Little flower 5
チビっちゃくて、うんと可愛い顔をしているくせに、とびっきり敵は手強かった。
いつものように楊ゼンは、鏡の前で入念に服装のチェックをした。
長い髪は首筋で一つにきりりとまとめ、ダンガリーシャツの上には特大のひよこがプリントされた黄色いエプロン。
どこにも乱れはない。今日も完璧だった。
「──よし、行こう」
鏡の中の自分に向かって気合いを入れると、自宅の隣にある職場へと向かう。
まずは職員室へ行ってホワイトボードの本日の連絡事項を確認し、それから教室のチェックをして、何事もなければ、次は登園してくる園児たちの出迎えだ。
蓬莱幼稚園は住宅密集地の中にあるため、通園バスもあるが、半数の園児は徒歩や、お母さんの自転車に乗せられてやってくる。
小さくてころころした感じの幼児たちが、次から次にやって来るのは何ともかんとも可愛らしい眺めで、「おはよーございまーす」という舌足らずで元気のいい挨拶をされたら、思わずこちらまで笑顔になってしまう。
今日も今日とて、園児たちの元気のいい挨拶を受けながら、楊ゼンは、結局この仕事は嫌いじゃないんだよな、と心の中でふと呟いた。
何が何でも家業を継がせようとする父親に対して、思春期に入る前から反抗しまくってきた楊ゼンだが、幼稚園の仕事自体は楽しいし、やり甲斐があるとも思う。だから、幼稚園の経営を引き継ぐことには何の抵抗もなかった。
問題は、もう一つの家業の方である。
ちらりと視線を自宅の方に向ければ、そこに見えるのは一般の居住用家屋とは懸け離れたサイズの馬鹿でかい屋根。そして、馬鹿でかい建物。
楊ゼンの生家は、この辺りで最も由緒ある古い寺であり、父親はそこの住職だった。
しかし、この我が家を見るたびに、楊ゼンは、絶っっ対に坊主にだけはならないぞ!、という思いを新たにする。
住職の息子として生まれ育っていながらどうかとは自分でも思うが、しかし、仏像に向かって経を唱えるというのは、どうにもこうにも楊ゼンの性には合わなかった。根っからの現代っ子気質の楊ゼンにしてみれば、どれほどありがたい教えであろうと、現世功徳も来世の救済も信じる気にはなれないのである。
また、それ以上の問題として、「坊主はすべからく剃髪すべし」という父親の頑固な主張が大いに楊ゼンのやる気をそいでいた。
剃髪というのは、文字通り、髪を剃ることだ。
父親の年齢ともなれば、後退した額や薄くなった頭頂をごまかすのにはぴったりだろうが、二十歳過ぎの楊ゼンにしてみれば、とんでもない話である。
まあ、世の中には好んでスキンヘッドにする人間もいるし、スキンヘッドが似合う人間もいる。が、楊ゼン自身はそんなつもりは毛頭なかった。
だから、大学に入る時も仏教系の学科は選ばなかったし、この先も僧侶の資格を取る気はない。
少なくとも、幼稚園の園長先生を継ぐことには同意して、教育大で幼稚園教師の資格を取ったんだからいいじゃないか、というのが楊ゼンの言い分だった。
それに、寺を継ぐ人材も皆無というわけではない。
楊ゼン自身は一人っ子だが、従兄で同じく蓬莱幼稚園の教師をしている燃燈は、仏教系の大学で東洋哲学を専攻したついでに僧侶の資格も何故だか持っているし、そうでなくとも無住寺となることが確定した場合、所属する宗派の総本山に申し出れば、住職を務める僧侶を派遣してもらえるのである。
そんなこんなで自分が寺を継がなくてもどうにかなるという現実が、楊ゼンをいっそうお気楽な方向に駆り立てていた。
「おはよーございまーす!」
「はい、おはようございます。今日はちゃんとハンカチ持って来たかな?」
「おー!」
担任クラスの小さな男の子が、怪獣模様の青いハンカチを自慢げに振り上げる。
その様子ににっこり笑って、楊ゼンは良くできましたとその子のイガグリ頭をなでた。
