春思恋歌
季節は春。
天下一の賑わいと人々がたたえる水の都は、今を盛りとばかりに花が咲き誇り、一年のうちでも最も美しい季節を迎えていた。
冬の間、市場ではやや品薄となっていた野菜や果物、各地の名産品が店頭に山と盛られ、うららかな陽射しの下、露天では売り子たちが盛んに通り行く人々に声をかけ、また大道芸人たちがそこいら中で傀儡(くぐつ)や小動物を使った芸を披露し、おひねりを受けている。
長い冬の眠りから目覚めたような、街中が浮き立った風情でざわめいている、その中の一角、門構えのしっかりした酒楼(料亭)が幾つも瓦屋根を連ねている礬街の中心に、一際壮麗で立派な酒楼があった。
扁額に堂々たる金文字で書かれた屋号は、桃谿酒家。
京城でも有数の高級酒楼である。
その桃谿酒家の奥、主人の家族が住む邸宅の一角に一悶着が起きたのは、そんなうららかな春の一日のことだった。
「絶対に嫌です!」
高く澄んだ声が、きっぱりと告げる。
声の主は、うら若い十五、六歳の少女だった。
艶々とした黒髪に繊細な銀細工の釵(かんざし)が映え、透き通るように白い肌は、今は憤りのせいか薄紅色に染まっていて、それがかえって美しく見える。
つんとそっぽを向いている様子が、いかにも気が強そうだが、どこか可愛らしい。
「何が気に入らんのだ、望」
少女の前で、風格のある壮年の男が苦りきった顔で顎を撫でる。
「柳泉正房は潘楼街でも一、二を争う富商だ。これ以上の良縁はないぞ。お前ももう一人前の年頃なのだし……」
「だって、その方、ちっとも良い噂を耳にしませんもの。そんな方の元へ嫁ぐのは私、嫌です」
「良い噂をって……お前は一体どんなところで噂話を集めてるんだ?」
今度は横にいた青年が、眉をひそめて少女を見つめる。
一目で親子と分かる、壮年の男とよく似た謹厳実直そうな面差しは、父親と同じようにひどく渋かった。
「柳泉正房の御次男殿は立派な方だぞ。私も一度、お目にかかったことがあるが、まだ若いのに、いかにも聡明で泰然とした……」
「その通りです、兄様」
つんとしたまま、少女は答えた。
「お家を継いでおられる兄君が生真面目でいらっしゃるのをいいことに、才を鼻にかけた琴棋書画ばかりお好みの風流子、色好みの放蕩者と……」
「望!」
あまりの少女の口の悪さに、父親と兄は声をそろえて少女の名を呼ぶ。
「御次男殿に失礼だろう」
「良家の子女が、そんな根も葉もない噂話を信じてどうする。とにかく一度お会いしてみよ。会えば必ずお前も気に入る」
「御次男殿は、京城一の美貌の君と評判の方ですものね」
顔の美醜など所詮、薄皮一枚のこと、そんなものにごまかされてたまるものか、と少女は不機嫌な顔を隠そうともしない。
「とにかく!」
まっすぐに父親と兄を見つめる深く澄んだ色の大きな瞳が、窓から差し込む陽光にきらめいて、少女の表情をいきいきと美しく見せた。
「柳泉正房は確かに名のある大舗で、父様や兄様がこのお話に乗り気でいらっしゃるのも分かります。でも、私はそんな方を夫にするのは嫌です!」
きっぱりと言い切り、少女は榻子から立ち上がる。
「望、どこへ……」
「お話はこれで終わりでしょう? 私、出かける用事がありますから」
「これ、望!」
丁寧に父親と兄に拱手し、少女はさっさと居間から立ち去ってしまった。
「まったく……」
渋い顔で桃谿酒家の主、呂氏は背もたれに体を預けた。
「あの賢しげな口の聞き方は誰に似たのだ?」
「亡くなった母上の物言いにそっくりですよ」
溜息まじりに答えた息子の言葉に、呂氏は、むう…と唸る。
それから、気を取り直したように息子へと顔を向け、問いかけた。
「伯圭、お前はどう思う」
「望は強情ですからね」
青年は首をかしげる。
「やはり、一度会わせてみるのがいいのではないでしょうか? 確かに、御次男殿には良くない噂もありますが、それはあくまでも、あの方が何をされても目立つゆえの有名税のようなもの。
私は一度お会いしたきりですが、とても理知的で誠実な人柄に見えましたよ。利発才子との評判ですが、才気走ったところもなく、兄君のことも尊敬して、影ながらあれこれと商いのことを支えておられるようですし」
「一度会って、言葉を交わせば分かる、か」
「おそらくは。望は強情ですが、聡い子ですから。相手が本物の蕩児かそうでないのかくらい、すぐに分かるでしょう」
「そうだな……」
うなずきながら、考え事をする時の癖なのか、呂氏はゆっくりと顎を撫でる。
「よし、柳泉正房の主人殿と相談して、見合いの日取りを決めるとするか」
「ええ。ですが父上、望には内緒にしておかねばいけませんよ。事前に知ったら、あの子は何を企むか……」
仮病を使うか、それとも家を抜け出すか。
意に沿わぬことには絶対に従わない桃谿酒家の令嬢は、知恵も回る上に、行動力も非常に旺盛だった。
だが、呂氏は笑みを浮かべて、
「ああ、それなら良い手がある。偶然を装って会わせれば良いのだ。そして、後からあの方が……と教えれば」
「それは上手いですね」
父親の言葉に、息子の顔も明るくなった。
「ちょうど来月、匂欄(劇場)で面白いと評判の雑劇がやるといって、望が見たがっておっただろう」
「ええ。なんでも一番人気の役者が出るとか」
「うむ」
「では早速、父上」
「そうだな、今から使いを出して……早ければ明日にでも段取りができるかも知れん」
うなずき、早速立ち上がりかける父親に、しかし息子の方はふと、何かに思い当たった顔になる。
