。
「桜……?」
月光に照らされた桜の花かと目を凝らすと、楊ゼンがうなずいた。
「近くに行ってみますか?」
「……うむ」
ずっと拗ねていた分、少々気まずいながらも素直にうなずくと、肩を抱く手が優しく歩みを促した。
五段ほどある石段を登り、境内の手前の方にだけ敷き詰められた玉砂利を踏んで鳥居をくぐる。
木陰にさえぎられて、鳥居の傍らの常夜灯が投げる光は今一つ届きにくい。
足元に気をつけながら神楽殿の脇を通り抜け、拝殿の東側。
そびえたつ、堂々たる枝ぶりの桜の大木。
「すごい……」
幹の太さ、枝の張り方からすると、かなりの古木だろう。
だが、枝一面に見事な花を咲かせている。
薄い花片の一枚一枚が月光に透け、まるでこの世のものではないような夢幻的な美しさだった。
「お気に入りましたか?」
問われて、太公望は隣りに立つ青年を振り仰ぐ。
「どこで知ったのだ、こんな場所を……」
「韋護君が教えてくれたんですよ」
「韋護?」
すぐに、それが誰なのかは思い浮かんだ。
楊ゼンの友人であり、バイトで学費と生活費をまかなっているとかで、三回も留年している法学部の名物学生である。
そして、現在の彼のバイトが、楊ゼンの個人事業の手伝いなのだ。
詳しいことは太公望も知らないが、業務の中心は、学生向けの安くて使い勝手のいいパソコンや周辺機器、ソフトの仲買や小売らしい。
その事業は金鰲グループとは関係ないもので、自分の力でどの程度のことがやれるのか試すために、あえて自分の名前は表に出さず、対外実務はすべて韋護に任せているのだと以前聞いたことがあった。
しかし、太公望が他学部の彼を知っているのは、楊ゼンの紹介ではなく、キャンパス内に数ヶ所ある、絶好の昼寝ポイント(さぼりポイント、ともいう)でよくかちあう、という同じ趣味を持つ者同士のニアミスの結果である。
「僕が頼んだ仕事の関係で先日、この辺に来た時に見つけたらしいんです。辺鄙な所だから花見客がいなくていいと……」
なるほど、と納得して太公望は再び花を見上げる。
「少し遠いですけど、ここなら二人でゆっくり桜を見られるかと思って。あの方々に囲まれて飲みながらでは、まともに花を愛でる余裕なんかなかったでしょう?」
「……そう、だのう」
崑崙市内の桜名所は、崑崙大学を始めとする各大学・学校の構内と中央公園の桜並木である。
しかし、学生が人口の過半数を占める学園都市では、いずれにせよ、花を見るというより酔っ払いを見ると言った方が正しいのが事実だった。
「───…」
桜の花は嫌いではない。というより、むしろ好きである。
しかし、のんびり眺めた記憶は少なく、楊ゼンが言う通り、大勢と騒ぎながら花を見たのか酒を飲んだのか分からないような状態が、もうずっと続いている。
そんな記憶をたどって、そういえば、と太公望は思い返した。
常になくこうしてゆっくり花を見上げる時には、いつも隣りにこの青年がいないか、と。
「何です?」
隣りを見上げた視線に、楊ゼンは軽く首を傾けるように問い返す。
その動きに合わせて髪がはらりと流れ落ちるのが、月明かりの中で形容しがたいほどに綺麗で、ああそうだ、と太公望は心の中で呟く。
出会って以来、春はいつも肩を並べて花を見ていた。
普段と同じような軽口めいたやりとりを交わして、他愛ない話をしながら。
それがひどく楽しくて、困ったのだ。
このままでは流されてしまう、という怖れのような気分と、ずっとこうして話をしていたい、というほのかな望みと。
春に限ったことではなかったけれど、いつも自分は困惑を胸の裡に隠していた、とほんの数ヶ月前までのことを、太公望は懐かしいような切ないような気分で思い返す。
「───…」
そして、太公望は再びまなざしを桜の古木に戻した。
何も答えないまま、朧月に光る桜を見上げている太公望の横顔に何を感じたのか、楊ゼンは微苦笑するように溜息をついて。
ふわりと背後から抱きしめられる。
「楊ゼン」
「──もう二年、経ったんですよ。あなたと出会ってから……」
「……そうだな」
耳元でささやかれた低く甘い声にうなずいて、太公望は肩の力を抜き、楊ゼンの胸に身体を預けた。
出会ったのは、花の季節。
陽気に誘われて芝生で昼寝していた自分に、そんなところで寝ていると風邪を引く、と声をかけてきたのが楊ゼンだった。
すぐに自分をサボりの中学生か高校生と勘違いをしているのには気付いたから、経済学部の講師だと名乗ってやると、案の定、ひどく驚いた顔をして、それがおかしかった。