ああもう本当にちびっ子は可愛いよなぁと思った、その次の瞬間。
「おはようございます」
子供のものではない、やわらかな声がした。
やわらかいといっても、お母さん方の甘ったるい声ではない。純粋にやわらかな、耳に心地良い声に楊ゼンは笑顔で顔を上げた。
「おはようございます、太公望さん」
語尾にハートマークとまではゆかなくとも♪くらいはついていたかもしれない。
幼稚園の正門に立っているのは、その声にふさわしい綺麗な綺麗な人だった。
決して派手な造作ではなく、繊細に整った顔は穏やかそうで誠実そうで、笑みを浮かべた大きな瞳は優しく澄んでいる。
そして彼の手は、彼にそっくりのうんと可愛らしい女の子の手を引いていた。
「おはようございます、邑姜ちゃん」
「────────」
「邑姜ちゃん?」
「────────」
「おはようございますはどうしたのかな?」
「────────」
「邑姜」
たしなめるように溜息混じりの声で太公望が呼ぶと、やっと少女はむっつりと黙り込んでいた口を開いた。
「……おはようございます」
大きな大きな目で上目がちに見上げられ──というより、じっとり睨み上げられながら挨拶されるのは、毎朝のことながら非常に精神的にこたえる。
少女が父親にそっくりであるために尚更、切なさを覚えながらも、どうにか楊ゼンは笑って見せた。
「はい、おはようございます」
そんな楊ゼンに、太公望もすまなさげに小さく頭を下げる。
「毎朝毎朝、すみません。どうにも人見知りの激しい子で」
「いえ、いいんですよ。邑姜ちゃんは、じっくりと相手を見てから判断しようとする子なんでしょう。それも邑姜ちゃんの個性の一つです。じっくりと見る代わりに、間違ったことはしない。お友達の面倒見もいいですし、本当にいい子ですよ」
「……ありがとうございます」
楊ゼンの褒め言葉の羅列に、太公望はほっとしたような困ったような顔で微笑んだ。
そんな表情ですら魅力的で、思わず楊ゼンが胸をときめかせていると、足元からむーっと二人を見上げていた邑姜が、父親の手を引いた。
「お父さん、わたし、お友達が呼んでるから行くね」
「うむ、今日もいい子でいるんだぞ」
「うん」
太公望が娘の癖のある髪を優しく撫でてやると、一転、嬉しげに邑姜は微笑んで、そして教室の前で手を振っているクラスメートの女の子たちの元へと賭けてゆく。
その様子を満足げに見つめてから、太公望は楊ゼンを見上げた。
「そういえば、一つお伝えしておかないといけないことがあるのですが」
「は、はい。何ですか?」
伝えておかなければと言われた瞬間に、楊ゼンは鼓動が跳ね上がるのを感じる。
だが、しかし。
「今日のお迎えなんですが、ちょっと用事があって来られないのです。代わりに、わしの従兄が邑姜を迎えに来てくれることになっていますので、どうぞよろしくお願いいたします」
「──そ、そうですか。はい、分かりました」
所詮は、担任と父兄である。子供に絡まない話題など、そもそも成立の余地は限りなく狭い。
当たり前のことであるのに、風を掴み損ねて墜落する凧の如く精神的によろりらとなりながらも、楊ゼンはもっともらしくうなずいて見せた。
「邑姜ちゃん本人に、お従兄さんの確認をしてもらってから送り出すようにしますので、どうぞ御安心下さい」
「はい、ありがとうございます。従兄はわしに良く似ていると言われますから、すぐに分かると思います」
「そうですか、分かりました」
「はい。それでは、今日も一日お願いします」
「はい」
ぺこりと会釈して、太公望は正門を離れてゆく。
楊ゼンもそろそろ教室に行かなければならない時間なのだが、どうにも名残惜しくて見送っていると、角を曲がる時に太公望が振り返り、もう一度小さく会釈してくれた。
たったそれだけのことなのに、嬉しくて嬉しくて舞い上がりそうになる。
───愚かだという自覚はあった。