「失念していましたが……父上、我が家のことは良いとしても、御次男殿の方はいかがなのですか? 望を妻に迎えても良いとおっしゃっているのでしょうか」
何しろ、半分以上は只の噂であっても、浮名の絶えない相手なのである。
誰ぞ意中の相手でもありはしないか、うら若い少女を妻とすることに不満はないか、と兄らしい気遣いを見せた息子に、父親は笑みを浮かべた。
「その辺りは大丈夫だ。主人殿に確認したが、兄上が良縁といわれるのであれば、喜んで自分は受けるといっておられたらしい。
容姿が容姿であるから、女子に縁がないわけではないようだが、深入りしない遊び方をするらしいしな」
「それならいいのですが……」
「大丈夫だ、伯圭。第一、望を見て気に入らぬ男などいるものか」
「それはそうですが」
まるで桃花の精のように可憐で愛らしく、利発で、少々気が強いところもあるが、根は優しく素直。
どこの娘よりもうちの娘(妹)が一番可愛い、と親馬鹿、兄馬鹿はうなずきあう。
「しかし……、あの子を嫁に出したら寂しくなりますね」
「そうだな……。まぁ、そうしたらせいぜいお前に可愛い嫁を探すとしよう」
「いえ、私は……」
「なんだ、意中の娘でもいるのか」
「いえ、まあ」
普段、生真面目な息子が照れた様子を見せるのを、父親は面白そうに見やる。
───父子がそんな呑気な会話をしている頃。
彼らの知らない所で、事態は進行していた。
「まったく……、父様も兄様も、お話があるとおっしゃるから何かと思えば……」
「でも、お嬢様、柳泉正房の御次男といったら、都中の娘の憧れですわ。いいお話ではありませんか?」
ぶつぶつと歩きながら文句をこぼす呂望を、供の侍女がやんわりとたしなめる。
だが、呂望は聞く耳を持たない。
「ならば、おぬしが嫁げば良かろう」
「無茶をおっしゃいます」
つんと言い放つ呂望に、慣れっこの侍女はあっさりと笑い流した。
「大体、殿方は顔ではない。大事なのは中身、いかに誠実かどうかではないか」
父親と兄の前では年頃の娘らしく、おとなしやかな話し方をしていたが、気心の知れた侍女を前にすると途端に地が出て、歯切れよく呂望は言葉を紡いだ。
「たとえ噂話が真実でないにしても、そんな噂が立つということ自体、本人に思慮が足りない証拠だろうに」
「ですが、まだ一度もお会いしたことがない方を……」
侍女が言いかけた時。
「どいたどいた──っ!!」
人ごみで混雑した大路を、四頭の馬に引かせた大形の荷車が走ってくる。
それを避けて、わあっと人込みが道の両端に割れた。
「お嬢様!」
押し寄せた人並みに、道の端の方にいた呂望たちは、たちまちもみくちゃになり、侍女がさしのべた手を一瞬掴んだものの、すぐに勢いに押されて離れてしまう。
「きゃあっ!」
そのまま人の流れに突き飛ばされるように押され、後ろへよろめいた呂望は、誰かの上にのしかかる形で倒れこんだ。
「申し訳……」
慌てて体勢を立て直そうとしながら、謝りかけるが。
ぐいと手首を取られて、ぎょっとして背後を振り返る。
「人にぶち当たっといて、侘びだけか?」
「な……」
呂望の手首を掴んだのは、いかにも柄の悪そうな男だった。その後ろにも数人、似たような雰囲気の男たちがいる。
天下一の賑わいを見せる京城には、その分、怪しげな輩も集まる。こういった破落戸(ごろつき)は、決して街で珍しい存在ではなかった。
「なかなかいい服着てんじゃねぇか。飾り物も上等みてぇだしよ」
「離して!」
生来の気の強さに任せて、呂望は手首を取り返そうと必死の力を込める。が、少女の細い腕では、到底、男の力には敵わない。
荷車が駆け抜けた大路のパニックは収まりつつあったが、何分、呂望が人波に流されて至ったのは、露天の影になっているような場所のため、誰何の声が掛かる気配はない。
「───っ」
ぎり、と手首を掴む力を強められて、鈍い痛みに顔をしかめた瞬間、髪に挿した銀細工の釵(かんざし)を抜かれる。
「ほぅ、大した細工だな。かなりの値打ちのようだ」
「返して…っ!」
手首を握りつぶされてしまいそうな痛みを堪えつつ、呂望は声を上げる。先日、上巳(じょうし=桃の節句)の祝いにと父から贈られたばかりの大事な銀釵だった。
が、男は笑って、釵を後ろの仲間に放る。
こりゃすげぇ、と下卑た感嘆の声が上がるのに、呂望が唇を噛み締めた時。
ふいに男が呻き声をあげた。
「え……」
顔を上げると同時に、堅く締め付けられていた手首が解放される。
驚いて見れば、いつの間に近付いたのか、背の高い青年が男の腕を掴んでいた。青年はそれほど力を込めているようにも見えないのに、相当痛むのか、男の顔が醜く歪んでいる。
「なんだ、てめぇは!!」
破落戸たちが声を上げるのも構わず、呂望が解放されたのを見届けて、青年は男を突き放す。どこをどうしたのか体勢を崩した男は、勢いよく仰向けに転がった。
「呆れた連中だな。その釵はこの人のものだろう。さっさと返して立ち去れ」
「何だと!?」
色めき立った破落戸たちに、一つ溜息をつき。
殴りかかってきた男の一人を、青年はすばやく横に払う。
そして、傍に立てかけてあった荷車の梶らしい棒を手に取り、呂望が呆気に取られている間に、破落戸たちのうち五人ほどを打ち倒した。
またたく間に劣勢に追い込まれて、男たちはうろたえる。が、そのうちの一人が走り出したのをきっかけに、なだれを打って逃げ出した。
「……っ、覚えてやがれっ!!」
「もう忘れたよ」