それ以来、学食とか図書館とか経済学部の研究室とか、いろいろなところで顔を合わせ、言葉を交わしているうちに、いい奴だな、と思うようになったのだ。
頭の回転が速いのはもちろんだが、それ以上に彼は優しい性格をしていた。
人がいい、といえばいいのだろうか。
どちらかというと自分勝手で、面倒ごとを嫌がる割には、自分が好意を抱いた相手には嫌な思いをさせまいと、こまやかに気を遣うような優しさを持っていた。
そして、自分が惹かれるのと同様に、彼もまた友情とか尊敬では片付けられない好意を向けてくれていることも感じて。
ひどく戸惑ったのだ。
恋をしたことはなかったし、十年前に事故で家族を失って以来、誰かと共に在るような人生は思い描いたこともなかった。
ましてや相手は、世界に名だたる金鰲グループの跡取。
共に居られるはずがないと……想いを受け入れるべきではないと即座に判断した。
けれど。
結局、ごまかしきれなかった。
昨年のクリスマス・イブの夜、寒空の下で三時間半も待っていてくれた楊ゼンを見た時。
その無茶に怒りつつも、嬉しかったのだ。
二人で歩む未来など想像もできなくて、泣きたいほどに切なくても──それでも、ひたむきな想いが嬉しくて。
抗いきれなかった。
彼の想いにも、自分の心にも。
そのことに──感情に流されてしまったことに後悔はしていない。
確かに幸せだと思うのだ。
今は、本当に。
「……あっという間だったような気がするのう」
「ええ。ずっと一緒にいたような気がしますけど、考えてみれば、まだクリスマスから三ヶ月半しか経っていないんですよね」
「そうだのう」
「あなたをこうして抱きしめられるようになってから、まだ三ヶ月半」
「そのうち二ヶ月近い間は、実家に帰っておったし?」
「それは言わないで下さいよ。僕だって辛かったんですから」
ぎゅっと腕に力を込められて、微苦笑する。
「あなたに仕事がなければ、一緒に連れて行ってましたよ」
「──それで、わしにおぬしの実家で何をしとれというのだ? おぬしは仕事で毎日、午前様だったのだろうに」
「何だってできますよ」
苦笑混じりに問うと、腕の力が更に微妙に強くなった。
「もともとあなたは、研究以外にもやりたいことが色々あるから、助教授に昇格したくないのだと言っていたじゃないですか。昼寝でも読書でも、好きなことをしていればいいんですよ。
仕事をしたいのなら、父に好きなだけこき使われて過労死しそうな僕を手伝ってもらうこともできますし、論文を書きたければ、ハーバードでもボストンでも、図書館はいくらでもあります。向こうの研究者と議論するのも、あなたなら相手には不自由しないでしょうし……」
「論争は学会の時だけで充分だ」
微苦笑を含んだ声で、やわらかく太公望は楊ゼンをいなす。
「今更そんなことを言っても意味がなかろう。過ぎたことを持ち出したわしも悪かったが……」
「師叔」
わずかに強い声で、名前を呼ばれて。
口元に苦笑を残したまま、太公望は淡く光っている桜を見上げた。
楊ゼンが何を言いたいのかは、分かっていた。
けれど。
「──今、こうしてここに在るだけでは不満か?」
「────」
「これだけでは、足りぬのか」
凛と響く声が、やわらかく夜風に消えてゆく。
「──来年の桜も、僕と一緒に見てくれますか?」
「……約束など当てにはならぬよ」
「分かってます。でも、たとえ反故(ほご)になったとしても、約束したその瞬間の心は嘘にはなりません。だから……」
約束が欲しいのだと告げる声に、太公望はゆるりと目を閉じる。
───電車の到着時間に駅まで迎えに行くから。乗りそびれたら直ぐに連絡するんだぞ。
十年以上も前の、果たされないままどこかに消えた約束。
あの夏の日の朝。
両親と兄妹は車に乗り込み、自分は駅へ。
それぞれに旅行カバンを持ち、手を振って別れたのが最後になった。
事故の知らせが届いたのは、その日の夕方。
それきり、学校のオリエンテーションキャンプに参加した自分と、貸し別荘に行った家族とが合流することはなかったのだ。
必ず守られる約束など、世界中に一体いくつあるのだろうと思いながら、
「──わしとおぬしと……どちらも不慮の事故に遭わず、病気もせず、そして……」
呟くように言葉を紡ぎ、少しためらった後、続ける。
「心も、変わらなかったら」
ぎゅっと抱きしめる腕に力がこもるのを、愛しく思いながら受け止める。
「変わりませんよ。……変わるはずがない。こんなにも……」
低くささやかれる声が。
切ない。
「ずっと一緒にいようと僕は言ったでしょう?」
「うむ……」