さっきも打ちのめされたばかりだが、所詮は担任と父兄である。そして、彼の関心は幼い娘にしか向いていない。
こんな現状で自惚れるほど楊ゼンは馬鹿ではなかったが、しかし、綺麗な人に恋するのを止めることができるほど賢くもなかった。
「──別に、馬鹿でもいいじゃないか」
会えるだけで嬉しい。
声を聞けるだけで嬉しい。
同じ町内に住んでいるというだけで、毎日ドキドキワクワクするほど幸せなのだ。
今はまだ、片恋をしているだけでも幸せで楽しいのだから、多くを望む必要はない。少なくとも、今はまだ。
「さてと。今日も一日頑張りますか」
でも今日は、もう会えないんだよなぁと少しばかりしょんぼりしながらも、自分に活を入れて、楊ゼンはちびっ子たちが待つ教室へと向かったのだった。
* *
春の午後の日差しは眩しい。
しかし、心浮き立つようなその明るさの只中に立つ、その人物を見た瞬間、楊ゼンは背筋がぞわりとなるのを感じずにはいられなかった。
───危険人物だ。絶対間違いなく、正真正銘の危険人物だ。
咄嗟に、ちびっ子たちを守らなければ、という教師らしくも青っぽい使命感に駆られる。
どちらかといえば強面(こわもて)に分類される燃燈がいてくれたら良かったのだが、あいにく彼は、園長代理として会合に出向いていて不在だった。
といっても、楊ゼンとて腕っ節に自信がないわけではない。ただの優男と見られるのは嫌いだったから、子供の頃からそれなりに鍛えてはいたし、そうでなくとも、この目立つ顔のせいで、下衆には絡まれやすい。
ゆえに、そこらの相手には負けないという自負を持つ程度のごろまきの経験はあった。
ともかくも問題が起きる前に、と子供たちを動揺させない程度に足早に正門に向かう。
そして、相手のサングラスに隠された視線を遮るように正対した。
「失礼ですが、当園にどういった御用でしょうか」
「────」
その男は、即答はしなかった。
向かい合ってみると、背はさほど高くない。長身の楊ゼンよりも、頭半分ほどは低い。
黒いサングラスに遮られているため、顔立ちはよく分からないが、両耳には十を超えるシルバーのリングピアスがにぶく輝き、唇にも複数のリングピアスが留まっている。
そして、その薄い唇は紫みを帯びた黒いルージュで塗りつぶされており、肌の色も化粧品でカバーしているのか地なのか、妙に青白い。
加えて、細身の全身はブーツからキャップ、数え切れないほどのアクセサリーまで何もかもが、流行に敏感な男なら誰でも知っている超有名シルバーアクセサリーのブランド品で統一されていた。
身に着けているもの全ての値段を合計したら、一体幾らになるのか。少なく見積もっても百万円、と正直圧倒されながらも、楊ゼンは相手のサングラスを真っ直ぐに見据える。
「どういった御用件かとお聞きしているのですが」
忍耐の限界を試されているような気分になりながら、もう一度問いを繰り返すと、紫暗の唇がけだるげに動いた。
「……あんた、ここの教師だろ」
「そうですが」
「じゃあ訊くけどよ、普通の幼稚園じゃ、子供には、人を見かけで判断しちゃいけませんって教えるんじゃねぇ?」
「それはその通りですが、知らない人やおかしな人に声をかけられても無視するようにとも教えます」
「はっ、知らない人やおかしな人に、ね」
男の声はトーンはやや高めで、そして少しかすれていた。
微妙なノイズのような声音が、更に楊ゼンの忍耐にやすりをかける。
「まあ、いいけどな。俺はそもそも、あんたには用はねぇんだ。知り合いになりたいとも思わねぇしな」
「──先程から、どのような御用事かとお尋ねしているのですが」
暴発をかろうじてこらえたのは、ちびっ子たちが背後にいるという一点の理性のみによってだった。
楊ゼンは、さほど気の長い方ではない。むしろ、自分の気に食わない状況に遭遇すると、すぐに気分を害する方である。