捨て台詞に肩をすくめて呟いた青年は、梶棒を戻し、乱闘の最中に地面に落ちた銀釵を拾い上げる。
そして、指で軽く土埃をぬぐって、呆然と立ち尽くしていた呂望の方へと戻ってきた。
「どうやら壊れなかったようですよ。小さな傷くらいはついてしまったかもしれませんが」
にこりと微笑まれて、呂望は咄嗟に謝礼の言葉も忘れ、青年の顔を見つめる。
長い髪を首筋で一つにまとめ、品のいい袍を身にまとった青年は、思わず目を奪われてしまうほど整った顔立ちをしていた。
大きな瞳をみはった呂望に、くすりと笑った青年は、少女のすぐ傍へと歩み寄り、動かないで下さいね、と声をかけて。
「!」
呂望の髪に、そっと銀釵を挿し込んだ。
「はい、もう大丈夫ですよ」
「あっ、あの、危ないところをありがとうございました」
それでようやく我に返り、慌てて呂望は礼を言う。
拱手の動きに合わせて、銀細工の釵がしゃらりと澄んだ音を立てて揺れるのに青年は微笑した。
「それはいいですが……、良家の御令嬢が供も連れずに一人歩きをなさるのは感心しませんよ。先程の連中のように、了見の悪い者も少なくはないのですから」
「いえ、供はいたのですけど……。四不は……?」
はたと忠実な侍女のことを思い出し、呂望は不安げに口元に手を当てて、大通りの方へまなざしを向ける。
「先程の騒ぎではぐれられたのですか?」
「はい。一体どこへ……」
二、三歩、通りの方へ足を踏み出し、辺りを見回す呂望に、青年は考えるようにわずかに首を傾けた。
「お住まいは、この近くですね?」
「あ、はい」
呂望の姿は外出着ではあるが軽装で、足元もほとんど汚れてはいない。一目見れば、ごく近所への外出だと分かるだろう。
実際、まだ邸を出てから四半刻も歩いてはいなかった。
「どちらかへお出かけになる途中でしたか?」
「はい……、いえ、ただ市を散策しようと思っただけで、特に目的地があるわけではないのですけど」
「それなら、下手に動き回らない方が良さそうですね」
呂望の返事を聞いて、青年はうなずいた。
「おそらく侍女殿も貴女を捜しておいででしょう。元の場所へ行って、待っているのが一番だと思いますよ」
「でも……」
その言葉に呂望は顔を曇らせる。
もし、彼女の方も何か事件に巻き込まれていたら、と思うとじっとしていられないのである。
それを見て取ったのか、青年は新たな提案をした。
「では、四半刻だけ待ちましょう。それで、侍女殿が戻ってこられなければ、捜しに行く。いかがですか?」
「───…」
妥当なところかもしれない、と呂望は忙しく頭を働かせる。
大路はひっきりなしに人や車が行き交っていて、とてもではないが見通しが利かない。下手に動き回っては、かえって迷子になる危険性があった。
「分かりました。おっしゃる通りにします」
心を決めて青年を見上げると、彼はやわらかな笑みでうなずいた。
「では、行きましょうか。荷馬車が来た時、どちらにおいででしたか?」
「あっちです。もう少し通りの南の方に……」
青年と共に、呂望は大路を歩きだす。
道の脇に並ぶ店舗を確認しつつ歩く少女を、さりげなく青年は人込みからかばった。
「確か、この辺まで来た時に荷馬車が走ってきたんです」
店を三軒分ほど歩いたところで、呂望は立ち止まり、辺りを見回す。
「侍女殿は、どんな服装を?」
「普通の……薄萌黄色に草色の縫取りの上衣です。年は一つ上で、背は私より少し高いくらいで……」
「あまり目立つ格好ではありませんね」
大路を行き交う人々の中には、どこかの使用人らしい女性も少なくない。混雑した中で一人を見分けるのは至難のわざだった。
「仕方がない。しばらくの間、この辺りで待ちましょう」
そこの茶館の散座(オープン・カフェ)なら、通る人からも見つけやすいだろう、といった青年に呂望は少々慌てる。
危ないところを助けてくれた彼のことを疑う気はなかったが、見ず知らずの相手に、これ以上迷惑はかけられなかった。
「あの、もう私一人でも大丈夫ですから。助けていただいた御礼をしたいので、お名前を……」
だが、そう言った呂望に青年は微笑んだ。
「でも、また先程のようなことになったら困るでしょう? 良家の令嬢が街中に一人でいるのは危険ですし、侍女殿にお会いできるまでお付き合いしますよ。
礼も不要です。たまたま行き会っただけですから、僕も貴女のお名前はお聞きしません」
つまりそれは、家の名前を聞き出して、後から礼金をせびったりする気はない、という意思表示である。
そうして安心させておいて、こっそり家を付けて行き、後からゆすったりするという悪党の手口もあるのだが、青年の立ち振る舞いはいかにも良家の子弟らしく優雅で、疑うには品が良すぎた。
「でも……」
「本当に、お気になさらなくとも良いですから」
騒ぎの連続でお疲れでしょう、とうながされて。
呂望はためらいつつも、青年に従った。
「──つまり、貴女は縁談が気に入らなくて、気晴らしのために出てこられたわけですか」
向かい合った席に腰を下ろした青年に、穏やかに微笑まれて、呂望は決まり悪げに手元の合桃露(くるみ汁粉)を匙でかき回す。
とろりとした優しい色の甘露は、春の陽射しを受けてゆらゆらと揺れた。
女性が散座に席を取るのは、あまり褒められたことではないが、人探しをするためには仕方がない。むしろ、散座に女性がいることが珍しい分、人目を引いて見つけやすいに違いなかった。