初めて夜を共にした翌朝、告げられた言葉。
ちゃんと覚えているし、忘れたこともない。
その時感じた、甘やかな切なさも。
「来年も再来年も、この先ずっと一緒に桜を見るんです。春になるたび、何度でも……」
「───…」
目を開けて、視界一面に広がる、朧月の光を受けて白く輝く花を見つめる。
来年も見るという桜が、どこの桜か。
それは楊ゼンは口にしない。
ずっと一緒にいようと言うのに、具体的なことは何も言わない。
そして、自分も問わない。
否、自分が問わないから彼も言わないのだ、と太公望は思った。
一言尋ねれば、きっと楊ゼンはすらすらと答える。
彼の中にはもう、答えがあるのだ。
けれど、こちらにはまだ答えるべき言葉が用意されていないことを知っているから。
抽象的なことしか、口にはしないのだろう。
今は、まだ。
「……来年の桜も美しいといいのう」
月下で咲き誇る花を見上げながら、自分を抱きしめている腕を抱くようにそっと手を添える。
はっきりとした約束の言葉は言えない。
けれど、そう願う気持ちは本当だった。
想像するにはあまりにもはかなく、遠い光景ではあったけれど。
「美しいに決まってますよ。僕とあなたの二人で見るのに……」
美しくないはずがない、と告げる声に。
「師叔……」
呼ばれて、首をひねるように顔を上げ、口接けを受け止める。
温かな唇にやわらかく唇を塞がれ、何度も触れるだけで離れる軽いキスを繰り返しながら、向き合う形に誘導されて。
強く腰を抱き寄せられ、自然にキスが深くなる。
愛おしさと切なさと。
そして、言葉にはしがたい……謝罪の気持ちと。
そんなものがないまぜになった心の裡に煽られて、太公望も楊ゼンの背に腕を回す。
求め求められて、互いの熱を感じ、存在を確かめ合う。
受け止めるだけでなく、応え、返す感覚がひたすらに甘い。
何度も角度を変えて深く絡み合い、ようやく離れる頃には太公望の膝は力を失って、楊ゼンの腕に腰を支えられているような状態になっていた。
「……っ…ぁ……」
熱を帯びた唇が細い首筋をさまよい、耳朶をやわらかく噛む。
そのままゆっくりと鎖骨の辺りまで唇が降りてきて。
薄く開いた目に、一面に白く光る花が映り。
はたと太公望は我に返った。
「──って楊ゼン! やめぬか!」
背に回したままだった手で、首筋に顔を埋めている男の髪を強く引っ張る。
「痛いですってば。──誰も見てませんよ、こんな場所」
「たわけっ……ぁ…っ」
鎖骨の上をきつく吸われて、思わず息が詰まる。
かくりと膝が崩れかけるのを、力強い楊ゼンの腕が抱きとめた。
だが、その間にも彼の唇は悪戯に肌の上をさまよい、じんじんとするような熱の痕跡を落としてゆく。
更に、背を抱く手に、ゆっくりと背筋を撫で下ろされて。
「嫌だっ……、楊ゼン……!」
その感覚がたまらなくて、本気の拒絶を込めて名前を呼ぶ。
と、動きが止まり、楊ゼンが顔を上げた。
「──どうします?」
「え……?」
朧月に照らし出された甘い微笑に思わず見惚れながら、太公望は質問の意図がわからずに問い返す。
「僕の部屋とあなたの部屋と……どちらがいいですか? 別に僕は、ここでもどこかで部屋を取っても構いませんが」
「!」
「ねぇ師叔……?」
そっとこめかみに口接けを落とされて、太公望はそれから逃れるように楊ゼンの胸に顔を伏せた。
「………近い方で……」
「近い方?」
「………おぬしの……部屋で、いい……」
恥ずかしさをこらえるように細い声で紡がれた返答に楊ゼンは微笑し、分かりました、と答えた。
というわけで、やっと第3回。桜なんかとうに散ってしまいましたね(T_T)
現在、うちの狭い庭はラベンダーと、野ばらみたいな一重咲きのつるバラが花盛りでございます(T_T)
それで、この作品はサイト用ということでシリアスは持ち込む気がなかったんですが・・・やっぱりつい、書いてしまいました。どうも、ラブコメとはいっても単に甘いだけ、というのは書けないようです(ーー;)
基本方針としてサイト小説を本にする気はないんですが、こうなってくると、これだけはオフ化しなきゃいけないのかなぁと思ってみたり・・・。一応、シリーズの番外的な扱いの作品なので、大したことは書き込んでないつもりなんですけど。
まぁとりあえず、この春の時期ネタは次で終わりです。
次回こそは18禁マークをつけられるよう頑張りますので、今しばらくお待ち下さいね〜m(_ _)m
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