ただ、ちびっ子たちは自分が守るべき存在だと強く思っているがために、その点に関してのみは鉄の自制を発揮することができた。
ある意味、教師の鑑(かがみ)である。
───だが、鑑とは時折、粉々に砕かれるものでもあって。
「あ! お兄ちゃん!!」
緊迫した雰囲気をぶち壊しにする勢いで背後から飛び込んできたのは、嬉々とした幼い少女の声だった。
否、声だけではない。薄いピンクのスモックを着た小さな体が転がるように駆けてきて、楊ゼンの傍らをすり抜け、当の不審人物に迷いもせずに飛びついたのである。
「よう、チビ姫」
「お兄ちゃん、お迎えに来てくれたの?」
「ああ。いい子にしてたか?」
不審人物の膝の辺りに抱きついた少女は誰であろう、楊ゼンの想い人の愛娘にして、担任クラスのちびっ子、邑姜だった。
そして、その不審人物も口元に皮肉ではない笑みを浮かべて、少女を抱き上げる。
邑姜もまた慣れた仕草で不審人物の肩につかまり、にこにこと楊ゼンの前では決して見せない全開笑顔で笑っていて。
「あ、あの……邑姜ちゃん?」
状況が把握しきれずに、間の抜けた声で名前を呼びかけた楊ゼンに、邑姜は途端にむっと表情を変え、これ見よがしに不審人物に抱きついて見せた。
「お兄ちゃん、早く帰ろ。邑姜、お父さんのおやつ食べたい。今日は蒸しケーキの約束したの。イチゴのやつ。ピンクにしてって邑姜がおねがいしたの」
「おう。でもチビ姫、カバンはどうしたんだ? 取ってこなきゃ駄目だろ」
「あ、そっか。すぐに取ってくるから、お兄ちゃん、待っててね」
阿吽の呼吸で、身をかがめた不審人物の腕から滑り降りるように邑姜は地面に降り立ち、教室の方へと走ってゆく。
そして、その不審人物は、まだ呆然としたままの楊ゼンに向かって、やっとサングラスを外してみせた。
だが、しかし。
───サングラス外したって、危なそうなもんは危ないんだよ!
思わず心の中で楊ゼンは叫ぶ。
紫暗に塗られた唇から察して当然だったが、青年の目元は極太の真っ黒なアイラインに縁取られていて、見るからにいかれたパンク野郎とでも形容すべきか、到底、まともな人間には見えない。
その目元と口元に邪悪な笑みを浮かべているから、余計に魔界の住人らしい様子をかもし出している。
だが、
「あんた、望の奴から聞いてねぇの? 今日は邑姜の迎えに代理が行くってよ」
皮肉っぽい冷笑混じりの口調で魔界の住人にそう言われて、はたと楊ゼンは気がついた。
「まさか……あなたが、太公望さんの従兄さんですか?」
「じゃなかったら、他の誰だってんだ? チビ姫の人見知りには、あんたも相当てこずってるって聞いたが、実はそうじゃねぇのかよ? 本当は、チビ姫が赤ん坊の時からラブラブの俺を差し置いて、あいつと超ラブラブ仲良しとか?」
思いっきり馬鹿にしたように鼻で笑われて、楊ゼンは正直、はらわたが煮えくり返った。が、この場で揉めるわけにはいかない。
ここは職場、幼稚園の正門で、うしろの園庭にはお迎えを待っているちびっ子たちがまだ大勢いるのだ。
そうして楊ゼンが耐えているのをいいことに、悪の化身のような青年は更に言葉を重ねる。
「いくら何でも俺が来た時点でとは言わねえが、あのチビ姫が人見知りをしないって時点で気付けよな。鈍い上にボケじゃ、一生あいつにゃ相手にされねぇぜ」
「──え?」
それはどういう意味か、と思わず相手の顔を見つめ直した時。
「お兄ちゃん!」
小さな通園カバンを肩から斜めにかけ、手に黄色い帽子を持った邑姜が駆けてきた。
「そんなに走んな、こけるぞ」
「こけないもん」
おしゃまに言い返しながら、邑姜は両手を伸ばして、かがみこんだ青年に再び抱き上げられる。
そして、サングラスをかけ直し、「じゃあな」とくるりと向きを変えた青年に、楊ゼンは先程の言葉の真意を尋ねるタイミングを完全に逃したことを知った。