そんな理由で茶館に入った二人は、道行く人々を眺めつつ、会話を交わしていたのだが、青年は聞き上手で、つい呂望は、事の発端である縁談についてまで口を滑らせてしまったのである。
「あまり良い噂を聞かない方なんです。そんな方とのお話を持ってくるなんて酷いと思って……」
「どんな噂が?」
うつむきがちに、それでも心情を訴える少女に、青年は軽はずみを責めることなく問いかけた。
「──詩文に堪能でいらっしゃるのを鼻にかけて、とある方がお作りになった詩をひどい言い方でけなされたとか、とある方が家宝にしていらした壺を贋作だと言いふらしたとか、風流を好まれるばかりで家業には不真面目だとか、……とても不身持な方だとか……」
最後の言葉だけはさすがに口ごもりつつも、呂望はこれまでに耳にした噂の数々の、ほんの一部を並べ立てる。
それを聞いて、青年は笑った。
「確かに、噂だけ聞くと随分ひどい方のようですね」
「やはり、そう思われます?」
思わず意気込んで顔を上げた呂望に、ええ、とうなずきつつ、青年は白磁の茶器を傾け、優雅な仕草でゆっくりと一口を含む。
それから、改めて呂望を見つめた。
「ですが、直接お会いになられたことはないのでしょう」
「──はい、それは……」
結婚相手の顔など、婚礼当日まで知らないのが当たり前である。が、呂望は痛いところを突かれたような気がして、しゅんとなる。
「あなたのお家のことは分かりませんが、普通、父親は大切な娘が不幸になるような縁談は持ってこないようなものですよ。
あなたの持ち物を拝見した限り、御内証も悪くはなさそうですし、よくよく考えた上で、御父上は貴女の将来の伴侶を選ばれたのではないですか?」
「───…」
耳に心地いい響きの声で、やわらかく諭され、呂望は考え込む。
確かに、父は非常に子煩悩で、娘の自分を溺愛している。年の離れた兄もまた同様だ。
そんな二人が口をそろえて薦めたということは、もしかしたら噂以外の真実もあるのかもしれない。
「……確かに、おっしゃる通りだと思います」
でも、と呂望は顔を上げる。
「そんな噂が立つということ自体、その方に何か原因があるように思えて不安なんです」
「それなら、御父上にそうおっしゃればいいんですよ。噂について何か真実をご存知なら教えて下さるでしょうし、噂にはならない事実を話して下さるかもしれませんからね」
優しく微笑まれて、呂望は何か、目の前が開けたような気分になる。
青年の言う通りだった。
こちらが本気で何かを訴えた時に、聞く耳を持たないような父ではないのだ。不安なら不安だと、素直に言えば、それを解くために手を尽くし、言葉を尽くしてくれるだろう。
どうするかは、その後に決めればいいことである。
「……おっしゃる通りですね」
青年を見上げて微笑した瞳を、呂望はそっと伏せた。
「噂話を信じて、父を責めるなんて……恥ずかしいことをしました。家に帰ったら、父と兄に謝って、ちゃんと話をします」
可憐な花が蕾を開いたような、少し恥じらいを含んだ微笑みに、青年も優しく微笑む。
「きっと御父上は許して下さいますよ」
そうして、二人が笑みを見交わした時。
「お嬢様…っ!」
人込みの中から、叫び声のような声が呂望を呼んだ。
「四不!」
慌てて呂望は立ち上がる。
声のした方を見ると、行き交う人々をかき分けるようにして、侍女が駆け寄ってくるところだった。
「良かった、こちらにいらっしゃったんですね」
「おぬし、一体これまでどこに……」
「それが……」
呂望が尋ねると、すがりつかんばかりにしていた侍女は困りきった表情で後ろを振り返る。
何かと見れば、そこには二人の若い男がこちらを見ていた。
先程のこともあり、咄嗟に呂望は警戒するが、服装からするとどこか大店の使用人のようである。
「四不、何が……」
「実は、先程の騒ぎの時に、こちらのお店の品物が壊れて……」
彼女の話によれば、荷馬車が通りかかった時の騒ぎで、高級陶磁器を扱う店の軒先にも人が押し寄せてしまい、幾つかの品物が飾り棚から落ちて割れてしまったのだという。
侍女はたまたまその場にいただけで、実際に陶磁器を押したわけではないのだが、犯人扱いされ、弁償しろと迫られていたらしい。
「お嬢様のことが心配で……騒いだら、この方たちが共に行くと……」
泣かんばかりに途方にくれた顔で話す侍女に、呂望は彼女の肩を抱いて、きっと顔を上げ、男たちを見据えた。
「事情は分かりましたが、この者が故意に品物を壊したという証拠はないのでしょう。身に覚えがないと言う者をこれ以上犯人扱いなさるのはおやめ下さい」
凛と告げた声に、男二人は眉をしかめる。
「ですが、その小姐が割れた壺の置いてあった棚の一番近くにいたのは、店の者が見ております。表の飾り棚にあった品は、当店でも最高級のものにて、既に買い手も付いておりました。弁償して戴かねば、こちらが困るのです」
「それは無法というもの。そもそも、この者がそちらの店先へ押されたのは、荷馬車が通りかかったせいです。謂れのない咎をこちらの責任になさるのは卑怯でしょう」
「しかし、壺が割れたのはそちらの不注意で……」
「証拠はないのだろう?」
不意に割り込んだのは、涼やかな青年の声だった。
「そちらは、侍女殿が壺を割ったと言われるが、侍女殿は傍にいただけだと申されている。それを無理押しするのは、かえって店の銘に傷をつけることになりかねないと思うが、いかがか?」
「貴公は……」
「只の通りすがり。だが、御婦人に難癖をつけているのは見過ごせないのでね、余計な口出しをさせていただく」
泰然と茶館の榻子に腰を下ろしたまま、青年は続けた。
「御令嬢が言われた通り、騒ぎの原因が荷馬車であることは明白。ましてや、見に覚えがないという、うら若い婦人に罪を着せかけるのは無法の極みというべきだ。割れた壺のことは気の毒だが、諦めるよう主人に伝えられよ」
「何を……!」
高飛車な言い方に、男たちは色めき立つ。
呂望と侍女はそれに息を飲んだが、青年は動じなかった。
「お前たちは瑞樂苑の使用人だろう」
ふっと鋭くなった声で問う。
「昨年の李氏との悶着については詳しく聞き及んでいる。今、ここで蒸し返されたいか?」
その言葉に、男たちの顔色が変わった。明らかにうろたえ、小声でひそひそと言葉をかわす。
そして、憎々しげにこちらにまなざしを向け、捨て台詞も残さずに人込みの中に紛れて消えた。
唖然とする主従に、
「危ないところでしたね。あの店は良くない噂があるのですよ。おそらく、あなたを良家の使用人と見て目をつけたんでしょう」
青年が穏やかな声をかける。
「おそらく割れた壺は三流品、悪くしたら贋作かもしれません。素性の悪い品を一流品と偽って売る、たちの悪い店です。ただ、立ち回りが上手くて、なかなか証拠を掴ませないんですが」
「……そうだったんですか……」
「四不!」
張り詰めていた気が緩んだのか、涙ぐんだ侍女がその場にしゃがみこむ。
慌ててそれを支えながら、呂望は青年を見上げた。
「重ね重ね危ないところを助けていただいて、ありがとうございます。何と御礼を申し上げればいいのか……」
「構いませんよ、ただの成り行きですから」
「いえ、そういうわけには参りません。是非、我が家へいらっしゃって下さいませ。御礼もせずに恩人とお別れしたら、私が父に叱られます」
きっとなって告げた少女に、これは何と宥めても聞き入れそうにないと悟ったのか、青年は苦笑して、
「──礼は不要ですが、帰り道にまた何か起きるといけませんから、御自宅までお送りしますよ」
榻子から立ち上がる。
「はい!」
青年の言葉に呂望はぱっと表情を明るくし、笑顔でうなずいた。
先に四不を使いとして行かせ、青年を案内して、邸宅ではなく酒楼の方の玄関から中へと入った途端。
侍女から連絡を受けて待ち構えていた父親が、あんぐりと口を開けた。
「……父様、どうなさったの?」
謹厳な父親がそんな表情をするのを見たのは初めてで、呂望は目を丸くして首をかしげる。
「あ、いや」
娘のそんな仕草に、慌てて居住まいを整えた父親は、客人に対し丁寧に拱手する。
「失礼致しました。手前が桃谿酒家の主にございます。娘と侍女がお世話になりましたそうで、ありがとうございました」
「いえ、礼を言われるためにこちらに参ったわけではありませんから、お気になさらず。御令嬢のことは、ただの成り行きですから」
「いやいや、そういうわけには参りませぬ」
言いながら、桃谿酒家主人は青年に歩み寄った。
「望、この方にはわしの方から良く礼を申しておくから、お前は奥に戻りなさい」
「はい」
既に夕刻に近付き、酒楼は混み合う時間帯になりつつある。主人の愛嬢が店内にいていいはずがない。
呂望は素直にうなずき、青年に向かって改めて拱手した。
「本日は二度も私どもの危ないところを助けていただき、本当にありがとうございました。心よりお礼申し上げます」
「いえ、何事もなく済んで何よりです。お疲れでしょうから、今日はゆっくり休んで下さい」
「はい」
顔を上げ、優しく微笑した青年を見上げてうなずき、そして呂望は父親にも拱手した。
「父様、お叱りは後で受けますから、こちらの方のおもてなしをよろしくお願いいたします」
「うむ」
父親の許しを得て、もう一度青年に会釈してから呂望は足早に店内を抜けて、邸宅の方へと向かう。
と、
「兄様」
奥から出てきたらしい兄と行き会った。
「兄様、さっきは御免なさい……」
「それよりも望、お前はあの方の素性を知っているのか?」
妙に真剣な、けわしいと言ってもいい兄の顔は呂望の背後に向けられたままで、誰のことを指しているのかは見なくとも分かる。
「いいえ、お名前をうかがっても教えて下さらなかったの。兄様はご存知なの?」
「あ、ああ、一応な」
逆に問い返すと、兄は妙にうろたえた風情でうなずいた。
「兄様?」
「そのうち教えてやるから、とにかく、さっさと奥にお戻り」
「兄様」
肩を押しやるようにして、兄もまた客人の方へ歩み寄って行く。
「もう……」
その後ろ姿を見送って可愛らしく溜息をつき、呂望はまた奥の邸宅に向かって歩き出す。
やがて、長い回廊の向こう、邸宅の入り口のところで侍女が待っているのが見えた。
「お嬢様、いかがでした?」
「別に何も怒られはせぬよ。それよりも……」
ちらりと呂望は背後を振り返る。
「父様も兄様も、あの方のお名前を知っておられるようなのに、訊いても教えてくれなかったのだ」
「何故でしょう?」
「さあ」
奥に向かって歩きながら、ふと侍女が思いついたように言う。
「まさか、公子様とか」
が、それに呂望は笑い出した。
「確かに、うちは皇族方も利用されるそうだが、いくらなんでも公子様がお一人で街を歩いてはおられまいよ」
「でも、あの方の気品は只事ではありませんでしたわ」
「それはそうだがな。うちの店の門をくぐる時も、中に入ってからも平然となさっていたし……」
桃谿酒家は京城でも指折りの名店であり、店舗の構えも豪勢なものだ。だが、青年は終始ごく自然な態度を崩さなかった、と呂望は思い出す。