「邑姜ちゃん、また明日ね」
慌てて別れの言葉をかけると、邑姜はむーっと口を尖らせたものの、お別れの挨拶を言わずに帰ったら父親に怒られると思ったのか、蚊の泣くような小さな声で「せんせい、さようなら」と答えてくれた。
だが、楊ゼンがそれに顔をほころばせるよりも早く、邑姜は自分を抱き上げている青年に何やら話しかけ、青年の答えに嬉しそうに笑う。
父親といる時以上に仲むつまじいその様子に、楊ゼンはどうにもならない敗北感を覚えるしかなかった。
「何なんだ、一体……!」
自分に対しては必要最低限の言葉しか話さない、笑顔も見せない邑姜が、あんなに全開笑顔で、小鳥のさえずりのように夢中でしゃべって。
その相手が、よりによってあんなイカレた外見で。
しかも、そのイカレた人間は、あの人の従兄で。
「〜〜〜一体どこがあなたに似てるんですか!?」
確かに背格好は似たようなものかもしれない。が、印象は正反対、天国と地獄、天使と悪魔ほどにも違う。
そもそも、あんな分厚いメイクをしていたら、素顔を想像することすら難しい。
しかし、あの不審人物は、あの人の身内で。
邑姜も、あんなに懐いていて。
「────失敗した……」
将を得んとして馬を射るどころか、完全に自爆、轟沈してしまった。
今夜、決して良い報告は、かの家の食卓には上がるまい。
このままうずくまってしくしく泣きたい気分だったが、背後にはちびっ子たちがいる。正面からも、お迎えに来たお母さん方の車が近づいてくる。
やりきれなさに世の無常をはかなみながら、よろよろと楊ゼンは仕事に戻ったのだった。
* *
「あいつがチビ姫の敵か?」
「うん」
駐車場まで帰る道々、王亦がそう尋ねると、邑姜はこっくりとうなずく。
「楊ゼンせんせいは、わるい人じゃないけど、邑姜、きらいなの」
「なるほど?」
「せんせい、お父さん見ると嬉しそうなの。それがイヤなの」
「そうだな、ムカつくよな。望はチビ姫と俺のもんだもんな」
「うん」
王亦がそそのかすように言うと、更に邑姜は大きくうなずいた。
「チビ姫は、あの先生とは絶対に仲良くしないつもりか?」
「したくない」
即答し、でも、と邑姜は眉を可愛らしくしかめる。
「でも、お父さんは邑姜がおはようございますとかきちんとせんせいに言わないと、駄目だって言うの……」
「ああ、そういうとこ、望は硬いからなぁ」
「? お父さん、かたくないよ?」
「かたいってのはな、大人の言い方。約束をちゃんと守る奴のことを、硬いって言うんだ」
「ふぅん」
考え深げな表情をする少女を横目で見ながら、はてさて、と王亦は思案する。
邑姜は、自分に対してはかなり素直に感情表現をする癖がついているが、しかし、こんな風に抱っこをねだることは滅多にない。
つまり、あの正門前での一連は完全にパフォーマンス、あの若い教師に対するあてつけだったのだ。
───面白ぇよな。こんなチビでも女だよなぁ。
面白がってパフォーマンスに乗ったものの、それはそれであり、王亦自身はあんな教師のことなどどうでもよかった。
前々から邑姜に話は聞いているが、呂望に熱を上げているのなら勝手にすればいい、というのが本音のところである。
あの天然ほんわかな呂望相手では、生半可なアプローチでは気付いてすらもらえないだろうし、無論、協力してやるつもりも微塵もない。
万が一、何かの奇跡が起きて正式に交際をするようなことになれば、目一杯に小姑として嫌がらせをしてやろうとは思っているが、苦労の多い従弟が幸せになれるのなら、交際そのものに反対するつもりはない。
しかし、邑姜については全面的に味方になってやることを、この少女が両親を亡くした時から決めていたから、その辺りの兼ね合いをどうするかだった。