少なくとも、相当に裕福な家の出であることには間違いなかろうとうなずいて、呂望は微笑んだ。
「でも、兄様はそのうち教えて下さるとおっしゃったから、いずれ分かるのではないか?」
「そうですね」
笑い合って、主従は部屋の中に入った。
* *
その日、呂望は朝から──正確に言えば、数日前から憂鬱だった。
今日、とうとう縁談相手の柳泉正房の次男が、見合いのためにやってくるのである。
半月ほど前、偶然街で行き逢い、危ないところを助けられた青年に諭されて、父親が勧める通り、一度直接会ってみようという気にはなった。
けれど。
困ったことに、あの日以来、脳裏に浮かぶのは、かの青年の優しい微笑ばかりなのである。
父や兄が何故か教えてくれないため、いまだに名前さえ知らない相手の面影が心から消えなくて、呂望はこの数日、ひどく沈んでいた。
もっとも、憂鬱を表に出せば家族や侍女を心配させるから、表面上はいつもと変わらぬように振舞っている。が、一人きりになってしまうと、ふと溜息がこぼれてしまうのだ。
「はい、できましたわ、お嬢様」
満足そうな声が掛かり、侍女が鏡を呂望の前に掲げる。
「いかがですか?」
鏡に映る呂望は、艶やかな黒髪を結い上げて銀の釵を挿し、白粉をつけなくても透き通るように肌は美しく、小さな唇も薄紅の花片のよう。
ほとんど白に近い淡紅色の薄物に、繊細な花鳥の縫取りを施した薄桃色の上衣を重ね、紅梅色の裙を着けて、若葉色の錦帯を締めた姿は、まるで桃花の精のように可憐だった。
半刻以上もかかって身支度を整えた侍女は、主人の完璧な装いに目を細める。
「お綺麗ですわ」
「ありがとう、四不」
微笑んで、呂望は立ち上がる。
身動きに合わせて、繊細な細工の銀釵がしゃらりと音を立てた。
「父様がお待ちだろうから、早く行かねばな」
そうして、呂望は侍女と共に私室を後にした。
「お待たせ致しました」
「おお、綺麗にできたな」
居間の入り口で拱手した、愛娘の盛装に桃谿酒家主人は目を細める。
「亡くなった母親によく似てきた。そう思わぬか、伯圭」
「ええ、本当に」
父も兄も感慨深そうに目をしばたたかせ、今にも涙ぐみかねない風情である。まるっきり今日、呂望を嫁に出すような心持になっているらしい。
「父様、兄様、今日はただのお見合いです」
「ああ、そうだったな」
「いけませんね、つい……」
いかんいかんと呟きつつ、父親は立ち上がる。
「そろそろ、御次男殿もおいでになる頃合だ。客間の方へ行こう」
呂家の客間は幾つかあるのだが、その中でも最も美しい、庭園の眺めも一番良い部屋が、今日のためにしつらえてあった。
明るい春の陽射しが差し込む室内には、主人秘蔵の壺や軸がさりげなく飾られ、瀟洒な螺鈿紫檀の卓の上には季節の花が青磁の壺に品良く生けられている。
その部屋の中で、呂望は意を決して父親を振り返った。
「父様、あの……もし、今日お会いする方が、どうしても意に適わなかったら……」
彼女らしくもなく、おずおずと継いだ言葉に、父親は温かな笑みを見せてうなずく。
「うむ。正直なところを言えば、わしはお前には柳泉正房の御次男殿が一番相応しいと思っておるが、お前が嫌だというのを無理に嫁がせる気はない。それならそうと言えば、わしの方から断りを申し上げる」
「父様……」
「これ、今、泣いてどうするのだ。せっかく四不が綺麗に整えてくれたというのに」
苦笑しながら、涙ぐんだ愛娘の肩を優しく叩き、桃谿酒家主人は、少女を榻子へと座らせた。
「まもなく御次男殿はお見えになる。御案内してくるから、ここで待っておるのだぞ」
「はい」
その広い背中を見送りながら、呂望は父親の心遣いについて考える。
呂望が、柳泉正房主人の弟にまつわる噂の真偽を問うた時も、真実が捻じ曲げられて伝わっているものには真実を、事実無根のものにはそうと、事細かに話してくれた。
たとえば、他人の詩を誹謗したのは、それが盗作であり、真の作者に相談されたからだということ。
家宝の壺を贋作だといったのは、例の性質の悪い店が、箱を誂えるためにその壺が預けられた時、本物と偽物をすりかえたのを見抜いたのだということ。
いずれも、真実を問いただしてみれば、その人に非があることではなく、むしろ立派な行いの結果ばかりで、それを聞いているうちに、呂望もいかに父が相手のことを気に入っているか、分かってきたのだ。
あの青年が言った通り、間違いなくこの縁談は呂望のことを思ってあつらえられたものだった。
ならば、と呂望は思う。
父や兄がいくら尋ねても、あの青年の名を教えてくれないのも、相応の配慮があってのことなのだろう。
これは、と思う相手との縁談が持ち上がっている最中に、娘が他の男性の名前を知るのは道義に反することに違いないのだから。
小さく嘆息して、呂望は窓の外を見やる。
手入れの行き届いた庭園には色とりどりの春の花が咲き乱れ、その奥には、竹林が通り抜ける薫風に、さやさやと葉ずれの音を立てている。
その様子を見つめ、しばし、ぼんやりしていた時。
不意に、廊下を人のざわめきが近づいてくるのに気付いて、呂望は我に返る。
慌てて立ち上がり、居住まいを整えるのと同時に、父親が姿をあらわした。
「望、御次男殿がお見えになられたぞ。楊ゼン殿、既に御存知と思いますが、こちらが我が娘、望にございます」
その紹介文句に、丁寧に拱手し顔を伏せた呂望に、穏やかな声がかけられる。
「お久しぶりですね」
───え?
言葉よりも、耳に覚えのある声に、ぎょっとして呂望は顔を上げる。
「もう僕のことなど忘れてしまわれましたか?」
そう言って微笑んだのは、間違いなくあの日の青年で。
呂望は、ただでさえ大きな瞳を零れ落ちてしまいそうなほどに見開き、しばしの間、呆然として声も出ない。
やがて、ゆっくりとまなざしを青年から逸らし、横に向けると、客間の入り口で父親と兄がにこにこ、否、にやにやと満面の笑みを浮かべているのが見えて、呂望は彼らが何を企んだのかを悟った。
「──父様! 兄様!!」
文句を投げつけてやりたいのだが、頭に血が昇りすぎていて言葉が浮かんでこない。
白い頬を憤りに紅く染めて、愛らしい顔を怒らせる娘に笑いながら、父親は言った。
「望、そのように突っ立っておるのは失礼であろう。楊ゼン殿を庭に案内して差し上げなさい。楊ゼン殿、積もる話もあろうかと存じますので、どうぞごゆるりと」
「お心遣い、感謝いたします」
そして、青年は悪びれることなく、案内をお願いできますか、と呂望に微笑んだのだった。
「御父上を責められてはいけませんよ。名を伏せておいてもらえるようにお願いしたのは僕なんですから」
庭園へと短い階(きざはし)を下りながら、青年が前を歩く呂望に声をかける。
と、呂望は階を下りたところで立ち止まり、ちらりと背後を振り返った。
「──いつからお気付きだったんですか」
いかにも決まり悪さに拗ねているような大きな瞳を見つめて、楊ゼンは微笑する。
「貴女の釵を拾い上げた時ですよ。それは、うちの店で扱った品ですから」
彼の実家である柳泉正房は、玉や飾り物を中心とした各種の極上の名品、滅多に手に入らない珍品を商っており、店構えそのものはこじんまりとしているが、高級商店が立ち並ぶ潘楼街でも最高の格式をもって知られている。
「主人殿は、よくうちの店舗で品物をお求めになるのですが、その釵については、娘の上巳の祝いだからと一際ご熱心に選んでおられたんです。兄も、良い品をああいう風にお買いいただけるのは商売冥利に尽きると、嬉しそうで……。
ですから、釵の細工を見た瞬間に、ああこの方が桃谿酒家主人殿の御愛嬢か、と」
「……では、何故」
正体を明かさなかったのかと、むくれた表情のまま呂望が問うと、楊ゼンは悪戯めいた光を瞳に浮かべた。
「縁談相手が、どんなかた女性か気になったものですから。名前を明かしたら、あなたは身構えてしまわれたでしょう。それでは意味がありませんから。
もっとも、下心があったから親切にしたわけではありませんよ。女性が困っているのを見過ごして、平然としていられるたちではないだけです」
「───…」
楊ゼンは、機嫌を損ねた顔のまま沈黙する少女に泰然と微笑み、そして傍らで今が盛りと咲き誇っている、噴雪花(ゆきやなぎ)の花枝に指先を触れる。
小さくて丸い、白い花片が、名の通り雪のようにはらはらと舞い散った。
「家が家ですから、僕の元には、うちの娘はどうかというような話はよく来るんです。でも、それとなく確かめると、大抵の場合は話半分で……。正直なところ、あなたのことも同様に聞いていました。
普段、僕に口出しをしない兄が良縁だと勧める話ですから、断る気はありませんでしたけどね」
楊ゼンの涼やかな、宝玉のような瞳が呂望を見つめる。
「だから、貴女にお会いした時は驚きました。あまりにも口上通り……、それ以上に可愛らしい方でしたから」
その言葉に、呂望はぱっと白い頬を紅く染める。
まるで桃花の精が恥じらっているような可憐な風情に、楊ゼンは笑みを深くした。
「曲がったことが嫌いで少々気は強いが、素直で優しい方だと、うかがっていた通りだったので嬉しくなって……。つい、主人殿や御令息に頼んで悪戯を仕掛けてしまいました」
それから、貴女から見て僕はどうでしたか、とやわらかく問われて。
まだ頬を白桃のように染めたまま、拗ねたような瞳で楊ゼンを見上げて、呂望はぼそりと言った。
「──最初に思っていた通りの方でした」
その返事に、楊ゼンはおや、という表情で笑みを浮かべる。
「最初というと……ろくでなしだとおっしゃりたいんですか?」
「ええ、そうです。私が思っていた通り、とても性格の曲がった、意地の悪い方でした」
「それは困りましたね」
つんとした口振りで答えた呂望に、楊ゼンはくすくすと笑い出す。そして、どうしようかというように首をかしげた。
「僕は貴女のことがとても気に入ってしまって、是非とも妻に迎えたいと思っているのですが……。どうしましょうか」
尋ねるともなく尋ねる甘やかな声に、そっぽを向いたままの呂望の可愛らしい耳が紅く染まる。