「ま、無理に仲良くする必要はねえんじゃねぇか。嫌いなのに、我慢してニコニコするのは嘘つくのと同じようなもんだしな。我慢してそうしなきゃなんねぇ場合もあるが、あの教師相手になら別に構わねぇと思うぜ」
「……邑姜、せんせいと仲良くしなくてもいいの?」
子供相手にもあまり気を使わない王亦の言葉の意味をじっと考えてから、邑姜は首をかしげ、王亦を見つめた。
王亦も、サングラスを外しはしなかったが至近距離から、真っ直ぐに視線を合わせる。
「ああ。どうしても嫌なもんは仕方ねぇだろ。俺だってゴキブリは一生好きになんかなれねぇしな。だから、チビ姫も、これに関しては望の言うことは気にすんな。他のことは、あいつの言うことをちゃんと聞かないと駄目だけどな」
「……本当に大丈夫? お父さん、怒らない?」
「怒るかもな。先生にあいさつしないのは、いいことじゃねぇし。でも、チビ姫はしたくないんだろ?」
「うん」
「だったら、比べて、ちょっとでも嫌じゃない方を選びな。先生と仲良くするか、望にちょっと怒られるか」
「───…」
選択肢を与えられて、邑姜はまたじっと考え込む。
三歳の子供なりに、頭の中でぐるぐると思いをめぐらせているのが手に取るように分かり、王亦はそっと口元に笑みを刻んだ。
「──せんせいと仲良くするのはイヤ」
やがて結論が出たのだろう。きっぱりと邑姜が言い切る。
「そうか。じゃあ、望にちょっと怒られるのは我慢するんだな?」
「うん、がまんする」
「よし。じゃあ頑張れ」
「うん」
大きくうなずき、それから邑姜はにっこりと笑って王亦の首筋に抱きついた。
「ありがとう、お兄ちゃん。大好き」
「おう。俺も好きだぜ、チビ姫」
「うん!」
王亦が全面的に自分の味方であることを、邑姜はきちんと理解しているのだろう。嬉しそうにしがみついてくる子供体温に、王亦もまた笑って、小さな背中をぽんぽんと叩く。
「それじゃ、今日は望が仕事で居ねぇから、チビ姫の家じゃなくて、このまま俺の店に行くからな。イチゴの蒸しケーキもちゃんとあるから、望が来るまでいい子にしてろよ?」
「うん。お絵かき、してもいい?」
「おう。紙もパステルも山程あるから、好きなだけすりゃあいい」
「うん。邑姜、イチゴ描いてあげるね」
「沢山だぞ。俺の店には、お兄さんやお姉さんがいっぱいいるからな」
「うん。がんばる」
他愛ない会話を交わしながら、深緑に輝くアストンマーチンに二人は乗り込む。
明日からも続くだろう担任教師との攻防と、彼の不幸はさておき、少し傾いた春の日差しの下、黒衣の大人とピンクのスモックの子供は、今日も十分すぎるほどに幸せだった。
to be continued...?
お待たせいたしました。久しぶりのチビ姫&王亦兄ちゃんシリーズです(笑)
ネタだけは何年も前からあったものの、なかなか書くタイミングを掴めずにいたのですが、やっと形になりました。
アンケートや掲示板、イベント会場等で根強くファンコールを下さった皆様には、心から御礼を申し上げます。
(このシリーズは、圧倒的に王亦兄ちゃんと邑姜ちゃんの人気が高いです。当然といえば当然ですが)
というわけで、コブラ対マングース、と前作で書きましたが、違います。チビコブラ+コブラ対ハツカネズミの巻です(笑)
しかし、作者からしてネズミ君ではなくコブラ連合軍を応援してますので、ネズミ君の不幸は、この先も当分続くことでしょう。そういう意味では、何一つ気付いていない天然ほんわかさんが一番幸せかもしれません。
書いていて実に楽しいシリーズですので、またいずれ続きを手がけたいとは思ってます。
実現までには、また間が空くとは思いますが、よろしければ御感想&ファンコールをお聞かせ下さい。それをエネルギーにして頑張ります(^_^)
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