それを見て取って、更に楊ゼンは微笑した。
「ああ、いい事を思いつきました」
何を、と振り返った呂望の深い色の大きな瞳を見つめて、告げる。
「あなたの機嫌を損ねてしまったお詫びに、生涯かけて償いをしましょう。そのために、僕を伴侶としてお側に置いていただけませんか?」
その図々しいのか殊勝なのか判然としがたい求婚の言葉に、呂望は一瞬、唖然となり。
そして、やわらかな線を描く頬を桃の実のように染めながらも、柳眉をしかめて口を開いた。
「──訂正します」
「はい?」
「根も葉もない噂よりももっと、貴方は手に負えない方です」
「それは……光栄ですと言うべきでしょうね」
小さく笑いながら楊ゼンは応じ、そして、返事を促す。
「御覧の通り、僕はたちの悪い男ですが、いかがです? 提案は受け入れていただけますか?」
「───…」
戯言めいた言い方で言われて、呂望は春風に揺れる庭の花へと逃げるように視線をさまよわせた。
───最初から心は決まっている。
だが、この相手に素直にうなずくのは、ひどく癪な気がして即答できない。
どうしようかと考えるうちに、ふと心にひらめいて。
彼の方は見ないまま、背筋を伸ばして口を開く。
「──天に在りては……」
凛と響く澄んだ少女の声が歌うように紡ぐと、すぐに涼やかな青年の声がそれを受けて続ける。
「比翼の鳥となりて……」
そして、二人の声が重なった。
「地に在りては連理の枝とならん。
天長地久に盡(つ)くる時有れども、
此の恨(こい)は綿々として絶える期(とき)無し」
それは、唐代の玄宗と楊貴妃の恋を歌った、長恨歌の最後の一説。
永遠を誓う詩句を唱和した二人は、微笑して瞳を見交わし、楊ゼンがさしのべた手に呂望は繊手を重ねた。
「──貴女もね……」
少女を引き寄せながら、楊ゼンは甘やかにささやく。
「話にうかがっていた以上ですよ。最後の詰め手では、とても適いそうにない」
その言葉に、
「簡単に勝ちは譲れませんから」
呂望は楊ゼンを見上げて、花のように笑った。
「一時はどうなることかと思いましたが……どうやら、まとまったようですね」
「うむ」
花の咲き乱れる庭園で、楽しげに会話を交わす恋人たちの様子をうかがいながら、父と子はのんびりと春の陽射しの差し込む室内でくつろいでいた。
「これで次は婚礼の準備だな。早速、吉日を占ってもらわねば」
「あまり暑さ寒さの盛りでは、参列客に迷惑になりますね」
「そうだな、秋……いや、やはり春が良いか。じっくり時間をかけて、京城一の支度を整えてやりたいからな」
「忙しくなりますよ、これから」
「うむ。……だが、望のことはこれで良いとして、次はお前だな。相手の娘にはっきりしたことは言ったのか?」
「はあ……」
……うららかな春天の下、桃谿酒家の午後は、のどかに過ぎていった。
* *
明けて翌年の春。
柳泉正房の令弟と、桃谿酒家の令嬢の婚礼が盛大に執り行われた。
花婿と花嫁の美しさ、祝宴の盛大さ、婚礼道具の見事さは後々までの語り草になるほどで、一目見物しようという人々が街の辻に溢れた。
そして、赤縄に結ばれた二人は生涯仲睦まじく添い遂げ、柳泉正房と桃谿酒家は、いずれも京城一の銘店として豊かに富み栄えたという。
end.
というわけで、昨年秋のオンリーで出した限定本の再録です。
これは、ちょうど私が中国雑貨店でイベント盛装用のチャイナドレスを買った頃、当時うちのサークルの売り子をしていてくれた女の子の「中国服の楊太を描きたい」という野望に対し、無責任に「描いたら見せてねvv」と言っていたはずが、何故か私が小説を書くことになってしまったものです。
そのあたりの経緯は既に記憶の迷宮の彼方なのですが、完全なパラレルということもあり、それなりに楽しく書いているな〜と、自分で読み返しても感じます。
正直、私はラブコメがまったく得意ではないのですが、うまくネタを思いつけばどうにか形になるという見本がこの作品です。
ただ、中国の宋代をイメージして書いたはいいものの、家に当時の街並や風俗に関する資料が少なくて、たまたま本棚にあった中央公論社刊『世界の歴史F 宋とユーラシア』と睨めっこしつつ、ワープロの前で唸っていた記憶がありますね。
なお、コピー本のあとがきにも書きましたが、望ちゃんの兄君は伯邑孝兄ちゃんがイメージ、楊ゼンの兄君は玉鼎(妻子持ちで、奥方の尻にぺったんこに敷かれているのが理想)のつもりです(^^)
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